卍の城物語

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津軽観音巡礼第三十三番 観音山普門院

2009-04-11 00:40:42 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場カジュアル巡礼最終回。

一番札所の久渡寺に行ったのはいつだったか・・・。
去年の12月に始めた観音巡礼はいつのまにか4ヶ月近く掛かってしまった。
そして遂に今日、三十三番札所の観音山普門院を訪れた。

観音山普門院と聞いては、どこかと思われる人が多いだろうが、「山観」と聞くと地元の人はわかるだろう。
山観は津軽の夏の風物詩「宵宮」が一番早く行われる事で有名である。5月の下旬に早々と開催される。

おととしの夏には「劇団夜行館」の演劇が境内で催された事もあり、初めて山観に訪れ、境内にて演劇鑑賞をした。
おどろおどろしい演劇の夜行館の演劇の内容に相応しい幽玄な場所であったのを記憶としている。
その演劇に参加していた山観の住職はさぞや芸術に理解のある偉大な人間なのだろうと感じたものだ。

もともとこの場所は茂森山として一帯を見下ろせる小山であったが、弘前城より高く、山の頂上からは天守閣の中をも覗けてしまう為、切り崩し工事にて平地となり、現在の城下町が形成されている。
しかし弘前城が築城される前から、この場所には観音堂が存在している。

階段の参道を登り、境内へ進む。弘前の中心地に存在するのが珍しい巨木が幾つかある。
観音堂までは、閻魔堂、身代観音堂、稲荷堂なとがある。左手には庫裏がある。

観音堂裏手の道には三十三観音石像が見守っている。

観音堂の扉を開けると遠くに聖観世音菩薩像が見える。
そしてお祈りを捧げ、満願成就。長きに渡った観音巡礼もここにて終止符を打った。

津軽の冬は長く、巡礼の季節は春から始まる。その逆をついて、厳冬期に始めた観音巡礼は細かく時間を割いて少しずつ進めていった。
冬ならでは、道路が積雪で通れず、二十五番札所の松倉観音堂は訪れる事が出来なかった。ここは悔やむところであった。
他には、普段堂宇に入れるであろうところでも、冬季だからか施錠しているところも多かった。
ほとんどの札所は無人であり、地元民が管理している所が多い。昨今の仏像盗難を考えると、堂宇の施錠は致し方あるまい。
そしてメインの観世音菩薩像を拝むことが出来たのはあまりに少ない。三十三ヶ所中7ヶ所ほどであったか。

観音信仰は日本全国で行われている。西国三十三ヶ所がその頂点であり、古くから巡礼のメッカとして全国から訪れていたようだ。
そして津軽の藩政時代には、西国三十三ヶ所を真似て、津軽三十三ヶ所を形成した。
その理由は多額の旅費、労働力、そして藩内の情報が藩外に流出するのを防ぐ為、藩内で巡礼出来るようにしたのである。
そのような例は全国にも及び、各地に三十三ヶ所霊場が存在している。
巡礼は千年前から行われており、古くから西国の地を巡礼するのは一生に一度あるかどうかののイベントであった。多くの行けない者は一人の代行者にまかせ、土を持ち帰るのが風習となった。
今でも西国巡礼の土を埋めている札所はいくつかある。

仏教が日本に伝来し、信仰宗教と成り得たのは、森羅万象八百万の神としての神道に歩み寄り、解釈を変えてまでして対立を避けた事にある。
神も仏も共存する社会を作り出せたのは、あらゆる物を祀り、畏れる日本人の性格にあっていたからであろう。

そもそも何故本尊として観音像を祀るのかは、観音経の広大な救済力にあるからといっても過言ではない。
観音経は、どんな災難があっても、観音力を信じれば必ず救済されると説いている。
更に女性的な外観は親しみを覚え易いことから、多くの人々から愛されることとなった。
全国中の観音像は、他の菩薩像、如来像や明王像などを全て合わせても、観音像の方が多い事から、いかに観音信仰が日本人の心を掴んだか示している。

そんなことで、この巡礼で仏教についても少しばかり勉強する事も出来た。
神道と仏教の二大宗教を潜在的に信仰している日本人たちであるが、戒律宗教の一神教と違い、穏やかな神性が世界の目に余る暴虐的な不幸を生み出さなかったのは日本の宗教の誇れるところだ。

それでも、この巡礼で避けて通れない、最も憤った事は「神仏分離令」が施行され、「廃仏毀釈」が行われたことである。
この神仏分離令は、大悪法と呼ばれる明治の日本の大汚点である。
神仏習合が完成し、生活に根付いた仏教は神道と共存し、神社と寺院は同じ場所に建てられる事もあった。
動乱の幕末を経て、明治新政府は国家宗教としての神道を位置付けし、仏教と厳しく区別する事とした。
仏教排斥を目的としてはなかったが、一部の神官や国学者が扇動し、排斥運動に広がり、寺院・仏像の破壊活動まで行われた。
仏教の怠惰がここにきて民衆のフラストレーションの的となり、廃仏毀釈は徹底的に行われた。
一部の寺院の廃寺、観音堂の廃堂、そして本尊を回収されてしまった。その後、仏教寺院は神社になったところがあまりに多い。
しかし実際は、多くの良識ある民衆達が廃仏毀釈を拒否し、本尊を隠したりして難を逃れているのも多い。
その後神仏分離令は5年ほどで頓挫し、神仏習合状態に戻っている。神仏習合が日本全国に根付いていたのが窺える。
津軽三十三箇所でもほとんどの観音堂は一度廃堂になっている。本尊は地元民が隠したり、ダミーを渡したりして、廃仏毀釈の勢いが薄まってきてからまた観音堂を再建し、元に安置する例が多い。
それほどまでして観音信仰は強かったのだと感心してしまう。

他にも観音堂の歴史を辿ると、津軽または日本の歴史と繋がっており、これも地元に住んでいるのに新たに知り得る事が多く、非常に勉強になった。

更に単純に旅行気分が味わえ、訪れた事のない地に足を踏み入れ、津軽は広いなぁとしみじみと思えた。

長くはなったが、この巡礼は本当に為になった。
そして最近体調が芳しくないが、これもまた修行の一環としてしっかりと受け止める。
大体はどこの巡礼地でも家族の健康をお祈りしたが、やはり健康第一だなと自然と思う。

そしてもう一つ、歴史ある観音霊場が、観世音の下に平和で永遠にあるように願ってきた。
戦死者慰霊碑がある寺も少なくはない。動乱の戦国時代、そして日清・日露・大東亜戦争と、望まぬともやってくる戦いの魔の手に巻き込まれた数億の無辜の民の死者の霊の下に自分達が生きているということは心して受け止めるべきである。

今回の巡礼はあくまでカジュアルに挑むというコンセプトで旅したが、巡礼の知識も豊富に身に付いてしまったので、いずれまたこの津軽観音巡礼に挑みたい。
その時は正装で、きちんと納経し、お参りしたい。その時まで健康で、平和であって欲しい。

最後に観音山普門院のご詠歌
~いままでは 親と頼みし 笈摺を ときて納める 茂森の寺~

津軽観音カジュアル巡礼満願終了

住所・弘前市西茂森町2-17-4
電話・0172-32-5105