窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

マグロ船に教わった、組織活性術

2014年10月11日 | 心に残った出会い


  10月10日、株式会社ネクストスタンダード代表取締役社長、齊藤正明さんの講演を拝聴する機会がありました。「日本一のマグロ船に教わった!組織を元気にする仕事術」というテーマでしたが、ご本人は元々漁師ではなく、水産物の鮮度保持剤を研究する技術者だったそうです。それが仕事の関係で、当時日本一の売上げを誇ったマグロ船へ乗船することとなり、そこで苛酷な環境の中で組織のモチベーションを保ち、部下の能力を伸ばしていく仕事術を目の当たりにしたということでした。

  マグロ船というのは、一度出港すると40日~50日はずっと海の上。否が応でも全長わずか20mと電車一両分程度の船に9名の乗組員が一緒に過ごさなければなりません。しかも、全長150kmもある延縄を海に流し、マグロを釣る、一日12時間にも及ぶ重労働が20日間連続で続くそうです。しかも、決して高いとは言えない報酬の中で、船長はどうやって漁師たちのモチベーションを保ち、チームワークを保っているのか?

  齊藤さんが船長から教わったという様々な事柄の中で、最初に印象に残ったことがありました。それは、朝起きてから今までに良かったと思えることを10秒間でいくつ思いつくことができるか、というものです。これが5個以下だと、船長いわく「釣り上げられてから初めて身に起きた不幸に気づくマグロと同じ」なのだそうです。即ち、日頃から当たり前のことにどれだけ有難味を感じ、感謝できるかということ。海に不慣れな齊藤さんは43日の航海中、実に40日間船酔いに苦しめられたそうですが、船長から「それだけ苦しい思いをすれば、上陸した時、地面が動かないということだけで感謝できるようになる」と言われたそうです。因みに、僕はこの時ひとつも思いつくことができませんでした。



  心に残ったことの二つ目。組織には多かれ少なかれ仕事のできる人もいれば、できない人もいると思います。しかし、船長いわく「たった9人でやらなければならない過酷なマグロ漁。海の上に出たら、どんなに未熟な者でも何かの役に立つようにしなければできない。」ということでした。そのために、一人ひとりのできることに目を向け、自信をつけさせてあげることが大切なのだそうです。例えば、まだ体ができていない若手に対しては、「力仕事に不向き」から「身軽な作業に向いているのではないか?」と発想を転換し、本人に居場所を見出してあげるのだそうです。当たり前のようでなかなかできないことだと感心しました。

  三つ目は、乗組員の立場からのお話。前述の通り、マグロ漁は危険かつ重労働にも関わらず、その報酬は決して高いとはいえないそうです。普通の会社務めの方が割に合うはずなのに、若手の乗組員はなぜあえてマグロ船に乗り、自発的に動いているのか?その問いに対する若手乗組員の答えは、「船長のような人間になりたいから」というものだったそうです。即ち、船長自身が若手乗組員たちにとって手の届く目標、憧れになっている。船長の仕事とは、①周りを元気にし、②能力を伸ばしてやり、③結果として売上を上げることだということです。

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安田祐輔さん②-NPO法人キズキ

2012年04月10日 | 心に残った出会い
  大学では紛争解決などに携わるインカレ団体に所属。20歳にして、激しい民族対立を繰り返す、イスラエル人とパレスチナ人の若者を来日させ、会議を開催するという事業を資金集めから奔走し、実現させました。この時、会議そのものより、当初は決して分かり合おうとしなかった両民族の若者が、1ヵ月後、帰国の途に着く成田空港で、お互い涙を流しながら惜別する姿を見て、自分が課題と思ったことについて小さなことからでも状況は変えられるということの学びが大きかったそうです。これが現在の安田氏の活動の原点になっているとのことでした。

  学生時代の活動の中で、やがてサンフランシスコなどにも講演に呼ばれるまでになりますが、ある九州大学での講演でルーマニアに誘われ、三年生の時、同国で平和活動をする若者のワークキャンプの運営を任されます。しかし、現地を知らず、抽象論で平和を語る彼らの姿に違和感を覚え、帰国。

  三年生の秋頃から、バングラディッシュへ頻繁に行くようになります。そこでは現地を知るため、娼婦街で農村から身売りされてきた娘たちと共に生活し、やがて完全に理解することはできなくとも、半分くらいは彼女達の視点で物を考えられるようになったといいます。

  彼らの貧困問題は、衛生・医療・教育など多々あるものの、決して餓死するという類の貧困ではありませんでした。貧しくても、幸せそうに生きている人々が沢山いる。一方で、イスラム教国における極貧の農村にいるよりは、はるかに所得もあり、自由も保障されているはずの娼婦達の中に、リストカットを何度も繰り返す者がいる。そこで、人はどんなに貧しくても、お金や暮らし向きによってではなく、尊厳や生きる意味によって生きているのだ、それを守る仕事がしたいと肌身で感じるようになったそうです。

  帰国後、大手商社に入社しますが、何が自分のやるべきことなのか迷い、半年で休職。しかし、その時間が自分のやりたいことについてじっくりと考える期間となり、忘れていた10代の頃の経験が蘇ってきたそうです。「尊厳や生きる意味を見失い苦しんでいるのは途上国でも、日本でも同じ。ならば、まず母国である日本で活動を始めた方ができることも多い。自分の経験から、「受験」を通じて、苦しむ子供達に自己肯定感を取り戻してもらうことができるのではないか?」と。

  2010年、NPO法人キズキを設立。まず実績作りから開始します。当初は梨の礫でしたが、半年後ぐらいから問い合わせが増え始め、現在では受け入れ体制が課題となっているそうです。お伺いしたこの日もまさにそうでした。



  家庭と学校だけ、あるいは家庭の中だけしか居場所のない、様々な事情を抱えた子供達が、キズキという新たな人との接点の場を持つことができる。それだけで、大きな前進といるでしょう。安田さんが入塾面接で心がけているのは、面接に訪れた子供達を「いかに安心させるか」ということ。面接を通じて、誰とも話すことのできなかった子供が口を開くようになったり、虐待を受け傷ついた子供が面接終了時には「一緒に写真を撮ってほしい」と言い出すまでになったりする。子供達が大学に合格し、自己肯定感を取り戻す切欠としてくれるのはもちろんのこと、こうした事が安田さんの遣り甲斐となっているそうです。

  これからの展望としては、もっと多くの子供達に「人生は失敗しても何度でもやり直せる」ということを知ってもらいたい、たとえ根拠はなくとも「何とかなる」と思える強さを育んで生きたいということでした。

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安田祐輔さん①-NPO法人キズキ

2012年04月09日 | 心に残った出会い


  「急遽、授業がフルで入ってしまって…」

  春うららかな巣鴨地蔵通り商店街。お訪ねした教室のドアを潜った瞬間、その雰囲気が一変しました。新学期早々、桜の開花も間もない4月6日、不登校・中退・引きこもりなどで学校へ行けなくなってしまった子供達ために、再学習支援を行っている、NPO法人キズキの安田祐輔さんのお話を拝聴する機会がありました。<お忙しい中、本当にありがとうございました>

  それからおよそ2時間、安田さんのNPO法人キズキ設立に至るまでの経緯から、現在までのお話を伺いましたが、お話を伺うというより、こちらがエネルギーを充電させていただいているような感覚を覚えました。お話の中で僕なりに要点をまとめますと、

1.人は小さなところからでも影響を及ぼすことができること
2.抽象論で理想を語るのではなく、現場に寄り添うこと
3.何人も尊厳によって生きる存在であること
4.問題を抱えた相手の解決を図るのではなく、まず安心が大切であること

以上の4点になりますが、これらについて順を追って述べさせていただきたいと思います。

  安田さんは1983年、横浜生まれ。ちょうど僕とは10歳違いますが、一時同じ町に住んでいたという不思議なご縁がありました。小学校時代、家族は様々な問題で崩壊状態であり、安田さんは帰宅してもいつも一人という孤独な時間を過ごされたていたそうです。

  そんな家から出るため、安田さんは千葉県にある全寮制の中学に特待生として入学します。お話全般を通じ、安田さんには自らの境遇を自ら打開しようという意思の強さを感じましたが、わずか12歳にしてこの決断は驚かされます。しかし、特待生であるがゆえ、進学実績を過剰に期待する学校の姿勢と同級生によるいじめ等もあり、中学二年生で退学。

  横浜に戻るものの、再婚した父親の家には馴染めず、預けられた祖父母の家でも、世代間ギャップの問題もあり、中学三年生の頃には地元の暴走族に入っていました。後になって、そうした不良仲間もそれぞれ不幸な境遇を抱えていたことを知ったそうです。

  18歳の時、環境に人生を決められることへの悔しさ、自分は何がしたいのかという疑問から、一流大学に入れば今の環境から抜け出すことができるのではないかと一念発起し、2年間、ゼロからの猛勉強の末にICU(国際基督教大学)に進学。当時、アフガン戦争の米軍による空爆で子供達が苦しむ状況を知り、そうした環境を変えるため、将来は国連のような機関で働きたいと漠然と思っていたそうです。

<つづく>


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山崎亮さん-コミュニティ・デザイン

2012年03月24日 | 心に残った出会い
  3月23日、コミュニティ・デザイナー、山崎亮さんのお話を拝聴する機会がありました。

  山崎さんは、地域の課題を住民参加型で解決するためのコミュニティ・デザインに携わっておられ、まちづくりワークショップ、住民参加型総合計画作り、建築および景観デザイン、パーク・マネジメント等、数多くのプロジェクトを手掛けておられます。今回の演題もずばり「コミュニティ・デザイン」でした。

  ここでいうコミュニティ・デザインとは、簡単に言うと、地縁型コミュニティが衰退し、高齢化、過疎化など様々な問題が叫ばれて久しい現代社会にあって、地域住民のみならず、地域外からの人たちをも引き付ける、魅力ある地域づくり、すなわちテーマ型コミュニティのデザインのことです。

  「魅力ある地域づくり」というと、何か行政の仕事のようなイメージがありますが、山崎さんの特徴は、そこに必ず住民参加があることにあります。お話によると、その原点は1995年の阪神淡路大震災にあり、川沿い避難した被災者の住民達が、家も町も失った中で自生的に協力し合い、コミュニティを再形成している姿にあったそうです。僕と同じ1973年生まれなので、その頃はちょうど翌年(僕の場合はそうではありませんでしたが)には社会に出るという時期。建築デザインを専攻されていた山崎さんは、その時、ただ斬新なだけでなく、社会が抱える課題に対して共感できる形で解決策を提供するという、デザイン本来のあり方を追求し、徐々にコミュニティ・デザインに関わるようになっていたのだそうです。

  住民参加型ということで、ご講演の中でまず例に挙げられていたのが、閉店後の商店街にどこからともなく現れる「大阪のおばちゃん」。そのおばちゃんの周りに、地域のお年寄りや体の不自由な方たちが集い、コミュニティを形成する。しかもそのおばちゃんは毎日必ず周辺を清掃してから帰るそうです。そうした、誰に言われるでもない、素人による自生的な空間活用能力を考えた時、本当に何から何までを行政が用意する必要があるのでしょうか?逆に行政が用意してくれなければ本当にコミュニティの再生はできないのでしょうか?これが山崎さんのコミュニティ・デザインの特徴である住民参加型の元型としてあるのではないかと思います。

  それは必ずしも地縁型コミュニティを否定するものではありません。長い伝統や文化を保持している地域であれば、それを再発見することによってアイデンティティやコミュニティを再構築することも方法でしょう。しかし、そうした過去の遺産が断絶して久しい地域、あるいは新興住宅地など、新たに開発された地域で、住民のコミュニティ意識が醸成されていないような地域では、別のアプローチも必要になります。それがテーマ型コミュニティと言えるでしょう。

  テーマ型コミュニティの事例として最初に挙げられたのが、兵庫県にある有馬富士公園です。ここは元々典型的な行政によるいわゆるハコモノで、山奥に作った公園にいかに来場してもらえるかが課題でした。山崎さんが発想したのは、お客が集まる=ディズニー・ランドということ。そこでディズニー・ランドのスタイルを分析してみると、そこには管理者であるオリエンタル・ランドとゲストとの間にキャストが介在し、お客さんにディズニーの魅力を伝えています。しかし、県立の有馬富士公園では、そのために予算を割いてキャストを集めることができません。そこで、代わりに地域住民の力を活用するというわけです。

  地域には、普段から趣味や高い志を持ってさまざまな活動をしている人たちが沢山います。しかし、彼らにもそれを広く伝える場がなかったり、あるいは自分だけの世界に留まっていたりという課題があります。これを有馬富士公園という「場」を提供することで、双方の課題を解決すると共に、人が集うことによる、公園を媒介とした人のつながりを創出することができます。

  実際、道作り、水生物ウォッチング、たこあげ、天体観測など、声をかけた50団体のうち20団体が公園に集い、それぞれ活動を行っています。さまざまなイベントの内容や予定は、公園のホームページから見ることができます。さらに、それぞれの団体がそれぞれのファンを持つようになった結果、2001年の年間集客数41万人(これでも十分凄いと思いますが)が2005年には75万人になったということです。

  次に、有馬富士公園の手法をデパートという多層空間に応用したのが、鹿児島のマルヤガーデンズです。ここでは、各フロアにコミュニティ作りのためのスペースを設け、やはり声をかけた50団体のうち40団体が日替わりで集い、さまざまな活動を行っています。例えば、オーガニック・ファションを発信していた団体と隣接する店舗がつながり、そこでの新ブランドに発展したという例も挙げられていました。僕もちょうど一年前、とある研修で同じように郊外沿線型ショッピング・モールのスペースを活用したコミュニティづくりのアイデアでプレゼンしたことがありますが、単純な思いつきと、実際にそれを行うのとでは雲泥の差があります。「言うは易し、行うは難し」です。

  コミュニティ・デザインで山崎さんが目指しておられるのは、「公共的な事業の住民参加を通じて、「担い手」を育成する」ことだそうです。さまざまな人の交流を通じ、それぞれの能力が高まることで、シナジー効果が生まれます。そうすることによって、本当の地域の活力が生まれるのだと思います。そのためには、小さなコミュニティを集め、さらにそれらを相互作用させていくコーディネートが重要だそうです。

  そこでのキーワードは「ゆるいつながり」。いつ抜けても構わないコミュニティだからこそ、普通打ち明けられない悩みやアイデアも相談できたり、逆につながりが強まるという逆説があるのです。こうした気軽に相談できる場の創造は、うつ病が原因で年間3万人もの自殺者を出している(イラク戦争とその後数年の米兵の戦死者数でさえ、2万人に達しません)、明らかに異常な社会に対する有効な解決策となりそうな気がします。

コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる
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K君の合格祝い

2011年11月24日 | 心に残った出会い


  2011年11月23日、8月に受講した、とあるセミナーで一緒になった高校生のK君から無事第一志望の大学に合格したとのお知らせをいただき、数人のセミナー仲間と共に彼の合格祝いをしました。ジュースはおろか、烏龍茶さえ飲まない真面目なK君です。われわれ大人は遠慮なくビールでしたが...

  縁あってセミナーの2日間を彼と一緒にすごしたのですが、K君の人となりには大いに感心させられました。今回はそのことについて少しお話させていただきたいと思います。

  全国屈指の柔道強豪校に通うK君は、当然高校日本一を目指す柔道部の一員として、高いレベルで柔道に打ち込んできたのですが、高校2年生の時、つまり1年前、突如病気のために柔道を諦めなければならなくなったのだそうです。

  それまで柔道に人生を賭けてきたK君が弱冠17歳で直面した挫折の大きさは想像するに余りあります。普通であればそこで腐ってしまっても不思議はないのですが、彼は恩師の勧めもあり、自分が柔道をできない分、裏方として同期の仲間達が全国制覇を目指す手助けをしたいと考え、高校最後の柔道生活を庶務として全うすることを選択したのだそうです。

  仲間を裏から支える過程で、K君は将来も人を支える仕事がしたいと考えるようになり、看護師になることを決意しました。8月のセミナーで初めてお会いした時、彼は看護師になるという夢を叶えるため、湘南台にある大学の看護学部を目指して勉強しているのだと話してくれました。そして、高校生にとって決して安くはないセミナーも自分で見つけ、自費で参加。その理由は、若くしてざまざまな年齢層、ざまざまな性格の人たちと接しなければならない看護師という仕事の性質上、より人のためになる看護師となるために、少しでも対人スキルを磨いておきたいからというものでした。

  とはいえ、高校3年生の8月です。やはり普通であれば、大学受験の忙しい時期でなくても、大学に入ってから受講すればいいのではないかと思うところです。しかし、彼にとって大学は目指すものではなく、看護師になるために入るべきものであり、全ては看護師になるために自分が必要と考えるものを実行に移しているだけなのでした。僕が大学に入った年に生まれ、20歳も年の離れたK君ですが、これには恐れ入りました。僕の手元には、僕がちょうど彼と同じ位の歳だった頃の日記が今でも残っているのですが、翻って僕の何と幼稚だったことでしょう!

  セミナーでは、パートナーと1年後再会したという設定で、1年後の近況について紹介しあうというワークがありました。そこでK君は僕に第一志望の大学に合格し、学生として生活している姿を明確に描いて見せました。それから3ヶ月、K君から「大学に合格しました」という連絡が来たのです。

  一点の曇りなく、自分を信じきる心。将来に対する明確なビジョン。きっと誰からも可愛がられるであろう、屈託のない笑顔の奥にある、一流の場で磨かれた意志の強さ。挫折と正面から向き合うことで培われた人生哲学。本当に彼からは学ぶべきものばかりの2日間でした。繰り返しになりますが、本当に自分は彼より20年も長く生きてきたのかと思います。

  K君、心からおめでとう。そして、これからもよろしく。

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上野隆博さん

2011年11月13日 | 心に残った出会い
  2011年11月11日、ニューヨークを中心に世界で活躍するダンサー、演出家である上野隆博さんのダンスパフォーマンスとお話を拝聴する機会がありました。

Showtime at the APOLLO TAKAHIRO DANCE


  僕はダンスのことは全く分かりませんが、素人目に見ても観客の度肝を抜く、素晴らしいパフォーマンスでした。胸骨や肩甲骨周りの驚くべき柔軟な動きもさることながら、全身を躍動させつつ、それでいて体軸はまるで宇宙から地球の中心に向かって一本の線が通っているのではないかと思われるほど、真っ直ぐにキープされています。シアトルマリナーズのイチロー選手のバッティングや、中国拳法の一派である太気拳の動きに似たものを感じました。もし、上野さんが空手か剣術をされていたら、恐らく相手は打っても上野さんがいない、あるいは気づかないうちに間合いに入られているというようなことになるでしょう。



  さて、ご講演ではダンサーになったきっかけから、世界の第一線で活躍するようになるまでの経緯、そしてこれからの展望についてお話いただきました。全く知らない分野のことでも、本物のお話は、聴く者の魂を揺さぶります。本当に時間を経つのを忘れるほど、のめり込んでしまいました。以下では、自分なりにまとめたメモを頼りに、ご講演の内容についてご紹介したいと思います。

1.ダンスを始めたきっかけと渡米まで

  上野さんは1981年生まれ。ダンスを始められたのは18歳と意外にも遅く、その動機は学校でも目立たない存在であるというコンプレックスの克服と、自分の力で何かを創造したいという強い思いにあったそうです。その結果、選択したのがたまたま当時「格好いい」と思ったダンスだったとのこと。大学在学中の4年間はダンスにあけくれ、自分なりにオリジナルのスタイルを確立していました。大学卒業を迎え、周囲のダンス仲間が次々と就職を選択していく中、上野さんは打ち込んだダンスを何の結果を残すこともなく手放すことに抵抗を感じ、ダンスの本場であるアメリカへ渡ることを決意されました。

2.アメリカの壁から学んだこと

  2004年、ニューヨークに渡られた上野さんは、マイケル・ジャクソンやジェームス・ブラウンを生んだエンターテイメントの殿堂、アポロシアターのオーディションに挑戦します。1,000人中、合格できるのは300人程度、しかも本場の黒人達に混じり、唯一言葉も文化も違うアジア人としての挑戦でした。自分のオリジナリティにはある程度自信をもたれていた上野さんでしたが、初めて受けたオーディションの結果は惨めなもので、4人いた審査委任のうち3人から「君のダンスはHIPHOPではない」と酷評されたそうです。ただ一人の審査員だけが「HIPHOPではないかもしれないが、彼のダンスは面白い」と評価してくれ、ギリギリの選出であったようです。

  しかし、この結果を「3人の審査員から否定された」ととらず、「少なくとも1人の審査員は分かってくれた」と受け止めたところが、上野さんの常人ならざるところ。本場で壁に突き当たり学んだことは、「自分のダンスは自分の思いを伝えようとするばかりで、相手を見ていなかった」ということでした。そのことを悟った上野さんは、ニューヨークのハーレムに居を移し、彼らのHIPHOPを吸収しようと努力されました。しかし、それでも自分は彼らと同じにはなれないということに気づいたそうです。

3.エンターテイメントは心のやりとり

  黒人ダンサーの真似をしたところで、所詮それは真似に過ぎません。かといって、オリジナルだけでも駄目。上野さんが導き出した結論は、「同じにはなれないかもしれないが、共通項はあるはず。大切なのは、どうすれば相手に想いを伝えられるか、オリジナルを受け入れてもらうことができるか。それには表面的なテクニックだけでなく、相手の心理面も考慮しなければならない」ということでした。

  具体的には、テクニックを見せるだけでなく、相手の心をつかむ仕掛けをパフォーマンスの中に織り込んでいくということです。例えば、冒頭の動画の例でご説明します。まず前提としてあるのは、アポロシアターにおいて上野さんは知名度の低い日本人、要するに「よそ者」であるということです。冒頭、日本人らしく空手のような動きから入ります(かつてシンクロナイズドスイミングでもイントロを平安二段という空手の型から入ったパターンがありました)。しかし、今時オリエンタリズムだけでウケるほど甘くはありません。そこで、最初は観客の好きなHIPHOPの曲を使い、かつムーンウォークなど、観客が慣れ親しんだダンスで一体感を演出します。それでいながら、ムーンウォークも多少アレンジして退屈させないようになっています。そして徐々にオリジナルの要素を増やし、自分らしさ、日本人らしさをアピールしていきます。

  やがて、スーパー・マリオ・ブラザーズの曲になりますが、これにも意味があります。ニンテンドーは彼らにとっても馴染みのあるもの。しかしそれは、日本のオリジナルであり、あくまで日本のイニシアチブによってアメリカ人と共有できるものであるということを示しているのです。

  マリオによって観客を自分のペースに巻き込む。そうした下地を作った上で、最後は自分の好きなように演技し、ラストを一礼で終わります。礼で終えたことの意味は、もうお気づきと思いますが、日本人であるということが第一、それに礼を入れることによって、観客が拍手し盛り上がる余韻の間を入れるという意図がありました。この「間」の呼吸というのも日本人らしいところでありますが…

  以上のように、オリジナリティに磨きをかけつつ、観客に阿ね、同化しようというのではなく、異質であることを受け入れてもらう工夫をすること、相手にいかに喜んでもらうかというエンターテイメントの原点に立ち返ることによって、上野さんは2005年、「Showtime at the APOLLO」で1位を獲得、その後9週連続1位という金字塔を打ち立てました。

4.当たり前を当たり前にはできないほど徹底する

  アポロシアターで実績をつくり、上野さんはプロ・ダンサーとしての道を歩み始めますが、ここでまた壁にぶつかります。それは英語がまだ十分には話せなかったこともありますが、ダンスが我流であったため、個人の枠を超えて活動するようになった時、オリジナルだけでは通用しなかったためです。そこで上野さんは、3年間、バレエやダンスを基礎から学び直しました。日本では能の世界の言葉に「守・破・離」というものがありますが、同じように真にオリジナルを輝かせるには、やはり強固な基礎を持っていなければならないということなのでしょう。

  そうした困難の克服を経て、2009年、上野さんはマドンナのバックダンサーとして世界ツアーに参加します。上野さんがマドンナから学んだことは、「ベスト・パフォーマンス=ベスト・リハーサル」、つまり完璧な結果を残すために、当たり前と思える準備を誰にもできないほど徹底してやり抜くということだそうです。そして、世界に活躍の場が広がれば広がるほど、自分が日本人であることを意識し、周囲とは違う存在であることを意識せざるを得なかったといいます。これはイチロー選手も同じ事をいっていました。しかし、違うことを意識するからこそ、日本人として、また一個人としてのアイデンティティにこだわり、それを受け入れてもらえるように努力ができる。また、違うことを認識するというは、それゆえに相手に対する敬意も払えるということでもあります。

5.これからの夢

  強烈な個性で世界と対峙し、Newsweek誌で「世界が尊敬する日本人」にも選ばれた上野さんですが、30歳を迎えられた今、ダンスを通じてさらに世界を広げて行きたい、そしてやがては後に続く後輩達が自分を超えていけるよう、常に退路を絶って先鞭をつけて行きたいとおっしゃっていました。経済産業省の「Cool Japan Project」にも参加されている上野さんですが、こちらから日本のエンターテイメントやアイデンティティを発信するだけでなく、世界の目をこちらに向けさせたいと夢を語っておられました。

  ご講演が終わり、魂を揺さぶられた聴衆の拍手は感動の波動となって会場を包み込んだように感じました。終了後、皆さんが「会場が暑い」と口々に言っておられましたが、この高揚感がその原因だったのではないかと思います。

  翻って、日々の生活の中で、自分が自分であることにどこまで徹底できているでしょうか?

  「もっとやれるはずである」、そう決意を新たにした次第です。

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仲里一郎さん②

2011年02月27日 | 心に残った出会い
2.理念の実践

  さて、一度挫折を味わった野菜販売ですが、「死に物狂いの営業経験、そこで培った販売の勘、人脈がその後に生きた」と先生はおっしゃっています。前述の2度の出向経験により幅広い発想ができるようになり、「仕事は枠組みを取り払いチームで行うもの(これを先生は「ビジネスインテグレーション」と呼んでおられます)」、そして「誰もが得をするのが事業本来の姿である」という想いを強くされたそうです。それが株式会社大喜コーポレーションの根幹をなす理念として結実していくこととなりました。しかし、「大喜」の社名に現れているとおり、何よりも先生ご本人が持っておられる人への想い、人への愛情、がそれを可能にしたのだと僕は思います。

  やがて中央卸売市場の横浜丸中青果株式会社さんより業務用野菜拡販のお仕事をいただけるようになった時、「横浜は西洋野菜はじめ、いろいろな物の発祥地であるにも関わらず、その食にまつわるドラマを活かしきれていない」と感じた先生は、またしても「野菜だけでは面白くない、横浜の物を横浜に売ろう」と発想されました。一例を挙げますと、得意先に、株式会社横浜ビールさんがあり、そこに野菜だけでなくシウマイも卸すようになりました。それだけなら普通の商品拡大なのですが、ここからが先生の非凡なところで、ビール工場で大量に発生する絞り粕に目をつけシウマイにビール酵母を加えた「ビールシウマイ」を発案、それが横浜ビールさんの直営レストラン「驛(うまや)の食卓」の人気メニューとなりました。因みに、横浜ビールさんも昨年、「ヨコハマ・グッズ001市長賞」を受賞されており、横浜唯一の地ビール工場としてユニークな経営をされています。お互いの思いがシンクロするのは必然だったのでしょう。

  そして、横浜ビールさんの勧めにより、驛の食卓前で毎週火曜の昼と夕方に野菜を直売する「驛テラス」を開設、好評を博しました。驛テラスは人とのつながり、地域活性化にも一役買い、それが株式会社キーストンテクノロジー、岡崎社長との運命的な出会いに発展します。



  岡崎社長は驛テラスに野菜を買いに来たお客さんで、LED照明による野菜の室内水耕栽培を研究されている方でした。岡崎社長も「みなとみらいのど真ん中で栽培された高品質の野菜を「横浜・馬車道ハイカラ野菜」として広めたい」という夢を持っておられたのですが、それが仲里先生という「触媒」を得たことにより、何と奈良建設さんが2010年7月に設立された子会社、株式会社セットアップ横浜と株式会社キーストンテクノロジーの共同出資による植物工場設備の販売会社「株式会社アグリ王」設立へと発展したのです。今からわずか3ヶ月前、2010年10月のことです。なお、「横浜・馬車道ハイカラ野菜」は驛テラスでも販売しているそうです。

3.つながりの時代

  先生のお話をまとめると、以下のことが言えると思います。

①人のつながりこそが大事、そこから予想もつかないようなエネルギーが生まれる。
②それは論理的思考を超えた因果によって結ばれるので、目先の打算は意味を成さない。
③「人を喜ばせたい」という想い、それを徹底して信じる心、素早い行動。

  仲里先生の今日はいわゆる表面的な「成功法」などでは決して導き出すことができません。強いて挙げるとすれば、先生の人に対する愛情、人に対する感謝、自分への信頼にこそその要因があり、それは時代を超えた不変の真理なのですが、過剰な競争社会に皆が疲れた今日より重要さを増してきているように思います。

  仲里先生、ありがとうございました。

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仲里一郎さん①

2011年02月26日 | 心に残った出会い


  先日、食品販売業、株式会社大喜コーポレーション代表取締役、仲里一郎さんのお話を拝聴する機会がありました。大変穏やかで楽しい雰囲気が溢れており、人を引き付ける魅力のあることが最初から伝わってくる方でした。大変面白い人生模様でしたので、少し長くなりますが、おさらいしてみたいと思います。

1.二度の転機、そして独立

  今でこそ食品を販売しておられる仲里先生ですが、キャリアのほとんどは建設業でした。昭和50年に大学の土木科をご卒業され、新横浜の奈良建設株式会社に入社。以来およそ15年、一貫して建築現場に携わってこられました。元々建築関係の方がなぜ食品を売るようになったのか、先生によればその転機は2回の出向経験にあったといいます。

  最初の出向は、1989年(平成元年)の横浜博覧会協会でした。そこで現在のみなとみらい21地区で開催された「横浜博覧会YES ’89」(確かそんな名前だったような…)の基盤整備事業に携わり、初めて建築関係以外の様々な業種、行政関係の人たちと関わりを持たれたそうです。そこで、異業種間のビジネス慣習や考え方の違いを目の当たりにされ、視野が大いに開ける一方、「強い理念と信頼」に結ばれたプロジェクトチームの大切さを実感されたとの事でした。

  第2の転機は、今からおよそ3年前。公共事業が激減し、建設業界を取り巻く環境が極めて悪化する中、何か従来の受注営業ではなく社会貢献性の高い事業を自分たちで生み出せないかと考えた仲里先生は、公有地有効活用の一環で都市農業を行うことを思いつきます。それがひいては建設受注にも繋がるであろうということで、この案を社内で提案、建設数社と共同出資でアグリ産業「グランパ」を設立。そこへ出向され、建築業者が野菜を売るということになりました。

  しかし、野菜は文字通り畑違いの事業。ノウハウも経験もない中で、拡販の営業には大変苦労されたそうです。最終的に、仲里先生は奈良建設株式会社の自己退社を決意されました。この時、先生56歳。

  さて、会社を辞め独立しようと考えた仲里先生。ここが並みの人でないと僕が一番感心したところなのですが、先生は56歳で「60歳まであと4年もある、だから独立しよう」と考えられたそうです。普通の人なら「俺はもう60近いし…」と愚痴をこぼしそうなものです。とはいうものの現実は厳しく、定年前の自己退社なので退職金が満額出るわけでもなく、年齢から再就職の口があるでもなく、求職活動をしていないので失業保険も出ないという状況。先生は家族を抱えながら、測量のアルバイトなどで生計を立てられたそうですが、それでも不思議と落ち込まなかったそうです。確かに怖いのだけれども、面白い。さらに、そんな先生をご家族や周囲の方々が決して責めることなく、むしろ励ましてくれたのだそうです。これなど、先生のまさにご人徳によるところでしょうが、その後の先生の事業展開を考えますと、ひとつの象徴的なエピソードのように思います。

  独立するにあたり、先生はある先輩からこんなアドバイスをいただいたそうです。

①大きくなくていい、まず家計を支える固定収入を確保せよ
②(物売りは)物を売ってナンボ
③今この瞬間から未来への種まきをせよ

これを「三分法」というのだそうですが、これをそれぞれではなく3つ同時に行うことが大切なのだそうです。このことは、先日ご紹介した深田稔社長や松浦勝人社長のお話にも通じるところがあります。

  さて、独立した仲里先生は、平成21年に株式会社大喜コーポレーションを設立。社名は、先生の御祖母の口ぐせ「喜べば、喜びごとが喜んで、喜び集めて喜びに来る」に由来するのだそうです。会社設立にあたり、先生は事業内容を以下のようにデザインされました。

「新会社の主な業務は【優れた食品を消費者に、そして企業と企業を結びつけるビジネス・インテグレーション】をビジネステーマとして、

◇青果・加工品など多様な食品をメーカーからの受託で販路開拓する。【セールス】
◇安心安全で本物の食品を最適な市場に展開する。【マーケティング】
◇食品を軸として、関連する様々な産業を有機的に結びつけて事業成立させる。【インテグレーション】
◇食品ビジネスを通じて発掘した不動産・建設ニーズのプロジェクト化。【プロデュース】

などを行って参ります。」

  この設立当初に描いたデザインを先生は違うことなく、そのまま実践し今日に至っておられます。

<つづく>

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松浦勝人さん

2011年02月13日 | 心に残った出会い
  先日、エイベックス・グループ・ホールディングス代表取締役社長、松浦勝人さんのご講演を拝聴する機会がありました。

  松浦社長は横浜市港南区出身、僕とは9歳違いですが、お話の端々に港南台や上大岡など馴染みの場所の描写が出てくるので、僕も当時の町の様子を思い出し、「あの頃、そんなことされていたのか」と何だか不思議な感じに襲われました。

  ご講演は大学在学中のアルバイト時代からエイベックス・ディー・ディー株式会社(当時)を設立するまでを淡々とした口調でお話されていました。なお、進行役は東京プリンの伊藤洋介さん、余談ですが、僕は東京プリンの歌を10曲くらい歌えたりします。

  音楽、特に海外のダンスミュージックがお好きだった松浦社長は、大学在学中に港南台の貸レコード店「友&愛」(これも懐かしい響きです)でアルバイトをされていました。オーナーには店を任され、今では一般的になっていますが、ご自分が推薦できる曲に手作りのポップをつけたり、会員制でレンタルであるという業態の特性を活かしたサービスで実績を挙げられました。

  その後、港南台店のオーナーとご尊父による共同出資で新会社を設立、上大岡駅近くに「友&愛」上大岡店を開業。こちらも独自の工夫で会員を増やし、その一方で好きなダンスミュージックの知識を活かし、輸入盤に独自の解説文をつけて他店に卸すというビジネスを考案されました。折りしも、HMVTOWER RECORDSが続々日本に進出してきた時代(確かに横浜にHMVができた時は大変な騒ぎだったと記憶しています。それだけに先月の弊店のニュースも時代の流れとはいえ驚きでした)、このビジネスでも成功を収められます。

  その後、このビジネスの有望性に目をつけた他の貸レコード店を営んでいた方に半ば強引に誘われる形で、卸売業に特化したエイベックス・ディー・ディー株式会社を設立。海外からの直接輸入を行う一方、イタリアの業者からレーベルの権利を購入し、26歳の時にavex traxを設立されます。当時ディスコ、マハラジャで流れていた、けれども名前が分からないという曲を集めた「マハラジャナイト」がヒット、さらに「ジュリアナ・トーキョー」シリーズが大ヒットを収めます。これが小室哲哉氏との出会いと、その後の誰もがご存知の急成長への遠因となったようです。

  多くの成功された方が異口同音におっしゃることですが、松浦社長も「成功には運やまぐれが多分に含まれる。小室哲哉氏との出会いも後になってみれば出会うべくして出会ったと思えるが、結局のところ何かをするから何かが起こる」とおっしゃていました。つまり、人より先に階段を上ればいかにも元から壮大なビジョンを描いていたかのように見えますが、ご本人曰く「目の前にあるやるべきことを徹底してやっていたら、誰もやらないところにいた」ということです。イチロー選手も確か、「今自分にできること、頑張ればできそうなこと、そういうことを積み重ねていかないと遠くの大きな目標は近づいてこない」と述べておられたように思います。

  お話を伺って個人的に思ったのは、分析すれば様々な成功要因が挙げられるでしょうが、先日ご紹介させていただいた深田社長も今回の松浦社長もその要因が初めから揃い、使い方も熟知していたわけではなかったであろうと思います。一番大切な人を動かす原動力、今回のお話の中では社長が若い頃からお好きだったダンスミュージック、にどれだけ徹底して向き合い、誰にも負けないレベルまで高めることができていたかどうか、また過去に囚われるでも未来への妄想に耽るでもなく、今この瞬間にどれだけ集中できているかの違いではないでしょうか。

 僕も関心のあること、好きなことはたくさんあります。しかし、その内のどれか一つでも誰にも負けないレベルまで徹底的に取り組めているのかと問うた場合、「あれも好き、これも好き」という中途半端なレベルに終わっているといわざるを得ません。しかし、今回のご講演によって本当に自分が好きなことにもっと集中してよいのだという確信をいただけた気がしました。ありがとうございました。

マハラジャ・ナイト(1)
クリエーター情報なし
エイベックス・トラックス


ジュリアナ・トーキョー(1)
クリエーター情報なし
エイベックス・トラックス


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深田稔さん

2011年02月11日 | 心に残った出会い
  お世話になっているIDEC(横浜企業経営支援財団)さん主催の講演で、深中メッキ工業株式会社代表取締役、深田稔先生のお話を拝聴する機会がありました。

  深田先生には、昨年11月のMQ戦略ゲーム(MG)でもお世話になったことがありますが、お話を伺うのは初めてです。家業の鍍金工場を継承され、ご苦労された後、現在では鍍金で世界シェア100%の技術などをもつ会社に育て上げられました。東京都墨田区の次世代経営者塾「フロンティアすみだ塾」の会長を務められているほか、「地域産業起こしに燃える人」理事、早稲田大学社会連携研究所客員研究員などを歴任されておられます。

  そうした経緯から昨日は「魅力ある経営者になるために」と題して2時間ほどのご講演をいただいたわけですが、そんな中から印象に残ったことをいくつか挙げてみたいと思います。

1.意味がある

・人生で身の回りに起きていることにはみな意味があり、意味に気づいた者だけが達成できる。
・人生には自分で解決できることしか起こらない。

2.たらいの法則

・(たらいの水は押すことで返ってくるように)与えたものが戻ってくる

3.ハンディから始まる

・人やもののせいにしていないか?
・最先端のテクノロジーだけが独自技術ではない。自分の持っているものを組み合わせることで誰にもまねのできない技術が出来上がる。ないものねだりをせず、自分の持っているものにどれだけ目をむけ、知恵を絞っているか。
・足りないからこそ、補うべきものが分かる。
・変えられることはかえる、変えられないことは受入れる。

4.考える・工夫する・諦めない

・できることをできるかぎりやる。
・当たり前のことを見逃さない。

5.流れ星の話

・日頃から強く思い続けているからこそ、願いは叶う。

6.砂漠に咲いた花畑の話

・(アリゾナの砂漠が集中豪雨の後、見事な花畑に変貌したことから)雨が降ったから花が咲いたのではない。砂漠の時から種がそこにあったからこそ花が咲いた。同じように苦しい時でも日頃の準備を怠りなくしていて初めてチャンスをものにできる。

  2時間という短い時間ではいかにも惜しいお話ばかりでした。丸一日の集中研修などあると良いと思いました。最後に、今回のお話に関連のありそうな本を2冊後紹介させていただこうと思います。

あなたの経験には意味がある―出来事から人生の答えを見つける必然の法則
礒 一明
ビジネス社


ザ・シークレット
ロンダ・バーン
角川書店


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