歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“原節子を何となく” その⑦ 監督が大根?

2011年06月15日 | 原節子
昨日の続きです。

昨日は“大根”と“ハム”の話しでした。すこしだけ、その続きです。

それで、“原節子 あるがままに生きて”の138ページで、小津監督が原節子の演技について、

『僕は過去二十何年か映画を撮ってきたが、原さんのように理解が深くてうまい演技をする女優はめずらしい、芸の巾ということからすれば狭い、しかし、原さんは原さんの役柄があってそこで深い演技を示すといった人なのだ、例えばがなりたてたり、子守っ子やおかみさんのような役にあの人の顔立ちや人柄が出来上がっていないという、それを「原節子は大根だ」と評するに至っては、むしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだと思う』(週刊アサヒ芸能新聞1951年9月9日)

この記事は1951年の9月ですから、小津監督による原節子初作品『晩春』(1949年9月)を撮った後で、『麦秋』(1951年10月)の撮影中の記事だと思います。『晩春』の評判が良かったので、かなり強気な発言になったようです。



“大根役者”とは、解釈によって180度変わると思います。役者の顔立ちや人柄にあった役しか出来ない、役柄の巾が狭い、と、云う事は、大根だとも云えるのです。

また、脚本の役柄に合わせて俳優を選ぶのは、監督として当たり前ですし、役柄に合わない俳優を使ったら、監督が大根と云われてもしかたがないとも云えます。

何でも、かんでも、こなせる器用な俳優は主役には向かないのです。強い個性があるから主役になれるし、スターになれるのだと思います。

顔立ちとか、体つきで、それなりに役柄は限定されるのです。高倉健にリストラされた“しょぼいサラリーマン役”は無理なのです。そんなキャスティグをする監督はいません。

そういえば、高倉健と云えば、“ぽっぽ屋”で定年間近の鉄道員を演じていましたが、あまりにも、あまりにも、いくら映画のお約束とは云え、カッコ良すぎて嘘っぽかったのです。

“嘘っぽかった”云えば、ついでに、海外へ飛んで、あのイタリア映画の名作“ひまわり”です。ストーリーは悲しい、悲しい、戦争悲劇なのです。

がぁ、しかし、、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが演じたことで、悲劇性が、かなり、かなり、薄らいでいるのです。二人の個性が役柄に合っていないのです。ミスキャストです。

話しが、幾分、海外に逸れてしまいました。

まぁ、兎に角、大根もハムも、監督のキャスティングと演技指導でどうにでもなるのです。後は、監督と俳優の相性が合えばイイのです。



小津監督と原節子は、とても相性がよかったと思います。小津監督の代表作と原節子の代表作が共通するのは、そんな事からだと思うのです。イイ俳優に出会った監督、イイ監督に出会った俳優なのです。

冒頭で、昨日の“すこしつづき”と書きましたが、全部がつづきになってしまいました。まぁ、いつも、書いているうちに、最初に書こうとしたことが、途中で、だんだん逸れていくのは、いつものことで・・・・・・。

ホントは、『東京物語』について、ちょっと云いたかったのです。まぁ、それは、次回に回すことにします。

本日は朝早く出掛け、昼に戻って来たので更新が遅れました。午前中に更新しないと、何か書きにくいのです。午前中に書いて、午後は外を走り回るのが、いつものスタイルになっているのです。

以前は暗い夜に書いていたのですが、今は明るい午前中が更新タイムに変わってしまいました。年齢がそうさせているような、ちょっと寂しいような、そんな気が・・・・・・です。

まだ、そんな事で“何となく原節子”はつづきそうです。

それでは、また明日。



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“原節子を何となく” その⑥ 大根女優?

2011年06月14日 | 原節子
先週からの続きです。

まだ、「原節子 あるがままに生きて」を読みつつ、綴ります。

それで、第22章は“大根女優”です。大根です。大根役者です。大根は絶対に“あたらない”のです。西洋では“ハム役者”と云うそうです。ハムは食あたりしそうな気がしますが・・・・・・それで、原節子ですが本人も相当気にしていたようで、戦後、こんな事を語っています。

『・・・さて、それから私が、「大根女優、大根女優」と批評などで叩かれた時代となります。そう云われて癪にさわってもしようがないし、自分でも決してうまいとは思っていないのでなんともありませんが、「ひと一倍そんなに云われるほど、ほかのひとに比べて私は下手なのかしら・・・・・・。でも、ほかのひとにはない私は私なりのいいところだってあるのじゃアないか」と、ときには反発する気持になりました』

これは、『映画ファン』1952年11月号から53年の2月号に載った「私の歴史・1~4」記事ですから、大根女優と云う評価は戦前のものです。

大根時代には、いくら何でも、大根の話しはできないのです。戦後、“大根女優”を、それなりに脱して、改めて過去の大根時代を振り返っているのす。


それにしても、世間は相当に大根と叩たいたよううで“ひと一倍そんなに云われるほど・・・・・・”の処に、相当頭にきた気持ちが現れています。温和しくて、控え目で、冷静で、賢明な彼女がこう云うのですから、かなり癪にさわっていたのです。

女優は何と云っても美貌です。巧い役者と云われるのは美貌とは遠い役者なのです。巧い役者と呼ばれるには、コムズカシイテーマを、コムズカシクしく演じると、それなりに巧く見えてくるものです。

反社会的で、反体制で、犯罪者で、屈折していて、躓いて、暗くて、影があって、絶望して・・・・・・、何て役柄を、それなりに演じれば、そこそこの役者に見えるのです。大根と巧い役者と、それほど差はないと思います。監督の腕次第です。

それで、原節子も戦前に、アンドレ・ジット原作の『田園交響楽』を山本薩夫監督で、そして、昨日の“レ・ミゼラブル”を原作として、伊丹万作監督が撮った「巨人伝」など、いろいろと、コムズカシイ文芸作品に出演したのです。

でも、しかし、大根女優の称号はなかな消えなかったようです。やはり、美貌が邪魔をしていたのです。あまりに美しいと、どうしても美しさ強調した演出になるのです。巧さにには、それなりの“醜さ”が必要です。

原節子も、戦後になってから、それなりに、美しさに陰りが見えはじめてから、大根の評価にも陰りが見え始めたのでは?と、思うのです。


美しいからと云って“色気”があると云う訳ではありません。戦前の原節子には色気がありません。戦後になって、やっとすこし色気が出てきたのです。

美しさに陰りが見え始めて、女の色気が見え始め、大根から抜け出して、“イイ女”、“イイ役者”になりつつあったのに、スクリーンから消えてしまいました。

とても、とても残念です。


それでは、また明日。

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“レ・ミゼラブル”には参りました

2011年06月13日 | テレビの話し
昨日、観てしまったのです。

BSプレミアムのトミー賞ミュージカル特集を、“25周年記念コンサート”(2010年ロンドン公演)です。午後1時から4時までの3時間でした。

最初は、ちょっと覗く程度のつもりでしたが、最後まで、それなりに興奮して観てしまいました。

記念の“コンサート”ですから、本来のミュージカルとは異なるのですが、それなりにお金の掛かった迫力のある舞台でした。

戦争とか、革命とか、“命がけ”をドラマの背景にして、愛とか、自由とかを描くと、とても感動するのです。

理想のため、自由のため、愛のため、命を掛ける、観ていて分かり易く、感動します。

それにしても、パン一つ盗んで19年間の牢獄生活、その程度の犯罪者を19年間も牢獄に入れていたら、牢獄は幾つあっても足りないと、疑問を抱きつつも、観ていたり・・・・・・。

そんな“せこい”犯罪者を仮出獄で逃亡したからと、数十年も追い続ける警察官もしつこい奴だと思いつつも、観ていたり・・・・・。

何か、せこい窃盗犯が、簡単に実業家になれたり、市長になれたり、するかぁ?と、思いつつも、観ていたり・・・・・・。

自由のため、正義のため、愛のため、そしてまた“お国のため”に、武器を手に起ち上がる、革命とか戦争とかは、ホントに、血湧き肉躍り、感動を呼ぶのです。

“お国にのため”と書いたら、“お肉のため”を思い出してしまいました。「お肉のため」は、映画“笑いの大学”のギャグです。“オクニとオニク”笑えます。

“真剣”は感動を呼び、真剣を“ひっくり返す”と笑いを呼ぶのです。

でも、人間、時には、お腹いっぱい感動し、感涙に咽ぶ事も、心と身体の健康に、イイと云うか、必要と云うか・・・・・・。

打楽器が、管楽器が、大合唱団の叫びが、激しく轟き、赤や白の照明が会場全体を駆け巡り、客席後方から、赤い旗を打ち振り、客席の間を行進し舞台に向かう若者達。フィナーレはホントに感動です。

客席で涙を流す女性のアップが映し出され時は、私も、一瞬、ウルウルしそうになりました。

生で観ていたら、鳥肌で、涙で、鼻水で、大変だったかも、まぁ、だからと云って、劇団四季の公演を観に、わざわざ出掛けて行くことは無いと思います、テレビで十分です。でも、生はいいからなぁ~・・・・・・。

この3時間のコンサート、料金は2万?から3万五千円(こまかい)?位の価値はあります。それを、タダで観られたのです。いゃ、タダじゃなかった受信料は払っていました。


本日は、そんな、こんなで“何となく原節子”は、お休みしました。

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“原節子を何となく” その⑤ 27年で108作品

2011年06月11日 | 原節子
昨日は、何となく、更新をさぼってしまい、一昨日の続きとなります。

まぁ、何となく“原節子”と云うことで、“原節子 あるがままに生きて”を読みつつ、綴っているわけなのです。

それで、わたしとしては、原節子と云えば「東京物語」であり、「晩春」であり、「秋日和」であり、「東京暮色」なのです。すべて小津作品で、それ以外は知らなかったのです。

今回、いろいろ調べてみたら、驚く事に戦前は51作品、戦後は57作品の合計“108本”に出演しているのでした。

デビューが1935年の「ためらふなかれ若人よ」で、最後の作品が1962年の『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(稲垣浩 監督)でした。27年間で108作品です。

それで、デビューしてから2年目、1937年の日独合作映画『新しき土』で、原節子は日本を代表する女優になったそうです。未だデビュー2年目の17歳で、12本目の作品でした。 

映画宣伝のためにドイツにも出掛けているのです。17歳には見えません。その当時でも大人びて見えたのか、歳相応だったのか?
     

確かに輝いている。


十代の頃の方が、より西欧的な顔立ちに見えます。著者の貴田さんが書いていますが、ちょっと見“宮沢りえ”かも?
     

15歳でデビューして、42歳で引退したわけです。今の42歳は、まだ、まだ、若いのですが、50年前の42歳は、永遠の処女としては、かなりムズカシイ段階に入っていたのでしょう。

“原節子と云えば小津”ですし、「東京物語」は二人の代表作品です。その小津監督との作品は108本なかで4本。原にとっては単に108分の4本ではなかったようです。

原節子67作品目、1949年の『晩春』が初の小津安二郎監督作品で、
2作目が75作目の『麦秋』1951年で、
3作目が81作目の『東京物語』で1953年で、
4作目が91作目の『東京暮色』で1957年で、
5作目が106作目の『小早川家の秋』で1961年、これが最後の小津作品となります。

小津は、その後に、「秋刀魚の味」を1962年に撮り、翌年の12月12日に頸部にできた癌で亡くなっています。

原節子の最後の作品が『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』で1962年の11月の公開、最後と云っても、引退会見をした訳でなく、後になって最終作品と云われるようになったのです。

12月の小津の葬儀では、女優原節子ではなく、本名の“會田昌江”で弔意をあらわしていたそうです。

※追記
「秋刀魚の味」ですが、中学1年の時に、浅草の国際劇場?有楽町の日劇?かそれとも池袋の映画館?そのいずれかで観ているのです。

「秋刀魚の味」の、“サンマ”を漢字では“秋刀魚”と書くのを始めて知って、妙に気になった記憶があり、数学の授業中、教科書の余白に“秋刀魚の味”と書いて、先生に叱られた記憶があるのです。

それで、その数学の教師なのですが、未だ若い女性教師で、お嬢様のような雰囲気で、明るいスーツを着て、とても可愛らしい“太陽の陽子さん”みたいな先生でした。それにしても、“おひさま”は好調のようです。

主演の真央ちゃんの“表情”がとてもイイです。とくに“驚いたとき”の表情が、たまらなくカワイイです。

NHK朝の連ドラは“戦争が入る”と、いつでも、とても視聴率がとれるのです。戦争は究極の舞台です。庶民が歴史の流れに翻弄されるとドラマが生まれるのです。

でも、しかし、小津の作品は、波瀾万丈でもなく、究極の絶対絶命でもなく、英雄豪傑の大歴史スペクタクルでもなく、単なる庶民のフツウの日常を、淡々と写し撮り、淡々と人間を描いていて、フツウにスゴイのです。

追記が長くなってしまいました。

それでは、また来週。


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北区立北中学校・桐ヶ丘あたり その①

2011年06月10日 | 東京の風景



























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“原節子を何となく” その④ 15歳の夏に

2011年06月09日 | 原節子
昨日の続きです。

『原節子 あるがままに生きて』を読みつつ、綴っています。

それにしても、“あるがままに生きる”なかなか意味のある言葉です。わたしも、あるとこの、ある場面で“あるがまま”と綴ったことがあります・・・。

本書の何処かに、彼女の言葉で語られているのか、それとも、著者が彼女の生き方を辿ることで、その言葉が浮かんできて、タイトルとしたのか・・・。

それで、昨日は、わたくし自信を持って断定的に、横浜高女を二年生の夏に中退して、女優の道を“自らの意志で選択した”と書いたのですが、著者はそうではないとの主張なのです。

何にか、著者の貴田さんが、昨日のブログを見ていたように、ページを捲ると、“7章 義兄・熊谷久虎”の冒頭で、

『原節子は野心満々で映画界入りしたわけでのではないと語っています。原が日活に入れたのは、熊谷が監督としてそこで活躍していたからです。そして演技の経験がまったくないのに、デビュー作品から主役を演じました。恵まれ過ぎていて、仕事に対する考えが甘かったと原は思い出しています。少し原節子の立場になって想像してみればすぐわかることですが、十四、五歳で、自分の未来を客観的に、もしくは、きわめて冷静に見る人がいるでしょうか。そういう人はごく稀だと思います。若い女性の働く世界が限られていた時代です。女学校を中退して、突然、すべきことのなくなった彼女、先生になる道が閉ざされてしまった彼女。芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません。』

と、わたしの説とは異なる見解なのです。

引用が長くなりました。



この文章なのですが、事実と、原節子本人の語った想いと、著者の想像と解釈と、いろいろ、まぜこぜに綴られていて、表現方法として、いろいろ問題があると思います。

まぁ、貴田庄さんは、原節子の資料をかき集めて、読み込み、そして、辿り着き、こういう表現になってしまったのでしょうが、原節子に対する思い入れが強すぎ、彼女を美化し過ぎで、客観性に欠けるのでは?と、文章から感じました。

先ず、『原節子は野心満々で映画界入りしたわけでないと語っています』なのですが、野心満々ではないが、それなりの“期待と夢と希望を”抱いて映画界に入ったと思います。

十二、三歳で、あの“マキノ雅裕監督”をして、将来の大スターと言わしめた少女だったのです。学校の成績はトップクラスでスポーツも得意で、美人で、輝き、注目されていたのです。そして、周囲に映画関係者が居たのですから、女優を目指しても、多少の野心を抱いても、何ら不思議ではありません。

次に、『原が日活に入れたのは、熊谷が監督としてそこで活躍していたからです』と、ありますが、義兄に監督がいたからと云って、何処の誰もが映画界に入ることはできません。それと『演技の経験がまったくないのに、デビュー作品から主役を演じ』は、彼女の持つ素晴らしい資質が、そうさせたのです。

次に、『恵まれ過ぎていて、仕事に対する考えが甘かったと原は思い出しています』とあるのは、後年、若かりし頃を振り返っての反省です。

戦前の映画では、美貌だけの大根役者との評価があったそうで、持って生まれた美貌だけの時代は、甘かったのです。気が付いてみたら、美貌が衰え始め、いろいろと、あったのです。

ここで、途中ですが、『芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません』と、云う結論へ導く根拠として、いろいろ述べていることに、ちょっと違うのでは? と、わたくしは、いろいろ反論しているのであります。

それで、次に、『十四、五歳で、自分の未来を客観的に、もしくは、きわめて冷静に見る人がいるでしょうか。そういう人はごく稀だと思います』、原節子は、かなり賢明な女性だったようですから、そんな稀な部類の人だった、とも云えます。

また、あるいは、映画界入りに対して、客観的に、未来とか、人生とか、そんな事まで考え決断した訳では無かった、とも、考えられます。

兎に角、背が高く、西洋的美貌で、少女の頃より輝き、周囲の注目を浴びていたのです。本人も、それなりに、早い時期から、口には出さなくとも、映画界への憧れはあったと思います。

そして、『女学校を中退して、突然、すべきことのなくなった彼女、先生になる道が閉ざされてしまった彼女』と、ありますが、これは、まったく逆だと思います。映画界入りの意志が先にあり、その為に、横浜高女を中退したのだと思います。



“先生の道を閉ざされた”とありますが、教師になる願望はそれほど強いものではなく、よくある“大きくなったらバスの車掌さん”的なものだと思います。

一般的にも、小学生の頃は教師は身近で、一時期の憧れの的です。貴田さんも別な章でそのような表現をしています。なのに、ここでは、かなり強い教師への思い入れがあったように表現しています。どっちがホント?

兎に角、『芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません』との結論を導く為に、いろいろ動員しているのです。

映画界入りは、彼女自身の言葉で“周りに決められた”と云ったとしても、そのまま鵜呑みにしてはいけません。彼女は謙虚であり、そして、また、頑固で、賢明で、自分の考え方を主張する性格だと・・・・・・思います。

水着姿とか、濡れ場は、絶対に拒否したそうですから、映画界を去り、原節子から會田昌江に戻ったのも、會田昌江から原節子になったのも、すべては彼女の意志だと、そう考えた方が・・・・・・。

今日は、ちょっと、何か、かなり、ゴタゴタと自説を述べてしまいました。

それでは、また明日。

※只今の空間線量は 0.14μSv/h です。最近は短時間の間にかなりバラツキが見られるのです。何か、危険な兆候?



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“原節子を何となく” その③ 自らの選択

2011年06月08日 | 原節子
昨日の続きです。

『原節子あるがままに生きて』(貴田庄著 朝日文庫)を読みつつ、綴っています。

それで、横浜生まれで、二男五女の七人姉弟の末っ子でした。次女は日活の女優(大部屋俳優?)で、監督の熊谷久虎と結婚。この姉夫婦の存在が女優“原節子”の誕生のきっかけとなったようです。

次男は映画カメラマンだったそうで、やっぱり、周囲には、それなりに映画関係者がいたのです。なるべくして生まれた、映画スターだったのです。知りませんでした。

学校の成績もよく、小学校では学年でトップを争う成績だったそうです。得意科目は数学、体操も大好きで特に水泳が得意だったそうです。頭が良くて、スポーツも得意で、そして美人、小さいときから、とても、とても、目立っていたそうです。

小学校の頃は、外国に行くこと、教師になること、そんな夢を抱いていたようです。


小学校は横浜市立保土ヶ谷尋常小学校、卒業して“私立横浜高等女学校”通称“横浜高女”に入学します。このあたりから、いろいろあって女優の道に進むのです。

いろいろと云うのは、彼女の第一志望は通称“平沼高女”と云う、県立の高等女学校で、こちらの方がそれなりの名門だったようです。成績的には受かる筈だったのですが、入学試験の当日に風邪をひいてしまい、試験に失敗したそうなのです。

四年制の横浜高女を二年生の時に中退します。理由は、私立で授業料が高かったと云う経済的なこと、また、第一志望ではない、第二志望の学校だったこと、らしい?のです。

そのあたりの事情を、彼女自身が語っためずらしい記録があるのです。これは、1959年2月20日から3月27日までの週一で6回、東京新聞夕刊、「早春夜話」と云う記事で、

『・・・家の事情、主として経済的なことから急に女優なることに周囲で決められてしまい、横浜高女に一年とちょっと通ったきりで十五の年の八月に東京へ・・・、兄(熊谷久虎監督)夫妻の家へ引き取られ・・・』

こんな風に、語られています。たぶん、これは原節子の話を記者が聞いて記事にしたものでしょう。


これは私の推測ですが、中退したのは家の経済的理由ではなく、望まない学校で勉強しているよりも、“周囲に望まれていた”女優の道を“自らの意志で選択した”ものと思います。

自ら女優の道を選んだ、何てストレートに語ると、“女優になることは私の美貌であれば当然でしょ!”何て思っていた“美貌を鼻にかける嫌な女”何て、世間に思われる事を避けたのです。

俳優とか、歌手とか、タレントなんかで良くある話しで、姉弟や友達が勝手に応募したとか、応募した友達に試験会場に付いていったら、自分の方が選ばれたとか、そんな類の話を良く耳にします。でも、これは、ほとんど嘘です。謙遜しているようで、明らかに自慢しているのです。

でも、しかし、原節子さんの場合は、明らかに謙遜です。でも、彼女の性格から、女優の道は自らの選択だった。これは間違いありません彼女は小さい時から、いろいろな人に“望まれて”いたのは確かなのです。義兄の熊谷監督は13歳のときに原節子を見て、

『・・・まだほんの子供で色も黒く、眼をギョロギョロさせて居ましたが、私たちに応待する動作に何となく芸術的な感受性が秘められて居る気が・・・』

と、1936年11月26日の朝日新聞夕刊に語っているそうです。

また、あ有名な“マキノ雅裕監督”も、

『・・・初めて会ったのは、またぢ彼女が小学校の五、六年生の頃だったと思う。・・・ひと目見て私は驚いた。ただただ“素晴らしい少女”の一言につきた。この娘があと三年もすれば、きっと“素晴らしい女”になるにちがいないと思った。もし、女優になったら、育てようによっては、大スター間違いなし、という印象を持った』(『マキノ雅裕女優志・情』1979年草風社刊)

こんな風に語っています。まぁ、1979年に書かれたものですから、後からならば、どうでも云えるのですが・・・。

兎に角、小さい時から、プロの眼から見ても、相当に輝いていたのです。そのような評価は、当然、原節子の耳にも入っていたでしようから、彼女自身もそれなりに意識はしていた筈です。


そんな、こんなで、15歳の夏、彼女は、女優の道を選んだのです。


それでは、また明日。

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“原節子を何となく” その② 混血説?

2011年06月07日 | 原節子
昨日の続きです。

原節子、本名は“会田昌江”、出生地は横浜、大正9年(1920年)6月17日生まれ。映画へデビューしたのは15歳の時でした。身長は「五尺二寸五分≒約160㎝」で当時としては大きな方でした。

当時の地方紙“横浜貿易新報”に、“日活の銀幕へ 横浜高女から 會田昌江嬢 近代的魅惑の美少女 義兄監督の手引きで”と報じられています。“手引き”がスゴイです。

※15歳の原節子です。不鮮明ですが、どう見ても二十と、五、六歳に見えます。デビュー前からスターの風格。

まぁ、“手引き”された当時の映画界と云うか、活動写真屋の世間的な評価は、それほど高くはなかったと思います。芝居とか、役者とかの世界は、堅気の商売としては、未だ、未だ、だったと思います。

デビュー当時の作品は、ほとんど残っていないのです。文化とか、芸術とか、保存とか、記録とか、世間的に映画はまだ、そういう分野ではなかったのです。

近代的と云うか、当時としては、かなり外国人と云うか、欧米人的な美貌だったそうです。私が彼女をはじめて観た「東京物語」で、これって、美人なの?と思いました。

眼が大きく、口も大きく、全体の造りが大きく、いつも画面で歯を出して笑っているイメージで、美人と云われれば、まぁ、そうなのかなァ~・・・なのでした。

下の三枚は、“晩春”の彼女です。1949年の作品ですから29歳の頃です。今時の女性と比較して、かなり老けてみえます。


三十代後半に見えます。確かに、当時としては、かなり洋風です。著者の貴田庄さんは今の女優で云えば“宮沢りえ”を思い浮かべるそうです。


山本薩夫監督が『母の曲』を撮った1937年頃、原節子を見て、「・・・顔は綺麗なのだが、どうも日本人みたいではない。目は青くはないが大きく、眼窩がくぼみ、鼻が高く、骨格は外人である。背も大きい。三代くらい前に外人の血が混じっているのでは・・・」と、思ったさうです。

原節子混血説なのです。

いま、じっくりと見ると、やっぱり、綺麗です、美人です。やっぱり、日本の映画界を代表する女優です。

そこで、原節子の家族なのですが、父藤乃助と母ナミの間に生まれ、二男五女の七人姉弟でした。原節子は末っ子でした。昔は今より貧しいかったのですが、日本中で兄弟姉妹は多かったのです。

昔は貧乏人の子だくさんだったのです。今では、貧乏人も、金持ちも、理由は異にして子供を造らなくなってしまったのです。少子化は人口密度が高い為に起こる、生物の防御反応なのかも?

それで、混血説ですが、原節子の父の容姿も洋風だっだったそうです。

“本地陽彦著”『原節子「永遠の処女」伝説』で、原節子の幼馴染みの女性三人が『モダンで彫りが深く綺麗で、何代か前に北欧系が入っている話しを聞いた・・・ちょっと日本人離れしていた・・・』と、証言しているようです。

その父の父、お祖父さんは、伊豆は下田の出身らしいのです。下田と云えば、ペリー来航で、外国に開港していた土地ですから、外国人の血が混じる可能性が高いのです。

まぁ、そういう謎は、謎のままにして、いろいろあって、女優として、神秘的で、魅力的なのだと思います。

それにしても、90歳の原節子さん、今は、何処で、どんな暮らしをしているのでしょう?時々は、自分の主演映画など観て、想い出に耽っているのでしょうか?鎌倉にお住まいとの噂があるようです。

それでは、また明日。

※現在の空間線量は 0.09μSv/h です。





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“原節子を何となく” その① 生きています!

2011年06月06日 | 原節子
それにしても、放射能が舞う、とてつもないご時世で、何となく、原節子の時代が懐かしく想えるのです。

懐かしいと云っても、原節子の時代は1940年代から60年初頭までですから、1950年生まれの私がものごころがついた頃には、過去のスターになっていました。

そんな、モノクロームの原節子を懐かしく想いつつ、先日、たまたま本屋の棚の端っこで「原節子 あるがままに生きて」(朝日文庫2010年10月15日第10刷)と云うタイトルの文庫本を見つけたのです。


これは原節子本人が書いたものでもなく、聞き書きでもなく、“貴田庄”と云う方がいろいろ調べて書いたようなのです。貴田さんが何者なのかは判りません。

兎に角、これから読んでいくのです。読みながら、感想めいたことを書き綴ることにします。兎に角、原節子と聞いただけ、見ただけで、何となく、何となく・・・・・・・なのです。

※1949年制作「晩春」

先ずは、本の「はじめに」として、「天は二物をあたえず」とあり、ことわざの例外として、原節子は“美しく賢明な女優であった”と断言しています。貴田さんは、身近で見ていたのでしょうか?

成功した女優は総じて賢明な人が多いようだとも云ってます。高峰秀子、岸恵子も二物だと云ってます。高峰さんは知りませんが、岸さんについては、私も頷けるのです。

ところが、著者は、続けて、女優から政治家になった、山口淑子、扇千景、山東昭子の名をあげて、“三物”を与えた人物と一旦持ち上げて、“政治権力と女優は似合わない代物だァ!”こき下ろしています。

私としては、まぁ、政治家と云うよりも、政権与党の“人寄せパンダ”ですから、“三物”ではなく、二物を政治的に利用しただけだと思います。もしも、野党の政治家として政権与党を向こうに回して、闘いを挑んだとしたら、それは、確かに“三物”だと思います。

それで、「彼女が残した雑誌や新聞におけるけっして多いとは云えない発言から、原節子は大の読書家だと推察しています。彼女の言葉は真剣で気品に満ち、時としてユーモァに溢れている」そうで、それは読書の影響だそうです。

「それらの発言と、出演した映画をつなぎ合わせ、原節子の人生を辿っていくと、彼女がいつも自分を失うことなく、人として生きることに真面目で、品格ある人生を“おくっている”こと痛感します」

※1949年制作「晩春」

「本書は原節子という、日本が生んだ偉大な女優の素顔の人生について語っています。彼女の持つ美しさや品格が、外見だけのものではなく、原節子流の生き方に、深く関係あることを明らかにしていきます」

著者の引用が長くなりましたが、そうとう入れ込んでいるようです。それと、この文章を読んでいて気が付いたのですが、「品格ある人生をおくっている」と現在進行形になっているのです。

そうなんです。原節子は今でも生きているのです。大正9年(1920年)6月17日生まれですから、もうすぐ91歳になります。それと、あまり関係無いのですが、私の母は89歳で元気です。

読みつつ、書き綴る、はじめての方式、本日は初回ですので、このへんで・・・・・・。

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政権与党は強力接着剤

2011年06月03日 | 世間話し
いゃ~、まいりました。9回の裏、ツーアウトで逆転さよなら劇。

鳩山さんは、いつも、いつも、思わせぶりで、最後の最後で“アレェレェのレェ~~~”なのです。

本会議前の民主党代議士会を生中継で見ていました。先ずは、菅総理が、原発や震災に“目途”がついたら若い世代に譲るみたいなことを発言。

それを受けて、鳩山さんがいの一番に手を挙げて、“菅さんの重大な決意をお聞きし・・・野党提出の不信任案には団結して立ち向かおう”みたいな事を発言し、出席者ほぼ全員のパチパチパチで終わったのです。

結果として、不信任案は大差で否決。ホントにアレェレェのレェ~~~の一幕でした。

解散総選挙は不可能であることは、皆さん判っていたのです。民主党の分裂回避、菅総理辞任、小沢排除で書かれたシナリオなのです。

鳩山さんの“嘘つき”発言は、どうも、何か匂います。こんなことは予想できたことですから、もし、予想できなくて本音であったならば、ホントに政治家には向いていません。

まぁ、わたしとしては、菅さんでも、谷垣さんでも、原発、震災対応に大して差はないと思っています。

原発対応は特に、原発御用学者のアドバイスしか無いのです。

放射能は漏れないか?と聞けば、漏れないと答え。
水素爆発はしないか?と聞けば、水素爆発はしないと答え、
メルトダウンは起きないか?と聞けば、メルトダウンは起きないと答える。

でも、しかし、水素爆発は起き、放射能は漏れ、メルトダウンは起こり、圧力容器も、格納容器も破壊され、汚染水はだだ漏れ状態。これでは、誰でも、混乱し右往左往するのです。

まぁ、兎に角、民主党の分裂は一先ず回避されたのです。政権与党はそうは簡単に分裂しないのです。政権与党でいる事は、それは、それは、大きな価値があり、魅力的なのです。

それにしても、小沢派としてテレビ画面に登場する、あの衆議院議員“松木謙公さん”ですが、何とも、人相風体は悪いし、話し方、話しの内容、言葉の選び方、とても、とても、知性とか、品格とか、風格とか、そういう関係とは、まったくもって縁の無い方に見えます。

これが小沢派を代表しているとは、小沢さん、それでイイと思っているの? 優秀そうに見える方は居ないのですか? 

政治主導と云っても、官僚の方が一枚も、二枚も、上手のようですし、政治家も官僚上がりが増えているし、学者も官僚上がりが増えているし、もう、この国は、官僚支配が究極を向かえ、そろそろ、破滅に向かっているのかも・・・・・・・。

それで、昨日の晩から、鼻の奥が乾いてヒリヒリしていたのですが、今朝からは、一転して、クシャミと鼻水タラタラ状態で気分は最悪なのです。書き始める前に鼻炎カプセルを飲んだのですが、未だタラタラ状態は続いています。

でも、しかし、昨日の晩、鼻の奥のヒリヒリ状態のとき“これで、鼻血なんか出たら、放射線障害の初期?ヤバイ!”何て事も、考えたりしていたのです。クシャミと鼻水タラタラはそれなりに安心しています。

まぁ、それにしても、それなりの政治家を望んでも、国民のレベルに見合った、それなりの政治家しか現れないのが世の常。確かに、松木謙公衆議院議員は、それなりに国民的政治家なのです。

謙公さん、議場での“男泣き”は、演歌でした。

以前、“あんたは大将なんだから”と谷垣さんに腕を抱えられ、不信任決議案に賛成投票するのを止められて、涙ぐんだ“加藤さん”より、男です、絵になっていました。

松木謙公さんも、いろいろ経験して、あと10数年経てば、味のある顔になると思います。あの収監中の鈴木さんも、若いときは何とも情けない顔でしたが、今では、味のあるイイ顔になりました。


薬の所為か、何だか、訳の分からない話になってしまいました。


以上でおわり。




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