く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<豊田狐塚古墳> 現地説明会開催「首長を支えた有力者の墓の可能性」

2016年04月10日 | 考古・歴史

【玄室から出土した多くの土器・玉類、鉄製品なども公開】

 6世紀中葉に築造されたとみられる横穴式石室が発見された奈良県天理市の「豊田狐塚古墳」で9日、発掘調査を担当した天理市教育委員会文化財課による現地説明会が開かれた。同古墳は直径が20m程度の円墳とみられ、約150~200基ある石上(いそのかみ)・豊田古墳群の円墳の中でも有数の規模。さらに石室も円墳の中では大型であること、単独で小高い丘に立地していることなどから「首長を支えた有力者の墓である可能性が高い」とみている。

 この古墳があるのは天理教本部神殿の北側の丘陵地。1年前に大型の横穴式石室が発見されたばかりの「豊田トンド山古墳」のすぐ近く、南東約100mに位置する。眼下に広がる布留川の扇状地は古墳時代中期~後期に繁栄した有力豪族、物部氏の拠点だったとみられる。見つかった石室は南方向に開口し、玄室は床面で全長約4.4m、奥壁の幅は約2.2m、高さは約2.2mだった。玄室の広さはトンド山古墳(長さ4.9m、奥壁の幅2.0m)とほぼ同じ。天井石と側壁の一部は失われていた。壁面には30~100cm程度の大きさの石を7段程度積み上げ、床面には直径5~10cmほどの石が敷き詰められていた。

 

 玄室内は盗掘を受けていたものの、馬具や玉類、土器などの副葬品が多数残されていた。床面にはこげ茶色に変色した部分から木目の痕跡が残っており、少なくとも3基の木棺が安置されていた可能性があるという。羨道側に近い玄門付近から見つかった須恵器の中に、奥壁付近の須恵器よりやや新しい時期のものがあることから、まず奥壁に近い北側に初葬され、その後南側に2つの棺が追葬された可能性が考えられるとしている。

 

 出土した須恵器は50点を超え、直口壷など土師器も見つかった。玉類には琥珀製平玉(写真㊧)、水晶製切子玉(㊥)、管玉、土製丸玉、ガラス製小玉、銀製空玉(うつろだま)など様々な種類があった。轡(くつわ)、杏葉(ぎょうよう)、辻金具などの鉄製馬具や鉄刀、鉄鏃などの武器も見つかった。また「旋回式獣像鏡」と呼ばれる小型の鏡(直径9cm)(㊨)も残っていた。玄室の入り口に近く、床面からかなり高い場所から出土したことから、盗掘されたものがその後埋め戻されたのではないかという。この古墳を巡っては1875年(明治8年)当時の文書に江戸末期に盗掘が行われ、一部の遺物が別の場所に再埋納されたと記されているそうだ。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする