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1222- エルガーのエレジー、ベートーヴェン交響曲第1番、エルガー交響曲第1番、ロジャー・ノリント

2011-04-17 18:59:53 | インポート

2011年4月16日(土)6:00pm
NHKホール
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エルガー 弦楽合奏のためのエレジー
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ベートーヴェン 交響曲第1番
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エルガー 交響曲第1番
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ロジャー・ノリントン指揮
NHK交響楽団
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大柄のロジャー・ノリトンはレコ芸等の宣伝写真でのトリッキーな笑顔で損な印象があるが、その彼がゆっくりとポーディアムに向かう。そして先日のメータのときと同様、同じくマイクを持った通訳が後を追い、ノリントンに渡す。今日も3.11大震災の追悼のあいさつから始まった。みんなこうやって悼む。
ノリントンはバッハのアリアではなく、エルガーのエレジーを奏した。悲歌である。
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前半のベートーヴェンの一番は、N響とこれからベートーヴェンの交響曲シリーズを行っていくその最初の曲となった。
いかにもいかにもという振り方、古楽器真っ盛りにはやった叩きつけるような棒、といっても棒は持っていないが、むしろ曲に合わせて腕が動いているようなそれでいて百戦錬磨の余裕のような、あえていえば、アーノンクールなどと同じ傾向の振り姿だ。たぶん最初の頃は、改革、音楽の改革にフレッシュにきびきびした振り姿だったと思う。
「ピリオド」というのは「時代」ということだから、ピリオド楽器、ピリオド奏法、などそのイメージ通りでいいのだが、つまり時代様式ということでいいと思うのだが、ピリオドという言葉にはどうしてももう一点、「句読点」のような響きがブレンドされているような気がして、それは「句読点がついたような奏法」のような感じがあり、時代様式を踏まえない単なる時代の真似を今この現代に行っているような場合もあるのではないか、勘違いというか時代様式ではなく再現された流行と思えなくもなかったりして、個人的には歴史的な観点での興味はほとんどなくその意味では流行に流されていると言われればそれまでなんですけれど、響きが真似なのか真の創造の追体験なのかはこうやって本物をみれば少しはわかる。個人的にはホッグウッドが好きなのですけれど、響きの世界で別々の方向に向かったということなのかもしれない。
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それで、ノリントンが聴かせる響きはまさに音楽創造の追体験のようなフレッシュなもので、ベートーヴェンが筆で描いたものをそのまますぐに音にしたような響き。
この日だけなのかどうか、ステージの奥には、初めて見ますが大きな反響板のようなものが立てられており、その前に左右幅広く一列にコントラバスが並ぶという一風変わった風景となっておりました。これが響き方にある程度影響されていたというかそのように指揮者は画策したのかもしれません。
第2,3楽章は非常な高速。特に第2楽章は耳慣れたものにとっては倍速以上に聴こえる。第1,4楽章は違和感のないもの。ノリントンは指揮中も、どうだいいだろう的に聴衆の方をみたりする、第4楽章の序奏では席の方をみて振っていたし、結尾音はもろに聴衆に向かって締めていた。このジェスチュアだけみれば昔のハインツ・ワルベルクを思い出すが、もちろん中身はまるで異なる。
硬質サウンドのティンパニの強打はデフォルトのようで、ほとんど指示を出さないのに要所をビンビン締めてくる。圧倒的存在感。この楽器の重要性がよくわかる。フレーズ、縦バーの要所でポイントになる楽器で、これがあるとないではまるで異なる。むしろそのような要請が積まれた歴史の結果ということなんだろう。
N響の響きは非常にシャープ、研ぎ澄まされていて気着心地がいい、外連味がなくすっきり、さわやか。垢がとれた。
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後半はエルガーの1番。ここではタクトを持ったノリントンが現れた。持つだけで意味を感じる。前半とは様相が異なるんだよと自ら発している。
この曲は要は最初の主題が全楽章いたるところにちりばめられていて、主題の対比というよりも近親性であり変奏曲でも聴いているような錯覚に陥ったりすることがあるのだが、この日の演奏ではこの最初の主題の強調をより強く感じた。角を排し丸く優しくまろやかに響かせた主題の線をいたるところ臆面もなく強調していて、スペシャリストといったおもむきではなく自国の音楽への共感の響き、音楽という雰囲気が非常に強かったように思う。ノリントンはこの曲でもスコアは不要なのだが、指示が前半のベートーヴェンのときとまるで異なる。微にいり細にいりの棒は、知り尽くしている曲をもう一度あらためて焼きなおしている。でもエルガーのスペシャリストのような変なやにっこさが感じられない。愛の共感としか思えない。その意味ではたとえば第3番の全曲版のようなものには関心がないのではないか。たとえば、誰かの交響曲が何十番までもあってそれを全てやりつくすといったこだわりもないのではないか。そんな気がする。そうだとするとこの前のメータなんかも同じ部類の指揮者だ。聴き手側もある程度そのようなことを気に留めながら聴いても悪くはない。
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練習がどうなのか、一部不揃いな部分が散聴されたが、そのようなことはあまりに気にならないが、整理整頓を好む(と思われる)エルガーの音楽には末葉も大事な気がしないでもない。
そういったことがあったが、向かって右側に配したブラスの響きは整然としており、むやみに強奏させることなく線を合わせていくのでメリハリ感がいい。その意味では正面奥に一列に並んだコントラバスも下支えというのではなく、動きの表情があり、神経の行き届いた細かい表現に驚きました。ニュアンスが入念に練習で伝えられているのでしょうね。
最後の盛り上がりはそのための盛り上がりではなく音楽の自然な加熱にある程度任せているので、大団円ではなくシャープにすとんと決まった。
第2楽章からアタッカで第3楽章へ移行はラフマニノフをなんとなくイメージさせるけれど、響きの一つ一つが祈りのように聴こえる。味わいのある内容でした。
おわり

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