窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

アユタヤ遺跡群

2016年03月12日 | 史跡めぐり


  少し時間が経ってしまいましたが、タイ中部・アユタヤの遺跡群を見物してきました。これらは、この地を中心に栄えたアユタヤ王朝(1351年~1767年)の遺跡群です。中国、インド、そしてヨーロッパを結ぶ中継貿易で栄えましたが、1569年と1767年の二度にわたり、隣国ビルマの侵攻で陥落。第二次アユタヤ陥落の際、都は徹底的に破壊されたため、現在は無残な廃墟が残るのみです。以下、訪れた遺跡を時代順に沿ってご紹介したいと思います。

【ワット・マハータート】



  ワット・マハータートは、アユタヤ王国を建国したラーマーティボーディー一世(1351年~1369年)が建立したとも、第3代パグワ王(ボーロマラーチャーティラート一世)が建立したとも言われています。ただ、寺院が完成したのはタイ三大王の一人、国技ムエタイの創始者とも言われ、救国の英雄である第21代ナレースワン大王(1590 年~1605年)の治世の時です。

  話は逸れますが、ナレースワン大王については以前タイで制作された長編映画を観たことがあります。壮大なスケールで描かれた、アクションあり、娯楽性の高い作品です。

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  遺跡の入口には、最盛期の寺院の模型があります。



  中央の一際高い仏塔は、山田長政を重用したことで知られる第24代ソンタム王(1590年~1628年)の時代に崩れ、その後再建されますが、チャクリー王朝第5代王ラーマ五世の時代(1868年~1910年)に再び崩れました。仏塔は西洋建築とタイ建築が折衷したロッブリー様式と呼ばれる建物だったようです。

  1767年の第二次アユタヤ陥落によって、この寺院も破壊されました。とりわけ仏像は中が金であると信じられていたため、徹底的に破壊されました。



  ワット・マハータートのシンボルともなっている、菩提樹の根に覆われた仏頭。破壊され、打ち捨てられた仏頭がやがて木の根に覆われたものです。

【ワット・プラシーサンペット】



  三代に渡る王の遺骨が納められた仏塔で有名な寺院です。第11代ラーマーティボーディー二世(1491~1529年)が、父である第9代トライローカナート王、兄である第10代ボーロマラーチャーティラート三世のためにまず東側の二つの塔を建立し、最後の三つ目はラーマーティボーディー二世自身の塔になります。写真を見て分かるとおり、他の遺跡と比べると、煉瓦を覆う漆喰の保存状態が良く、アユタヤ時代の建築を知る上での貴重な遺跡となっています。

  ラーマーティボーディー二世の時代、ポルトガルがマラッカを占領。ポルトガル人がタイにやって来るようになりました。

【ワット・ヤイ・チャイ・モンコン】



  寺院そのものは初代のラーマーティボーディー一世が修行僧の瞑想のために建立したものですが、シンボルともいえる高さ72mもの仏塔は前述のナレースワン大王がビルマとの戦いに勝利したことを記念して建立したものです。ビルマが建立したチェディ・プカオ・トンの仏塔(80m)に対抗して建てられましたが、実際にはわずかに高さが及びませんでした。



  仏塔は上ることができ、煉瓦造りの石段は多くの参拝者による訪問のためか凹状に深くすり減っていました。この日はマーカブーチャー(万仏節)と呼ばれるタイの祝日で、頂上の仏像に多くの参拝者が縁起物である金箔を貼りつけていました。




1605年頃、アユタヤ王朝最盛期の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。

【ワット・チャイ・ワタナラーム】



  1615年に大坂夏の陣が終結し泰平の世が訪れると、職を失った多くの浪人が海外に活路を求め、ここアユタヤにもやってきました。前述のソンタム王はそれまでのポルトガル傭兵に代わって、長く続いた戦国時代で戦いに慣れている多くの日本人傭兵を雇いました。またアユタヤの日本人町は貿易で栄え、一時は中国を凌ぐほどの勢力を持っていたそうです。

  1629年、王位を簒奪した第27代プラーサートーン王は、日本人勢力の拡大を恐れ、1630年に山田長政を左遷(その後、毒殺されたとの説があります)、日本人町を焼き討ちしました。さらに日本側の海外渡航禁止政策も加わり、アユタヤにおける日本人勢力は衰退していきました。

  ワット・チャイ・ワタナラームはそのプラーサートーン王が母のために建立した寺院です。カンボジアのアンコール・ワットに似ていることから、カンボジアとの戦いに勝利したことを記念し、アンコール・ワットを模して造られたという説もあります。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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今帰仁城跡

2016年02月20日 | 史跡めぐり


  こちらも18年振りに訪れた今帰仁城です。当時は麓までバスで行き、そこから歩いて登ったのですが、途中で脱水症状を起こし、城に着いた時には9月の暑い盛りだというのに寒気でガタガタ震えていた思い出があります。当時は今のようにきれいに整備されておらず、全く人気がありませんでした。幸い古ぼけた自動販売機が一機だけあり、それで救われましたが…。今帰仁城、今まで見てきた沖縄の城の中で最も好きな城です。


今帰仁城の図(クリックすると拡大します)

  発掘調査によると、今帰仁は13世紀末頃から現地の有力者によって簡単な城が築かれていたことが分かっています。最盛期は14世紀、三山鼎立の時代。怕尼芝(はにし)、(みん)、攀安知(はんあんち)と三代91年続いた山北(北山ともいう)・怕尼芝王統の時代でした。山北の版図は現在の本島北部域に分類される地域とほぼ同じ、恩納村、金武町以北と三山の中で最大の広さを持ち、出土品から中国や東南アジアと盛んに交易を行っていたことが分かっています。しかし、明への朝貢回数が最も少ないことから、実際の国力は三山の中で最も低かったと考えられています。

  今帰仁城は自然の絶壁の上に築かれた堅固な城塞でした。中城や座喜味城で見られたような成形された石積みではなく、本部層の古生代石灰岩の自然石を積み上げた野面積みと呼ばれる技法で石垣が造られています。因みに、中城座喜味城も新生代の石灰岩で、石の色の違いによりそのことがよく分かります。

  1416年(1422年との説もあります)、中山の尚巴志は総勢3,500人の山北討伐の軍を興します。たった3,500人と思われますが、1609年の島津藩による琉球侵攻時の琉球王国側の軍勢が約4,000人だったことを考えると、三山鼎立の時代にあってはほとんど総力戦ともいうべき大規模な軍事行動であったのではないかと思われます。しかし、そうであったとしても、実際に城を歩いてみると、これほどの城塞が本当にわずか3,500人の軍勢で陥落したのか、疑わしくなります。

  そこで山北征伐について調べてみました。中山軍は尚巴志率いる海路の本軍2,700人と護佐丸率いる陸路の第二軍800人の二手で侵攻しました。そして北山王攀安知をおびき出すことに成功した本軍が城外で交戦している間に、城内にいた攀安知の家臣、本部平原が裏切り、呼応した第二軍が突入。今帰仁城は陥落したということです。史書『中山世鑑』や『中山世譜』は攀安知を「武芸絶倫」、「淫虐無道」と評していますが、琉球王朝側の史書なので実際どうだったのかは分かりません。

  どこの国、いつの時代でも歴史が「勝者の記述」であるという点では同じです。「中城跡」で取り上げた勝連の阿麻和利も、「阿麻和利の乱」で反逆者の烙印を押されていますが、地元では名君として讃えられています。

  琉球の歌謡集である『おもろさうし』には勝連の繁栄を「大和の鎌倉のようである」と讃える歌が収められていますし、そもそも阿麻和利という呼称自体、「天降り(あまふり)」を意味する尊称だとする説もあるほどです。



  長くなってしまいましたが、上の絵図に沿って今帰仁城の様子を順次ご紹介していきたいと思います。初めに外郭(①)。外郭は高さ2mほどの低い石垣が数百mにわたり蛇行して続いています。発掘調査により、ここには屋敷の跡が確認されています。



  平郎門(②)。現在のものは1962年(昭和37年)に再建されたものです。1713年に国王に上覧された琉球王国の地誌『琉球国由来記』に、「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」の記述が登場します。



  御内原(後述)より見下ろした大隅(ウーシミ)(③)。最も高い石垣が築かれた堅牢な城郭で、兵馬を訓練する場所だったと伝えられています。



  カーザフ(④)。カー(川)+ザフ(迫)、つまり谷間の意。谷間の断崖絶壁に城壁が積み上げられており、鉄壁の防御を誇ったと想像できます。



  大庭(ウーミャ)(⑥)。政治・宗教儀式が行われていたと考えられている場所で、正面に正殿(主郭)、右側に南殿、左側の一段高い所に北殿があったと考えられています。



  ソイツギ(城内下之御嶽)。大庭の北西にあり、前述の『琉球国由来記』には「城内下之嶽」、神名「ソイツギノイシヅ御イベ」と記されています。「ソイツギノイシヅ御イベ」とはイベ(聖域)の名前らしいですが、「ソイツギ」は「添い継ぎ」?「イシヅ」は「礎」?名前の意味が分かりません。ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂きたいと思います。いずれにせよ、旧暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロ(祝女)が五穀豊穣を祈願する場所のようです。風水でも北西は最も位が高く(天(乾)の方位)、神様を祭る方位とされていますね。



御内原(ウーチバル)(⑦)。女官が生活した場所と伝えられ、城内でも神聖な場所。大隅の写真の通り、北側から海を一望することができます。



  主郭(⑧)。正殿のあった場所。現在見られる礎石は、山北滅亡後、中山から派遣された監守が使用していた建物の跡です。



  志慶真門郭(シゲマジョウカク)(⑨)。城内の東端に位置し、城主に身近な人々が住んでいたと考えられます。発掘調査によって4つの建物があったことが確認されていますが、その大きさは6m四方または5m×4m程度で、現在の一般的な住宅の大きさからみてもかなり小さい建物です。また、発掘により志慶真門郭と大庭を繋ぐ通路石敷が確認されています。郭の南端にはかつて志慶真門があったことも分かっています。

今帰仁城跡

沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊5101



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座喜味城跡

2016年02月19日 | 史跡めぐり


   沖縄の城巡りとしては、首里城、中城、勝連城、今帰仁城に続く5つ目、読谷村にある座喜味城です。

   座喜味城は昨日ご紹介した護佐丸が中城に入る前に居城としたところです。琉球三山時代(1322年頃~1429年)の1416年(1422年という説もあります)、明日ご紹介する山北(北山ともいいます)の今帰仁城を攻略した中山の尚巴志は、山北を監視するため山北と中山の境に位置し、良港を備えた座喜味への築城を護佐丸に命じました。因みに、護佐丸は山北の初代国王である怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた先今帰仁按司の曾孫です。山北攻略時、護佐丸は弱冠二十歳でした。

   冒頭の写真を見ても分かるように、城が築かれた標高120mの台地は赤土層の脆弱な地盤でしたが、護佐丸はそれまでの居城であった山田城を崩した石材で丘を取り囲み、石積みの工夫によって二つの郭から成る連郭式の城を築き、築城の名手としての名を高めました。



   座喜味城は、沖縄の城としては中規模のものです。しかし、脆弱な地盤を克服するため工夫された石積みによる城壁は、東シナ海を背後に美しい曲線を描き、一見の価値があります。護佐丸は1440年に中城に移るまでの18年間座喜味城に居城し、海外交易により第一尚氏を経済的に支えたと言われています。発掘調査では、15世紀~16世紀のものとみられる中国製の青磁と陶器が最も多く出土しており、座喜味城は護佐丸が中城に移った後も使用されていたと考えられています。



  座喜味城には一の郭と二の郭にそれぞれ一つずつ、美しいアーチ門が造られています(上写真左)。中に門扉の跡がありましたので、かつては扉があったのでしょう。アーチ門のかみ合う部分には楔石がはめられています(上写真右)が、他の城には類例が見られないそうです。このことから、座喜味城のアーチ門は現存する中で、沖縄最古ものではないかと考えられています。いずれにせよ、座喜味城築城の技術はその後中城でも大いに生かされたことでしょう。



  一の郭の北側には、間口16.58m、奥行き14.94mの石組みが発掘されており、この中に建物が建っていたと考えられています。しかし、瓦等が出土していないことから、恐らく建物は板葺か茅葺だったのではないかと推定されています。

  生憎の曇り空でしたが、城壁からは首里や那覇、そして東シナ海に浮かぶ慶良間諸島、久米島、伊江島、伊平良諸島が眺望できるそうです。中城同様、やはりここも戦略上極めて重要な要害の地であったことが分かります。

座喜味城跡公園

沖縄県中頭郡読谷村字座喜味708-6




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中城跡

2016年02月18日 | 史跡めぐり


  2月7日、18年ぶりに沖縄の代表的な城跡である中城を訪れました。

  中城は14世紀後半頃から、当時の領主だった先中城按司により数世代にわたって拡張され、その後琉球王府の命を受けて入城した琉球王国建国の功臣、築城の名手としても名高い護佐丸盛春によって現在の形になりました。



  標高160mの丘に築かれた連郭式の山城で、西には宜野湾市と東シナ海を望み(写真左)、東には中城湾と勝連半島(写真右)を見渡すことができます。眼下の景色を見下ろすだけでも、ここが極めて重要な交通の要衝であったことが分かります。


1440年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。

  1440年、琉球王朝(第一尚氏)の第三代尚忠王は、当時大きな勢力を誇った勝連按司の阿麻和利を牽制するため、重臣護佐丸に中城を与えました。入城した護佐丸は北の郭、三の郭を増築しました。



  その護佐丸によって築かれた北の郭で美しいアーチを描く裏門。1853年、日米和親条約を締結したペリーの艦隊は、帰途に琉球へ寄港しています。その記録である『日本遠征記』は中城について、画家ハイネの挿絵付きで「要塞の資材は、石灰岩であり、その石造技術は、賞賛すべきものであった。石は…漆喰もセメントも何も用いていないが、この工事の耐久性を損なうようにも思わなかった」と記しています。

ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫)
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KADOKAWA/角川学芸出版




  ハイネの挿絵に登場する表門(1998年撮影)。

  実際、上の地図の通り中城が築城されたのは本土では室町時代にあたります。本土では以前このブログでご紹介した大野城御所ヶ谷神籠石のような古代の山城以降、大規模な石垣建築が築かれたのはせいぜい元寇防塁ぐらいだと思われますので、当時の琉球は本土よりも高度な石垣技術を持っていたと言えます。



  北の郭より三の郭を望む。沖縄の城としては高さのある亀甲積みの石垣が、見る者を威圧します。三の郭は新城とも呼ばれ、亀甲積みは石垣技法の中でも進んだ技法であることから、ここが後から増築されたことがよく分かります。



  三の郭より二の郭を望む(写真左)。二の郭の石垣は布積み(豆腐積み)と呼ばれ、四角く成型した石を綺麗に積み上げています。また、中城のシンボルともいえる美しい曲線を描いた石垣(写真右)も二の郭で見ることができます。



  二の郭に建つ「忠魂碑」。名前から推察するに、琉球王朝の史書『中山世譜』で忠臣とされている護佐丸を慰める碑でしょう。1458年、護佐丸は阿麻和利の讒言により謀反を疑われ、中城において自害しています。尤も、阿麻和利も護佐丸を除いた後、謀反を起こし首里を急襲しますが、王府軍によって滅ぼされています(護佐丸・阿麻和利の乱)。


【勝連城跡(1998年撮影)】

  護佐丸が忠臣であったのか否かについては諸説ありますが、個人的な見解としては護佐丸も阿麻和利も、尚氏により意図的に除かれたのではないかと思っています。「走狗は煮られる」の諺通り、建国の功臣が排除されるというのは、どこの国でも良くあることです。



  北の郭石垣に残る狭間。発掘調査により、中城からは石や金属製の弾丸が発見されています。火矢(ヒーヤー)と呼ばれる、明で開発された銃器が琉球にもあったと考えられます。

  因みに、甲冑や刀剣は貿易により日本から輸入されたものが使われていたようです。勿論、明から輸入された武器も使われていたでしょう。



  北の郭にある大井戸(ウフガー)。今も水を湛えています。城において水の確保は最も重要であるはずですが、琉球の城では場内に水源を確保しているのは珍しいそうです。城の規模、当時の琉球の軍勢規模からいって、長期間の籠城を想定していなかったのかもしれません。

中城城跡公園

沖縄県中頭郡中城村泊1258



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札幌農学校第2農場

2015年07月16日 | 史跡めぐり


  7月5日、北海道大学内にある札幌農学校第2農場を見学してきました。まずここへ辿り着く前に、北海道大学のあまりに広大なキャンパスにまず驚かされました。

  この農場は、札幌農学校教頭、有名なW.S.クラークの大農経営構想に基づいて1876年(明治9年)に設置されました。クラークの後を継いだW.P.ブルックスは、現在北海道大学キャンパス内のポプラ並木一帯に教育研究用の第1農場、現在の大学生門付近に一戸の酪農家をイメージした模範農場として第2農場を設置しました。第2農場は、1909年(明治42年)から1911年(明治44年)にかけて現在の場所に移転しました。


事務所

  日本最古の洋式農業建築、北海道畜産の発祥地、そして北海道開拓史を知る貴重な標本類を揃えた歴史的、文化的価値によって1969年(昭和44年)、重要文化財に指定されています。そして2000年(平成12年)から一般公開されるようになりました。

  

  牧牛舎。1889年(明治22年)に初めて導入された乳牛のホルスタイン種は、現在に至るまでその血統が維持され、雌雄毎に1,050産を超えているそうです。その中の優良種は北海道の基礎牛となり酪農の発展に貢献しました。

 

  模範家畜房。第2農場産の代表的な種雄牛、キング・ヘンドリクの娘牛、クイーン・ヘンドリク・ノブ(1923年生)は、6.5才、365日搾乳において14,250kgという当時としては極めて高い泌乳能力を発揮したそうです。



  エルムの鐘。現在の北海道大学理学部三号館付近にあった農業庁舎西側のエルムの枝に取り付けられていた鐘。酪農作業に欠かせない時間を正確に刻みました。エルムは現在キャンパス内のレストランの名前にもなっています。



  左から動力室、脱ぷ室、収穫室、穀物庫。特に前述の模範家畜房とこの穀物庫はバルーンフレーム構造といって、厚板様断面の根太を組んだ二階床や上階のカラービームで合掌を支持する小屋組などの特色があり、建築学的にも貴重なものとなっているそうです。

 

  穀物庫の中には、貴重な農機具のコレクションが展示されています。上の写真は、全国各地から集められた鍬のコレクション。地方地方で鍬の形や大きさがこんなにも違うとは思いませんでした。



  北海道は寒冷地のため、直播きで水稲耕作が行われたそうです。その直播きの収穫効率を上げるために工夫された独特の農機具も展示されていました。今や全国1位、2位を争う米の生産地となった北海道ですが、その黎明期の苦労が偲ばれます。



  秤量場。トラックスケールが設置されており、穀物を積んだ荷車を軽量していました。



 釜場。



 精乳場。

北海道大学

北海道札幌市北区北8条西5丁目



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熱田神宮

2014年11月17日 | 史跡めぐり


  11月15日、名古屋へ行った帰りがけに、熱田神宮の境内をぶらりと散歩してきました。

  熱田神宮は、神社本庁が包括する別表神社のひとつ。古くから、伊勢神宮に次いで権威のある神社であるとされ、宮中で一年最初に行われる行事である四方拝で、天皇陛下が拝礼される神社のひとつでもあります。



  その創建は古く、景行天皇43年(西暦113年)とされています。実際、境内からは上の写真のような弥生時代の宮廷式壷(2世紀)などが出土しており、その当時から祭祀上の重要な場所であったことが分かっています。

  これは個人的な想像ですが、古代、熱田神宮のある熱田台地は伊勢湾に突出した岬でした。熱田神宮は大和王権が東国へ勢力を拡大する戦略上の重要拠点であったかもしれません。



  主祭神は三種神器の一つである草薙剣。その為、素盞鳴尊や日本武尊など草薙剣に縁の深い神々が祀られています。社殿は明治時代に建てられた神明造のものがありましたが、空襲により消失。現在の社殿は1955年(昭和30年)に再建された新しいものです。



  前述のように境内には、本宮祭神と縁の深い多くの神々を祀る境内社が沢山あります。上の写真はその内の六末社(乙子社、姉子神社、今彦神社、水向神社、素盞鳴神社、日長神社、楠ノ御前神社)と呼ばれる御社です。



  徳川幕府五代将軍綱吉によって1686年(貞亨3年)に再建された西楽所。5月1日の舞楽神事はここで楽が奏されます。元は向かい側に東楽所もありました。



  熱田神宮は草薙剣を奉斎する神社であることから、刀剣の寄進が特に多かった神社でもあります。宝物館は撮影不可でしたが、鎌倉時代以降の刀剣が素晴らしい保存状態で展示されていました。因みに、武に関わるという点では、織田信長が桶狭間の戦い(1560年)で今川義元を急襲する際、熱田神宮に参拝したという話も有名です。

 上の写真は、室町時代(15世紀)の作、末之青江(真柄太刀)という大太刀です。刀身の長さ221.5cm、重さ4.5kgもあります。青江は備中子位荘内(現在の岡山県倉敷市)の地名で、ここには鎌倉時代から室町時代にかけて青江派と呼ばれる刀工集団が居住していました。江戸時代の大刀が大よそ刀長71cm、重さ0.9kgと言われているので、長さは約3倍、重さは約5倍にもなります。



  この大太刀は近江朝倉家の勇志、真柄十郎左衛門が所有していたと伝えられることから、「真柄太刀」とも呼ばれています。真柄十郎左衛門は姉川の合戦(1570年)で戦死、上の写真は「姉川合戦図屏風」で、大太刀を振り上げ奮戦する真柄十郎左衛門が描かれています。

  その後、大太刀は1576年(天正4年)に春日部熊野庄(現在の愛知県春日部市熊野町)の山田喜八郎吉久によって熱田神宮に寄進されたとの記録が残っています。

  その他、宝物館で印象に残ったところでは孝明天皇の「攘夷の綸旨」があります。撮影ができなかったので、ざっと見た筆跡からの印象なのですが、躍動感のある大きな文字、開明的で激動する時代に対応する目もあり、強い意思が現れていました。頑なな攘夷論者というのが現在の一般的な評価ですが、実はそうではなかったのではないかという感想を持ちました。恐らく天皇は、列強に抗するために中央集権的な統一国家建設の必要を感じ、それを国家分裂を避ける選択肢である「公武合体」によって実現すべきであると考えられていたのではないか。そのように思いました。

熱田神宮

愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1



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犬山城(白帝城)②

2014年11月10日 | 史跡めぐり


  天守閣。三層四階の望楼型天守。小規模ながら、古風な望楼、唐破風や入母屋破風が多用された美しい城です。



  地階。野面積みの石垣は低く、地階はほとんどスペースがありません。



  一階。「納戸の間」と呼ばれ百五十畳ほどの広さがあります。中央部が四部屋に区画されており周囲は廊下(武者走り)になっています。



  中央の仕切られた部屋は、西南部だけ床が7寸高くなっており「上段の間」と呼ばれています。創建当初、城主の居間として使われました。「君子南面す」という通り、南側を向いており、北側に護の武士が隠れる八畳ほどの「武者隠しの間」があります。この部屋だけ猿頬天井(下に行くほど猿頰面の竿縁(さおぶち)を使った天井。普通の竿縁天井より上等。)が張ってあり、床の間、床脇などの痕跡も見つかっています。



  天守正面右側(東南側)に張り出した、付櫓。天守閣に侵入しようと門に押し寄せた敵を側面から攻撃できるようになっています。



  二階。「武具の間」と呼ばれ、百四十四畳ほどの広さがあります。文字通り武器庫に使用されていた所で、中央が武具の間、そして西・北・東の三方に武具棚があります。周囲は廊下(武者走り)になっています。



  階段は階を重ねるごとに次第に急となります。三階は「唐破風の間」と呼ばれ、二十八畳、小間を合わせると四十一畳ほどの広さがあります。外観二重の屋根裏にあたり、南北が唐破風、東西が入母屋破風となっています。「唐破風の間」は築城当時にはなく、1618年(元和4年)から1685年(貞亨2年)にかけて装飾として増築されたものと伝えられています。



  最上階の望楼から望む木曽川。川の向こうは美濃(岐阜県)です。見つけられませんでしたが、遠く岐阜城や名古屋城を望むことができるそうです。望楼の廻廊も後に増築されたものだそうです。



  濃尾平野側。

<おわり>

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犬山城(白帝城)①

2014年11月09日 | 史跡めぐり


  10月26日、子供の頃から行きたいと思いつつ、なかなか行く機会のなかった犬山城へ行ってきました。現存12天守の一つ、その内国宝に指定されている四城(姫路城、松本城、彦根城、犬山城)の中でも最も古いお城です。また、2004年まで日本唯一、個人所有の城として有名でしたが、現在は財団法人犬山城白帝文庫の所有となっています。

  木曽川を望む濃尾平野の小高い丘に築かれたことから、唐の詩人李白の詩『早(つと)に白帝城を発す』に準えて、別名を白帝城と呼ばれています。なお、白帝城の命名は、江戸時代の儒学者荻生徂徠だと言われています。



  犬山城は1537年(天文6年)、織田信長の叔父である織田信康によって造られました。木曽川を挟んだ美濃と尾張の国境にあたる戦略上の要衝で、1584年の小牧長久手の戦いでは、小牧山を徳川家康に先制された羽柴秀吉が12万余りの大軍で犬山城に入城しました。

  現在の犬山城は1618年(元和4年)、尾張藩の付家老、成瀬正成(上写真)によって築かれたものです。1871年(明治4年)の廃藩置県により廃城となり、天守を除くほとんどの建物が取り壊されました。



  したがって、天守以外の遺構はほぼ残っていません。上の写真は、黒門跡。礎石が一つ残るのみです。


 
  岩坂門跡。登城道を上った最後に位置していた門。



  本丸門跡。現在は観光用に櫓門が建てられていますが、旧門とは関係ありません。ここは本丸入口にあたり、元々は外側に鉄を貼った鉄門でした。

<つづく>

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忍野八海に寄ってきました

2014年07月28日 | 史跡めぐり


  7月26日、富士吉田へ向かう道すがら、有名な忍野八海に寄ってきました。

  忍野八海とは富士山麓の伏流水から湧き出た湧泉群のことで、八海の名は富士講の一環としての湧泉めぐり「八海めぐり」に由来するそうです。国の天然記念物であり、昨年世界遺産に指定された富士山の構成資産のひとつでもあります。



  国道138号線よりずっと下って行ったのですが、大昔この地域は忍野湖という湖だったそうです。それが干上がって盆地となり、残った湧水の出口が忍野八海になります。古くから飲用水、農業用水として利用され、現在も激しく湧き出る清らかな水は名水百選にも選ばれています。



  八つの泉全部をめぐることはできませんでしたが、上の写真は、そのうちの五番霊場に数えられる「涌池」。直径約12m、深さ約5mの円錐状の泉で、平均水温13度の水が毎秒2.2㎥湧き出ています。直視深度は3m、光の影響でコバルトブルーの神秘的な色合いを見せています。



  涌池の周囲は土産物屋や食事処が立ち並び、世界遺産に指定されたこともあってか、多くの外国人観光客で賑わっていました。



  湧池の奥には「榛(はしばみ)の木資料館」があり、有料(2014年7月現在、大人300円)で三番霊場「底抜池」を含む旧豪族の屋敷跡を見学することができます。外の観光客の多さの割に、資料館の中は非常に静かだったのですが、こちらの方が見る価値があるように思いました。

 

  水車小屋(写真左)と隠居屋(写真右)。18世紀ごろの建物と推定されているそうです。

 

  さらにその奥には母屋があり、中には農耕具や養蚕・紡績・機織りに使われた様々な道具が展示されています。



  「底抜池」。東西14.4m、南北8~10mの楕円形の池です。底抜池と言っても、一番深い所でわずか1.5mしかありません。しかし、池の底は泥が厚く堆積しており、実際の深さは分かっていません。この池に物を落とすと行方が分からなくなると言われ、それゆえにここで物を洗うことは神域を汚すものと信じられていたようです。確かに、池の奥には神々しい大木がそびえていました。

忍野八海

山梨県南都留郡 忍野村忍草



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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彦根城(金亀城)③

2014年05月27日 | 史跡めぐり


  ついに本丸、天守までたどり着きました。三層四階(地階含む)の複合式望楼型天守、小ぶりですが、それでも想像していたよりは大きかったです。切妻破風、入母屋破風、唐破風などを多用し、最上階には花頭窓、高覧付廻縁を巡らすなど、見る角度によって様々な表情を見せる、大変美しい天守です(下の動画をご覧ください)。



  天守は姫路城のような通し柱を用いず、各階を積み上げる方式を採っており、この時期としては望楼型でも古い形式です。調査の結果、元々は1607年(慶長12年)頃に建てられたものであることが判明しています。この天守もまた移築であり、前述の『井伊年譜』によれば、大津城であったと伝えられています。他の城の建築物を移築するという手法は、この時代よく見られたことです。



  天守内部の「武者溜」。



  天守より琵琶湖を望む。



  西の丸三重櫓。本丸に隣接する西の丸北西に位置する、続櫓。小谷城天守を移築したものと伝えられています。



  井戸曲輪。本丸から黒門へ降りていく途中に設けられた小さな曲輪。当時は瓦塀で囲まれていました。中には塩を備蓄する塩櫓と雨水を浄化して貯水する井戸がありました。籠城に備えるため、最も大切な塩と水を備蓄する施設であると同時に、黒門を守る防衛施設でもありました。



  井戸曲輪下の石垣は、高さが19.4mあり、彦根城の中で最も高く堅牢な構造となっています。



  楽々園。彦根藩4代藩主、井伊直興によって建立された藩主の下屋敷です。元々、槻(けやき)御殿と呼ばれていましたが、現在では建物を楽々園、庭を玄宮園と呼んでいます。



  楽々園の名は『論語』の「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」に由来し、民の楽を楽しむという仁政の意味も込めているといわれています。



  ここは松原内湖に面した広大な干拓地であり、最大時には現存する建物の10倍ほどの規模を誇りました。

<おわり>

彦根城

滋賀県彦根市金亀町1-1



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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