対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

二匹の猿

2008-04-12 | ノート

 アルチュセールの弁証法について検討しているが、今村仁司を参考にしている。『アルチュセールの思想』のなかで「人間の解剖は猿の解剖のカギである」が取上げられていた。思い出すことがあった。

 以前、わたしはこの比喩的表現を、マルクスの方法としてではなく、創造過程の困難の表現として取上げたことがあったのである。(『もうひとつのパスカルの原理』)

 もっと一般化していえば、これまであげた対応の例(特殊相対性理論はニュートン力学の対応・量子力学はニュートン力学の対応・「新約聖書」は「旧約聖書」の対応・「資本論」は「古典経済学」の対応――引用者注)はすべて次のような構造をもっている。

     人間は猿の対応

  さきに幼形進化を印象づける「サルの胎児とヒトはなぜ似ているのか?」(ケストラー)をあげたが、マルクスにもサルとヒトにかんする言及がある。かれはこれを「ブルジョア経済は、古代やそのほかの経済への鍵を提供する」という比喩として使っている。ここでは創造過程の難しさを象徴させ、確認する意味で、これを利用することにしよう。マルクスは次のように述べている。

   「人間の解剖は猿の解剖にたいするひとつの鍵である。これに反して、低級な種類の動物にある、より高級な動物への暗示が理解されるのは、この高級なものそのものがすでに知られているばあいだけである」(『経済学批判序説』)

  創造過程における困難とは猿の段階で人間を展望するときの困難であるといえるだろう。それは実体の偶有性の止揚を実体論的段階で考えるときの困難である。猿の段階ではその克服は不可能のように思われる。たしかに本質論的段階からみれば実体論的段階の偶有性はよくみえるが、実体論的段階からは本質論的段階はみえないのである。しかし人間が猿から進化してきたのが現実であるように、困難は克服され、創造はひんぱんに起こっている。それは極限のところで無意識によって行われているのだ。ハンス・セリエは『夢から発見へ』(田多井吉之介訳)のなかで次のように述べている。「創造そのものはいつも無意識なものだ。その産物の証明と探究だけが、意識的な分析を呼び起こす。本能は考える方法を知らないままに思考をつくる。知能は思考の使い方を知っているが、それを作ることはできない」。だから私は柔軟性と勇気をもって創造へと飛躍させてくれる「無意識」や「本能」に接近していくことをこころがけなければならないだろう。暗示を暗示としてみることができるように異化と同化を、また発散と収束をくりかえし試みよう。このような接近のなかに、もしも燃えるものがあれば、火は付くのである。

 『もうひとつのパスカルの原理』で提起した複素過程論は、創造活動の理論である。それは複合論の原型となっているものである。

 複合論は弁証法の新しい理論であるが、なによりも創造活動の理論である。もちろん、すべての創造活動を要約するものではなく、創造活動の一つの領域に位置するものである。

 複素過程論を複合論へと純化する過程で、重要な契機となったのは、「科学的発見の論理」(伊東俊太郎『科学と現実』所収)だった。

 伊東俊太郎は「発見的思考」を、A帰納(induction)・B演繹(deduction)・C発想(abduction)の三つの思考方式に大きく分けていた。そして、「C発想」のなかを、さらに1類推によるもの・2普遍化によるもの・3極限化によるもの・4システム化によるものと細分していた。(「発見的思考の分類」参照)

 この分類でいえば、弁証法は「発想」の中の「普遍化」に位置していると考えるようになったのである。

 複素過程論をここに限定すれば、活路が見いだせるように思えたのである。反対に、複素過程論が混沌としていたのは、創造活動のすべてを取り込もうとしていたからということもよくわかった。誤解をおそれずにいえば、黒田寛一の認識論と吉本隆明の表現論を統一するという考え方を一般化するものとして、複素過程論―複合論を捉えられるようになったのである。

 創造における困難は、猿の段階で人間を展望するときの困難であるという考えに変わりはないが、いまは、もう少し、過程に立ち入ることができるような気がする。それは猿の段階で人間を展望するとき、二匹の猿に着目するということである。いうまでもないことだろうが、二匹の猿とは、二つの「論理的なもの」のことである。