河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1224- マーラー花の章、さすらう若人の歌、交響曲第1番 ロジャー・ノリントン N響2011.4.23

2011-04-24 18:08:22 | インポート

大震災後4回目の演奏会通い。
2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちら
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2011年4月23日(土)3:00pm
NHKホール
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マーラー 花の章
マーラー さすらう若人の歌
 バリトン、河野克典
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マーラー 交響曲第1番
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ロジャー・ノリントン指揮
NHK交響楽団
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土曜日の午後3時をなんとも中途半端ととるか楽しい一日の一部ととるかみんなそれぞれ思いはあると思います。雨風模様で気持ちはブルーだったが先週聴いた一直線エルガーが素晴らしく、この日も是非とも聴かないといけない。そんな思いでした。
プログラムビルディングは明瞭な第1番取りまきコンサート。たしかにこのような並びで午後のひと時を過ごすのもいいものかもしれない。
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交響曲第1番の圧倒的に鋭い演奏に聴衆大ブラボー、思わずその輪に加わっちまいました。
マーラーにおけるユニークなノンビブ奏法。マーラー独特な粘着質的歌の部分に隙間が出来ますが、これがなんとも絶妙な効果となっている。パウゼ的緊張感がホールに浸透し妙に新鮮。
むろん、第4楽章で第2主題が2回歌うわけですけれど、第1楽章が再帰する2回目の歌は、すーっと空白の空気が流れたりして今まで聴いたこともないような感覚を味わいました。そしてホルン8本の仁王立ちはその割にはでかいサウンドではありませんでしたけれど、全般的に硬質感があるなかシャープに突き進むノリントンのほぼ1拍子振りが圧倒的に剃刀的鋭角的な加速度にくらくらしながら本当に若々しく突き進んだ。素晴らしい快挙の第1番でした。
なにしろ引き締まったサウンドが非常に魅力的。ノンビブ奏法効果だけでなく反射板効果もあるかもしれない。
先週のAプロは2階席中央前方、この日のCプロは一階席やや左で9列目に座ってますけれど、この日の1番はやや硬質な響きでサウンドが締まっている。よくわからないのですが、
何年か前からステージがせせり出てきて、本来のステージの前方の縁から2,3メートル聴衆側に寄ってセッティングされるようになったと認識します。これがN響のときだけなのか、他のコンサートでもこうなのかわかりませんが、とにかくそうなった。それでノリントンの今回の棒ではコントラバスが一番奥に左右一列に並びます。その後ろに衝立のような反響板を立てている。舞台の奥の壁との間が結構空く。指揮者の意図するところではないということらしいが、ノンビブ奏法やとにかく少なくとも指揮者の嗜好と反対ということではないだろう。それで、あらためて舞台全部を見てみると、要は3メートルぐらい全体が前に出てきている。つまり舞台の上にステージというものが上がっていて劇中劇のステージではないですけれど、もうひとつ舞台が前にあるような感じに見えるんですね。結局このように手前に建築しておけば最初からそんなにぼろくそに言われなくてもよかったのかもしれないですねこのホール。ただし広がりすぎの横幅はもうどうしようもありませんけど。
このようなことをこの日は感じました。音が鋭くなり引き締まった。いい音になった。もちろんほかにもいろいろな要素はあったと思います。指揮者の能力の高さは言うまでもありませんが、たとえば3.11にメータの棒によるチャリティー第九、このときは事態が事態なだけにものすごい緊張感にあふれる演奏でN響も引き締まった演奏になっておりました。このときもうひとつ感じたのは会場が上野の東京文化会館であったということ。前回ここにN響が上がったのはいつなのかは知りませんが、響きが良かったのはこの会場だからということもあったのかもしれません。残響があり音を聴き合える。アンサンブルなんて相手の音が聴こえないと難しいわけで、それがここ上野では互いの音を聴きながら演奏し合える。だから密な演奏になると思いました。メータの指揮者技量とN響の本来の技量が同一方向のベクトルとなったいい瞬間でした。へんなたとえかもしれませんが、ニューヨーク・フィルハーモニックの今の拠点はエイヴリー・フィッシャー・ホールで定期はほとんどここでやりますが、たまのイヴェントでカーネギー・ホールでやることがある。歩いても15分ぐらいの距離ではあるのですが、今はこうなっているわけです。
カーネギー・ホールでの演奏は記念、祝祭的なイヴェント性の強いもので、ここでのニューヨーク・フィルハーモニックの演奏はいいでき。イヴェントだから気の張り具合が違うということもあるとは思いますが、ホールの響きが良い。良いホールでは良いアンサンブルが出来る。
話が例によって長くなってしまいましたが、要は、メータの棒による東京文化会館での演奏、そしてノリントンの棒によるリメイクNHKホールでの演奏。このあたりで団員に一段自然な気持ちの引き締めがあったのではないかと推測します。つまり、「やっぱり我々はうまかったんだからおごらずこれからやっていこう」と。そのような掛け声がなくてもプレイヤー一人一人にそのような気持ちの変化があったと感じました。
5月の指揮者でもそれが継続することを。
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マーラーの交響曲第1番。ノリントンの棒は明快。第2楽章など全く斬新で後ろ髪をひかれないサーサーと切り上げる潔さで快感。第3楽章は中間部で一段とテンポを落としても粘らないのでドライでいながら、スコアの本来の姿が現れてきているようにも聴こえ非常に新鮮。第1,2楽章は終わるごとにノリントンが団員の方に拍手をしていましたから、よっぽど思いの通りだったのでしょう。
第4楽章は先に書いた通りで最後の突き進みが見事。
このマーラーを聴いてふと、「速度的遠近感」のようなものを全体として感じました。伸縮自在ということになるんでしょうが加速度と減速の具合が自然、さらに緩徐部分における自在な棒はもはやオペラの域といってもいいものだ。ほとんど右手だけの指示、腕だけ見ればそうなのだが、そうではなくて全身をオーバーアクションではなく微妙に指示を出していくあたり練習が徹底していると思われる。峰を登りきったような爽快感。
前半の2曲は交響曲1番の関連で置かれていると思う。
花の章はこれだけ聴いてもよくわからないので、やるんならメータ&イスラエルが昨年来日公演でやったようにきっちり挟み込んでやってほしいところだ。経緯等があるので独立させて存在の意識化をはかったのでしょうか。よくわからないというのは単独曲としての曲種はなんだろうか、といったあたりです。序曲でもない、なにかショート・ピースでもない、聴き方がわかっていないといわれればそうかもしれませんね。
2曲目のさすらう若人の歌はよかったですね。
いきなりマーラーの独特なサウンドの森のなかに入らせてくれます。グレイで厚みではなく線を感じさせる。オーケストラの線、声の線、一種もつれあいながら情感をこめて歌う河野さん多分十八番の曲ですね。思わず歌詞カードをみながら聴いてしまいました。
なげやりで絶望的な歌詞はやっぱり、若人、ではないだろう。自分の人生のことをあまりにシニカルにとらえているし、気持ちがこのような状態のときは詩など書かない方がいいと思う反面、そのときでなければ書けないという妙な気持ちではある。マーラー自身、平常時にはあまり読みたくない詩ではないだろうか。
河野さんの気持ちの入れようが並ではない。オーケストラのサウンドによく溶け込んでおりそれでいてかき消されない。バリトンの声の美しさを堪能することができました。
ノリントンは前半棒無し、後半1番のみ棒あり。
おわり

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