福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが第6回江戸三十三観音・東京十社巡拝記録を作ってくださいました

2015-10-10 | 開催報告/巡礼記録
福聚講(高原耕昇講元)の、江戸三十三観音・東京十社の定例巡拝行は、10月4日(日)、第六回の回を重ねる巡拝行となりました。この巡拝行では、江戸風情や情緒を、身近に体感する、興趣のあることや、神社が、改まった神域でなく、親しく私たちを受け入れ、包み込んでくださる神様が居られるという、大らかな気持ちにさせて戴けるようになりました。


午前10時、この日、第一番の巡拝所である王子神社の境内に、直接、集合。7人[婦人1人]が参加しました。王子神社は、JR王子駅、地下鉄東京メトロ南北線駅から、徒歩で10分位のところに位置しています。この神社を含めて、周囲は、「日本の都市公園100選」の一つになっていて、緑の木々の景観や独創的なデザインを施した公園設計がなされており、静謐に包まれた雰囲気が、早くも、神韻を感じさせるところです。


第一番巡礼所 王子神社(東京都北区王子本町1丁目1番12号)王子権現とも言われています。 主祭神 伊弉諾命 伊弉冉命 天照大御神 速玉之男命 事解之男命 社格 准勅祭社 旧郷社

創建年月は、不明ですが、元亨2年(1322年)、豊島郡を支配していた豊島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになりました。このため、村名が、岸村から、王子村に改められ「王子」という地名の由来になりました。また、石神井川が、この地域では、音無川と呼ばれているのも、紀州の地名に擬したとも言われています。

王子神社は、豊島氏に続いて領主になった小田原北条氏からも寄進を受け、江戸時代には、徳川家康が、社領として200石を寄進しました。これは、王子村の村高の3分の2に当たりました。別当寺は、王子神社に隣接する禅夷山・金輪寺で、将軍が、日光社参や鷹狩りの祭に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は、将軍家と関係が深く、三大将軍家光は、社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、五代綱吉、十代家治、十一代家斎が、社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などを備え、摂末社は17社を数えたといいます。紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。花見の名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多勢の人が訪れるようになります。7月13日に行われた王子神社の祭礼は、「槍祭り」といわれ、小さな槍を買い求める人や、田楽躍を見物する多くの人で賑わったといいます。明治時代に入ると、明治元年(1868年)准勅祭社、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。戦前の境内には、「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれた神木や、多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失。唯一、現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは、戦火を逃れた貴重な文化財です。戦後は、氏子によって、権現造りの社殿が再建されました。


末社 関神社 蝉丸法師を祭神とし、理容業者が、信仰している、全国でも珍しい「髪」の祖神です。(神社由緒札より)


王子神社の絵図を見ると、往時の殷賑を極めた神社の様子がわかります。参詣の入り口に大鳥居があり、次に、白壁2楼の山門。つぎに、舞殿、その奥に,二棟続きの神殿があるという、壮麗豪華な神社であつたことがわかります。


この日は、あのうだる様な猛暑の夏が過ぎ、やや肌寒さを感じさせる秋の気配が漂い、抜けるような青空が広がる、巡拝行には、打って付けの天気日和でした。森閑とした境内には、早めの七五三でしょうか、礼服姿の若い両親に連れられて、はかま姿の坊や、赤いおべべを着たお嬢ちゃんが、何組かお宮参りに来て、記念写真を撮っていました。


壮麗な社殿とは、対照的に、境内の中に、一際、目立つ、鮮やかな朱色の小ぶりの神殿と、「毛塚」と刻まれた、円柱石に、三重の小塔を載せた塔[ミナレット]が在ります。神域を囲む、石塀には、「髪の祖神」の立て札と共に、床山組合、劇団新派床山、かつら店、など、「髪の毛」に関した、商売の信者の寄進者の名前が、赤く刻まれてよく目立っていました。


「髪の祖神」関神社 御祭神 蝉丸公神霊 逆髪姫神霊 古屋美女神霊
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関 」蝉丸

蝉丸公は、延喜帝の第四皇子で、和歌が巧みなうえ、琵琶の名手でもありました。蝉丸公は、蝉丸公の姉君である「逆髪姫」が、髪の毛が逆髪であるために、日夜、悲嘆に暮れているのを、見るに見かねて、助けようと、侍女である「古屋美女」に、命じて、「かもじ・かつら」を考案し、髪を整える工夫をしたことから、「音曲諸芸道の神」、そして、「髪の祖神」として、広く、崇敬を集め、「関蝉丸神社」として、所縁の地である、滋賀県大津の逢坂山に祀られています。その御神体を、敬仰する人たちが、「かもじ業者」を、中心として、江戸時代,

王子神社の境内に奉斉したことから、「関神社」となり、人々に、知られるようになりました。しかし、昭和20年4月13日、東京大空襲の戦災により、社殿を焼失しました。人毛業界の関係者は、神殿再建を果たすため、全国各地の、かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師の各界に呼びかけ、浄財を募り、昭和34年5月24日、社殿が再建されたのです。[由緒札より]


東京・王子というところは、滅多に、足を運ばない所なのですが、今回この地を訪れて、驚いたのは、王子神社もさることながら、王子の町のある、北区には、なんと、18の神社があり、「北区神社めぐり」というコースが作られていたことでした。
それぞれの神社には、独自の由緒や歴史があることでしょう。
そして、今回、王子神社参拝行で、教えられることがありました。私の恥を晒すようですが告白してみます。、私は、参拝行の際、事前に、参拝する社寺の由緒・歴史・地理などは余り意を介せず、いわゆる、ぶっつけ本番という姿勢で臨んでいました。地理は、完全に、幹事さん任せです。言い訳がましくいいますと、予備知識なしで参詣し、参拝後、初めて、寺社の内容を知るという具合です。何も知らないほうが、感動が大きい?

こんな態度だったので、「お蔭」はなく、信心による「ご利益」が、なかったのかもしれません。そんな私に、それでは駄目だと、気ずかせてくれたのが講員Tさんです。


講員のTさんに、参詣の真摯な取り組みに感心したうえ、教えられる思いがしました。感謝です。 この日、Tさんは、集合時間の一時間前に、王子神社に着いたそうです。本殿で参拝した後、「関神社」に、参詣したということでした。蝉丸公の神霊に、自身の神意と崇敬を祈り捧げたといわれたのです。 Tさんは、日本の古典芸能に詳しく、大学での研究や、古典芸能関係者との付き合いも多く、特に、お能・謡曲(喜多流)、浄瑠璃を専門に、造詣が深く、ご自身、お能の発表会には、出演されるほどの、専門領域に達しておられるようです。

このほど、Tさんは、喜多流能楽の発表が予定されていて、演題は、「蝉丸」だそうです。Tさんは「、蝉丸」を、演じる前に、蝉丸の神霊に、報告し、神韻を仰ごうとされたのです。
お能「蝉丸」は、四番目物の狂女物ですが、蝉丸は、逆髪で、悲しみ、嘆く姉「逆髪姫」を慰め、逆髪を無くすために、一計を講じるのですが、蝉丸も、盲目の身で、障害を持った二人が慰めあうという悲哀物語のようです。姉の逆髪を直してあげようとする蝉丸の、鬼気迫る幽玄の情感を、どの様に、演じるか。Tさんは、関神社に、一人早く、参詣して、祈り、考えたといいます。このため、 Tさんは、王子神社の参拝を、予め調べていて、「関神社」のあることを知り、「蝉丸」が、祀られていることが解かったといいます。数奇な因縁を、十分、感じることが出来たのでしょう。満足されたような、Tさんの笑顔が忘れられません。


やはり、これからは、事前準備を十分に行なって、参拝に臨むことを心掛けることにします。Tさん!有難うございました。


王子神社の話題は、沢山あり、全部紹介できないのは残念なのですが、最後に、ご参考までに、一つ、取り上げて見ます。
「おみくじの神歌」

1、 大吉 うるわしき神のみさとしあるからは萬の願い叶うとぞ知れ

2、 吉 ひとつとてうるわしきことのあるからは又も吉事来りさかえむ

3、 吉 いきしきのみいつかしこみ諸神に幸を乞祈みまつる人くさ

4、 末吉 先にへらし後にますことあることは月にみちかけ有ると思いて

5、 凶 身のほどを知らでど送る月日をば立てすぎぬる身こそ悔しき

6、 大吉 寄り来る神のみたまも世の中の人を幸うこととこそ知れ

7、 吉 たなつものみのりもよくて豊年のためしなりとて祝う諸人

8、 半吉 世の中のおだしきことを朝夕に乞祈みまつる神のみ功徳

9、 末吉 行末を思えば遠しかぎりなき御代の栄を待つぞ嬉しき

10、大凶 人目には見えねどひとり慎しめよかくりに神の在すと思いて

11、大吉 神と云い上といえるもひとつにて神と上との法にそむくな

12、末吉 たま石にかくるといえど真実なる光はいつか世に出ずるかも

13、吉 これと云いあれといえどひとすじに家の栄をたのしみとなせ

14、半吉 冬枯れの草木もいつか春くればもとの青葉を見るぞ楽しき

15、凶 何事も人の力のおよぶまじ神のみこころなると知るべし

16、大吉 ゆるぎなき御世はとことは限りなき神の造りし国にしあれば

17、末吉 寿ぎこと待ちて喜ぶ民くさの末の栄を祈りこそすれ

18、吉 限りなき人の行末とやかくに思うは心の迷いなりけり

19、半吉 満ち満つることを喜ぶ人心欠くるといえることを思いて

20、凶 あしと思い凶しき思い慎めばやがて吉ごと来るなりけり

21、大吉 大直日神のなおびに禍ごとのなくて栄ゆる身こそ安けれ

22、吉 すべてただ世はとことわに神世なり人の世代とわ思わざらまし

23、吉 善悪を思うは人のひがごころ神によしあしなくと思いて

24、吉 人目をば忍べといかに天地の神の御免したもうものかわ


午前10時40分、都電荒川線。昔懐かしい、ちんちん電車が、都内唯一走行している鉄道で、この電車に乗って「東池袋4丁目駅」で下車。護国寺裏手の墓地の中を伝い歩いて、本堂に出ます。護国寺は、私たち福聚講の月例定例読経参拝会が行われている“講堂”ですが、今日は、江戸三十三観音霊場札所として本堂に入ります。本堂の裏手になる所に、広く大きな墓地があることをはじめて知りました。
第2番巡礼所 江戸札所第十三番札所 神齢山悉地院 大本山 護国寺(東京都文京区大塚5-40-1) 本尊 如意輪観世音菩薩 真言宗豊山派 大本山、


天和元年(1681年)2月、五代将軍・徳川綱吉が、生母である桂昌院の発願によって、上野国[群馬県]碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招いて開山。幕府所領の高田薬園の地を賜り、堂宇を建立し、寺領300石を賜つた。桂昌院の念持仏である天然琥珀如意輪観世音菩薩を本尊にして、神齢山悉地院護国寺と号して、創建されました。


元禄10年(1697年)1月、観音堂を新営するよう幕命があり、半年余りの工事日数で大造営を完成。同年8月、落慶供養の式典が催されました。現在の本堂であり、元禄時代の建築工芸の粋を結集した雄大な大建造物で、内陣の祭壇もご本尊の厨子を挟んで、左右に、33人の神像が豪華に飾られています。


福聚講では、毎月定例の祈祷会を行っており、般若心経・観音経・諸真言の読経、座禅瞑想を行い、参詣しています。長年、続けており、今では、福聚講のフランチャイズのようになっています。


この日は、やはり、講員のN・T子さんに、教えられることがありましたこの日、N・T子さんは、私たちの巡拝行に参加したかったのですが、友人との約束があり、参加できないため、午前10時、ひとり、護国寺を訪ねて、一足先にお参りをされたそうです。N子さんは、つい最近、最愛のお父様を亡くされ、いままた、お母様も、病院に緊急入院されて、看病の日々を送られています。お父様のご葬儀には、喪主を勤められたそうです。長女の責分を、力の限りつくし、家庭を守り、信仰に勤める健気な姿は、N子さんの生活力の旺盛さに圧倒される思いです。

ここで、またしても、恥を晒すようですが、N子さんに、手紙を送る形で、、あらましを紹介しましょう。N子さんは、群馬県にお住まいで、昨年の今頃は、秩父三十三観音霊場巡拝に、ご一緒していました。遠方から、西武秩父にたどり着くのも難儀なのですが、少しも、弱音を吐かず、持ち前に気丈さに、笑顔を絶やさずに、巡拝に参加されていたのが、印象的でした。


N・T子さん。「10月4日の江戸三十三観音・東京十社巡拝を解散したあと、東京・新宿で、T子さんに、お会いすることが出来、嬉しく思いました。3週間前に、突然、T子さんから、お父さんがお亡くなりになり、葬儀を済ませたというメールを戴いたときは、びっくりしました。最愛のお父様が亡くなり、その直後、お母様が倒れられ、病院に、救急入院させるという、たて続けの、災難に遭遇されたのですね。その悲報を知り、T子さんの胸中如何ばかりかと、お察しし心配でなりませんでした。お慰めすることも、お手伝いすることも、なにもすることも出来ず、ただただ、メールで、「当病平癒をお祈りしてます」と、話をするだけの、自分が、情けなく、切ない思いに浸されたものでした。そのうえ、「ご両親の看病をするのは、仏道修行です」などと、お話ししたことが、如何に、浮ついた言葉であったかと悔やまれてなりません。今、どうしておられるかと思っていた矢先、何事にも快く親切に対応してくださる講員のTさんから、T子さんが、友人に会うために、東京・新宿に出てこられることを伺い、講員のTさんと、ご一緒に、お会いする機会が出来ました。いつもと変わらない、笑顔を絶やさず、気丈に、淡々と、ご苦労された模様を話しておられたのは、T子さんの精神力の強さか?と思い、安心しました。その、T子さんに、私は、又,愚問を呈してしまいました。「T子さんは、熱心に祈られた仏様に、お父様の平癒や、お母様が、早く快癒されるように、祈り、お願いされたにもかかわらず、仏様は、聞き入れられなかった。仏様は、どうして、願いを聞き届けてくださらないのですか?と、恨みがましく、思われませんでしたか?」と。T子さんは、ためらいもなく、ただ、率直に、「何も思いませんでしたよ。仏様は、力尽くしてくださったと思います。ただただ、感謝するばかりです。」と。仏を信じ、頼り、仏に一任する姿勢に何んとも云えない清清しく、潔さや頼もしさをも感じさせられました。本当に、信仰に徹している人というのは、T子さんの様な人を言うのではないかと、しみじみ、自分の不甲斐なさを感じたものです。お母様が、早く、よくなられることを祈ります。また機会をつくって、お話し合いをしましょう。楽しみにしていますよ。これから、気候も、寒くなります。くれぐれも、お体を大切にしてくださいね。


苦難をもろともせず、どんな厳しい情況にあつても、希望を失わず、生きてゆこうとすることをT子さんに、教えられました。有り難く感謝です。


御詠歌 もろもろの くのうをすくう 観世音 だいひの恵み とうとかりける

最後の第3番巡拝所。東京メトロ 半蔵門線・護国寺から、永田町経由で、世田谷・三軒茶屋にゆき、都バスに乗り換え、世田谷観音前下車。

午後12時40分、、世田谷山 観音寺


江戸札所第三十二番札所 世田谷山 観音寺(東京都世田谷区下馬4-9-4)

通称 世田谷観音 本尊 聖観世音菩薩 宗派 単立


観音寺の開基は、睦賢和尚。睦賢和尚は、寺宇の建立を発心してから十余年の歳月をかけて昭和26年、独力で観音寺を建立し、同年5月、金龍山浅草寺に請い開眼の法を修しました。御本尊の尊像も、波乱幾変転の命運に晒され、天正年間に、伊勢の長島の名刹と言われた興昭寺の秘仏とされていましたが、以後は、他地の堂宇に鎮り、あるときは、風雨に晒されるなど、有為変転のままに変わりましたが、慈悲の御光は常に曇ることなく代々帰依する人々に、あらたかなご利益を垂れたもうと伝えられています。


山内には、本尊を始め、特攻観音、不動明王、阿弥陀如来を祀る各堂宇が、立ち並び、鐘楼は、石薬師寺から移築、梵鐘には、「極楽寺什物慶長10年[1605年]の銘が有ります。


この寺で特筆すべきは、「特攻観音堂」と、「特攻隊」の戦没者を慰霊する顕彰活動を行っていることです。特攻観音堂は、嘗て、華頂の宮家の念仏堂で、天井には、菊の紋があり、国の為に若い命をささげた特攻隊員4615柱の英霊の安息所とされています。


不動堂には、京都の六角堂を模した建物で、旧国宝の不動明王と八大童子像が安置されています。願文によりますと、鎌倉中期の大仏師である、法眼和尚康円の文永9年[1272年]の作となっていて、この年は、元の大軍が来襲してきた文永の役の二年前に当たるといいます。胎内文書に、謹んで当寺の伽藍に安置して、内外の魔障を除かんと欲す、と有ります。


戦いに殉死した聖霊を弔い、国の安寧を祈ると言う、睦賢和尚の篤い志が、、境内に漂い、英霊が静かに眠るたたずまいが境内中に感じられるようです。目黒・祐天寺の住宅街の中にあり、交通も至便なお寺です。閑静な佇まい。緑鮮やかな芝生が広がる境内。そここに、仏像が置かれていて、参詣者を迎えてくれます。


しかし、何んといっても、観音寺は、「特攻」のお寺です。「特別攻撃隊の頌」の碑があります。

「わが国が存亡をかけた大東亜戦争においては、開戦初から生還を期すことのない特攻作戦が決行された。弱冠十七、八歳から三十歳代までの勇士が、肉親への愛着を断ち切り洋々たるべき人生を捨てて、空に、海に、陸に、決然として肉弾攻撃を敢行し、偉大なる戦果を挙げ、ことごとく散華された。その数およそ六千柱、壮烈無比なこの攻撃は敵の心胆を寒からしめ、国民はひとしくその純忠に感泣した。特別攻撃隊の戦闘は、真に至高至純の愛国心の発露として国民の胸奥に生き続け、また世界の人人に強い感銘を与え、わが国永遠の平和と発展の礎となっている。ここに心から愛惜の情を込めて特別攻撃隊の諸史料をこの遊就舘に納め、その精神と偉業とを後世に伝える。

特別攻撃隊慰霊顕彰会 会長 竹田恒徳 昭和六十年十二月八日」


そして、このお寺には、「特攻平和観音経」と言う、お経もあります。

史実を踏まえ、日本国中が湧きたった、あの興奮、「特攻勇士の諸霊は正に忠烈の亀鑑なり。諸霊が父母の恩愛を断ち、大忠、大孝、大義、大勇に徹せし崇高無比なる境涯に相到せんか誰か万斛の涙なきを得んや。

老いも若きも泣き

男も女も哭き

草も木も、馬も羊も涙せん

玉も磚も悉く悲しまん

天地万象凡て慟きて止まざらん

唯、諸霊を慰め得るもの一つあり宇内に無慮一百三十有余の独立国家の新秩序

の出現これなり。

真に世紀の偉業。この赫然たるに匹儔するもの果たして他にあらんや。

これ正に諸霊の志の顕現なり。


嗚呼尊い哉、嗚呼仰がん哉、長存不滅の光

南無特攻平和観世音菩薩

南無特攻平和観世音菩薩

南無特攻平和観世音菩薩」


中略していますが、以上のような内容のお経です。全文は、般若心経の、2.5倍ぐらいですが、これを読んでいると、今日、自分と言う存在が、どんなに恵まれ、精神的にひ弱な生活をしているかと言うことを、しみじみと感じさせられてきて、いたたまれない気がしてきます。生きることに疲れを感じ、何をするにもいやになった時、ここを訪れ、「特攻平和観音経」をお唱えすれば、同じ人間でも、こんな過酷な運命に立ち向かった人が、大勢いたことを知り、弱音を吐いて居られないという、自分が見つかるのではないでしょうか!


御詠歌 ありがたや その名聞こえし 世田谷の 大悲したいて まいれもろ

びと


仏法を極めるためには、唯、巡拝行をしたり、座禅を組んで精神集中を試みたりすることもさることながら、この「特攻精神のような、自分の精神の退路を断つ」覚悟で取り組まなければ、何時までたっても、大悟できないのではないか。大悟できなくても、必死の努力を死ぬまで続けなければならない。修行を怠らずすることだと思いました。


折から、ここ数日前、ノーベル賞受賞者の発表があり、医学・生理学賞の大村智さん(80)、物理学賞に梶田隆章さん[56]の二人が受賞の栄誉に輝きました。二人とも、謙虚・温厚・執念・着実・不屈などの人間性を感じる人たちに見えました。科学分野の研究は、入念な基礎学力と研究を基に組み立てられ、着実に、地道な成果を積み上げきたなかから、大きな成果に結びつくものだと思います。また、この二人が、大きな成果を勝ち取るまでには、これまでに、無数の、数知れない研究者達の研究成果の積み重ねがあり、それを基に、二人が集大成した結果が、ノーベル賞に繋がったのだと思います。


仏道も、人知れず、こつこつ、果て知れない、修行の努力を積み上げながら、死ぬまで、大悟できないかもしれないけれども、諦めずに修行を続けてゆくことだと思います。そして、私は、もう、お釈迦様の様にはなれないけれども、仏法を学び、極める努力をすることにより、仏法が隆盛してゆく捨石になればいい。こうした努力を続けるうちに、「偉い」先輩が生れるかもしれない。と言うことを信じつつ生きてゆくつもり行こう。そのためには、どんな小さな事でも私にとって修行の糧であり、力であると共に、活きる「確証」を得る思いです。このため、、今回は、講員のお二方から受けた「お蔭」? をご紹介しました。講員Tさん、N・T子さん、断りなしに勝手なことを書いたことをお詫びします。済みません。(角田記)

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