河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

スラットキン1984.6.2の評 ホライゾン-8-

2007-01-07 21:28:17 | 音楽

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これの続きです。

148 ニュー・ロマンティシズム ホライゾン1984-1-

149 ブルーノ・ワルター・オーディトリウム ホライゾン-2- 1984.5.30

150 ヘンツェ ペンデレツキ 両方自作自演 ホライゾン-3- 1984.5.31

153 ヘンツェ ペンデレツキ の新聞評 ホライゾン-4-

156 三日目 シンポジウム+リサイタル ホライゾン-5- 1984.6.1

157 スラットキン 共感の棒 ホライゾン-6- 1984.6.2

158 日曜日はコンサートだらけ ホライゾン-7- 1984.6.3

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198462日のスラットキンの評が翌々日のニューヨーク・タイムズに載った。

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THE NEW YORK TIMES

MONDAY, JUNE 4,1984

By WILL CRUTCHFIELD

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198464()

クラッチフィールドさんのレビュー

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ロバート・ビーザー、テア・ムスグレイヴス、ドナルド・エルブによる、世界初演、アメリカ初演、ニューヨーク初演、はニューヨーク・フィルハーモニックによる現代音楽フェスティバル‘ホライゾン1984’の土曜一回分の支払いは重いものとなった。

ビーザー氏の‘The Seven Deadly Sins’は伝統的な感覚のソング・サイクルである。

アンソニー・ヘヒトによる7つの謎めいた詩はバリトンにより歌われる。

その言葉は、サポートしている伴奏とともに、イラストとコメントで理解可能と思われる。

ビーザー氏の大ぶりなクレジットによると、土曜日初めてとなったオーケストラ・バージョンでは、アンプなしで、かなり強大な声(この演奏会ではJan Opalach’sが歌った)で歌わなければならない。この日はそのように聴くことが出来た。

Opalac’s 氏はやすやすと広音域をカバーし、確信と変化をもって歌った。

音楽は調性があり、ときに豪勢である。

この曲は聴衆に次のような反応を喚起した。つまり、誰かが言っているところの、ビーザー氏も括られている‘新・調性作曲家’は、初めからそれを作曲している人たちより、しばしばもっと技巧的で興味深い調性音楽を書いている。

それにもかかわらず、このスコアはなにやら説得力がなかった。あまりに多くの注釈と連想、‘私の音楽はこのように鳴る’には不十分。ある曲の終結部における主音の味わいは特に失敗のように響いた。

テア・ムスグレイヴ氏の音楽は常に彼女自身のように響く。‘ペリペテイア’は彼女の素晴らしい一連の‘劇的抽象的’な楽器の作品におけるもうひとつのものである。そのなかにあっては、音楽的出来事は極めて明確に演奏議論の質というものを受け入れている。それに楽器はときに性格(説得すること、挑戦すること、変化する忠誠心)のように振舞う。彼女が作曲するときの音楽テーマはしばしば一連のごく普通のものである。小さな音階、いたずら書き、繰り返される音符、短いリズミカルなモチーフなど。

リズムの複雑化はほとんど避けられているが、全て、抒情性を取り払うことさえ、休むことないリズムの動きの波に耐え続けている。

‘ペリペテイア’というのは、大まかに言うと、劇的なターニング・ポイントを意味している。それは、明るい開始の音楽の反復をとめた打楽器の爆発で表現している。その後、楽器はまだしばしば快活に演奏し続ける。しかし、小節のコントロール統一は取って代わられ、流れは決してもとに戻ることはない。分裂の感覚とあいまいさはあとのページにいきわたっている。この聴衆は、音楽劇(それはムスグレイヴ女史のほかの作品のなかにある)において何かもっとリスキーで脅迫的な観点で、願望を定義することは困難であると感じた。しかし、‘ペリペテイア’は充実した、魅力的で面白い作品である。

ドナルド・エルブの‘プラズマティック・バリエーション’は‘輝きと透明なサウンドでホールを満たし’ゴージャスにそうすることを意図したものである。オーケストラがフル・レンジで展開される。ハイでクリアな響きではなく、バランスの方を重視している。ホールには、約100人のベルゲン・ユース・オーケストラ団員が散らばっている。彼らは、ハーモニカ、クリスタル・グラス、電話音、ソーダ・ボトルなどの音を鳴らす。ステージ上のオーケストラが大きな音になるとだいたい彼らはそれらを鳴らす。明瞭な音色のまとまりとしてというよりも、付け加えられ、拡張された光輪のように聴こえた。指揮者レナード・スラットキンが、音楽が始まる前に子供たちを聴く機会を聴衆に与えなければ、それを決して望まなかった人たちがいたかもしれない。ソーダ・ボトルは特に筆舌に尽くしがたい誘惑的なサウンドを醸し出していた。そして、ときとして、その作品は全体としてそうであった。音楽の題材はそれ自身取るに足らないように見える。しかしおそらく、きれいな騒音というものが、この作品の本質である。音符とリズムを包括したメッセージの手段というよりもメッセージそのものがこの作品の本質。

ほかにプログラムにはクリストファー・ラウゼの‘インファーナル・マシーン’があった。オーケストラのためのdissonant moto perpetuo ということで、とても楽しいものであった。エリオット・カーターの金管五重奏曲は、この日に演奏したアメリカン・ブラス・クインテットのために10年前に書いたもので、なんだか古典的な感じだ。

評おわり

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