河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1159- N響北米公演2011年

2011-01-09 19:56:32 | ニュース




Scan10067_2



2011年3月16日(水)8:00pmワシントンD.C.
2011年3月18日(金)8:00pmモントリオール
2011年3月20日(日)3:00pmパーチェス
2011年3月21日(月)8:00pmニューヨーク
.
アンドレ・プレヴィン指揮
NHK交響楽団
.
アンコールは何かな。
昔、確か1985年頃にニューヨークに来たときのアンコールはあれでした。
あれしかありません。
ばかうけです。
隣に座っていたアメリカ人が、
日本語で、ばんざい、って、叫んでましたから。
あれです。
.
外山雄三の、ラプソディー。
.
これしかありません。
あのときは、外山が棒を振っていたので、自作自演。
今回は、プレヴィンなんで、ラプソディー、むずかしいかもね。
じゃぁ、ほかになにやるんだ?
.

人気ブログランキングへ


1158- ペトレンコ 小菅 ベトコン1番 マンフレッド N響2011.1.8

2011-01-09 17:21:47 | インポート

.
2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
.

2011年1月8日(土)6:00pm
NHKホール
.
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第1番
 ピアノ、小菅 優
.
チャイコフスキー マンフレッド交響曲
.
ワシーリ・ペトレンコ 指揮
NHK交響楽団
.

マンフレッドはもしかすると初めての生演奏遭遇かもしれない。
大変に素晴らしい演奏でした。しなやかなオーケストラの美しさの極みは曲を凌駕したかもしれない。最後は泣けました。
.
第1楽章の序奏が表情を変えて2回繰り返されるあたりで、既にこの曲は長くなるなあと感じ入ってしまう。序奏の下降音フレーズはチャイコフスキーにしてはあまり魅力あるメロディーラインではないが、オーケストラの演奏の方の力の込め方は尋常ではない。指揮者のやる気度がそのまま乗り移っているかのよう。曲のタイミングはこんな感じ。
Ⅰアルプスをさまようマンフレッド:15分
Ⅱアルプスの精:9分
Ⅲパストラーレ:13分
Ⅳ地獄の酒宴~天へ:20分
第一楽章が序奏風に始まるのでそのあと提示部があって展開部、再現部、コーダといったソナタ形式かなと思いきやわりと散文っぽい。序奏の下降音をひきずったような展開がずっと続くので気合をいれて聴く必要があるのだが、もうちょっとふっ切れてもいいような気もする。アルプスをさまようマンフレッドなんだからこれでもいいか、でもそもそも、この曲、聴きすすむうちにわかるのだが、チャイコフスキーの語り口であるシンコペーションや後打音がほとんどあらわれてこないのだ。だからやわらかい曲だともいえるのだが、ペトレンコの棒はN響の抜群の美しさを引き出す一方、ダイナミックなところもあり両方を表現することにより曲に振幅の大きさを与えより魅力的にしてくれた。結果、このあまり演奏されない曲が両面からうまく光があてられこれ以上ない演奏となった。
第2楽章は明白なスケルツォ~トリオの世界で、ほっと一息。オケの刻みが心地よい。
この曲の緊密性というか全部似ている雰囲気はたとえば、このトリオの主旋律の裏でホルンがソロで第1楽章の第1主題とでもいうべきものを素で吹いているあたりをみてもあまりに明白すぎる。ここらへんのチャイコフスキーの筆はさえているとは言えない。もうちょっと工夫がほしいところではある。この交響曲自体は4番と5番の間の作なのでそれならばもっと欲張りしたくなるというものだ。
いずれにしても心地よい運動であることに変わりはない。
第3楽章こそはN響の力とペトレンコの才能がマッチした瞬間だった。弦は言うに及ばず、ホルンを含めたウィンド勢のあまりにもビューティフルなハーモニー。流れるようなビロード・ストリーム、見事なふくらみ、微妙なニュアンス、唖然とする美しさでした。極めて美しい響きがまさしくパストラーレ、安息の心のパレットが、どでかい編成のオーケストラから編み出される。お見事。
第4楽章、地獄の酒宴は曲の混乱も招いているような気もするが、一つずつかみしめ踏みしめるペトレンコの整理整頓は愛着がなければ表現できない。愛着とは一瞬たりとも手抜きしない一小節へのこだわりだな。
最後にあらわれるオルガンとブラスによるファンファーレはチャイコフスキーのひらめき。瞬間のインスピレーションが急激な曲想の変化のぎこちなさをまるっきり忘れさせてくる天才芸。やっぱり天才なんだね。
この曲のエンディングはあっけない。完全に意識されたものではあると思うのだが、召されるべきマンフレッドはこのように赦され天に招かれた。怒りの日が突然このようにあらわれ、その怒りの日で曲が閉じられる。奇抜な発想というべき。
ペトレンコは細部までやりつくした棒で、N響もこういった若くて才能ある指揮者をミュージック・ディレクターとして迎えれば、毎度熟睡モードのS席占有状態のジジババ連中も今日のように気を入れて聴いてくれるかもしれない。但し、前半だけで帰っちまう人はやっぱりそれなんりにいますので、それはそれで別世界ということで。
.
ペトレンコの最初のスタンディングご指名は、退職したはずのホルンの松崎さん。均質で中庸な音質とスキルはやっぱりこれも、すごい。
.

この日はベートーヴェンから始まったのですが、その前に例によって注意アナウンスがある。アラーム時計は壊せとか携帯は飲み込めといった内容なのだが、この日初めて聞いたのが、補聴器の音漏れをだすな。というもの。このセリフはいままで聞いたことがない。たしかにクレームとしてあがっているのは知っていたのだが、耳鳴りは本人にしか聞こえないように補聴器の音漏れも本人にしか聞こえないと思っているのかもしれない。というのは変な言い方で、本人には音楽だけが鳴っているのだろう。ただ補聴器がなければ本人の耳に何も鳴らないのも事実だろう。補聴器をしてクラシック音楽を聴くという発想がわからないので、これ以上はノーコメント。
ただ、そのうち、息をするな、といったアナウンスもはいるようになるかもしれない。
.
それでそのベートーヴェンの伴奏のためにまずポーディアムに向かったペトレンコですが、ほーっというため息が聴衆から漏れました。190センチもあろうかという長身で、モデルなみの細さでイケメン。本当に棒振りなのかといった一抹の不安がよぎるかっこよさ。
.
お手並みをいきなり伴奏指揮から聴かなければならないのでちょっとつらいところもある。とは思ったがこの念の入れようは並ではないなというのは、ピアノが入る前の古典的2個の主題出しの濃さからして明明白白、耳が洗われました。入念さと飛び跳ねるような刻みがどうすればこのようにでてくるのかよくわからないまま小菅さんのピアノにはいっていきました。長い第1番となりました。約40分のへヴィー級です。
小菅のピアノはオーケストラ以上に同じように引き締まっており、筋肉質的メリハリで不明瞭なところがなにもない。自力のみで勝負している。めまぐるしく変わるベートーヴェンの響きを魅力的に引き出してました。思うに、このピアニストは基本、オーケストラに合わせ協調していくというよりも、そのオーケストラを下敷きにして自己の表現を出し尽くすタイプとみました。
第1楽章の超ロングなカデンツァはあまりにお見事でそのまま即興でどこまでも弾き続けてしまうのではないという錯覚に陥ってしまいました。このままリサイタルに移行していってもいいかなという雰囲気。
この曲の初演はサリエリの指揮、ベートーヴェン自身がピアノ独奏。タイムマシンがあれば聴きに行きたいと思いますが、なんとなくそんなことを思い起こさせるような演奏で。
思い入れたっぷりではなく、指を立てメリハリをきかせピンピンと。そして両腕を広げるようにして思いっきり。弾ききった後のアクションも大振りで。でも音楽と一体感があり。一つを弾ききることが出来るようになることで、なにか、ベートーヴェンのほかの曲への理解の広がりが幅広くつかめるようになる。そんな感じですね。
第2楽章は深い。この実質2番の1番は、やはり3番につながる深さなんだが、この日のペトレンコの深さも普通ではない。曲の真髄はここにあり、ここがききどころなんだ、ツボはここにあり、聴かせてくれる。後半のマンフレッドの第3楽章の表現と同じ深さがある。説得力の深さは、一度自分のものとして消化し、それからそこからにじみ出るように音楽を出していく、再創造の極みです。小菅のピアノも音符の空白をも音楽してしまう、つまり聴き手に緊張感を強いるもので、つまりはベートーヴェンの作曲を追体験させるに足る演奏だったと思います。こんな演奏をいつもしてるんですかね。小菅さん。大変です。
第3楽章、軽快に進みます。軽快に進みますが、ベートーヴェンの音楽の大きさがよくわかります。この楽章の輪郭はなんだか2重の輪になっているようでもあり、ときとしてここまで彫らなくてもいいのではないかなどと思ったりもしますが、第1楽章とのバランス感覚もあるのでこうなってしまう。ベートーヴェンの精神の飛翔がどんどん曲そのものを大きくし、そこらあたりまでやりつくさなければいけない。そのようなベートーヴェンの脳みそが垣間見える。
小菅は、ベートーヴェンのメリハリのきいたフレーズをそのフレーズ単位、小節単位、面白いようにつないでいく、一瞬バロック風であったり、トリッキーな動きであったり、深く沈んだと思ったら快活に水の上を飛び跳ねる。表現をし尽くした、こちらとしては聴きつくした満足感がありました。3番4番といったあたりの深さを彼女のピアノで聴いてみたくなりました。
ペトレンコの棒は伴奏以上のものでしたが、オケを下敷きにする小菅とは若干、意識が違うような気もしました。ペトレンコはすでにオペラのレパートリーもあるようですが、オケ伴とはちょっと違うし、それよりもなによりも、今の彼は自分が主役であるべき、と思っていることでしょう。
おわり
.

人気ブログランキングへ