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坂坦道「屯田開拓顕彰像」「加藤弥四郎像」

2012年05月11日 22時38分37秒 | 街角と道端のアート
 旧端野たん の 町の野外彫刻で、「北海道の野外彫刻」(札幌彫刻美術館編)に掲載されているのは、この2点である。

 端野町は、2006年に北見市と合併するまで、ひとつの独立した町であった。

 ただ、同時に合併した留辺蘂 る べ しべ町、常呂とこ ろ 町が、北見から地理的に離れていたのにくらべると、「北見のすぐとなり」的な雰囲気の強いマチだったという印象がある。水田や畑が北見市郊外から続いていて、そのまま端野町につづいていた。
 以前から、端野には中心商店街らしいものもなく、駅には急行や特急も止まらず、北見市の一部だと誤解していた人もいたほどだ。

 いまも、国道39号を走っていると、郊外型店舗や農機具販売会社などが並んでいて、どこが旧北見市と旧端野町の境界なのか、にわかには判断できない。

 そもそも、北見の旧名「野付牛」は、アイヌ語の「ヌプンケシ」からきているといわれるが、これを和訳すると「野の端」の意で、要するに、野付牛と端野は、同じ語に由来していることになる。




 それでも、役場庁舎(いまは北見市役所端野総合支所)の周囲には、屯田の森公園が広がり、野球場や図書館といった各種公共施設、神社などがあって、なんとなく、北海道のマチの中心らしいたたずまいをみせていた。
 ずいぶんと広い敷地が中心に確保されているなあと思って、「端野町史」をみると、どうやらこの一帯はかつての練兵場と小学校であったようだ。
(いまは端野小は別の土地に移転している)

 端野町にももちろんアイヌ民族は暮らしていたが、大勢の人が住むようになったのは、1897年(明治30年)の屯田兵第4大隊第1中隊の100戸が入植したのが始まりである。
 1921年(大正10年)、野付牛町(のちの北見市)から分村し、端野村となった。
 1961年に町制施行。
 そして、2006年、ふたたび北見市と一緒になった。

 ここでとりあげた彫刻は、日展の役員で、道内の具象彫刻界で重きをなした坂坦道氏(故人)の作。
 
 レリーフの裏側のアルミ板には、入植した人々の名がひとりひとり記されている。


 なお、札幌彫刻美術館の「北海道の野外彫刻マップ」には、加藤弥四郎像も坂坦道作となっていたので、あまりちゃんと見てこなかったが、作者には疑義なしとしない。
 ほんとうに坂の作品か、もう一度たしかめてきます。
 加藤については、戦後、端野村議会の議長を務めていたということくらいしか、いまのところわからない。


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□陶工房 そら http://www.atelier-sora.jp/(坂さんの作品紹介ページあり)



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