ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

たんけんぼくのまち 「那珂湊編 5」

2022年09月23日 11時03分46秒 | Weblog
6月の末に「株式会社 関」へおじゃまし、写真を撮らせていただいた。
社長さんとお会いし、昔話に花を咲かせることもできた。
それから約二ヶ月後の9月上旬、再び那珂湊を訪れ関氏と再会することができた。
その際に、嘗て自分が録画した「たんけんぼくのまち 那珂湊編」の番組が数本あったこともあり、それをDVDにダビングしたもの。
そしてお店(関商店)時代のロケ時に撮ったおじさん・おばさん・チョーさんの写真を添えてお渡しした。
たいへん感謝され嬉しく思う。
帰り際に「どうぞまた来てください」と社長さんからありがたい言葉を頂いた。

もう一度お店があった場所へ行ってみた。
今はもう思い出でしかないが、若かりし頃の懐かしさだけではない何か・・・
言葉や文字ではうまく言い表せない何かがこみ上げてきた。
かすかに胸が熱くなる想いだった。

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8年間続いた「たんけんぼくのまち」だが、その8年目が終わってしまった時、番組宛てに手紙を書いた事がある。
唯ひたすら感謝の言葉を綴っただけのものだが、何と思いがけない返事を頂いた。
チョーさん直筆の返事だった。


表側


裏側
こちらはチョーさんの部分がシールとなっているが、もったいなくて剥がして使うことはしていない。(笑)
このハガキは今でも思い出として大切にとってある。

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何度も綴るが、本当に不思議な夢だった。
何故あのよう夢を見たのか分からない。
あの夢を見なかったらこうして行動に移すこともなかったろう。
ましてや社長さんとお会いすることもなかった。
「家」のこととはまた違った意味での、個人としての思い出を訪ねる「終活」的な感じがしないでもない。
まぁそれも良い。
無理なくできる範囲で続けてみたいとも思う。
行ってみたい思い出の場所、久しぶりに会ってみたい人。
少しずつ動いてみたい。

たんけんぼくのまち 「那珂湊編 4」

2022年09月20日 19時54分07秒 | Weblog
平磯の海岸線にそって車を走らせると、あの頃とは違った新しく建てかえられた家並みが見えてきた。
しかし、道路そのものは大きく違ってはおらず、見覚えのある交差点や二股に分かれるポイントなどはそのままであった。

お店の跡地が見えた。
既に商店としての形跡はなく駐車場となっていたが、決して見間違うことはない。
少し離れたところにコンビニがあったのでそこに車を停め、お店の跡地へと歩いた。


昔お店があった跡地。
「やさい・くだもの」の大きな文字の看板が目に浮かんでくる。
おじさんおばんさん、そしてチョーさんと一緒に写真を撮ったのもここだ。


お店側から海に向かっての一枚。
大海原がすぐ目の前に広がっている。
あの頃と何ら変わらない風景だ。


お店から陸方面に向かってほんの少し歩いたポイント。
たぶんこの右側あたりに離れの家があって、そこに泊まらせていただいた。


今は近所の家々も建て直しすっかり変わってしまったが、自分のかすかな記憶の中にはあの頃の風景が刻まれている。
おじさんおばさん、チョーさんがニコニコしながら働いている様子が自然に思い出すことができる。

車に乗り、平磯の町中を走ってみた。
詳細は思い出せないが、記憶にある建物などは幾つかあった。


平磯海水浴場の「くじらの大ちゃん」。
自分の中学時代にはなかったが、番組の中では何度も出てきた。


平磯郵便局。
チョーさん宛の郵便物を受け取りに、実際にチョーさんが訪れた場所。
建物の形は当時のままだ。(おぉ~懐かしい~)


そしてこれが平磯小学校。
ここの3年生も番組に出演していた。

思い出を訪ねるドライブの最後に、どうしても立ち寄ってみたい場所があった。
現在のお店(?)がどうなっているかである。
ネットで事前に調べており、どこにあるのかもどのような経営をしているのかも知ってはいた。
当時のお店から歩いて数分の所にあるビルである。
写真に収めたいと思ったが、何の許可もなく勝手に撮ってしまうのはあまりにも失礼かと思い、承諾だけを頂こうと入り口のインターホーンを押した。
外からその場で事情を説明して終わりになるだろうと思っていたのだが、「どうぞお入り下さい」という返事。
いや参った!
なんか大事になってきそうだと・・・

受付で社員の方に事情を話すと「ただいま社長のことろへご案内いたします」と。
えっ、それはちょっと・・・こんな展開になってしまうとは・・・。
こうなったら簡潔にでもいいから昔の話をして、「これこれこんな理由で来ました。できればこのビルの写真を撮らせていただければ・・・」と話すしかない。
いい歳をして緊張してきた。

社長さんがどこの誰であるかは自分は知っている。
・・・が、自分のことは知るよしもない。
40年以上も前に何度かお会いしているのだが、社長さんにしてみればそんなこと覚えているはずもないし・・・。

アイスコーヒーまで出していただいて恐縮のかぎりだったが、結果からすれば会って事情を説明し、お会いできて良かったと思う。
いや、そうすべきであったとも言える。
社長さんは大変喜んでいただき、「そのようなことなら是非写真を撮ってください。大丈夫ですよ。」
と、ありがたい言葉を頂いた。

社長さん自身からの承諾を頂き、写真の件だけでなく氏名や会社名もブログに載せても問題ないとのことなので、ここに堂々とアップさせていただく。


株式会社「せき」
業務用野菜等の加工と原料販売を主とし、従業員数は500名近くにもなる。

自分が嘗てお世話になった頃、そして「たんけんぼくのまち」の頃は「八百豊商店」→「有限会社関商店」であった。
現在の社長さんは関 孝範氏であり、中学時代に泊まった時にコーラやすいかを持ってきていただいたあの青年さ
んである。
なんかこうしてみると、番組のチョーさんが将来は自分の店を持ち、店長(社長)になるために働いているという番組の設定を、現実社会の中でそのまま具現化したような人のようにも思えて仕方がない。


会社の外へ出れば、
あの海が見える。
そしてビルのすぐ横には「ひたちなか海浜鉄道」が通っている。
あの頃は茨城交通だったような気がするが、記憶は定かではない。
そうそう、たんけんぼくのまちの番組では、チョーさんが初めてこの街に来た時にはこの鉄道に乗って来たんだ。


車輌のカラーや絵柄は当時とは違うが、懐かしい思い出の詰まった鉄道だ。

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写真を撮ることの承諾をと、ごく軽い気持ちで訪ねただけなのだが、思いもよらぬ展開となってしまった。
(もちろんいい意味で)
番組ロケ当時の懐かしい話に花が咲き、ついつい30分近くもおじゃましてしまったが、感慨深いものがあった。
ノスタルジックな想いでもあった。

最後にもう少しだけ、今回の件について綴ってみたい。
たんけんぼくのまち 「那珂湊編 5」に続く。

たんけんぼくのまち 「那珂湊編 3」

2022年09月07日 17時15分46秒 | Weblog
中学時代にお世話になった食料品店の御家族、その10年後に「たんけんぼくのまち」、そして現在へと繋がって行くのだが、その前に番組ロケについてアップしなければならないと考える。
話が過去と現在をあっちこっちしてばかりで申し訳ないです。
m(_ _)m

まだ自分が二十代の若かりし教員時代に子供達と一緒に観ていた教育番組「たんけんぼくのまち」。
ロケ地が那珂湊のあのお店であることが分かり、ただ懐かしいなぁと思っていただけではない。
どうせなら子供達と一緒にたんけん地図を作ってチョーさんに渡せたら・・・と考えた。
昔お世話になった那珂湊のあのお店に行き直接渡せたらと・・・。

授業の合間を見て約半年かけて制作したたんけん地図だが、那珂湊でのロケもおそらくは今年度で終了だろう。
直接渡せるチャンスは一回きりかも知れない。
父に事情を説明し、那珂湊のご主人に連絡を取ってもらった。
すると大変喜んでくれ、「いついつの何時にお店でロケをやるので、どうぞ来てください。」と、ありがたいこ返事を頂いた。
「よし、これで地図を渡すことができる。チョーさんにも会える・・・かも!」
と思ったが、いや、番組制作のロケであり、直接チョーさんでなくてもスタッフの方に渡せればそれだけで十分だろう。
完成したたんけん地図を持ち、1988年1月の某日、午後休暇をもらい那珂湊へと出かけた。

12年ぶりにお店のご夫婦に会った。
(というより、おじさん・おばさんと言った方がいいのかもしれない。番組の中でもずっと「おじさん・おばさん」で通していたしね。)

挨拶をし手みやげを渡し、早速地図をスタッフに・・・と思っていたら、
「いやぁ本当に久しぶりですねぇ。こんなに立派になって。先生になられたんですねぇ。ゆっくりしていって下さいよ先生。もうすぐロケも終わるだろうし観ていってください。チョーさんとも話がしたいでしょう。」
と、なんとも嬉しい言葉を頂いた。
(「えっ、本当にいいのかな・・・」)
するとおじさんが気を利かせてくれ、チョーさんとスタッフの方に事情を説明し自分のことを紹介してくれた。
「わざわざ来ていただきありがとうございます。またいつも番組を観ていただきありがとうございます。」
スタッフの方から名刺を頂いた。
そしてなんと、チョーさん本人からも挨拶を頂き、ほんの数分だったが会話をすることができた。
恐縮の至りである。


チョーさんの愛車「チョーさん号」。
おそらくは台本を見て演技進行を確認しているのだろうと思う。
テレビでは観ることのできないチョーさんの一面。感激だ♪


お店の中で進行のチェックだろうか・・・。
一緒に映っているのがおばさん。
後方にはチョーさんが実際に番組内で作ったたんけん地図が飾られている。

ロケが続く。
目の前でチョーさんがスタッフのみなさんといろいろ打ち合わせをし、ほんの数秒のカットを何度も繰り返し撮影していた。


チョーさんとスタッフ。
「テイク1」ってところだろうか・・・。
離れたところで見学させていただいた。

ロケは夕方近くまで続いたが、初めて見る本物の番組制作は感心しつつ、そして感動しながらの見学だった。
(「これが一つの番組となって放映されるのかぁ。楽しみだなぁ。」)
後日、この日に撮影されたものが放映され、嬉しさで一杯だった。

ロケが終了し。スタッフの方々が機材を片付けている時だった。
番組を見ている小学生にとっては実に驚くべきシーンを見た。


チョーさんが近所の犬と戯れている。
一見何でもない事なのだろうが、子供達からしてみれば「え~っ、チョーさん大丈夫なの?」と叫んでしまうのではないだろうか。(笑)
実は番組内での設定では、チョーさんは犬が大の苦手!
配達の途中途中で犬と出会ってしまい、吠えられてはズッコケる。
自転車でそそくさと逃げてしまうシーンがたくさんあるほどだ。

突然おじさんから「ほら先生、せっかくなんだからチョーさんと写真撮らなきゃ。チョーさ~ん、ちょっといいか~い。」
まさかこんなことまでできるだなんて考えてもいなかった。


お店の横でチョーさんと、そしてチョーさん号も一緒に一枚。
チョーさんが手に持っているのは、学校で制作したたんけん地図。

実はこの時、チョーさん宛てに手紙を綴っていた。
内容は養護学校でのことで、子供達がどれほどこの番組を楽しみにしているのか。
どのようにしてこの地図を作ったのか。
また、自分の中学時代のこのお店(おじさん・おばさん)との繋がりなどを書いた物だった。
その手紙を読んでいただいた後だったこともあり、チョーさんかたら、確かこんな言葉を頂いた。
「偶然とはいえ不思議な繋がりってあるんですね。それに○○さんが先生になっていなかったらこの番組だって僕のことだって知ることはなかったと思います。このお店のことは中学生の時の思い出で終わっていたかも知れませんよねぇ。」
将にその通りだと思った。
偶然が偶然を呼び、そして一本のルートとなって繋がった出来事だ。


「○○先生、これこれ、これを撮らなきゃ!」
チョーさんが両手一杯に広げてくれたたんけん地図だ。


おじさん、おばさん、チョーさん揃っての一枚。
当時のお店の看板が懐かしいなぁ。


自分も一緒に一枚。ただただ感謝と感動であるが、あまりの若さに今となっては見るのもブログに載せるのも恥ずかしい。

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番組ロケ見学と、チョーさんとの出会い。
もう30年以上も前の出来事、思い出である。


たんけんぼくのまち 「那珂湊編 4」へ続く。


たんけんぼくのまち 「那珂湊編 2」

2022年09月05日 18時14分40秒 | Weblog
那珂湊との思い出について触れておかねば、「たんけんぼくのまち」や「チョーさん」へと繋がって行かない。

もう40年近くも前の思い出であるのではっきりとした記憶が残っている部分は少ないが、覚えている範囲で綴ってみたい。
自分が中学2年と3年の夏休みのことだった。
二泊三日の日程で家族で海水浴へ出かけることになった。
宿泊地は茨城県の那珂湊市。
そして海水浴場は平磯。
那珂湊の名前は知ってはいたが行くのは初めてであり、かなりワクワクしていたことを今でも覚えている。
泊まるのは民宿やホテルではなく一般家庭の離れ家で、母や姉が食事を作り風呂は銭湯を利用。
銭湯は入ったことがなかったこともあり、海水浴とはまた別に楽しみでもあった。

お世話になる一般家庭というのは父の仕事の関係の方らしいということだったが、詳細は全く分からなかった。
後に分かったことは、その家のご主人が当時PTA連合の会長さんをされており、父が高校の教員をしていたことからの繋がりであったらしい。
県をまたいでの教育関係の繋がりだろう。

夏休みに入り、8月に車で那珂湊へと出かけた。
大洗から赤い橋を渡り、海沿いに走ればお世話になる家はすぐだった。
海無し県で育っていただけに、河口にある赤い橋(海門橋)と海沿いの道路は印象的だったなぁ・・・
そのご家庭は食料品店を経営しており、お店の駐車場に車を止めご主人と奥さんにご挨拶。
自分も「お世話になります」と言って頭を下げた。(たぶん・・・笑)

とてもきさくで大きな声、そしていつもニコニコしている印象のご主人。
奥さんは小柄で世話好き。
夫婦そろって優しさがにじみ出ているなぁと子供心にも感じた。
離れ家は店から歩いて1分足らずの所にあり、そこの二階で三日間を過ごすことになった。
何よりも嬉しかったのは、海まで歩いて数分ということ。
外へ出れば一面太平洋の大海原が望め、散歩がてらに海沿いの道を歩くことができるという、自分にとってはかなりの贅沢感を味わうことができた。

昼食を済ませた後だったと記憶している。
ご主人の息子さんであろうと思える男性がやってきて、「これ父からです。皆さんでどうぞ。」と言って持ってきたのは、大きなスイカとコーラをまるごとひとケース。
これは嬉しかったなぁ!
なにせ部活動を終え、近くの店で飲むのはいつもラムネ。
理由は簡単で安いからだ。
コーラは大好きだったが、当時の自分にとっては高価な飲み物だった。
実を言うとこの時の男性こそ、今に繋がるキーマン的存在の方であり、後のご主人、と言うより「社長」さんである。(このことは後々綴って行く)

昼間は海水浴、夕方になればテトラポットの上で磯釣り。
夕食を済ませて銭湯に行き、ちょっとだけ夏休みの宿題をする。
あっという間の三日間だったが、実を言えば海水浴と同じくらい楽しかったのは海沿いの散歩だった。
散歩など普段からしてはいなかったが、手ぶらで気軽に海岸線に沿って歩くことができることが嬉しくて仕方がなかった。

もう一つ覚えている出来事がある。
父と一緒に夕方釣りをしている時のことだった。
ご主人がやってきて「どうですか、釣れますか?」と言いながらいきなりシャツを脱ぎだした。
「何をするんだろう・・・」と思っていると、突然そのまま海へと飛び込んだではないか!
平然と泳いではいるが、それなりに波は高かったと記憶している。
「へぇー地元の人ってすげぇーなぁ・・・」と驚愕の思いだった。

翌中学3年の夏休みも三日間お世話になった。

少年の頃の夏休みの思い出となってる那珂湊。
そしてお世話になった食料品店の御家族。
もうここまで綴ればおわかりだろう。
そう、このお店こそ、後にたんけんぼくのまちの舞台となるお店なのだ。

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話は前後するが、6月に見た夢は赤い海門橋、海沿いの道、そして平磯の街並みだった。
どうしてそんな夢を見たのかは自分でも分からない。
分からなかったが、久しぶりに平磯に行ってみたいという衝動に駆られた。
同時に「たんけんぼくのまち」のビデオを観てみたいと思った。
数十年前のビデオテープだったが、以前にDVDにダビングしておいたものがあり、ノイズや画像の乱れはあるものの懐かしさを感じさせてくれるには十分だった。
また、「たんけんぼくのまち 那珂湊編」がDVDとして発売されており、これも購入済み。
「そうそう、こんな場面があったなぁ。おじさんもおばさんも懐かしいなぁ・・・」
などと観ていたが、今現在そのロケ地がどうなっているのかを知りたくなり、ネットで調べてみた。
するとどうだろう、当時番組を観ていた方達が大人になり、懐かしさや思い出を尋ねて那珂湊に行っているではないか。
そしてあの食料品店の現在の様子、平磯郵便局、平磯小学校、くじらの大ちゃん、チョーさんが地図を作るために登ったマンションの屋上などの写真がブログにアップされているではないか。
これはもう自分も行くしないと、即決定!
6月の末の土曜日に実際に那珂湊へ出かけた。

現在は「ひたちなか市」であるが、自分にとってはいつまでも「那珂湊」として心に残っており、これからもブログ内においては「那珂湊」と綴らせていただく。(ご容赦を)

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高速を使えば一時間あまりで那珂湊へは着いた。


夢に出てきた赤い橋「海門橋」
だんだんと那珂湊(平磯)へと近づいてくる。
子供みたいにワクワクしてきた。(笑)
「チョーさん元気かなぁ・・・」っているわけがない。
ご主人であるおじさんが既に亡くなられていることは知っていたが、あのお店にもどうしても寄りたい。


そう、このマンションこそチョーさんが実際に外の螺旋階段を登り、屋上から那珂湊の街並みを眺めて地図作りに役立てた場所だ。


当時の番組から。(テレビ画面を撮影)


これも同じマンション。
当時の番組から。(テレビ画面を撮影)

この建物まで来れば、確かお店は目と鼻の先だが、ただノスタルジックな感傷だけでなく、どこかメランコリーな想いが芽生えてきた。

たんけんぼくのまち 「那珂湊編 3」へ続く・・・

たんけんぼくのまち 「那珂湊編 1」

2022年09月03日 19時37分41秒 | Weblog
まだ「南八ヶ岳縦走」をアップしている途中ですが、どうしてもアップしておきたい出来事があり、一端内容を変更します。
山行記録を楽しみにしてくださっている方々には申し訳ありません。

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今年の6月のことだった。
不思議な夢を見た。
自分が車を運転し、見覚えのある道路を走っていた。
それは茨城県の大洗と那珂湊(現ひたちなか市)とを結ぶ赤い橋「海門橋」の手前だった。
大洗から橋を渡り、そのまま海沿いを走り那珂湊の平磯方面へと向かっていた。
平磯の街並みは現在の街並みとは違い、数十年前のものだと思う。
「懐かしいなぁ・・・」などと夢の中で感じていたが、その直後に目が覚めた。
何故そんな夢を見たのか、それは自分でも分からない。
ただ、橋の色が赤で海の色は青であり、夢にも色が付いていることを改めて知った。

ひたちなか市ではなく、敢えて「那珂湊」と綴る。
那珂湊は自分が中学生の頃から何度も訪れており、多くの思い出が詰まっている。
そしてその中学生の時の夏の思い出と、タイトルである「たんけんぼくのまち」とは切っても切れない繋がりがある。
まったくの偶然が生んだ繋がりであり、人の縁とはこれ程までに不思議なものなのかと感じている。

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「たんけんぼくのまち」について綴っておかねば話は始まらない。

これは番組名であり、NHK教育テレビ(現Eテレ)で1984年から8年間も続いた教育番組だ。
小学校3年生向けの社会科の教育番組だが、これまでの教育番組をぶっ飛ばすような内容であり、教育番組に大きな変革をもたらしたものと言っても過言ではないだろう。(と、個人的に思っている)

番組の概要。
先ず主人公は「チョーさん」と言って、将来は自分の店を持つ夢を持ちながら食料品店に住み込みで働いている青年。
このチョーさん、芸名は「長島雄一」さん。(現在は「チョー」)
俳優でもあり声優としてもテレビやラジオで現在も活躍されている方。
「いないいないばあ」というEテレ番組では「わんわん」の着ぐるみを着ている人がそうだ。
(わんわんの声もチョーさん本人)

地元の地域社会(農業・工業・商業・漁業、そして地理的特徴など)の成り立ちや仕組みを、配達用の自転車に乗り調べまくるチョーさん。
この自転車がまた年代物で(笑)、「チョーさん号」という愛称がある。
しかし、この自転車があってこその地図作りであることに間違いはない。
そして調べた内容を独自の手描きイラストで模造紙に描き「たんけんちず」として完成させるというもの。
当時の教育番組としては本当に珍しく、笑いの要素を数多く取り入れていた。
奮闘しながらもどこかハチャメチャでどじってしまうチョーさん。
ある面ドリフのコント風でもある番組だが、きちんと学習(社会科)としての要所を捉えており、先ず「何かを発見すると驚く」次に「それらを疑問に感じる」そして「行動に移し調べる」。
といった一連の流れがあり、子供達の「気付くことへの感性」に訴えかけそれを大切にしている。
また、メモをすることの大切さや調べるためのヒントや工夫などをさりげなく教えていると感じた。
最終的には町や社会の仕組みを、児童達が抵抗なく興味関心を持って地図として表現できると思える番組だった。

特筆すべきはチョーさんの描く地図が何とも素晴らしかったことだ。
教科書に載っている地図とは縁遠く、前述した独自のイラストが満載!
子供達が「自分たちも描いてみたい。地図を作ってみたい」「地図って難しくないんだ。こんなに楽しいんだ」という自ら湧き出る意欲をかき立てるものに仕上がっているものだと痛感した。
「自分で調べて自分で知り、自分でまとめる」。
将に学習の原点であろう。

そうそう、忘れてはならないことがある。
番組に出演しているのは、チョーさん以外はみなさんロケ地の方々で素人である。
(稀に俳優さんがゲストとして出ることもあった)
台詞はある程度は決められているのだろうが、素人丸出しでそれぞれのお国訛りもあった。
それがかえって新鮮であり観ていて楽しくてしかたがなかった(笑)。

あわてん坊な我が愛すべきチョーさんだが、番組がスタートした1984年からの二年間は、長野県諏訪市をロケ地とし、地元に実際にある食料品店を舞台として地図作りに励んでいた。
そのころの私はすでに教員となっており、観ていたのではなく「観せていた」立場だった。
ただ小学校ではなく、養護学校(現特別支援学校)であり、授業の合間合間に一緒に観ていた。
大人の自分が観ていてもおもしろく、「へぇ~ポイントを掴んでるなぁ。でもチョーさんは笑える。」と思っていた。
(実を言えば専門は社会科なのだ)

諏訪での二年間が終わり、「来年度はどこがロケ地になるのかな。栃木に来てくれるといいなぁ・・・」と思っていた。
そして新年度となり、1986年度の「たんけんぼくのまち」がスタートした。
ロケ地は茨城県の那珂湊だった。
「那珂湊かぁ、近くていいね」などと嬉しさに浸っていたのだが、チョーさんが住み込みで働くことになったお店を見て驚いた。
でもってその店のご主人と奥さんを見て「え~っ、やっぱり! 間違いない!」
まさかまさかの那珂湊のお店、そしておじさんとおばさんだった。

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夢で見た「海門橋」。
大洗から那珂湊(平磯)方面へと向かっている。


これぞ我が愛すべきチョーさん♪
バックのお店は間違いなく那珂湊のあのお店だ!
(テレビ画面を直接撮影)


「たんけんちず」を作っている(描いている)チョーさん。
予めイメージだけを描いておき、それをほぼ即興的に表現する。
「東西南北がどうのこうのじゃなく、先ずは描くことが大切。子供達が描いてみたいと思えてくれたら嬉しい」
と、チョーさん本人が言っていた。(これホント!)


このたんけんちずは、那珂湊だ。
「チョーさんの店」となっているのがロケ地のあのお店。


たんけんぼくのまち 「那珂湊編 2」へ続く・・・

南八ヶ岳縦走 「横岳へ 前編」

2022年09月01日 21時09分36秒 | Weblog
顔を上げての登攀がきついと感じられるほど朝日は眩しかった。
もとより足元のアイスバーンや岩に注意して登らなければならないため、あまり顔を上げることはないのだが・・・。

予想よりもアイスバーンは多く見られた。
氷とは言っても冷蔵庫で作られる製氷のものとは全く違い、これでもかと言うくらいに強烈な固さだ。
ピッケルで叩くように刺してみても決して深くは刺さってくれない。
自分の使っているピッケルはテクニカルタイプのものだが、それでも十分には刺さらなかった。

嘗て一月後半の厳冬期にこのルートを通ったときのアイスバーンは、氷と言うよりもまるで鉱石のような固さだった。
ピッケルのピックの先が僅かに数㎜程度刺さるのがやっとで、アイゼンの爪も同様だった。
もちろんそんなことは過去の苦い経験から分かっていたから、先端を研いでおくなどそれなりの準備もしてきた。
だが所詮は人のやること、大自然の驚異には勝てるはずもなかった。
赤岳を登頂し文三郎尾根から下山しようとしたが、あれほど注意していたアイスバーンでスリップし転落した。
何回転したかなど覚えてはいない。
岩の壁に背中からぶち当たり、何とか止まることができた。
どこまで強運なのか自分でも不思議だったが、怪我らしい怪我もなく、数カ所の打撲とピッケルで自分の脚部を刺しただけで済んだ。
(あっ、これって怪我か・・・笑)

話を戻そう。
太陽がどれほど眩しかろうとも、風がどれほど強かろうとも快晴であることに違いはない。
それが嬉しかった。
「いいペースだね」
「風には煽られますけど、眺望が利くって最高ですね!」

会話は弾んだ。
このまま一気にここを登ってしまおう。


逆光がいい感じだよ!
アイスバーンにだけは気をつけてね。


シュカブラとアイスバーン、そして岩のルートを登る。
さすがにここまで来ればトレースは浅く、人が通った形跡は僅かなものだ。


互いに自分のペースで登攀を続けたが、西側(右手側)からの風はそれなりに強く、ここが強風の通り道であることの証を体で感じる登攀だった。
そしてここを登り切れば、横岳をより近くに感じるポイントとなる。
(「リッジはどうなっているだろうか・・・。 ヨコバイの雪の状況はどうだろうか・・・」)
あれこれと考えてしまう。
と思っていると、「ガリッ、つる~ん」って感じでアイスバーンでスリップしてしまった。
いかん、集中しよう。

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登攀が終わり、しばしトラバース的なルートとなってくれた。
そして目の前に見えてきたのが横岳のサミットだ。


「あれが横岳ですね。近いですけどなんだか遠くに感じます。」
N君の言った「遠くに感じる」という言葉、よくわかる。
距離としてではなく、メンタルや技術的な遠さを意味しているのだと思う。

ハードな登攀が続いた後だけに、少しゆっくりと歩いた。
一歩一歩横岳へと近づくが、まだリッジは見えては来ない。
かなり近づかないと確認できなかった覚えがあった。


N君が不安そうに聞いてきた。
「横岳ってどこから取り付けばいいんですか? ここからじゃ全然わかりませんよ。」
このすぐ先にリッジやクサリ場や鉄梯子があるが、直前まで行かなければ見えないことや、見えてからやっと取り付きポイントが分かることを説明した。
今はヨコバイにクサリが設置されているが、まだ無かった頃を思い出した。
単独だっただけに恐かったなぁ・・・。


リッジを登る。
この10m程先に行けばスパッと切れ落ちた壁となる。
本来であれば切れ落ちるポイントの手前で左へと寄り、リッジの壁に沿って進み更に細いリッジを通り、次にタテバイのクサリ場となる。
それが最も安全で確実な方法だ。

意図的に無茶をしたこともあった。
リッジの左側面を通らず、リッジの岩壁を下りてタテバイへと向かったことがあった。
落ちたらそれまで・・・。
そんな愚かなことでさへも懐かしい。

横岳まであと少しだ。