く~にゃん雑記帳

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<天理大学付属図書館> 玄関脇に巨大な大砲がで~んと鎮座!

2015年12月01日 | アンビリバボー

【江戸初期に長崎港で爆沈したポルトガル船に搭載】

 全国有数の蔵書数を誇る天理大学付属天理図書館。その玄関口の向かって左側に巨大な大砲が展示されている。各地の神社で大砲や砲弾を見かけることは多い。その多くは戦勝の御礼として奉納されたもの。だが、全国あまたの図書館の中でも〝シンボル〟として大砲が入り口に飾られているのはここだけではないだろうか。

 大砲は長さが2mを超える重厚なもの。そばに「マードレ・デ・デウス号大砲」のタイトルで、そのいわれが書かれた説明板が立つ。「慶長14(1609)年5月長崎に入港したポルトガル貿易船マードレ・デ・デウス号に搭載されていた大砲。この年12月12日、肥前国日野江藩主有馬晴信との戦闘の末に長崎港口で自爆自沈した(マードレ・デ・デウス号事件)……」。大砲は昭和の初めに引き揚げられ、1933年に天理図書館に収蔵されたという。

 有馬晴信(1567~1612)は日野江藩(後の島原藩)の初代藩主で、熱心なキリシタン大名として知られた。事件の発端は前年に遡る。晴信の朱印船がポルトガル領マカオに寄航した際、乗組員の水夫や家臣とポルトガル人との間で騒擾事件が発生、多数の日本人が殺されたうえ積荷も奪われた。この騒ぎの鎮圧を指揮したのがマカオ総督のアンドレ・ペッソア。恨みに燃える晴信側からの報告で事の顛末を知った徳川家康は報復の許可を出す。

 

 そのペッソアが翌年、船隊司令官としてデウス号で長崎にやって来た。幕府はペッソアに江戸への召還命令を出すが、ペッソアは警戒して応じようとせず、身の危険を感じてデウス号で逃走を図ろうとした。これに対し晴信は多数の軍船を動員して包囲する。数日間の戦いの末、ペッソアはもはやこれまでと観念し、自ら火薬庫に火を放ってデウス号を爆沈させた。

 これで一件落着かと思えたが、事件はその後も尾を引く。晴信は戦功として旧領回復の仲介の労を取るという岡本大八(幕府の重臣本多正純の家臣)の口車に乗せられる。岡本は多額の賄賂と引き換えに「旧領安堵」という家康の朱印状を渡す。ところが、これが真っ赤な偽物だった。さらに、この事件の過程で晴信による長崎奉行暗殺計画も露見してしまう。結局、晴信には切腹、岡本には火あぶりの刑が言い渡された。2人はキリスト教徒だった。岡本大八事件は家康が禁教を決意した背景の1つとなり、晴信の死や禁教による信者弾圧は後の島原の乱(1637~38)にもつながっていく。大砲は日本の歴史上、大きな転換点となった2つの事件のいわば〝生き証人〟だった。

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