ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

3000メートルを超えて(10)

2010年01月31日 21時41分55秒 | Weblog
ベースキャンプに戻った頃は、すでに太陽は山陰に隠れていたと思う。
この頃の個人装備と言えば、たとえば、ベースキャンプ内では登山靴を脱いでサンダルでくつろぐ等と言った考えはなかった。
言い換えればサンダルを余分な装備と思っていたのだ。
今ならそんな考えはなく、むしろ足の圧迫疲労を癒すために装備品の一つとして持って行くだろう。
また、雨具にしても、「ポンチョ」で間に合わせていた。
当時「ゴアテックス」が出回っていたかどうか記憶にはない。もし出回っていたとしても、おそらくは今以上に高価な物であり、手が出なかった代物だと思う。

さて、夕食を済ませ、みんなでココアを飲みながら今日の登山談議に花が咲いた。
前穂高岳の過酷なルートに、聞けば聞くほど「北穂でよかったぁ」としみじみ思ったものだ。
かと言って北穂から奥穂のルートが優しかったかというと、決してそんなことはない。
「ガレ場」「くさり場」の連続があり、独り言さえ出なかった緊張感を伴うルートでもあった。

上司に聞いてみた。
「明日のルートはどんな感じなんですか? 今日と比べてどうでしょうか?」
「なぁに、何度も通っているけど、今日のルートに毛が生えたくらいだよ。『馬の背』『千畳敷』『ロバの耳』『ジャンダルム』なんてたいそうな名前は付いてるけど、ゆっくり進めばどおってことはないルートだから大丈夫!」
事前に書籍で下調べをし、写真では見ていた。注意事項や難易度も知ってはいた。
が、実際に自分の足で進むのは初めて。
不安はあったが、上司のこの言葉に安心した。そう、実際に足を踏み入れるまでは・・・。

三日目の夜、バーボンを一杯だけストレートで飲み、明日のために寝た。

3000メートルを超えて(9)

2010年01月30日 21時31分04秒 | Weblog
奥穂高山荘には我々の方が先に到着した。
1時間も過ぎてからだったろうか、前穂に登った二人が到着。
「前穂はどうだった?」と聞くと「とんでもないところだったよ」と、ぼそっとつぶやいた。
どれほどまでにとんでもないところなのかは、前穂のコルの数、そして全景をみれば容易に想像できる。
「北穂でよかったぁ~」と、内心ホッとしていたが、翌日の奥穂高岳から西穂高岳へと向かう小便ちびりそうなルートがあることなど、この時はまだ知るよしもなかった。

奥穂の小屋で軽く食事を摂り、涸沢のベースキャンプへと下った。
「ザイテングラード」をひたすら下る。
途中いたるところに万年雪があり、その上を慎重に下って行く。
ここで山岳指導員の上司が「おぉ~!」と思わずうなるような下山技術を見せてくれた。いや、正確には「魅せてくれた」と言うべきか・・・。

何という技術だったかは忘れたが、長年愛用のピッケルを万年雪に刺し、それを支えとブレーキとし、登山靴のかかとあたりだけを雪面に当て滑りながら下りるのだ。
つまり、雪面に接しているのは、ピッケルの先端と靴のかかと部分だけ。
これには本当に驚いた。山のベテランならではの高等技術を目の前で見ることができたのだ。
周囲にいた他の登山者達からも、驚嘆の声と共に拍手喝采だった。

俺たちは、本当にすごい人と一緒に来ているんだなぁ。
この人と一緒ならば、間違いはない。
あらためてそう確信できた瞬間だった。

3000メートルを超えて(8)

2010年01月28日 23時39分37秒 | Weblog
お目当てのTシャツを買い、仲間と奥穂高岳へと向かった。
ほとんどが「ガレ場」と呼ばれる岩だらけのルート。誤って「浮き石」をつかみ手がかりにしたり、全体重でも掛けようなら・・・。
ここは慎重に進んだ。
しかし、この程度のガレ場はまだまだ序の口だと、翌日のルートで嫌と言うほど思い知らされることになった。

ガレ場、くさり場と進み、奥穂高岳へと向かう。
前穂の仲間はどうしているだろう。
うまく奥穂の小屋で合流できるといいのだが・・・。

午後になって、少し曇り空になってきた。
明日の天気を気にしながらも、その時は「今、俺は標高3000メートルを歩いているんだなぁ。」たったそれだけのことが嬉しくて仕方がなかった。


3000メートルを超えて(7)

2010年01月27日 23時37分55秒 | Weblog
北穂高小屋へ行き、先ずは仲間とビールで乾杯。
遥か遠くには、槍ヶ岳の屹立した雄姿が見えていた。
「次はあそこに登ってみたい」と、来夏のことまですでにその時に決めていた。
まぁ結果として落石事故と高山病で登頂できなかったが・・・。

さて、ここ(北穂小屋)まできたら、目的のものを・・・。
あったあった。これだ!
北穂小屋の売店で売られているオリジナルのTシャツがどうしても欲しかったのだ(笑)。
その年の「夏山JOY」という山岳雑誌に北穂の特集あり、このTシャツが紹介されていた。
「う~ん、ここでしか買えないのかぁ。」
昔も今も、限定商品や非売品には弱い自分だった。

この時に2着。翌年にも2着購入し、そのうちの1着は未だ袖を通していない。
たかがTシャツなのだが、思い入れが強い分大切にとっておきたい。
ましてや当時のデザインのものは、もう販売されていないしね。

3000メートルを超えて(6)

2010年01月26日 23時25分06秒 | Weblog
この写真は、北穂高岳山頂であることは間違いないが、山頂のどのあたりだったのかはもう忘れてしまった。
山荘の近くだったのか、それとも奥穂高岳へ向かう方向だったのか・・・。
そしてバックに映っているのがおそらくは「滝谷」だろうと推測する。
もうそれほどまでに過去の事になってしまった(笑)。

だが、滝谷を見た(上からのぞいた)ときの記憶は確実に残っている。
確か「鳥さえも通わない岩稜」と呼ばれていた「滝谷」。
つまり、鳥さえも寄せ付けないほどの険しさを物語っているのだ。
その険しさ、スケール、そして美しさは、自分の想像を遙かに超越したものだった。
まるでナイフで削り取られた様な岩稜が圧倒的存在を誇示していたのだ。
人間が「点」に感じた場所だった。

雲の切れ間から連峰が見える。
神の創造物とはよく言ったものだ。その言葉に何ら疑いの余地が無いほどの威圧感さえも感じた。
「今頃別グループの仲間はどのあたりかな。前穂のどのコルあたりだろう。」
前穂からもこの北穂はよく見えるはず。
前穂にも登ってみたい思いはあったが、北穂登頂を選んだのには訳があった。
子供じみたと言うか、ミーハー的な理由なのだが、どうしても北穂でなければ叶わないことがあったのだ(笑)。

3000メートルを超えて(5)

2010年01月25日 21時22分45秒 | Weblog
この地に来て、この山を登りさえすれば誰でも簡単に3000メートルを超えることができる。何のことはないのだ。
そんなわかりきったことをオーバーに考えること自体がおかしい。
されど、されど、「遂に来たんだ・・・」。
北穂高岳山頂を示す標識を見つけたときの嬉しさは格別だった。
自分の足で3000メートルという標高を超えた。たったそれだけのことがことのほか嬉しかったなぁ。
岩だらけの山頂を、その岩を一歩一歩踏みしめながら大袈裟に感動をかみしめたものだった。

実を言えばこの時、左膝の内視鏡検査を受け、抜糸して数日しか経過していなかった。
当然医者には登山のことは内緒。親には反対されたが、治療じゃなく検査のために数ヵ所メスを入れただけだから。と言って山へと出かけたのだ。
痛みが無かった訳ではない。膝に違和感を感じながらの登坂だった。
そして、がっちりとテーピングで固めてはいたが、正直不安は大きかった。
「大丈夫。まだ大丈夫。もってくれよ、たのむぜ! 仲間には迷惑はかけられない。」と祈りながらここまで来た。

3000メートルを超えて(4)

2010年01月24日 22時46分04秒 | Weblog
昨年の6月のブログにおいて、途中でストップしてしまった登山の思い出。
「3000メートルを超えて」を再開しようと思う。

敢えて「越えて」ではなく「超えて」とした。
あの頃の自分にとって、3000メートルというのは趣味の世界とはいえ一つの大きなハードルのようなものであり、憧れでもあった。
大袈裟に言えば「抜け出る」。まぁそんなところから敢えて「超えて」とした(笑)。

さて、涸沢のベースキャンプを出発し北穂高岳のピークを目指したのはいいが、登れども登れども先が見えてこなかったのを覚えている。
後ろを振り返り、前穂高岳との標高を比較しながら「おぉもうすぐ(だろう)」と曖昧な判断での登坂だった。
それでも最低限の荷物だけという重量負担の軽減や、最高の天気に恵まれたこともあり、全く苦にはならなかった。
とにかく初めての「3000メートル超え」に何としても辿り着きたい。そしてその憧れがもうすぐ叶うという嬉しさがあったのだ。

通称「ガレ場」と呼ばれる岩だらけの難所を、這いつくばるようにして登った。
このとき使用していたのが野球用の手袋で、これが大いに機能を発揮してくれたものだった。
本来であれば登山専用の手袋があり、代用品には違いない。しかし同じ革製だし、過去の登山の経験からこれが岩肌のホールドにはピッタリで、雨などで濡れた岩肌であってもしっかりとグリップが効いていた。

見上げれば抜けるような青空。
3000メートルまであと僅か・・・かな?

退院

2010年01月17日 21時26分45秒 | Weblog
入院当初は約一か月の予定だったが、3週間ほど延び昨日退院となった。
ゆっくりと焦ることなくリハビリを続けたこともあり、退院後のリハビリの必要はないとのこと。
しばらくは私の家で一緒に生活をすることにした。

退院の日の朝、車中で、事故当日の痛々しい様子。加害者不明のまま入院となったこと。手術への不安などを思い出しながら病院へと向かった。
「いつかきっと笑える日が来る」そう思い入院手続きをしたっけ。

荷物を持ち病室を出るとき、同室の方々との別れの挨拶。
嬉しいはずの退院なのだが、24時間共に過ごした怪我仲間(?)だけに、母にとってある意味淋しさを伴っていたのかもしれない。
そしてナースセンターへ行き、お世話になった看護師さん達への挨拶。
仕事とは言え、身動きできない母への接し方、語りかけ、ありがたいことだった。

昼前に家に戻ったが、昼食は自分と二人だけ。
「何が食べたい?」と聞くと「ラーメンがいいね♪」と、意外な答えが返ってきた。
そう言えば、自分が肩の手術で二か月入院したときも、「あぁ~ラーメンが食いてぇ~!」と切に思ったものだ。
店にはいることも考えたが、「たまには俺が作ってみるか」とふいに思いつき、生ラーメンと具材を買い、台所に立った。
小食のはずだった母が食べきったのには少々驚いたが、よほど食べたかったのだろう。
そして「美味しかったぁ~」の一言。

「いつかきっと笑える日が来る。」そう信じていてよかった。

高校サッカー準決勝

2010年01月13日 23時44分48秒 | Weblog
母の退院も間近となり、やっと落ち着けた状態になった。
先日の3連休初日、国立競技場へ行き、全国高校サッカー選手権大会準決勝を見にいった。
もちろん我が栃木県代表の「矢板中央高校」の応援のつもりだったのだが、実のところ、第2試合の「関西大学第1高VS青森山田」の試合に完全に魅せられてしまった。
「筋書きのないドラマ」を目の当たりにしてしまったのだ。

試合終了直前まで0-2で青森山田のリード。
ロスタイムを含めても追いつくことは絶対にできないだろうと観客のほとんどは思っていたに違いない。(もちろん自分もだ)
私の見ていた席の近くで声がした。
「おまえらの3年間はこんなものだったのか! 意地を見せてくれ!」
するとその直後だった。
将に電光一閃!!! 青森山田のゴールネットが大きく揺れた。
こうなれば残り時間など関係ない。押せ押せムード、いけいけわっしょいだ。
そしてなんとなんと、ロスタイムに同点弾をたたき出してしまったではないか。
第3者的立場で見ていた自分でさえも、立ち上がりガッツポーズをとってしまっていた。
完全に無意識だった。いつの間にか彼等のプレーに飲み込まれてしまっていたのだ。

そしてPK戦。
PK戦は誰もが予測のできない「水もの」で、あまりにも残酷な結果だけが残る。
勝った青森山田の選手達とは対照的な関西第1の選手達。
3位の表彰式が終わり、重い足取りで応援席に向かう彼等。
PKは1対1の勝負だけに、失敗に終わった選手には計り知れないほどの悔いと悔しさと責任感だけが残る。
決して個人の責任なんかじゃない。それは誰もがわかっているのだが、今の彼等には通じない言葉なのだろう。

応援団に一礼をし、ロッカールームへと向かおうとしたその時までは、キャプテンとして気丈に振る舞っていたあの選手。
その彼が倒れるように芝の上に崩れた。
握り拳をピッチにたたきつけ号泣していた。
彼の泣き叫ぶ声が、広い国立競技場にこだました。
ニュートラルで見ていたはずの自分だったが、帽子を深々とかぶり直さなければならないほどもらい泣きをしてしまった。

「これなんだな。スポーツの魅力って。」