窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

第68回YMSを開催しました

2016年02月11日 | YMS情報


  2月10日、mass×mass関内フューチャーセンターにおいて、第68回YMS(ヨコハマ・マネージャーズ・セミナー)を開催しました。



  今回は、株式会社マインドシーズ 代表取締役 丹羽亮介様より、「人材育成の現状とあるべき姿」と題してお話いただきました。

  初めに、人材育成の現状と経緯について。まず現状の教育システムですが、わが国は中学までの義務教育を終えると、98.4%が高校へ進学、53.2%が大学(短大含む)へ進学します(平成25年時点)。就学を終えると社会人になるわけですが、社会人になると勉強しなくなる、あるいは勉強しても自分の仕事に関わる範囲に限定される傾向があるそうです。

  次に経緯ですが、教育を徳育、知育、体育に分類するとすると、体育は別として、江戸時代までは徳育に偏っており、明治以降は若干の修正はなされたものの知育に偏っている。その知育も戦前は「末は博士か大臣か」という言葉があったように、陸軍士官学校、海軍兵学校、師範学校などが高等教育の担い手であったのに対し、戦後は工業化社会に適合した教育に重きが置かれるようになりました。その傾向は基本的に現在まで変わっていないようです。

  即ち、大雑把に言って約150年前から徳育が教育システムから姿を消し、さらにその傾向に拍車がかかって70年が経過しました。18世紀にイギリスの歴史家エドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』の中で、偉大なローマ帝国が滅亡した原因をローマ人の道徳の衰退、精神性の衰退にあると看破したように、道徳は文化の根幹を成すものです。徳育が行われなくなることによって、道徳が時間の経過と共に衰微していくというのは、我々も日常生活の中で多かれ少なかれ実感しているところでしょう。

  とはいうものの、ある文化の中で共有されている道徳は、そう易々と消滅するものではないようで、それと意識せずとも人々の中に存在し思考や行動を規定し続けています。昨今、不倫の発覚した芸能人や覚醒剤使用で逮捕された元スポーツ選手が非難を浴びていますが、非難されるのはそうした行いがその文化の中で共有されている道徳に悖るからでしょう。

  しかし、それでも徳育が行われなければ道徳が衰退していくことは間違いないわけで、そのことが組織の人材育成においても既に大きな問題となって現れています。例えば、上役が若手社員にある道徳上の誤りを咎めたとして、若手社員の方にその道徳が欠落している、あるいはまだ身に着いていないため、何故咎められるのかが分からない。一方の上役の方もその道徳を無意識に体得して当然視していたために、何故誤りなのかが言語化できないといった具合です。いみじくも、今回のセミナーで行われたディスカッションの中である技術系の経営者の方が言っていました、「技術より人間性が仕事では大事だ。だが、それをどう教えていいかが分からない」と。

  さて、道徳はあらゆる文化に共通する点もありますが、多くはその文化の歴史と共に独自形成され共有されていきます。それではわが国の道徳や精神性の基礎にあるものとは何なのでしょうか?丹羽先生によれば、それは神道・仏教・儒教だということです。

神道:明・清・静を尊ぶ精神
仏教:因果・因縁・恩の概念
儒教:修己治人の思想

  これらが相俟って日本人の道徳や精神性を形成してきたと考ると、今回のテーマである「人材育成」は、最後の「儒教」の部分が大きな要素を占めていると言えます。そこで、以降は儒教を主とする東洋思想の考え方からお話が展開していきました。

  さて、徳育の「徳」とは「人を人たらしめている要素」と置き換えることができますが、儒教では徳を「仁・義・礼・智・信」の五つに分類しています。それぞれ難しい概念ですが、ここでは、

仁:愛
義:全体に対する部分のあるべき姿、理想の姿
礼:全体と部分の調和
智:理性
信:期待される役割を果たす力

と理解します。これらの要素を備えた人こそ、日本では無意識に「人物である」と見なされているのです。丹羽先生によれば、これら五徳のうち現在の日本で最も欠けてしまっているのは「義」なのだそうです。「人材を育成したいがどのような人材にしたいのかが分からない」、「社会に対する自社のミッションが描けない」といった問題が随所で起こっているのも、「義」の欠落に起因しているのでしょう。

  最後に、人材育成の要点と方法について。まず第一に「修身」が基本であるということです。「修己治人(己を修め、人を治める)の学」と言われる儒教では、「修身→斉家→治国→平天下」という順序を定めており、周囲よりまずわが身を正すことを重視しています。修身はさらに「己の認識を正すこと(格物・致知)」と「己の行いを正すこと(誠意・正心)」に分けられますが、何を基準に認識や行動を正すかといえば、それは先ほどの五徳(あるいは五徳の事例である聖賢の教え)になります。中でも前述の話に照らせば、その過程で「義」を抽出し共有する必要が特に現代ではあるでしょう。

  「修身」とはまた、「偏りなく公平に人と接すること」でもあります。よく好悪感情が対人認知に歪みをもたらす例として、ハロー効果(一部の印象が全体の印象を規定すること)などが指摘されていますが、「修身」とはそうした認知の歪みを極力失くすためにその原因である自分を見詰め続ける(慎独)行為だとも言えます。

  次に、人材育成の留意点について。ここでは「結縁(けちえん)」、「任用」、「賞禄の別」の三点が挙げられていました。

  「結縁」とは「常に問いを持つこと」。心理学にカラーバス効果と呼ばれるものがあります。意識していることほど関係する情報が自分のところに舞い込んでくるようになるという効果で、これは無意識に脳がその情報を検索するからだと言われています。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を思いついたのではなく、万有引力の概念について問いを持ち続けていたから、リンゴが落ちるのが目に入ったというわけです。同様に、人の能力を覚醒させる契機は適切な人や書物との出会いにあります。その適切な出会いをもたらすために大切なのが本人の中に「問いを持ち続けること」だということです。

  「任用」とは「任せて用いる」こと。立案から実行までを任せるという意味で「使用」とは異なります。

  「賞禄の別」とは、「仕事の実務能力と人の上に立てる能力とは別であり、これを明確に分けなければならない」ということです。

  第三に、人物評定法として「五観」が紹介されました。これは中国の戦国時代、魏の名相李克(李悝)が人を観察する要点として挙げたものだそうです。

・居ればすなわちその親しむ所を観る…平素どういう人物と親しいかを観る。
・富めばすなわちその養う所を観る…金があるならばどう使うかを観る。
・達すればすなわちその挙ぐる所を観る…出世した後、どういう人物を登用するかを観る。
・窮すればすなわちその為さざる所を観る…人は窮すると何でもしてしまうが、何をしないかを観る。
・貧すればすればその取らざる所を観る…貧乏しても節度を保っているかを観る。



  古典は短い表現の中に深い意味が凝縮されているので、考えれば考えるほど思考が広がってしまいます。ゆえに興味が尽きないのですが、逆にこうして要約するとなると実に難しいものだと思いました。

  次回、第69回YMSは3月9日(水)開催予定です。

過去のセミナーレポートはこちら。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第67回YMSを開催しました | トップ | 新山そば-沖縄そば(沖縄県... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

YMS情報」カテゴリの最新記事