熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

湘南鵠沼海岸のレストランでの会食

2020年06月12日 | 鎌倉・湘南日記
   新型コロナウイルス騒ぎで、殆ど外出を控えていていたのだが、久しぶりに、鵠沼海岸沿いのレストランへ会食に出かけた。
   鵠沼海岸は、江ノ島から片瀬西浜、鵠沼、辻堂と続く藤沢側の砂浜で、おそらく、明日からの週末には人で賑わいそうだが、今日は、江ノ島から稲村ヶ崎にかけての砂浜も、サーファーとセイリング仲間でまずまずの賑わいだが、常の人出ではなく、かなり、閑散としていた。
   鎌倉から江ノ島へ通じる海岸道路134号線は、日頃では渋滞が大変で、同じ道路を、車より自転車で走った方が早く着くと言われるほどで、シーズンには、交通の難所なのだが、今日は、スイスイと言う状態で、新型コロナウイルス騒ぎの後遺症であろうか。

   今日、行ったレストランは、三笠会館 鵠沼店、
   「湘南フレンチ」と称する立派なレストランである。
   以前には、近くに、アマルフィイと言うイタリアンがあったのだが、移転してしまったので、近くだとしても海岸まで出ないと、一寸したレストランはないのである。
   久しぶりのフルコースの会食で、あっちこっちを飛び回っていた若き頃を思い出していた。
   実業を離れて私的な生活が主体となると、歳の所為もあるのだが、正式なフレンチやイタリアンと言ったレストランでの会食は、一気に減ってしまう。

   玄関先ロビーで、非接触型赤外線体温計 で、体温を測定されて入るのだが、すでに、テーブル席は、相当余裕を持って配置されていて、3密の心配はない。
   マスクを収めるビニール袋が配布されて、当然、客は、マスクを取って席に着く。
   本来なら、もっと、テーブル席も多くて客の入りも良いのであろうが、この日は、2人から6人、6つくらいのテーブル席が埋まっていた。
   観光客ではなく、地元藤沢とか鎌倉の客だと思うが、やはり、何らかの改まった会食客のようであった。

   もう、30年くらいも前のことになるのだが、仕事や個人旅行等の機会を利用して、自分自身の趣味もあって、アムステルダムとロンドンに駐在して居た頃には、パリの三つ星からミシュランの星付きレストランを片っ端から行脚していたので、ヨーロッパの高級レストランの雰囲気は、かなり、よく知っている。
   尤も、ミシュランの星付きレストランと言っても、大都会の高級レストランばかりではなくて、アムステルダムには、飾り窓が見える川縁りの小さなレストランもあったし、ベルギーの鄙びた田舎の外れの旅籠にあって1泊したり、自分でも、車を走らせて随分駆け回ってヨーロッパの隠れた風景を楽しみながら行脚したこともあるので、勉強になって有益ではあった。
   しかし、調査など単発の出張が結構多くて、スペインやルクセンブルグ、ベルリンなど、自分一人でレストランに入ることもあったので、そんなときは、何となく、気後れがして寂しかった。
   そんな贅沢ができたのも、ヨーロッパのレストランの料金がリーゾナブルで、かなり安くて、それに、海外駐在員としての生活に余裕があったから自腹が切れたと言う幸せもあった。

   以前に書いたことがあるのだが、バブルの頃、イギリス人の客を赤坂の料亭に迎えて食事をした時、その夫妻がマツタケを半分に切った吸い物を幾らするのかと聞いたら1万円だと答えられ、
   当時の換算で50ポンドなので、彼らは、「ロンドンでは、最高のフランス料理を十分食べられる。」と言って複雑な顔をしていた。
   バブルが異常だったのか、或いは、丹波の特別なマツタケを厳選したということか、赤坂の超一流の料亭の暖簾代なのか、
   とにかく、日本の高級料亭や高級レストランの料金は法外であって、ヨーロッパでは、パリの三つ星レストランでも、予約は大変ではあったが、ワインの選択さえ注意すれば、私のような安ビジネスマンでも、十分、食事ができたのである。

   今回は、端折るが、イタリアなど、ヨーロッパのスロー・フードの素晴らしさも懐かしい思い出で、とにかく、美しい風物もそうだが、ヨーロッパの文化の香りも、質の高い日本の文化や伝統と同じで、滋味深い味わいがあって忘れがたい。
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屋根修理を装う詐欺業者の跋扈

2020年06月11日 | 
   昨日、風が強かった。
   ドアチャイムがなったので、丁度外に居たので、門扉まで出たら、とび職の作業着を着た若い男2人が立っていた。
   言っていることが良く分からないのだが、どうも、近所で屋根作業をしているという。
   その挨拶に来たのかと思うと、どうもそうではなく、その作業所から、我が家の屋根を見ると、板金が浮いているようでガタガタしていて、このような風の強い日には危険なので、修理した方が良いと言っているようである。(隣でなければ、我が家の屋根が見えるはずがない)。
   しつっこく強要するので、前の時には、ガイナで完全塗装したのでそんな筈はないといったら何も言わずに帰ったし、今回は、うちは出入りの業者にしか頼まないと言ったら、渋々帰って行った。
   大体、普通なら、何々会社の誰それですと挨拶するなり、名刺を差し出すのだが、前置きなしに、あり得ないようなことを口から出任せにしゃべり始めるので、おかしいと分かるのだが、注意深い人間でも、用意していないことや意図していないことに遭遇すると、その場の雰囲気で、何となく乗せられてしまって騙されてしまうことがある。
   振り込め詐欺などこの典型であろうが、こんな屋根修理の手合いが、住宅街を跋扈するのも、人間の弱さを餌食にしているのであろう。

   マニュアルがあるのか、こんな同じ台詞を言ってやってくる手合いが、これまでも、6ヶ月おきくらいにやってきており、近所でも話を聞いているので、住民の不安を煽って、つけ込んで作業して法外な料金を取る詐欺師業者であることがすぐに分かったので、泳がせればいくらでも化けの皮を剥げたのだが、追い打ちをかけずに、そのまま帰した。
   以前、家内が対応したときには、ドアホーン越しに断ったので問題はなかったが、娘が聞いたときには心配になって出入りの業者に来て貰って詐欺であることが分かって事なきを得たのだが、近所には、老人宅が多いので、引っかかる人も居るのかも知れない。
   昔は、シロアリや、下水、床下の湿気等々、一戸建ての家だと、良く分からない作業員がやってきて、不安を煽り続けていて引っかかる人も多かったようだが、特に、老婦人の一人暮らしだと被害に遭うこともあるのだが、こう言った失敗は、後で聞くまで分からないのである。

   ガスは東京ガス、電気は東電と言った棲み分けができて、かなり、安心だが、下水道のトラブルなどは、緊急修理が必要なので待ったなしなので、冷蔵庫の扉には水のトラブルサポートなどと書いたゴム版がいくらも貼り付けてあるが、心配なので出入りの建設会社に頼むことにしている。
   ところが、先日、和室の電気がつかなくなったので、娘婿が、インターネットで業者を手配してやってきたのだが、機材も手持ちで作業だけなのに、電圧検査をする必要があるとか何とか言って2万円請求したので、高いと思ったが仕方なく、支払った。
   その会社のHPに、電気の付け替えは5000円と料金表に書いてあり、おかしいと思って電話で抗議したら、注文を受けたのは名古屋のエージェントで、テラセンを払わなければならないので、この料金だという。
   こんな場合には、「公序良俗に反すると思うので、ブログに書いて、この商システムの問題を社名入りで周知させたい」と言うことにしており、そう言うと、エージェントには工事終了の時点で通知しており、手数料は取られてしまうが、いくらなら良いのだと聞いてきた。
   横浜から来ているので、真ん中を取って1万円にしたら、すぐに、書留郵便で1万円送り返してきた。
   そもそも、この程度の仕事を、何も分からずにパソコンで発注する無神経が問題なのは言うまでもない。
   いずれにしても、一寸したトラブル修復や修理などの簡単な筈の処理がやっかいで困ることが多い。

   電気工事と言えるかどうか分からないが、私のこのパソコンには、テレビ機能がついていて4K放送も見られる。
   ところが、私の書斎には、テレビの受信プラグがついていない。
   光はNTTからソフトバンクに変えてしまっているので、ソフトバンクに電話すると、例の調子で電話をたらい回しされて、回線一つ増やすのに手続きが必要であり、28500円掛かるという。
   高いか安いか分からないので、出入りの業者の職人が来て調べてくれたら、こっちの方は、もっと分からなくて、工事代金は3万円だという。

   しかし、こんな工事程度で、何万円も払うのはおかしいと思って、自分で、分波器とアンテナケーブルを調達して、居間のテレビコンセントから電波を二つに分波して、一方からケーブルを伸ばして書斎の分配器につないで、パソコンを起動すると、綺麗にテレビが映ったのである。
   分波して電波が弱くなるとブースターを付ける必要があるのだが、電波は十分であり、分波器やケーブルなどのコストは、たったの5000円。

   7年前に、この鎌倉に移ってきて、初めて、この地区にNTTのフレッツ光を通して貰った時には、嬉しかったが、テレビの放送内容には殆ど進化も発展もないが、ハードは、日進月歩である。
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わが庭・・・フェイジョア咲く

2020年06月10日 | わが庭の歳時記
   この花、日本にはない珍しい形をしていて、4弁の花弁は内側が赤褐色、外側が白色で分厚くて、開くと内側に丸く巻き返り、すっくと伸びた赤い雌しべを囲んで線香花火のように飛び出た多数の赤い雄蕊の先端に黄色い花粉包が揺れていて面白い。
   ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル南部原産だと言うことだが、住んでいたサンパウロでは見かけなかったし、頻繁に訪れていたパラグアイでも気がつかなかったのだが、ブラジルが懐かしくなって庭植えした。
   挿し木したら根付いて増えたのだが、この木は行儀が悪くて枝を広げて樹形が乱れて整わないので、余程広い庭でないと、植えづらい感じである。
   自家不結実性なので、結実されるためには異品種をそばに植える必要があると言われており、確かに花は沢山咲くが実付きは悪いのだが、木が大きくなると結実することもある。
   しかし、食用になるほいど大きく育ったことは殆どないので、まともな果実の味は知らない。
   
   
   
   

   梅の実が色づいて落ち始めたので、取り良いところから枝を落として3~4キロほど収穫して、とりあえず、梅酒を一瓶設えた。
   梅ジュースを作るために、一晩冷凍室で寝かせなければならないので、明日の話である。
   4歳の孫娘が、梅の実の収穫から、梅の準備や瓶に入れて砂糖やリカーを注ぐのまで、やりたいと言って手伝って(?)くれた。
   週末に、東京から長女夫妻が梅の実の収穫に来るので、その時、別な梅酒を作ろうと思う。
   今年は、ビワも沢山実を付けたのだが、孫娘が美味しいと言って食べてしまったので、今年は、ビワ酒を諦めた。
   

   わが庭、ガクアジサイが咲き続け、新しいビヨウヤナギが咲きだした。
   折角蕾が膨らんで咲きかけていたカサブランカ系のユリが、何本か病虫害にやられて、茎が途中で折れて、可哀想なことにしてしまった。
   先端の蕾ばかりに注意して薬剤散布していての失敗である。
   バラも黒星病の被害が一向に減らないのだが、これも、生き物、種の多様性の仲間として、考慮しないといけないのであろうか。
   そういえば、新型コロナウイルスも、種の多様性の中に入っているのであろうかと思うと、ついつい、コウノトリやトキなどにしか想いが至らないのが気になっている。
   
   
   
   
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広谷鏡子著「恋する文楽」

2020年06月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   文楽に恋をした女性作家の文楽雑感。
   語られている文楽に関する情報知識については、それ程差がないので、私が興味を持って読んだのは、女性ファンとしての感想なり考え方で、私などより遙かに好奇心や感性が豊かなので非常に興味深くて面白かった。

   第1章の「わが愛しの文楽」では、文楽に恋する切っ掛けとなった近松門左衛門の「女殺油地獄・豊島屋の段」から文楽の名舞台について書いている。
   まず、豊島屋の段の与兵衛とお吉の殺戮の地獄絵を観ていて、人形遣いが消え、大夫も三味線も消えた、初めての感覚を覚えて、これこそが、「三位一体」、語り、三味線、人形がまさしく一つになった瞬間なのだ。と悟ったと書いている。江戸時代の人々が創り上げ、守り育ててきた文楽という芸能が持つ凄まじいパワーにひれ伏したい気持ちだった。畏敬と言ってもいい。さらに、人知を超えた、いわば、”神”の存在すら感じた。と言う経験。
   私など、鑑賞眼がないのか、熱心さが足らないのか、25年以上は文楽に通っているのだが、あまり、熱狂することもなければ、こんな経験など逆立ちしても無理であろうと思うと、何を見ているのかと反省している。

   次の「伊賀越道中双六」では、政右衛門の妻でありながら、仇討ちの助太刀のための妨げになると離縁され、生まれた子供を見せたいばかりに遠い旅先まで追っていきながら、政右衛門に子供を串刺しにして殺され、殺された乳飲み子を抱きしめて慟哭する悲劇のヒロインお谷について、滅私奉公、忠義一途に突っ走る武士の悲しい性に泣く女性の運命に焦点を当てて書いていて、非常に身につまされる。
   劇評もそうだが、「岡崎の段」では、荒木又右衛門たる唐木政右衛門を遣う玉男の芸にばかり焦点が当てられて論じられるのだが、ストーリーとして考えてみると、理不尽というか、何故、この芝居が、現在好評を博するのか分からなくなるが、通し狂言は、「沼津の段」もそうだが、傍系の話の方が味があって面白いのが、浄瑠璃の良さでもあろうか。

   「生写朝顔話」の深雪の悲恋、「艶姿女舞衣・酒屋の段」の処女妻お園、「菅原伝授手習鑑・寺子屋の段」で主役は女だと言って語る殺された子供の首をかき抱いて慟哭する千代、
   文楽の凄さ素晴らしさを語りながら、ヒロイン像をビビッドに活写するのは、流石である。

   第2章 「文楽の男たち」は、文楽そのものが男の世界であるから、「黒衣の誘惑」から語り初めて、大夫、三味線、人形遣い、介錯などの世界を描写しながら、主遣いの「出遣い」、楽屋の様子、たった一度のリハーサル、二尺八寸の手摺りと船底、等々、文楽の裏話を開陳していて面白い。

   何故、三人遣いの人形が上手く動きを合わせられるのか、
   舞台の上で、手摺りの向こうの客席から見えないところで、男たちが体を触れあって繋がっていたとは。ひとつになって一体の人形を動かしていたとは。それも接点が「腰」だとは!
   男たちだけの芸能、しかも、共に舞台を創り上げる師弟、仲間は、肉体的、精神的に深いところまで関わり合っている。そこで生まれる芸が、人間の情感をよりリアルに表現できないはずがないではないか。
   ああ、いけない。こんなことを知ってしまったなんて・・・。
   ああ、もう文楽から離れられない。と言うのだが、何を考えているのか。
   とにかく、面白いのである。

   第3章は、「文楽追っかけ日記」
   第4章は 「文楽の新しい波」で、織太夫、清志郎、簔紫郎をレポート
   最後は、簔助が病気で「忠臣蔵」を休演の話

   そうだ、この本は、1999年9月出版、20年前の本であった。
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滅亡へのカウントダウン(下):人口を減らす以外にない

2020年06月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「滅亡へのカウントダウン」で、ワイズマンは、日本など色々な国を回って、人口爆発による人類の将来について膨大な調査をして、各国毎に興味深いレポートを書いている。
   結論から言うと、ワイズマンは、マルサス論者だと言えようか。

   もしも、人間が、このまま軌道修正しなければ、2100年の人口は、100億以上になるだろう。そのペースには、ほんの僅かでも力が加われば、更に数十億人増えるかも知れない。
   もしも人間がみずから手綱を締められなければ、自然は、最も基本的な世界最古の方法、兵糧攻めで、我々の野放図な成長を止める、すなわち、食料の減少で、ほんの短期間続いた緑の革命のような増加は望み得ない。
   人類は、現在の70億人を養うだけの糧を栽培することも、狩ることも、収穫することもできなくなるし、ましてやいずれ100億人に達すれば、全員を養えないのは自明である。
   食糧は平等に分け合いさえすればすべての人を養えると言う理論は、現在の世界では、食物の大半が、人々を食べさせるためではなく、金儲けのために生産されているのだから、絵空事に過ぎない。と言うのである。

  例えば水だが、今でさえ、可能ならどんな水源からでも必死に水を引こうとしており、21世紀に、人類は、地球規模で水の責め苦にさらされる。と説く。
  以前に、杉本元上海総領事が著書で、
  中国文明を支えてきた大動脈「黄河」が、断流現象を起こして、97年には、河口から華南省鄭州までの1千キロに及んで226日間断流して、その年、黄河に水が1日中海に流れ込んだのは僅か5日しかなかった。唐代以降森林破壊が続き、今では、上流に建設された3千百余りのダムで水を止め、水を乱用し、無駄に蒸発させて自然な還流システムが働かなくなってしまっていて、1億5千万の人口を要する流域で水の取り合いが深刻となり、三門峡ダムなど8つの発電所の稼働率は3分の1だ。とレポートしていた。
   この「黄河」について、ナショナル・ジオグラフィックが、
   「黄河崩壊 水危機が生む”環境難民”」と言う記事で、「黄河はチベット高原に源をもち、中国北部の大地と人々を潤し続けてきた。だがいま、目覚ましい経済成長の陰で、母なる大河が深刻な危機に陥っている。」とのサブタイトルに、何十年も前の日本のような黒い煤煙を吐き出す化学工場から汚水が、赤茶けて草木一本もない大地の小川に湯気をたてて排出され、黄河上流に流れて行く悲惨な光景を写し出していて、黄河の下流域には、水質汚染で、ガンの発生率が異常に高く”ガンの村”が沢山あると言う。黄河流域を大きくΠ型に蛇行して流れる河流の過半は汚染されていて、特に、韓城あたりからの下流域と、西安を流れる渭河など多くの支流や合流地点の河は大半過度に汚染されていて、農業、工業用水にも不適だと言う。中国の河川の70%は、汚染されていて飲用に供せないと言う記事を見たことがあるが、中国産の食品など、農薬漬けだけのみならず、水そのものが汚染しているのだから恐ろしい。
   ワイズマンは、同じことを、コロラド川が取水過多で断流で河口まで届かず、あのニューディールの象徴であった上流のミード湖の渇水でフーバーダムのタービンを覆えなくなる恐れさえ出てきたと述べており、また、アメリカの第3の都市ヒューストンの水の大部分は、殆どがダラスとフォートワースの廃水であるトリニティ川下流が取水口であるから、下水の水だとも言うから驚きである。

   2008年に、科学者たちがスエーデンで集まり、「人間はどうやったら存続して行けるのか」との問いに、「ネイチャー」誌に論文を発表した。
   地球に関する九つの限界を特定して、そこを越えると、世界は、人類にとって大異変となり得る位相変化の段階に入るというのである。
   九つの限界とは、気候変動、生物多様性の喪失、窒素とリンの地球規模の循環の乱れ、オゾンの減少、真水の消費、土地利用の変化、化学物質による汚染、大気中の微粒子である。
   既に、前の3項目は限界を超えていると言うことだが、いずれにしろ、それぞれの限界の背後にあるのは、同一の原因、人間の存在の蓄積、すなわち、人口過多であって、人間の数を減らす以外に解決法はないと言うことである。

   ワイズマンは、人類の将来について、地球温暖化など環境問題を切り口にして分析するのではなくて、人口の問題として捉えて、人口増が、いずれ限界にきて、宇宙船地球号が支えられなくなるので、その前に、人口増を抑制すべきであるという見解に立っているのだが、要するに、人間の活動の指数関数的な増大に触発され,そうした活動が生態系の安定を崩して、復元不能な環境変化を突然引き起こして崩しかねない、と言うことであり、問題は、自分たちが何をしているのかを、人々は気づきもしていないと言うことである。

   我々が自制して、自分の後釜として加わる人間の数を少なくすることで人口を減らせなければ、自然が、整理解雇通知の山を人々に渡すことになる。と言うのが、ワイズマンの結語であって、それが、自然の摂理であると言うことであろうか。
   新型コロナウイルス騒ぎも、傍若無人の人間の所業に対する自然の警告かも知れない。

   先にブックレビューしたスティーブン・ピンカーの「21世紀の啓蒙 」のように、人間は、いくら危機に直面して窮地に立っても、どんな難関も、科学技術の進歩、イノベーションで活路を開いて来たのであるから、前途に何の不安もないと言った能天気と思しき見解もあるのだが、今回のように、宇宙船地球号の能力の限界にまで達して、物理的に頭を打ってしまえば、宇宙に飛出す以外に道はないのではないかと思う。
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滅亡へのカウントダウン(下): 日本の場合

2020年06月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   NHKで放映していたが、日経の記事「19年の出生率1.36、12年ぶり低水準 少子化加速」を見て、積ん読のアラン ワイズマンの「滅亡へのカウントダウン(下): 人口大爆発とわれわれの未来 」を引っ張り出して、第13章の「縮小と繁栄――日本」を読んでみた。
   この本は、Countdown: Our Last, Best Hope for a Future on Earth?
   すなわち、人口の大爆発で、我々の未来は、大破局を迎えるという超弩級のマルサス論なのだが、日本の問題は、その逆の人口減少。
   少子高齢化は、日本の最大の課題だが、19年の1年間で、日本人の人口が51万人減った勘定で、このままだと、早晩、日本の人口は、1億人を切る。

   この人口減少で、最も日本にとって深刻な問題は、経済成長との関連である。
   経済成長の要因は、1)労働力(人口増加)、2)機械・工場などの資本ストック(蓄積)、3)技術進歩など労働・資本以外の要因による「全要素生産性(TFP)」だと考えられているので、当然、人口の減少は、労働力の低下を意味するので、少子高齢化は、日本経済の成長にとっては、極めて重要な役割を演じると同時に、人口減によって総需要をも減少させ成長の足を引っ張る。
   膨大な国家債務を抱えている日本においては、その解消には、ハイパーインフレーションの到来や、政府の徳政令の発令等々のドラスチックな悲劇を伴った手段などを避けるなら、経済成長を図って、税収を高めて債務を償却する以外に平和的な解決法は考えられないので、日本経済の成長にとっては、人口の減少は、死活問題なのである。

   ワイズマンは、冒頭、日本の介護ロボット開発を紹介しながら、経済成長と繁栄との関係について言及し、日本の成長なき繁栄について論じている。
   奈良県の山岳地帯で、渓谷を生かして在来農法で育てるワサビ職人や、長野県松本市の里山で自給自足する若い夫婦、豊岡市のコウノトリの繁殖とコメの価格が2倍になった話を紹介しながら、日本の人口減によって、自然資源と人間生活とのバランスシートが逆転して、自然資源が勢いを盛り返して、人々がより健全でさらに幸せな生活を送れるチャンスが来る。と結んでいるのだが、アイロニーと取るべきか・・・?

   ところで、日本の人口減について、論じているのだが、その説明は、日本人のセックスレスの話。
   シンガポールでは、「ナショナル・ナイト」と称して、この夜には、男性は「旗を揚げ」、夫婦は「シンガポールのためにとことん励むべし」と、テレビで愛国的夫婦生活を呼びかけたが、日本では、無理であろうという。
   毎年、赤ん坊のみならず結婚も減っており、結婚せずに子供を産むことがごくまれな文化故に、出生率は下がる一方だし、終身雇用が保障されなくなった所為で、雇用の安定がないために家庭を持つというリスクを負いたがらない人が増えている上に、政府の予測では、現在の若い女性の世代では、36%が子供を産まないと言う。
   興味深いのは、高輪のタワーマンションの住人たちの若い女性たちにインタビューして、究極の避妊法として、セックスをしないこと、そして、日本人はセックスしなくなっているし、自分たちもセックスには興味もないし、夫婦の愛を証明する方法でもない。と彼女たちに語らせている。
   2011年の日本政府の調査では、16歳から19歳までの日本人男性の36%がセックスに関心がないか、なんと「セックスを嫌悪している」という。のである。
   これほど、日本人がセックスレスだとは思えないし理解に苦しむのだが、何となく、ムードとしては分かるような気もしている。

   根本的な問題は、若い人々が、喜んで子供を育てて幸せを感じられる生活を送れるような環境を、日本社会が作りだせるかどうかだと思う。
   貧困率が、先進国でも最悪の状態であり、困窮する母子家庭が多くて、待機児童が存在するような極めて苦しい経済社会環境であって、若い人々が安心して働けないような状態では、子育ての負担が、生活を即直撃する。
   新型コロナウイルス騒ぎで、弱い日本国民を、更に、圧迫していて、今年の出生率など、想像以上に悪化するであろう。
   我々の時代には、1年に赤ちゃんは200万人ほど生まれていたと思うが、19年は87万人弱、
   その後、団塊の世代があってもっと出生数がふえたのだが、今昔の感である。

   最近は、GDPベースでは、経済成長が鈍化しているが、経済の成長は、ボリュームではなく、質の向上に体現されていて、その進化発展には、目を見張るものがある。
   金利が暴騰すれば、目も当てられなくなってしまうが、低金利に期待して、国家債務の解消は当分諦めて、成長のない繁栄とはどう言うことか、真剣に考えてみるのも、一つの日本の生きる道ではないかと思っている、
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わが庭・・・バラ:コルデス・ジュビリー、ビヨウヤナギ

2020年06月05日 | わが庭の歳時記
   バラは、2番花が咲くまでは、少し寂しい。
   遅れて、コルデス・ジュビリーが咲き出した。
   手入れが良いと、大きく育ってつるバラにもなるのだが、昨年の手抜きが災いして、今年は、残念ながら、貧者な状態で、秋咲きを期待することになる。
   アメジスト・バビロンが咲き続けていて、あおいが、2番花でスタンドバイ、
   梅雨時期に、もう一度咲かせて、休ませようと思っている。
   
   
   
     

   ビヨウヤナギが、一斉に咲き出した。
   白居易の「長恨歌」の、玄宗皇帝が未央宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩えて 未央柳の情景を詠んだ
   太液の芙蓉未央の柳此に対ひて如何にしてか涙垂れざらむ
   の一節になぞらえて、未央柳とも称すると言う。
   五弁の綺麗な黄色い花をバックに、線香花火のように長い雄蘂を四方八方に伸ばして華やかで良い。
   
   
   
   プランター植えのキュウリの黄色い花が咲いている。
   黄色は、中国では、皇帝の色だと言うことだが、確か、ロシアとフィンランドだと思うが、黄色い壁面の美しい建物を見た記憶があるが、独特の趣を持った色彩である。
   わが庭では、今、ガクアジサイが美しい。
   
   
   
   
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ニーアル ファーガソン著「スクエア・アンド・タワー(下)」 ソヴィエト帝国の崩壊

2020年06月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この下巻を読んでいて、すっかり忘れていたソ連の崩壊、もっと端的に表現すると、共産主義経済が崩壊するなどと思っても居なかった、と言う大きな誤解に思い至ったのである。
   米国と覇権を争って冷戦を演じていたソ連が崩壊したのは、1991年12月25日。
   当時、ロンドンに駐在していたので、欧米のメディアを通じて、この前後のソ連の断末魔の足掻きを具に見聞きして知っている。
   1993年にロンドンを離れたので、その前に、レニングラードに立ち寄ってエルタミージュ美術館に行きたかったのだが、治安が悪くて諦めて帰ってきて、やっと、21年後に実現した。

   さて、このファーガソンの本のテーマとは直接関係ないのだが、1960~70年代には、共産主義が最終的に資本主義に勝利するかも知れないと言うのが、ワシントンの一致した見解であったという指摘である。
   あのベストセラーで経済学を学ぶ学生は誰でもお世話になったはずのポール・サミュエルソンの「エコノミクス」の1961年版で、「ソ連経済は、1984年から1997年にかけてのどこかの時点でアメリカ経済を追い抜くであろう」と予測しており、1989年版でもまだ、「ソ連経済は、多くの懐疑派がこれまで抱いていた見解に反して、社会主義の計画経済が機能するだけではなく、成功さえしうる査証である。」と主張し続けていた。後に国家安全保障局がある報告書で認めたように、「どの公式評価書も、1989年のクーデターまで、共産主義が崩壊する可能性が高いということには、触れてさえ居なかった。」と言うのである。
   ファーガソンは、注意深い人なら誰でも、ソ連を訪問すれば、消費財は酷い品質で、慢性的に不足していて、時代遅れの工場では、窃盗やアルコール濫用常習的な欠勤が蔓延していて、計画経済に欠陥があることは一目瞭然で、どれほどのコンピューターの演算能力を持ってしても、根本的な欠陥を伴う制度を救うことはできなかったであろうと言う。
   確かに、ソ連経済の惨状については、イギリスにも徐々に入ってきていたのを思い出す。

   尤も、1980年代の日本経済の破竹の勢いの快進撃は、エズラ・ヴォーゲルのJapan as Number Oneに増幅されて、いずれアメリカを凌駕して世界を支配するのではないかという恐れを生み出したのだが、これも、昔語りで、30年以上も鳴かず飛ばずの悲しい現実。

   ソ連崩壊の頃、J.K. ガルブレイス と、ソ連屈指の知米派経済学者S. メンシコフ との対話本「資本主義、共産主義、そして共存 」が出版されたので、読もうと思って買ったのだが、読みそびれて忘れてしまい、改めて、ソ連経済の秘密を探ろうと思って倉庫の蔵書をかき回したのだが、残念ながら、見つけることが出来なかった。
   ダレン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソンの「国家はなぜ衰退するのか」についてレビューしたブログ「ソ連経済の成長失速」については、いまでも、結構読まれているのだが、
   結論は、「ソ連が、収奪的な経済制度のもとでも急速な経済成長を達成できたのは、ボリシェヴィキが、強力な中央集権国家を築き、それを利用して資源を工業に配分したから成長したのだが、この経済プロセスは、技術的変化を特徴としていなかったが故に長続きしなかった。」と言うことで、収奪的制度のもとでも、経済は成長するが、その成長はいずれすぐに終息して、経済は一気に沈滞してしまうと言うソ連のプロセスを説いている。

   今日のソ連経済については、このブログの「晩秋のロシア紀行」や、そのほか、機会を見て書いているのだが、石油と天然ガス依存の、単純経済を維持するだけで、産業の近代化工業化など経済構造の積極的な改革への動きは殆ど見られず、先年、ザンクトペテルブルグとモスクワを訪れたときにも、殆ど、近代的なビル建築の様相さえ感じられない都市景観にびっくりしたのである。
   軍事大国であり軍事技術や軍需産業の高度な水準、そして、広大な国土と膨大な天然資源の存在は、今でも、強国の風格であるだろうが、経済規模は日本の3分の1、中国の8分の1であるから、国境を開けば、中国経済圏に取り込まれてしまうほど脆弱である。
   同じBRICSの中国やインドなどの新興国のように、ICT革命とグローバリゼーションの潮流に乗って、欧米日等先進国の最先端かつ最高峰の科学技術や経営手法を縦横に取り込んで、経済成長を図って快進撃を遂げる急速な発展手法を、なぜ、何でも自由にできるはずの独裁者プーチンが取れないのか不思議である。
   プーチンが君臨している時代に、経済協力等、外交政策よろしきを得て、ロシアを日本経済圏に糾合することを考えてはどうかと書いたことがあるが、それも、日本が生きる一つの道であろうと思う。

   ところで、独自の経済路線を突っ走る中国だが、その将来は如何。
   時代も違うのだが、ソ連と違って、最先端の科学技術を駆使して、欧米先進国の自由市場経済と最新鋭の経営手法をフル活用して国家資本主義を突っ走る中国、
   一党独裁政治の蹉跌で頓挫するのか、国家資本主義が発展途上国のモデルとして歴史に定着するのか、興味のあるところである。
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ニーアル ファーガソン著「スクエア・アンド・タワー(下)」(ヒトラーとユダヤ人)

2020年06月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   下巻は、20世紀以降現在に至るまでの権力と革命の500年の後半である。
   20世紀初めからアメリカの同時多発テロの直前までで、20世紀の歴史に置ける興味深いトピックスが多いのだが、今回は、ヒトラーとユダヤのことについてだけ考えてみたい。
   
   ヒトラーとスターリンのとてもない筆舌に尽くしがたい史実については、多言を要しないのだが、ヒトラーの権力構造で興味を持ったのは、
   ヒトラーのドイツが、たんに、スターリンのソ連のような党のピラミッドだったと考えると間違いだという指摘である。
   スターリンが脅迫的なまでの統制を好んだのに対して、ヒトラーは、もっと混沌とした支配様式、すなわち、帝国政府の古い階層性が、党の新しい階層性や、その後は親衛隊保安部の更に新しい階層性と競合する「多党制の混沌」と呼ばれる体制を好んだという。
   この混沌の所為で、ライバル関係にある個人と機関が、それぞれ総統の要望と解釈したことを実行しようと競い合い、多義的な命令と重複する権限が「累積的な過激化」を招いた。
   そして、非効率と酷い腐敗と、「民族共同体」の外に位置すると目される集団すべて、特にユダヤ人に対してエスカレートする暴力とが混ざり合う結果となった。と言うのである。

   ものの本によると、ヒトラーの祖父がユダヤ人だという噂もある。ヒトラーの父親アロイスの母マリア・アンナ・シックルグルーバーは、グラーツ市のユダヤ人資産家フランケンベルガー家で家政婦として働き、その家の息子レオポルド・フランケンベルガーとの間に私生児アロイスを生んだのだというのである。
   ヒトラーの高官ヒムラーなどもユダヤの血を引くと言うし、ナチスには結構そんな人物がいたようだし、
   要するに、ワーグナーのような徹底したドイツ民族主義を標榜すれば良かったと言うことであろうか。
 
   ウォートン・スクール留学中に、学友であったユダヤ人のジェイ・メンデルスゾーンが、ふるさとの村へ私を呼んでくれて、過越(Passover、ペサハ (pesach) の儀式に招待してくれた。
   エジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事を記念する日で、チャールトン・ヘストンの「十戒」で、海が割れるシーンで有名である。
   一族の男性家族全員が食卓につき、聖書を輪読して、マッツァーやセーデル等の儀式的なメニューの食事をとって祝うのだが、何故か、ジェイは、異教徒の私も、その列に加えてくれたので、あの小さな帽子を被って席についてgood bookの輪読に加わって一節を英語であったので読んだ。ユダヤの特別な言葉で詰まったら、隣の子供がクスリと笑ったのを覚えている。
   ジェイの部屋に入ったとき、壁面に、モノクロの大きな木の絵が掛かっていたので、興味を持って近づいたら、家系樹とも言うべき絵で、びっしりと名前が書き込まれているのに気がついた。
   それぞれ、枝分かれしていて、ジェイは、これはロシア、これはフランス、これはイスラエル、・・・これはアメリカと言って、自分の名前を教えてくれた。
   真ん中あたりで、団子になってそこだけ真ん中が空白になっている部分があったので、これは何だと聞いたら、ドイツだと応えた。
   私も絶句して、それ以上聞けなくなったのだが、この時、初めて、ユダヤ人の結束の強さと悲しみを身に染みて感じた。
   
   フィラデルフィアでの、もう一つの強烈なユダヤに関する思い出は、フィラデルフィア管弦楽団の本拠地アカデミー・オブ・ミュージックでの、ムラビンスキー指揮のレニングラード・フィル演奏会のことである。
   あの当時は、ソ連が、在住のユダヤ人の専門家や医師など高度な技術や識見を持った人々のイスラエルへの出国を認めず出国ビザを発給しなかったので、在米のユダヤ人たちが激しく抗議活動を展開していた。
   演奏会当日、会場入り口で、ユダヤ人たちが抗議活動を行っていたが、会場に入ってみると、座席の真ん中から半分は、完全に空席で、誰も座っていないのを見て、その異様さにびっくりした。
   日本の様に、空席があれば、席を移動すると言った人が居ないので、右だったか左だったか忘れたが、半分の座席が空席のまま、最後まで演奏されて終わったのだが、アメリカでは、興行主の多くがユダヤ人なので、このようなことが出来るのであろう。
   あのカラヤンでさえ、ナチだったと言うことで、戦後長い間、アメリカから締め出されていたのだが、アメリカでは、ユダヤ人の力は強い。
   ヒトラーがワーグナーの楽劇に傾倒していたので、ユダヤ系の指揮者がワーグナーを演奏しなかった時期があったが、タブーが取れたのか、私は、ロイヤル・オペラでハイティンクの指揮するワーグナーのオペラの殆どを鑑賞したし、他の指揮者のワーグナーも聴いた。

   欧米が長いので、結構ユダヤの人たちとの交流もあって、興味深い経験もしているのだが、最近では、
   ユヴァル・ノア・ハラリの「21 Lessons 」や「サピエンス全史」「ホモ・デウス」を読んで、ユダヤ教やユダヤ人について、改めて知ることが沢山あって興味深かった。
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わが庭・・・アジサイ咲き始める、バラ:アブラハム・ダービー、ミダス・タッチ、アメジスト・バビロン

2020年06月01日 | わが庭の歳時記
   道路沿いのアジサイは、かなり、咲いているのだが、わが庭のアジサイの開花は、何時も少し遅くなる。
   まだ、ちらほら咲きなので寂しいが、梅雨に入る頃には、本格的に咲き乱れる。
   
   
   
   
   

   バラも、咲き続けている。
   千葉の庭からだから、もう10年以上も咲き続けているイングリッシュローズのアブラハム・ダービ―、
   
   

   アメジスト・バビロン、
   
   
   

   ミダス・タッチ、
   
   
   
   
   興味深いのは、台風で倒壊した板塀の修復で植え替えたレモンの木に、沢山の花を付けたこと。
   植え替えた後、根付きが悪かったのか、葉が随分落ちて心配していたのだが、どうにか落ち着いたと思ったら、今まで咲かなかった花が、一気に咲いたのである。
   植物は、何でもそうだが、病虫害や自然現象などで、危機に遭遇したり枯れかけたりすると、花を咲かせたり実を結ぶ。
   松など、松かさが沢山つくと危なくなるし、椿も、花芽が出る直前の今頃に水を切らせるて虐めるとと、花芽が良くつく。
   動物はどうかは知らないが、植物の自己防衛本能の発露であろう。
   
   
   
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