対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

幻視のなかの弁証法

2007-08-18 | 堀江忠男

 堀江忠男は、マルクスが『資本論』でヘーゲル弁証法の合理的核心とよんでいたものは、「一言でいえば、矛盾であった」と明言している。(『マルクス経済学と現実 ―― 否定的役割を演じた弁証法』学文社 1979年)

 合理的的核心が、矛盾? はじめ意外に思われたが、これまでに自分が書いた「ヘーゲル弁証法の合理的核心」についての記事を読み直してみて、堀江氏の認識と基本がずれているわけではないとわかった。間違ってはいない。しかし、どこかはっきりしないのである。例えば、わたしは「ヘーゲル弁証法の合理的核心 ――主題と変奏」のなかで、次のように述べている。

 マルクスは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を、「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場に見ています。このような捉えかたは、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的に見ることにもとづいていたと考えられます。

 いいかえれば、マルクスは、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、ヘーゲル弁証法の合理的核心を見ています。これは、間違いないと思われます。

 「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」とは、矛盾のことだから、基本は押さえてはいるのである。しかし、わたしはマルクスがヘーゲル弁証法の合理的核心として見ていたものを矛盾とは言っていないのである。

 堀江忠男氏の見解を確認しておこう。「第十五章 マルクスの弁証法的経済学の内在的再検討」で次のように述べている。

 マルクスが『資本論』第一巻のドイツ語第二版へ書いた「あとがき」のなかの有名な一節から話を始めよう。

 「弁証法がヘーゲルの手でこうむっている神秘化は、彼が弁証法の一般的な運動諸形態を初めて包括的かつ意識的な仕方で叙述したということを、けっして妨げない。弁証法は彼にあっては逆立ちしている。人は、合理的核心を神秘的外被のうちに発見するためには、それをひっくり返さなければならぬ」

 この"核心"なるものは、一言でいえば、矛盾であった。ヘーゲル『小論理学』の第百十九節の補注に「一般に世界を動かすものは矛盾である。」という言葉がある。レーニンは『哲学ノート』で、ヘーゲル『大論理学』から次のような個所抜書きしている。「矛盾はあらゆる運動と生動性の根元であり、あるものは自分自身のちに矛盾をもっているかぎりにおいてのみ運動し、推進力と活動性をもっている。」「矛盾は……あらゆる自己運動の原理であり、あらゆる自己運動は矛盾の現示にほかならない。」これについて、レーニンは次のような評注を書きこんでいる。「運動と"自己運動"、…… "変化" "運動と生動性" "あらゆる自己運動の原理" "運動"および"活動"の推進力"――"生命のない存在"と"まさに反対のもの"――これが、あの"ヘーゲルぶりの"、すなわち抽象的でひどくわかりにくい……ヘーゲル主義の核心であることをだれが信ずるであろうか?ところが、人はこの核心をこそ発見し、理解し、"救出し"殻からとりだし、純化しなければならなかったのであって、このことをマルクスとエンゲルスはじっさいになしとげたのである。」
 このようにわれわれは、マルクスが、ヘーゲルから、自然および社会の弁証法的発展の根本原因としての矛盾の概念を、継承したことを知りうるのである。

 堀江の引用のなかで、ヘーゲル・マルクスのものは知っていたが、レーニンの評注は知らなかった。この評注は説得力がある。たしかに、ヘーゲル・マルクス・レーニンとたどってみると、マルクス主義がヘーゲル弁証法の合理的核心として矛盾を捉えていたことがわかる。

 なるほど、と思う。しかし、ヘーゲル弁証法の合理的的核心が矛盾でいいのだろうか。

 わたしは「濁った弁証法」のなかで次のように述べている。

 ヘーゲルとマルクス主義の弁証法。逆立と正立の二つの弁証法に共通しているのは「矛盾」と「否定の否定」(「論理的なものの三側面」)が中心におかれているということである。

 合理的核心が矛盾ということだったら、合理的核心の名の下で、「矛盾」と「否定の否定」(「論理的なものの三側面」)が継承されていて当然である。しかし、これは、マルクス主義が、ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握していないという文脈の中で述べたものである。

 わたしがヘーゲル弁証法の合理的核心としてみているものは、マルクス・レーニンのものとは違っているのである。合理性と矛盾は両立しない。これがわたしの立場である。マルクスの弁証法(「矛盾」)を歴史のなかの弁証法とすれば、わたしの弁証法(「対話」)は幻視のなかの弁証法である。

 幻視のなかで、わたしなりに弁証法を探究してきて、ヘーゲル弁証法の合理的核心として対話を想定する一方で、歴史のなかの弁証法は否定されるべきだと考えるようになったのである。

 幻視のなかの弁証法は、矛盾律を前提にした弁証法である。わたしは「対話」に照準を合わせ、「論理的なものの三側面」を解体し組み替える。

 幻視のなかの弁証法にとって、ヘーゲル弁証法の合理的核心とは、一言でいえば、矛盾ではなく、対話なのである。

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