対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

切断と弁証法

2008-03-30 | アルチュセール

 バシュラールとアルチュセールは師弟関係にあるという。アルチュセールは、バシュラールの「認識論上の切断」を継承し、そこに弁証法を見ている。

ある科学の理論的実践は、その科学の前史におけるイデオロギー的な理論的実践からいつも明白に区別される。というのは、この区別は理論上そして歴史上、「質的な」不連続という形式をそなえるからであって、その不連続を、バシュラールとともに「認識論上の切断」と呼ぶことができる。この「切断」の到来において、弁証法が働いている――、すなわち、理論上の種差的な転化作用が、そのたびごとに、「切断」をつくりだし、ある科学をその過去のイデオロギーから切り離しながら、その過去がイデオロギーであることを明らかにしながら、科学を創出しているのだが、われわれはここではこの点には立ち入らない。(アルチュセール/河野・田村・西川訳『マルクスのために』平凡社 1994年 )

 ここでは言及されてないが、この弁証法は「理論的実践の理論」(3つの一般性)のことだろう。わたしは、バシュラールが何をもって、「認識論上の切断」と言っているのかを、正確には知らない。しかし、『新しい科学的精神』のなかの次の一節は、「認識論上の切断」といってよいものと思う。

 だから、われわれにはこう思える。科学の一つの対象が消失しそれに代わって新しい実在性が確立されるまでの中間期には、非実在論的思考が生まれる余地がある、と。この思考は、自分自身の運動を支えとしている思考である。束の間の瞬間だ、と人は言うだろう。この中間期は、それを科学の周期とくらべるとき、すなわち知識の獲得から始まってそれが定着し、説明され、教えられるまでの年月とくらべるとき、ほとんど数えるに足りない短さである。しかしながら、この短い発見の瞬間こそ、科学的思考の決定的な転回をとらえるべき時なのである。これらの瞬間を教育のなかで復原してこそ、ダイナミックで弁証法的な科学的精神が育成できる。突然実験上の矛盾があらわになったり、公理の明証性にたいして懐疑が生まれるのも、このときである。また、あのアプリオリな綜合が実在を二重化しにやって来るのも、あの急激な思考の逆転が生じるのも、このときである。ルイ・ド・ブロイ氏の天才的な綜合が前者の例であり、アインシュタインの等価原理は、後者の最も明瞭な例の一つである。(バシュラール/関根克彦訳『新しい科学的精神』中央公論社1976年)

 これは、『もうひとつのパスカルの原理』(文芸社 2000年) で複素過程論を提出するさい、出発点として確認したものである。

 「ダイナミックで弁証法的な科学的精神」の「弁証法」(バシュラール)と「切断」において働いている「弁証法」(アルチュセール)は、共鳴している。しかし、その「弁証法」は、「理論的実践の理論」ではなく、「複合論」だと思う。

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止揚と認識論的切断

2008-03-09 | アルチュセール

 アルチュセールは止揚を弁証法から排除している。これに対して、わたしは止揚を弁証法の中心に位置づけている。

 アルチュセールは「始源的な単純な統一体」に対して、「つねに‐すでに‐所与の複合的な全体」を対置した。アルチュセールが止揚を排除しているのは、止揚を「始源的な単純な統一体」のなかに位置づけ、「つねに‐すでに‐所与の複合的な全体」に対しては「認識論的切断」を想定しているからである。

 アルチュセールが想定した「始源的な単純な統一体」は、「論理的なものの三側面」と対応していると考えることができるだろう。

 また、「論理的なものの三側面」の進展は止揚の過程とみることができる。この止揚は、アルチュセールが排除した止揚と同じものである。

 わたしは「論理的なものの三側面」を解体して止揚を想定しているから、複合論の「止揚」は、ヘーゲルの止揚とは異なっている。

 わたしが止揚を弁証法の中心に位置づけているのは、止揚をヘーゲル弁証法の合理的的核心と捉えているからである。「止揚」は、「論理的なものの三側面」を解体しても、かたちを変えて、残るものだと考えているのである。

 複合論の「止揚」は、アルチュセールの「認識論的切断」に近いものではないかと考えている。

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アルチュセール弁証法への疑問

2008-02-24 | アルチュセール

 アルチュセールが描こうとした唯物弁証法は、エンゲルスのものともレーニンのものとも違っている。特徴的なのは、ヘーゲル弁証法との断絶を強調している点である。

 アルチュセールは、唯物弁証法の3法則(量質転化の法則・対立物の相互浸透の法則・否定の否定の法則)や「資本論」=「大文字の論理学」という見方を強く否定している。

こうして、現実に構成されているマルクス主義の実践の場合にかぎり、ヘーゲルのカテゴリーはずっと以前から黙ってしまっている。そこでは、それらは「見出しえない」カテゴリーなのである。おそらくだからこそ、『資本論』全巻――フランス語版の八折本,二五〇〇ページのなかに見出される、ただ二つの文言(否定の否定と量の質への転化にかんする文章――引用者注)を、過去のかけがえのない聖者の遺骨にささげるような細心入念な信仰心によって、ひろい集めて、万人にそれを披露する人もいるのだろう。そしてまた、おそらくだからこそ、そういう人はこの二つの文言を補強するため、レーニンの別の文言、じつはただ一つの言葉、一つの嘆声を引合いに出す。レーニンのその言葉は、ヘーゲルを読まなかったために、半世紀にわたって人びとがマルクスをまったく理解しなかったと、きわめて謎めいた調子で断言している……。

 しかし、アルチュセールはヘーゲル弁証法の矛盾を引き継いでいる。「重層的に決定された矛盾」として、ヘーゲルとの違いを明確にするが、弁証法の基礎に「矛盾」を据えていることには変わりはないのである。

 マルクス主義の見地における矛盾の種差的な差異は、矛盾の「不均等性」あるいは「重層的決定」であり、この「不均等性」は矛盾のうちに、その実在条件を反映している。すなわち、つねに‐すでに‐所与の複合的な全体――それが矛盾の実在である――の種差的な不均等性の(支配関係をもつ)構造を反映している。矛盾は、そのように理解された場合、あらゆる発展の原動力である。

 ヘーゲル弁証法の根源的な前提になっている「始源的な単純な統一体」に対して、アルチュセールは「つねに‐すでに‐所与の複合的な全体」を対置した。そしてここに「矛盾の実在」を見ているのである。

 この立場は、次のようなアルチュセールの見方とどのように関係しているのだろうか。

しかしながら、この『弁証法』という本が書かれていたら、その本はわれわれにとってきわめて興味深いものであったろう。なぜなら、それはマルクスの理論的実践にかんする《理論》だったに相違ないからだ。換言すれば、マルクス弁証法の種差性はなにに存するか、というわれわれの問題の解決(実践状態で存在する)にかんする、まさしく理論上の決定的な形式だったに相違ないからである。その問題の実践的な解決、その弁証法は、それがおこなわれているマルクスの理論的実践のうちに存在している。理論的実践をおこなう場合、つまり、「所与のもの」を認識に転化する科学的な仕事をおこなう場合、マルクスがもちいている方法こそ、まさしくマルクス弁証法である。しかも、まさしくこの弁証法のうちに、マルクスとヘーゲルの関係という問題の解決、あの名高い「転倒」の現実が、実践状態でふくまれている。

 「つねに‐すでに‐所与の複合的な全体」は、科学研究の根源的な前提であり、そのまま受け入れられる。しかし、これは矛盾とはなんの関係もないのではないだろうか。このように「つねに‐すでに‐所与の複合的な全体」を把握しなおした方が、「弁証法」はマルクスの理論的実践にかんする《理論》だったに相違ないというアルチュセールの洞察に接近できるのではないだろうか。

 参考文献
   河野・田村・西川訳『マルクスのために』平凡社 1994年

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理論と「理論」と《理論》

2008-01-20 | アルチュセール

 アルチュセールは「唯物弁証法について」のなかで、3つの理論を区別している。理論と「理論」と《理論》である。

 ・ 理論――科学的性格をもついっさいの理論的実践。

 ・ 「理論」(括弧つき)――現実に存在しているある科学の所定の理論体系。例えば、万有引力の理論、波動力学の理論、史的唯物論の理論。

 ・ 《理論》(二重ギュメつき)――実在する「経験的」実践(人間の具体的活動)にもとづくイデオロギー的な生産物を、(認識)(科学的な真理)へ転化する実践の一般理論。

 理論は、「理論」と《理論》を貫徹している。アルチュセールは、《理論》に「唯物弁証法」を想定している。

 わたしが提唱する弁証法の新しい理論をアルチュセールの区分に対応させておこう。

 「論理的なもの」は、「理論」(括弧つき)と対応する。「複合論」は、《理論》(二重ギュメつき)に対応するが、それだけでなく、「理論」(括弧つき)にも対応するといえるだろう。

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「一般性」と「論理的なもの」

2007-12-15 | アルチュセール

 アルチュセールは、「理論的実践の理論」として、次のような図式を提出している。(河野・田村・西川訳『マルクスのために』平凡社 1994年)

 理論的実践は、《第一の一般性》にたいする《第二の一般性》の仕事によって、《第三の一般性》を生みだす

 アルチュセールの「理論的実践の理論」は、「労働過程論」(マルクス『資本論』)と対応しているものである。すなわち、ここで《第一の一般性》は原料、《第二の一般性》は労働手段、《第三の一般性》は生産物と対応している。

 一般性と呼ばれるのは、次の理由からである。

科学はけっして、実在しているもの――純粋な直接性と単一性(「感覚」や「個人」)を本質とするところの――に働きかけない。科学はつねに「一般的なもの」に――それが「事実」の形式をおびているときでも――働きかける。物理学がガリレオによって、あるいは社会構成体の進化の科学がマルクスによって、というふうに、ある科学がつくりだされるとき、つねに科学は、実在する諸観念、「諸観念 Vorstellungen」、すなわち、イデオロギー的な性質の、あらかじめ実在する《第一の一般性》にむかって働きかける。科学は、純粋で絶対的な「事実」の「所与」となるところの、客観的な、純粋な「所与」には働きかけない。反対に、科学の固有な仕事は、それ以前のイデオロギー的な理論的実践によって練りあげられた、イデオロギーに属する「事実」の批判を通じて、科学的な固有の事実を練りあげることに存する。

 アルチュセールが一般性と名づけているのは、今村仁司(『アルチュセールの思想』講談社学術文庫 1993年)によれば、「科学的認識を生産する理論的実践は、従来の種々の《認識の理論》(哲学的)が想定するように、個別的なもの、特殊なものから出発するのではなくて、常に一般的なものから出発し、一般的なもので終わることを強調せんがため」だという。理論的な原料は、「常にすでに特定の思考作用(経験的、イデオロギー的なそれ、あるいは現存する特定の「科学」のそれ)を通過している点で、決して個別的、具体的ではなく《一般的》抽象的」なのである。

 このような「一般性」の考え方は、「論理的なもの」の考え方と似ていると思う。「一般性」と「論理的なもの」を対照してみようと思った。

 アルチュセール(今村仁司)は、リカードを理論的原料、ヘーゲル弁証法を労働手段と想定して、理論的原料を変革する理論的労働手段それ自体が、その変形の労働によって変革されると捉えている。

 マルクスは、ヘーゲルをリカードゥに対して働かせる。換言すれば、マルクスは、ヘーゲル弁証法の変形をリカードゥに対して、またリカードゥを土台にしておこなったのである。すなわち、ヘーゲル弁証法は、それがリカードゥに加えられた理論的労働のなかで変革されたのである。理論的原料(リカードゥ)を変革する理論的労働手段(ヘーゲル)それ自体が、その変形の労働によって変革されるのである。

 リカードが原料だけでなく労働手段の側面があること、またヘーゲル弁証法が労働手段だけではなく原料の側面があることが指摘されているのだと思う。

 わたしは、リカードの労働価値説とヘーゲル弁証法を、2つの「論理的なもの」として捉え、その複合としてマルクスの「貨幣の資本への転化」を考えている。(「マルクスもうひとつの弁証法――『貨幣の資本への転化』について」)

 「論理的なもの」を、「原料」と「労働手段」が混成したものと想定することは、許されるのではないだろうか。このように想定すると、「論理的なもの」の「対話」と「労働過程」を結びつけることができるようになる。

 一般性をG、論理的なものをLとしよう。

 第一の一般性G(1)と第二の一般性G(2)が混成したものは、論理的なものL(A)と論理的なものL(A´)と対応する。第一の一般性G(1)と論理的なものL(A)が対応するのではない。また、第二の一般性G(2)と論理的なものL(A´)が対応するのではない。あくまでも、第一の一般性G(1)と第二の一般性G(2)を混成したものが、論理的なものL(A)と論理的なものL(A´)に対応する。原料G(1)と労働手段G(2)が混成されたものが、論理的なものL(A)とL(A´)である。

 第三の一般性G(3)は、論理的なものL(B)と対応する。 

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