く~にゃん雑記帳

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<ユトリロ展> 初期から絶筆までの76点 パリの風景を詩情豊かに

2013年05月17日 | 美術

【生誕130年の回顧展、大阪高島屋で開催中】

 パリの町並みを詩情豊かに描き〝モンマルトルの画家〟とも称された油彩画家モーリス・ユトリロ(1883~1955)。生誕130年に当たるのを機に、いま大阪高島屋で回顧展(20日まで)が開かれている。内外のコレクションから76点、そのほぼ半分が日本初公開という。その中には未完の絶筆も含まれる。アルコール依存症と闘いながら波瀾の人生を歩んだユトリロ。その画業を初期から晩年まで順を追ってたどる構成になっている。

 

 ユトリロの母はモデル兼画家だったが、恋多き女性として名を馳せ、ユトリロを祖母に任せきりだった。父親については諸説。母は作曲家エリック・サティやロートレックとも一時、愛人関係にあった。祖母は毎夕、愛飲していたワインを孫のユトリロにも与えた。それが高じてユトリロの飲酒癖につながり、後に入退院を繰り返す結果を招いたらしい。

 絵は医師の勧めでリハビリのために描き始めた。生涯に描いた作品は6000点余。その作品の傾向から「モンマニーの時代」(1904~08年)、「白の時代」(10~14年)、「色彩の時代」(20~55年)に分かれる。「モンマニーの時代」はパリ郊外のモンマニーで祖母と一緒に暮らしていた頃の初期の作品。全体に色調が暗く重苦しい。「白の時代」には石膏や漆喰なども使って白い色を多用した。

 ユトリロはモンマルトルのキャバレー「ラパン・アジル」をよく描いた。このキャバレーだけで何と400点もあるそうだ。上の写真㊧はそのうちの1点。制作時期は1916~18年頃で「白の時代」が終わり気分もやや明るくなった頃の作品。窓の鎧戸が閉まった絵が多い中で、この作品は気分を反映してか、鎧戸が開け放たれている。「色彩の時代」に入ると、多彩な色遣いが目立ってくる。上の写真㊨は1924年制作の「プリュネリ=ディ=フィウモルボの教会と司祭館(コルシカ島)」。

    

 風景画が多い中で、唯一つ花を描いた静物画があった。写真㊧の「青い花瓶の花束」(1936年)。ユトリロは1920年、ベルギーの銀行家夫妻が家を訪ねてきたとき、夫人のリュシーに贈るためバラの花束の絵を描いた。その15年後、ユトリロは夫に先立たれた夫人と結婚することになる。ユトリロ51歳、リュシーは12歳年上の63歳。以来、花の静物画を好んで描くようになった。この作品はそのうちの1点。

 ユトリロは1955年秋、映画「もし、パリが我々に語るとしたら」出演のためモンマルトルに出掛ける。その数週間後、静養のため南仏のダクスへ。だが、そこで風邪をこじらせて急逝してしまう。享年71。今展示会には死の2日前まで絵筆を執った絶筆「コルト通り、モンマルトル」(未完)も出品されている。

 写真㊨は「テルトル広場、サン=ピエール教会とサクレ=クール寺院」(1935年頃)。これもユトリロがよく描いた風景の1つだが、葬儀はそのサン=ピエール教会で行われた。数日後、市民5万人もの葬送の列が埋葬されたモンマルトルのサン・ヴァンサン墓地まで続いたという。ユトリロはいま石塀を挟んで「ラパン・アジル」の向かいのお墓に眠る。


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