岩波書店の宣伝誌、『図書』12月号を読む。
表紙は、幻想的な「狐の嫁入り」。そしてページをめくると、画家・司修氏のエッセイ。いぬいとみこさんの絵本にまつわる記憶を記す。いぬいとみこさんは児童文学作家。私も、『木かげの家の小人たち』、『くらやみの谷の小人たち』を読んだことがある。実家の書棚にそれらはある。いぬいさんは、当たり前だが、平和主義者だ。いぬいさんの作品にもそれが記されている。
司氏も、「夢に出てきた」いぬいさんのことばを引く。
戦争の最大悪は、何も知らない子どもらを巻き込むことです。
表紙の絵は、美しい。なかでも赤が映える。赤は、火の色でもあるが、血の色でもある。
次の吉岡幸雄氏の「陽と火を崇めて」は、古代人も色を発見し、体に付けたり、染色をしていたことを記す。吉岡氏は染色史家だそうだ。末尾の文は、
赤は、生命の源の色。
作家の保坂和志は「ようやく出会えた源氏物語」で、岩波文庫の『源氏物語』を宣伝する。それは右ページに原文、左のページに詳しい注釈があるそうで、それではじめて読んだそうだ。
『源氏物語』を私は読んだ、ずっと前に。『源氏物語』を読んで、式部(同時に、日本人)の豊かで繊細な感性に心を動かされた。今病床にあるT氏は、あんな不倫文学・・などと全面否定している。合理的に考えると、この時代で「万世一系」などという虚構は崩されたなと思う。暗夜に男が忍んでいくのだ。歌をよこした男と訪れてきた男が同じかどうか、わかるわけがない、暗夜だもの。それに最初から光源氏は「不義密通」をしている。でもね、愛は「不義密通」を超えるのだ。それは仕方ないことだ。
岩波文庫の『源氏物語』を読んでみよう。
詩人・佐々木幹郎氏の「3・11以後の中原中也」は、内容もさることながら名文である。
佐々木氏は、2011年7月、気仙沼の海岸に立つ。
その光景を見ながら、わたしはことばを失った。どんな詩の言葉も、自然の猛威を見せつけたこの光景には太刀打ちできない。詩は沈黙を宿す言葉によって生まれる。詩の核には、沈黙がある。
しかし、ここではその「沈黙」さえもが、うるさいと感じられるほどに、わたしは言葉を失ったのである。言葉が抉り取られた、と言ったほうがいい。
震災後、私も現場を訪れた。どこでも、言葉をはっすることさえ憚られるようであった。とりわけ石巻市の大川小学校の前では、3・11のその瞬間からの時間が蓄積され、そこを訪れる人びとに重くのしかかっていた。沈黙が支配し、ささやかな声は、自然に吸い込まれていた。
佐々木氏は、中也の「盲目の秋」の詩句を思い浮かべる。
風が立ち、波が騒ぎ
無限の前に腕を振る。
この詩句は、別れた女性への恋愛歌だそうだ。しかし佐々木氏は、この詩句を大震災後の光景で想起した。そこで「詩の言葉が生まれてくる源を」教えられた。
そして中也の日記を引く。
一切の過誤に対して自然は即座に過不足もなく足払ひをくわはすのである。それに思ひ到らないで何の客観性ぞ、何の現実ぞ。
福島の原発事故への警句にも思える中也の文。最近、佐々木氏は岩波新書で、中原中也の評伝を書いた。これでは読むしかない。
そしてブレイディ・みかこ氏の金子文子についての連載もの。
戦前の社会主義者・久津見房子を文子はどうみていたかを記す。
彼女にとって思想とは、本に書くことでも思索することでも、運動ですらなく、生きることだった。人間性に思想が出ていない主義者など詐称者過ぎないのではないか。
私も、久津見のような、そういう共産主義者を多く見てきた。表面だけ、共産主義者である者。
表紙は、幻想的な「狐の嫁入り」。そしてページをめくると、画家・司修氏のエッセイ。いぬいとみこさんの絵本にまつわる記憶を記す。いぬいとみこさんは児童文学作家。私も、『木かげの家の小人たち』、『くらやみの谷の小人たち』を読んだことがある。実家の書棚にそれらはある。いぬいさんは、当たり前だが、平和主義者だ。いぬいさんの作品にもそれが記されている。
司氏も、「夢に出てきた」いぬいさんのことばを引く。
戦争の最大悪は、何も知らない子どもらを巻き込むことです。
表紙の絵は、美しい。なかでも赤が映える。赤は、火の色でもあるが、血の色でもある。
次の吉岡幸雄氏の「陽と火を崇めて」は、古代人も色を発見し、体に付けたり、染色をしていたことを記す。吉岡氏は染色史家だそうだ。末尾の文は、
赤は、生命の源の色。
作家の保坂和志は「ようやく出会えた源氏物語」で、岩波文庫の『源氏物語』を宣伝する。それは右ページに原文、左のページに詳しい注釈があるそうで、それではじめて読んだそうだ。
『源氏物語』を私は読んだ、ずっと前に。『源氏物語』を読んで、式部(同時に、日本人)の豊かで繊細な感性に心を動かされた。今病床にあるT氏は、あんな不倫文学・・などと全面否定している。合理的に考えると、この時代で「万世一系」などという虚構は崩されたなと思う。暗夜に男が忍んでいくのだ。歌をよこした男と訪れてきた男が同じかどうか、わかるわけがない、暗夜だもの。それに最初から光源氏は「不義密通」をしている。でもね、愛は「不義密通」を超えるのだ。それは仕方ないことだ。
岩波文庫の『源氏物語』を読んでみよう。
詩人・佐々木幹郎氏の「3・11以後の中原中也」は、内容もさることながら名文である。
佐々木氏は、2011年7月、気仙沼の海岸に立つ。
その光景を見ながら、わたしはことばを失った。どんな詩の言葉も、自然の猛威を見せつけたこの光景には太刀打ちできない。詩は沈黙を宿す言葉によって生まれる。詩の核には、沈黙がある。
しかし、ここではその「沈黙」さえもが、うるさいと感じられるほどに、わたしは言葉を失ったのである。言葉が抉り取られた、と言ったほうがいい。
震災後、私も現場を訪れた。どこでも、言葉をはっすることさえ憚られるようであった。とりわけ石巻市の大川小学校の前では、3・11のその瞬間からの時間が蓄積され、そこを訪れる人びとに重くのしかかっていた。沈黙が支配し、ささやかな声は、自然に吸い込まれていた。
佐々木氏は、中也の「盲目の秋」の詩句を思い浮かべる。
風が立ち、波が騒ぎ
無限の前に腕を振る。
この詩句は、別れた女性への恋愛歌だそうだ。しかし佐々木氏は、この詩句を大震災後の光景で想起した。そこで「詩の言葉が生まれてくる源を」教えられた。
そして中也の日記を引く。
一切の過誤に対して自然は即座に過不足もなく足払ひをくわはすのである。それに思ひ到らないで何の客観性ぞ、何の現実ぞ。
福島の原発事故への警句にも思える中也の文。最近、佐々木氏は岩波新書で、中原中也の評伝を書いた。これでは読むしかない。
そしてブレイディ・みかこ氏の金子文子についての連載もの。
戦前の社会主義者・久津見房子を文子はどうみていたかを記す。
彼女にとって思想とは、本に書くことでも思索することでも、運動ですらなく、生きることだった。人間性に思想が出ていない主義者など詐称者過ぎないのではないか。
私も、久津見のような、そういう共産主義者を多く見てきた。表面だけ、共産主義者である者。