経済を良くするって、どうすれば

経済政策と社会保障を考えるコラム


 *人は死せるがゆえに不合理、これを癒すは連帯の志

経済思想が変わるとき 3

2013年10月19日 | シリーズ経済思想
 経営者にとって、需要リスクをどう扱うかは、極めて重要な問題だが、どうも、現在の経済学では、必ずしも理解が十分でないように思われる。ヒトにとってリスクとはどういうものなのか、それを深めることが、経済現象の理解につながると考える。今回は、ちょっとオタクな話になってしまうかもしれないが、お付き合い願いたい。

………
 需要リスクがある下での設備投資の判断について、現在の経済学の主流派は、期待値に従うとするのだが、これに対して、非主流派は、その期待値が測り知れない場合、例えば、大きな変動を伴うときには、成り立たないと批判する。期待値が分らなければ、立ちすくむしかないと、突き放してしまうわけだ。

 筆者は後者に近いことになるが、それで満足してはいけないと思う。主流派の立場からすると、大変動の例は少ないにしても、いくつか経験して試行錯誤すれば、大体は見えてくる、つまり、どのくらい時間がかかるか分らないにせよ、超長期には、期待値に従う合理的な行動が可能になる日が来ると言うことも可能なのである。

 このような議論の溝はよろしくない。主流派の理論に引導を渡すには、期待値が分っていても、リスクを取れない構造があることを明らかにしなければならない。こういう問題設定が大切であり、多少の手間はかかものの、解いて見せるのは難しくないのだから、労を惜しむべきではなかろう。

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 リスクがあったとしても、それを十分に分散させることができれば、問題にはならない。それには二つの方法がある。一つは時間軸で分散させる方法、もう一つは主体間で分散させる方法である。時間軸の方法は、一度、大きな損害を被ることがあっても、小さい利益を何度も獲得することで、取り返すものである。むろん、そのためには、機会を重ねるだけの時間が必要だ。そうした状況に、実際の経営者が置かれているかがポイントである。

 「どうすれば経済学」では、現実の社会構造は、被ることが許される損害の大きさを制限していて、それを超えるとタイムアップとなり、もうチャンスは与えられないとしている。こうした社会構造では、経営者が取れるリスクには限界があるわけで、急激な需要減退という大きなリスクに遭遇した場合には、機会利益を捨てる不合理な行動を取らざるを得ない。

 結局、期待値が分かっていたとしても、一定以上の損害を許さない社会構造があり、損害による社会的な死を避けたいという価値観が優勢であると、需要リスクの下では、利益最大化の公準が成り立たなくなる。もし、構造改革をしたいのなら、解雇の自由化などに熱を上げるより、失敗を認める社会にするとともに、「命知らず」の者が増えるよう、勇気を鼓舞すべきなのかもしれない。

 しかし、そこまでしたとしても、生物学的な「ヒト」が判断の主体である以上、限界はある。人は死すべき存在であるからだ。命が有限なら、人生を暗い時期で覆わないようにするには、時間軸で分散できるリスクの大きさにも限りがある。いわば、「命知らず」にも程があるというわけだ。そもそも、ヒトは、利益の最大化より生存を優先して、危険を避けてきたからこそ、今の地球に存在するのではないか。これを、高だか二百年程度の経験しかない資本主義の都合で変えてしまうのは、どうなのだろう。

………
 もう一つの方法、主体間での分散はどうか。理屈だけで言えば、需要が急減し、金利が低下したときに、すべての主体が一斉にリスクを分担して取ってくれたら、個々の事情で機会利益を捨てる不合理に陥らなくても済むかもしれない。誰もが合理的思考の強力な持ち主なら、そうした一斉行動を合理的に予想し、期待形成に至るのでは、という感じはする。

 しかし、ゲーム理論で考えると、なかなか起こらないことは明らかだ。「他人も、ほとんどが知行合一のできる、強力に賢い存在のはずだ」と確信するのは情報の面で難しい上に、「他人に打って出るリスクを取らせ、後に付いて行こうとする戦略」を排除できない。多くが後出しで行こうとすれば、お見合いとなって、誰も動けない「悪しき均衡」にはまってしまう。蛮勇を奮って飛び出す者もいるかもしれないが、付いて行く者が少ないと討ち死に終わるという危険に満ちている。

 ただし、この状況には、一つの解決策がある。それは、死なない者が率先して打って出るとともに、リーダーシップを発揮し、みんながリスクを取って出て来るまで、資力を惜しまずに誘導することである。死なない者だって? それは、政府しかない。政府が需要を支えると宣言し、「勝つまでやる」と断固として行動すれば、みんなは不信を払拭して付いて来るだろう。政府が行動すれば、難なく合理的期待を形成できるのである。

 政府は、内乱でも勃発しない限り、死ぬことはないし、外債に頼らなければ、生殺を握られることもない。機会利益が捨てられている不合理な状況であれば、資金は余っているから、国債の発行にも支障はない。こういう介入は、不合理を是正するものであって、市場を歪めるものとは違う。問題は、そういう役割を果たすべき政府が、全体の事情も分らず、財政収支という手前の庭をきれいにしておきたいがために、真っ先に逃げたがることである。

………
 需要リスクのある下では、利益最大化の行動は期待できない。それは、人は死すべき存在であり、社会が多数の独立した主体から成ることに根ざしている。それらがリスクの分散を不能にしているのである。ゆえに、もし、利益最大化の行動を機能させるべく、構造改革をしたいのなら、不死の実現や独立の剥奪といった途方もないことが必要になってくる。

 改めて言うが、不況は機会利益を捨てるという不合理な行動による現象だ。それを政府が介入して是正するのは、合理性を高め、社会的厚生を増やすものとなる。政府の介入と言うと、自由の侵害のように思うかも知れないが、成すのは需要の「底」を保つことだけである。それは、無益な不安を除き、個々の自由を発揮させるものであって、むしろ、資本主義を強化することになるだろう。

 アベノミクスは、リスクを鎮めるべき政府が一気に需要を抜いて自らリスクを作り出すという、してはならないマクロ政策を取ることとなった。その見返りに、ミクロ政策を弄し、官製ファンドを作っては、設備の投資や廃棄に口を出したり、減税の見返りとして、賃上げを迫ったりする。なにやら、オールド・ケインジアンの筆者の方が、よほど自由主義経済の擁護者には見えないだろうか。

※次回は、需要リスク<0への拡張について説明して、「どうすれば経済学」の汎用性を示すつもりだ。

(今日の日経)
 再生エネに海外勢続々、バブルの恐れ。中国ひとまず落ち着き、ショベル底入れ、不動産過熱。大学医学研究は民間依存。米国コンテナでベトナムが日本を逆転。土地取引5年ぶりプラス。市町村税を再配分。イオン改装600店。GEは日本技術を発掘。債権先高感広がる。

※近年は駆け込みと反動の産業政策が多いね。※筆者にはまったくそう見えない。※向かい風での投資は明暗が分かれるが果たして。

※昨日HPにアップされていた権丈先生の年金綜研での講演は経済学の系譜が分かる面白い内容だったね。

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2 コメント

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Unknown (G)
2013-10-19 21:14:08
資本主義は200年かもしれませんが、株式会社は400年ですよー
(同じことですが)
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Unknown (Unknown)
2013-10-21 12:42:11
というか、単純に政治的判断に経済政策が敗れたというだけのような気が

何と無く山本幸三氏の話からいろいろ敷衍してる気がするんですが、彼は消費増税には賛成していたのですけれど、復興増税には普通の理論で反対してたんですよ

この矛盾の理由を考えない限り、根本は理解出来ない気がします
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