歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

春日部 ⑳ 最終回は私的「わび・さび的」有形登録文化財

2018年04月24日 | 街の風景

前回の続きで、最終回となります。

日光道中粕壁宿歩きは前回で終わりました。

今回は、脇道、細道、裏道、散策です。

今回は、ガイドパンフには無い、わたし的な「わび・さび建築」を探して、ウロキョロと彷徨います。

こちら、民芸茶屋の「三佳」さん。一見、それなりに「枯れた趣」があるのですが、じっくり見ると、店頭に飾られた民芸を装う小物類が、なんとも、うら寂しく朽ちかけつつあるのです。プランターの植物はホントに枯れ果てていました。

人の住んで居る気配を感じませんでした。塀や、雨戸、外壁の板に、とても、とても、「わび・さび」が漂っています。

この木戸が、なんとも、イイのです。

この人通りの無い、うら寂しい風景。

この大谷石の蔵と云うか、倉庫と云うか、大谷石の劣化はそれほどでもなく、建てられたのは昭和後期?

大谷石と比較して、取り付けられている鉄製の金具、かなり錆が進行しています。 

こちら、判子屋さんです。とても、懐かしい風景です。 

鉄製のアングルで造られたプランターの棚が、陽ざしに、風雨に、晒され塗装が剥がれ、錆が浮き出し、ワビ・サビが漂います。すべての植物は枯れ果て、全体としてひとつのオブジェとなっています。

こんな処に、銃砲火薬店です。営業はしていない?ようです。店倉的な造りになっています。波板トタンの塗装の退色、剥がれ、錆具合が「わび・さび」です。

割れた硝子にベニヤ板の補修、こちらも「わび・さび」です。

タワマンを背景にして、「わび・さび」は、より強調されます。

こちらは、何と、こんな処に、こんな風景の家具屋さんが出現。IDCも、匠大塚家具もビックリです。

店先の風景には、家具造りに対する、それなりの、拘りと云うか、思想と云うか、いろいろ反映されてのディスプレイ? 

誰かの、それなりの紹介でも無ければ、ドアを開ける時、それなりの勇気がいります。

家具と云えば、まあ北欧です。オーダー家具もやっているようです。

アートでクラフトですから、相当に難しそうです。オーナーはやっぱり長髪を束ねて、髭を生やしている雰囲気。

スエーデン家具で、何故か?店名はフランス語「Bon Vivre」さん、家具の町春日部で、これからも頑張って下さい。

はい、これで、「わび・さび的・私的・有形登録文化財」のご紹介を終わります。 

いよいよ昼食です。本日は、家を出る時より、昼食は「たぬきそば」決めていたのです。

日本そば屋に入ります。時間は午後の1時20分。テーブルが二卓、カウンターにはイスが5脚ほど、小上がりには小さな座卓が二脚。そんな店です。

それで、私が店に入ってから数分後、50代の見るからに常連と思われる男性客が一人入って来てたのです。

店の入り口近くに置いてあったスポーツ紙を掴み、カウンターの一番奥にイスに腰掛るなり、「餃子にビール」と告げたのです。 

一瞬、そば屋で餃子かよ!と私は静かに呟いたのです。やっぱり、本日は店の選択を誤ったと思ったのです。常連が餃子ですから、これは、ちょっと拙い雲行き。

そして、運ばれて来たタヌキ。

揚げ玉の中に浮かぶインゲンの切れ端、すべてを象徴していました。

そば、汁、量、価格、すべてにおいて、マルちゃんの「緑のタヌキ」が勝っていました。

粕壁の風景を思い出しつつ、しみじみとタヌキを啜ったのでした。本日最後も、わびさびでした。

はい、これで、20回続いた春日部・粕壁シリーズは終わりとします。

長らくお読み下さってありがとう御座いました。

それでは、また次回まで。

 

追記、先日の胃の生検ですが、結果は良性でまったく問題無しでした。胃の表面の色と云い、ヒダの状態と云い、正常な胃の見本写真として教科書に載せたいぐらいとの、お言葉を医師より頂戴しました。 

 

 

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春日部 ⑲ 最勝院は終着駅か?始発駅か?そしてトテ馬車か?テト馬車か?

2018年04月22日 | 街の風景

前回の続きです。

粕壁宿のどん詰まりに到着しました。

最勝院で、粕壁宿は終わり、日光道中は右に折れ曲がります。見通しを悪くして、敵の攻撃の妨げとしたそうですが、何か、それほどの効果が、有るや?無しや?
 

こちらに折れて、道中は続くのです。

こちら、左手方向に折れると線路に突き当たります。

わたしは真っ直ぐ行って最勝院に参拝します。

山門をくぐり境内に一歩入って感じたのは、広い空間ですが、緑が少ないのです。お寺として、何となく、安らぎ感に乏しいのです。

植えられている木々は、落葉樹がほとんどで有ることに、起因しているのでした。もう少し季節が移ると、されなりの風景になるのでしょう。

わたしとしては、紅葉に彩られたお寺もいいですが、お寺には、広葉樹で、常緑樹で、照葉樹がいいと思います。

 はい、境内から粕壁宿方向を眺めます。それにしても、ずっと、ずっと、気になっている、この高層マンション、どこかしこで、写り込んできます。かなり、かなり、目障り。

入る時に見逃した、山門前の案内板に目を通します。

千住と粕壁を結んでいた 「千住馬車鉄道」が、「この最勝院」を「起点」としているとの表現。まあ、そう云いたい気持ちは、それなりに理解できます。

でも、調べて見ると、千住馬車鉄道は、1893年(明治26年)2月7日、現在の日光街道の千住新橋から越ヶ谷までが開通し、その後、6月1日に粕壁の最勝院付近まで開通したのです。

と、云うことで、千住宿から延びて来て粕壁に辿り着いたのですから、これは、だれが、どう見ても、千住が起点で粕壁が「終点」となります。

それで、この馬車鉄道ですが、1896年(明治29年)には、営業不振で廃止されたのです。たった3年の命でした。

そして、その4年後の明治33年に東武鉄道(現在の伊勢崎線)が開業したのでした。

時代の変化は早かったのです。世の中が、どちらの方向に向かっているか、”※長~~~い目!”で、先を見ていないと、事業に失敗するのでした。※小松政夫のギャグ

それで、馬車鉄道を調べていて判ったのですが、橋上公園から見えたこの土手壁のレリーフですが、

当時の馬車鉄道を画いていたのでした。

作者は、天宮一正さんで、タイトルは「滝と噴水」(テト馬車)となっていました。で、「滝と噴水」がよく判りません。そして、「テト馬車」もよく判りません。

http://www.yuugaku-kasukabe.jp/4%20tenjishitu-exhibition/1%20tyoukoku-kasukabe/chokokumeguri.htm#sono1

テト馬車は「トテ馬車」の誤記? と思ったのですが、いろいろ調べたのですが、「テト馬車」も「トテ馬車」も両方正解だったのです。

馬車の運転手?が吹く、真鍮のラッパの音が「トテトテ」と聞こえた人達と、「テトテト」と聞こえた人達が居たのでした。それで、同じ馬車でも、二つの表現になったようです。

トテ派と、テト派の両派は、明治の頃より、自派の正統性を主張したり、相手を攻撃したり、特に争うこともなく、仲良く現在に至っているようです。

わたしとしては、ずっと、ずっと、長きにわたり、馬が引く馬車は「トテ馬車」と、堅く、堅く、信じていたのですが、今回、脆くも崩れ去ったのでした。

考えてみれば、トテ馬車もテト馬車も、単なる愛称ですから、呼び方には難しい規定がある筈もなく、どちらでもイイのでした。

話しが、重箱隅的な方向に行ってしまいました。

話しは、戻ります。

ハイ! 最勝院の門前にある仏具屋さんです。横断歩道を渡り、仏具屋さんの店先を通って、線路方向に歩きます。

この先は、次回とします。

 

それでは、また。

 

 

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春日部 ⑱ 浜島家住宅土蔵は登録有形文化財で東京タワーも!

2018年04月20日 | 街の風景

相変わらず、前回の続きとなります。

春日部で、通称は旧日光街道で、徳川幕府お墨付きの正式名称は「日光道中」で、、その昔は日光海道の、粕壁宿を歩いております。

前回は、案内板の説明に、図らずも、楯突いたりして、どうも、あら探し体質が、この身に染みついているようです。

これは、長年、品質管理で糊口をしのいできた職業病と云うか、その後遺症と云うか、持って生まれた体質と云うか、兎に角、自分なりに、それなりに、仕方がないものと、そう、受けとめているのです。

なんか、冒頭から、とても、弱気な発言になっています。実は、何を隠そう、つい先日、人間ドックの受診の際、胃の内視鏡検査で表面に突起があり、組織を採取したのでした。

悪性なのか?良性なのか?その判決が明日下るのです。まあ、まあ、大丈夫と楽観はしているのですが、それは、それで、それなりに気になるのです。

まあ、気にしても、気にしなくても、結論が変わることは無いのです。明日の11時半になれば分かることです。

はい、それでは、粕壁宿とまいります。

奥まったところに白壁の蔵。蔵もそれなりにいいのですが、

左手の母家の佇まいの方が、とても魅力的です。ガラス戸の格子の造りが、昭和初期の香りを漂わせています。母家も蔵もパンフのコースには入っていません。

こちらの丸八酒店の裏に母家が見えるので、丸八さんのお宅でしょうか?

蔵の方は間違いなく丸八さん所有のようです。 蔵の両開きの格子扉は洋風です。

こちらは、コースには無くて、パンフの絵地図には載っている「永島庄兵衛商店」となります。

このお宅の屋根では、こんなお方が睨みをきかせています。守り神の「鍾馗(しょうき)様」です。鍾馗様と云えば、端午の節句でお馴染みの方です。中国の道教系の神様です。

店頭には写真と説明文が置かれています。それによると、『永島庄兵衛商店は江戸初期より米穀商としてこの地で商いを行っていた、周囲には多くの米穀商があった、現在残っているのはここだけ、建物は明治の初期のもの、現在も営業中』だそうです。

 

そして、ちょっと先には、この黒漆喰の重厚な蔵。これが、春日部市で唯一の「 国の登録有形文化財」となります、「浜島家住宅土蔵」です。登録は2015年3月26日です。

 

「登録有形文化財」は、国指定の「重要文化財」とは異なります。 登録数は今年の3月27日現在で11,690件だそうです。

原則として築50年を過ぎて、①地域の歴史的景観に貢献、②時代の特色を表した造形、③再現が困難、のいずれかが基準。だそうです。

50年は何か、とても、とても、つい最近だと思います。今から50年前と云えば、1968年ですよ、その頃の物で①・②・③に当て嵌まるものは皆無では。

たぶん法律制定時の時代感覚だと思います。制定当時の50年前は昭和初期になるのでは?

それで、調べて見たら、この法律は平成8年10月1日に、文化財保護法の一部を改正して、「文化財登録制度」が導入されたのでした。今から、たった22年前でした。

22年前の50年前は、今から72年前で1941年で、昭和16年ですから、まあ、まあ、昭和初期ですから、それなりの時代です。

でも、現時点で、わたし的には、有形文化財保護の対象は、少なくても、7~80年から100年ぐらい経過して初めて保護の対象だと思うのです。私も生まれて68年。つい最近なのです。

それで、最近の登録状況を調べて見たら、やはり、新しくても昭和初期からで、明治、大正が大半でした。運用的には築後50年は適用していないようです。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/yukei_kenzobutsu/pdf/r1392281_21.pdf

その中では、2013年に6月21日に登録された東京タワーだけは例外です。1958年完成で、2013年時点で築後55年でした。まあ、東京タワーは当然OKです。

それで、登録の特典ですが、保存や修理の設計監理費の補助や減税の処置が受けられるそうです。また、内装改修や一部の外観変更に届け出はいらないそうで、なんか、かなり緩いのです。

それにしても、重量感、重厚感がタップリとあります。

でも、また、何か、とても、新しい感覚の、新しい、最近できた気がしないでも無いのです。外装はつい最近?もしかしてモルタル仕上げですか?

それにしても、何重にも重ねられた、この扉の重量感は半端ではありません。

鬼瓦の前には家紋ではなく「濱」の文字。

浜島家の住宅土蔵、コレまで観て来た蔵よりは、確かに見応えがありました。 

因みに、春日部市の有形登録文化財はもう一件あり、2006年3月27日に登録された「新井家住宅主屋 」です。

こちらは、市街地からかなり離れた春日部市倉常757-1にあるそうです。こちらは江戸時代に建てられたそうです。

詳細はこちら 
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/185333  

こちらのページに建物の写真が載っているのですが、何処をどう見ても、江戸時代の建物には見えません。窓枠の白いアルミサッシが目立つ、どう見ても十数年前か、数十年前の建物としか見えないのです。何か、よく分からない有形登録文化財です。

 

はい、こちらが、粕壁宿のどん詰まり「最勝院」となります。

 

粕壁宿歩きは、東陽寺に始まって最勝院でお終いとなります。粕壁宿は距離にして1.1㎞でした。

でも、しかし、まだ、この春日部シリーズは、あとたぶん、2回ほど続きそうです。次回は、最勝院を少し触れて、裏道、横道に入ります。

そして、昼が近づいたので、歩く見る食べるの「食べる」もあります。

それでは、また次回。

 

 

 

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春日部 ⑰ 粕壁宿案内板の海道・街道併用説に異議あり!

2018年04月18日 | 街の風景

前回の続きです。

橋上公園を後にして、日光道中に戻ります。

これをまっすぐ行くと東武伊勢崎線の春日部駅東口に突き当たります。この駅からのメインストリートは車道も歩道も広くて、落ち着いていて、雰囲気があり、ホントに、ホントに、いいのです。気に入りました。

画面中央からすこし右に寄った処の瓦屋根に白壁の建物、遠くからでも、誰がどう見ても、間違いなく、それなのでした。

粕壁宿の面影厠?です。当然、わたしも、しみじみと用を足したのでした。

それにしても、硝子張りのドアを開けると、正面にコレですから、フツウは外から見えるところは手洗い場が設置されています。それにステンレス製はわたしの好みではありません。やはり、金属よりも陶器です。

 

用足しをして交差点手前より橋の方向をふり返ります。こちらからは厠は木立で遮蔽されています。

ビルの前に立つ彫刻は「月に吠える」 手塚登久夫の作品です。コメントは長いのでこちらで確認して下さい。

http://www.yuugaku-kasukabe.jp/4%20tenjishitu-exhibition/1%20tyoukoku-kasukabe/chokokumeguri-2.htm#teduka

パンフAコース⑩番の「日光道中粕壁宿の案内板」です。

それで、案内板の「日光街道・日光海道・日光道中」の説明ですが、江戸時代の初期には、「街道と海道の両方が表記されていた」と、あるのです。

でも、しかし、上記の説は、わたくしが一日を費やして調べた結果では、見たことも、聞いた事もありません。

以前にも触れたのですが、江戸時代の初期には、甲州海道とか、日光海道とか、奥州海道とか、「海道」表記であり、いろいろな歴史書にも、「海道」表記がフツウのです。極々まれに「街道」の表記はあるそうです。

それでも、日光海道が日光街道と表記されたとの説は、見たことも聞いたこともありません。

もしも、です。「街道・海道」が併用されていたのならば、海も無いのに「カイドウ」おかしい、と云うならば、「街道」で統一されるのが自然です。「道中」なんて事にはなりません。

ですから、明治になって「道中」という、不自然で、誰も使わない言葉から、江戸初期からずっと、ずっと使われていた「カイドウ」と云う読みに合わせて、正式に「街道」が採用されたとの説がフツウなのです。

海道、街道の表記についての研究は、こちらが一番かも、

http://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_04_01.pdf

それとです。この案内板ですが、いったい誰が立てたのでしょうか? フツウは教育委員会とか、観光協会とか、管理責任の所在と、設置年月日が記載されています。名無しのゴンベイさんです。

あっ!今気が付いたのですが、もしかして、裏にそのへん事は書いてあったりして!そうであればゴメンナサイ。

どうも、最近は、注意力が散漫になりがちで、記憶力も怪しい傾向なのです。なんだかんだ云っても、やっぱり歳には勝てない? でも、まだ、体力は自信があります。視力と聴力には自信が無くなりつつあります。

またしても、興味のない方には、とても、とても、退屈な”重箱隅的”な”小言幸兵衛的”なお話になってしまった。 

今日は、ここらで、おしまい。

 

それでは、また。

 

 

 

 

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春日部 ⑯ 古利根公園橋は素晴らしい!そして橋上の彫刻たち! 

2018年04月16日 | 街の風景

前回の続きです。

現在、かすかべ大通り(旧日光道中)と公園橋通りの交差点にいます。右に曲がり古利根公園橋に向かいます。

それで、地図にあるように春日部には、古利根川に、古隅田川に、ちょっと離れた越谷には元荒川が流れています。そして、旧日光道中で、旧とか、古いとか、元とか、いろいろな過去が名前にくっついています。

それにしても、長ったらしい「大落古利根川」の名称ですが、「大落」っていったい何?なんて読むの?と思ったのでした。

大落を調べてみら、農業用排水(捨てる・落とす)路の意味で、幹線排水路なので「大落」と書いて「おおおとし」と読むそうです。そうすると支線は「こおとし」と云うこと?

地元の方も、いちいち「おおおとしふるとねがわ」何て云わないと思います。慌てて云うと舌を噛みます。

と、云うことで、”おおおとしふるとねがわ”の名称には、川の用途と歴史が詰め込まれていたのでした。

大した”落ち”のない”まくら”でした。

それでは、古利根公園橋に向かいます。車道側には街路樹が植えられ、根元には枯山水的な仕掛けが施され、広い石畳の歩道に、脇には白壁の蔵。そして、青い空と白い雲、なかなかの風景です。気に入りました。

橋が見えてきました。おばあちゃんも元気に歩いています。

公園橋です。

う~~ん。かなりの開放感です!気持ちいい~~!い~~い眺めです!

こちらが、橋の、公園の、メインモニュメント! 

パンフによると、

『中央に”県鳥”の白小鳩をデザインした風見鶏に、麦わら帽子をイメージしたアーチ。光と風をテーマにした全長79㍍の橋上公園です。市政30周年記念事業として昭和59年に建設されました』 

と、あります。昭和59年と云えば1984年で、いまから34年前、以外と古かったのです。見たときはかなり最近できたような気がしていたのです。

それにしても、しかし、”市政”の30周年で、メインモニュメントのそのまた中心に、”県の鳥”のシラコバトなんでしょうか? ちょっと理解に苦しみます。

春日部と云えば、藤の牛島が全国区です。私としては藤の花房をデザインしたものが、ここには相応しいと、思ったりしたのです。

それと、もうひとつ、序でに、云いたいことを云ってしまいます。

アーチの下と、少し離れてあるカーポートの屋根みたいな、雨よけ的?日除け的?設置物は、全体の景観から浮いています。もう少し工夫があっても?何て思ったりしたのです。

橋上公園はとても、気に入ったので、つまらない事を云ってしまいました。橋上公園イイです!すばらしいです!

こちら、 桑原巨守さんの作品「夏」

作者コメント
「輝く太陽、爽やかな涼風、咲き乱れる野の花高原にすくっと立つ少女 私の抱く夏のイメージを彫刻にしてみました」

ださうです。橋上公園にピッタリの彫刻です。

こちらは、齋藤肇さんの作品 「春陽」

作者のコメントはナシ。

春の陽に日除けの帽子で素っ裸。ホント!彫刻には女性の裸はよくあるのです。美しさの象徴として? 神は、神の姿に似せて、人間を造った? 美しく完璧な姿は、神のお姿? 西洋文化の直輸入でいいの?

こちらは、「思い出」 作者は山本正道さんです。

作者コメント

「誰もが持っている遠い記憶の中の風景を、物静かなフォルムの中に刻みつけました」

汚れを知らない少女、まさに神のお姿。両手を胸にあてた仕草を見つめていると、おじさんとしては、目がウルウルしてしまいます。

最後はこちら、「ジーンズ・夏」作者は佐藤忠良さんです。

作者コメント 長いです。

「若い娘達がジーンズ姿で歩くのを見るたびに硬い木綿と肉体とが織りなす皺の起伏が呼吸しているようにみえ、彫刻にしてみようと土を手にしたのが1970年の「ジーパン」という1メートルちょっとの作品であった。この小さな彫刻が展覧会で多少の評価があったようで、当時似たような作品が他の展覧会にもチラホラしたことがある。
以来、私はジーンズの女性を20体ほど彫刻にしてきている。この他に私には帽子を被った作品もいくつかあるけれど、作品にこうした小道具めいたものをあしらうと、ときに風俗彫刻に陥ることがあるので、その辺のストレスの闘いが、そのたびごとに私の大きな課題になった。この「ジーンズ・夏」は、そうした課題の中で制作したひとつで、1984年の制作である」

いろいろ大変だったようです。それにしても「風俗彫刻」なんて言葉があったとは、まったく知りませんでした。それにしても、胸の垂れ具合がリアルです。モデルさんの胸をそのまんまですか?

※彫刻の詳細はこちら・・・http://www.yuugaku-kasukabe.jp/4%20tenjishitu-exhibition/1%20tyoukoku-kasukabe/1%20chokoku%20top%20.htm

いちおう、橋上公園の彫刻達はこんな感じでした。

兎に角、橋まで続く道、そして、橋上公園、とても、とても、ヨカッタ!です。

橋上公園を眼下に望みつつ、まあ横からでもいいですが、軽い食事や、お酒など少し頂ける、素敵なカフェなどあったら、もう最高です。

そろそろ藤の花が咲く季節、調べたら今年は例年より開花が早いようで、そろそろ見頃を向かえたようです。

それでは、次回また。

 

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春日部 ⑮ 粕壁宿の蔵造りの前に立つ「道しるべ」の裏書きに天保の大飢饉の影響を見る!

2018年04月15日 | 街の風景

前回の続きです。

粕壁宿を歩いています。 

今回、やっと、春日部シリーズ15回目にして、宿場町の面影を残す風景に辿り着きました。

青い空に白壁の蔵です。蔵と云っても倉庫ではなく、蔵造りの住居兼店舗なのです。所謂、店倉です。隣の灰色の蔵は正しく倉庫。Aコースの⑧となります。

パンフの説明では、明治初期に造られたとあります。「田村荒物店」とありますが、営業はしていない?ように見受けられます。

白い蔵と背景の松の枝、なかなかの風情。

明治の初期とすれば、150年ほど経過している訳です。たぶん、外壁はかなり手が加えられており、白漆喰と云うよりも、白のモルタルで塗られているように見えました。

それは、それで、問題は無いと思います。鬼瓦の前にある「×」マークは家紋です。「丹波・丹羽筋違」のようです。戦国武将に繋がる家紋です。

蔵の前には、パンフレット⑦の「道しるべ」が立って居ます。元は別なところにあったものをここにいつの頃か移設されたそうです。

石の三方には、日光、岩槻、江戸の三方が刻まれています。

わたしは三方に興味はなく、残りの一方に刻まれた文字に興味を惹かれたのです。現場では文字が見にくく、余り長く見つめていても時間の無駄と思い、写真に撮て判読は家に帰ってとしました。

         

写真は文字が読み易いようにいろいろ調整してみました。

『古 来 立 木 表 以 記  岐 路 ち 向  今 ※(是の上下ギャク文字)  議 以 石 代 え』

この「是の上下ギャク文字」をいろいろ手を尽くして調べたのですが、該当する漢字は有りませんでした。見た目に略字と考えらるので、略字辞典も調べたのですが、ありませんでした。

刻まれている文面の意味としては、

『昔はわかれ道の方向が木の表に記されていた、いろいろな議論して、この度、木から石に代えた 天保五年二月 春日部・・・・・・』※この頃は春日部表記だったのです。

と、なります。

それで、”ギャク是”ですが、調査したり、考えたり、悩んだりした結果、文章の流と、文字の形状から、推測して、「凝」の略字ではないかとの結論に達したのです。←ちょっと大袈裟

「凝・こる」ある物事に熱中して打ち込むことです。それで、「凝議」は・・・ よく思いめぐらすこと。

因みに「凝」の付く二字熟語としては、

 「凝固・凝結・凝縮・凝滞・凝集・凝脂・凝血・凝然・凝視・凝念・凝思・凝議」

となります。

と、云うことで、いろいろな人達で、いろいろと議論して、相当に揉めて、やっとの事で、天保五年の二月に木製から石造りの道標を完成させた、と考えました。

そして、この天保五年なのですが、何かある!何か匂う!と思って調べたら、あの、歴史上有名な”天保の大飢饉・・・天保四年から始まる”の真っ直中なのでした。

天保の大飢饉は江戸時代の三大飢饉で、東北地方、陸奥国、出羽国が最も被害が大きかったそうですから、東北地方の入り口、日光道中粕壁宿にも、それなりに、いろいろと影響があったと思います。

当時の人口が3千2百万人で、飢餓が終わった時点で約3千万人となり、飢餓で2百万人が犠牲となったのです。総人口の6.25%が飢えて死んだのです。

今の人口は1億2千数百万ですから、今の世であれば約750万人が飢えで亡くなるのです。大変な事態です。

そんな、時代背景のなかで、擦った揉んだして、完成させたので、わざわざそんな経過を、苦労を、それなりに歴史に刻んだものと考えます。

ここまで辿り着くには、ホント!肩が「凝り」ました。 この道しるべの文面調べで一日を費やしたのです。ホント!暇があるからできるのです。

はい、気分を変えて、店先のポスト。最近は、と云うか、かなり以前より、人気のレトロポスト、蔵の風景にピッタンコです。

東口駅前からの道と、日光道中が交差する地点に出ました。

こちら古利根川方向になります。おばあちゃんの後ろ姿が風景になっています。

こちらが春日部駅東口方向になります。

 

こちらが日光方向になります。

この続きは次回とします。

ホント!今日は久しぶりに調べ事が多くて疲れました。

それでは、また次回。

 

 

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春日部 ⑭ 際立つ整形外科と際に建つ耳鼻科と際物屋で際どいお話!

2018年04月13日 | 街の風景

前回の続きです。

春日部大通りを歩いています。

はい、こちら、春日部でもなく、粕壁でもなく、間をとってひらがな表記で「かすかべ整形」です。何か、ちょっと、不思議な感じがする建物です。

直線とアーチが特徴的で、外壁の色は、あまり病院的色使いとは云えず、色と形が際だっています。ホント!見た瞬間!思わず!何だコレ!とシャッターを切りました。

隣の塀際に丸山医院の「診察室」と書かれた案内板が見えます。これも、何か、妙な雰囲気。

フツウは院内に入って、廊下などに、受付とか、レントゲン室とか、処置室とか、採血室とか、診察室とか、掲げられます。外部に診察室と掲げるのはちょっと変。

こんな、塀際を通って行くのも、ちょっと変。

周囲には医院の所有と思われる廃屋に向かいつつある?建物が並び、とても、とても、入り難そう。

午後の診療が4時から始まって、終わるのが6時とは、随分とまあお早いことです。

おしゃれな通りですが、ここだけ、ひと際、異空間。

耳鼻咽喉科だけと思っていたら、通りに掲げられた看板には、風雨に晒されて消えそうな、内科・小児科・外科・レントゲン科・一般外科・整形外科・耳鼻科の文字、耳鼻科だけが黒ペンキで他は青。

医療法人丸山医院の看板は新しそうです。たぶん、昔はいろいろやっていたのですが、いまでは、いろいろな事情で、もしかして、お隣に患者が流れて?、耳鼻科一本で勝負しているのでしょうか。

兎に角、粕壁宿を歩きます。通りの向かいを見ると、「春日屋際物店」の看板が目に入りました。際物店とは?見るのも、聞くのも初めてです。

横断歩道の無いところで、左右のクルマを確認し、お巡りさんの居ないことを確認し、急いで渡ります。

「きわもの」と読むのです。『扱う物は、羽子板、三・五月人形、祝額、表札、ポスター、ちょうちん、仏壇、仏具一式、名入等』と、あります。

 ネットど調べると、際物屋とは、『ある時季の、間際にだけ売れる品物。正月の羽子板、3月のひな人形、5月の鯉のぼりなど。「際物商い」』と、ありました。

春日屋さんでは、際物以外も扱っているようです。

それにしても、「際物」と云う言葉からは、あまり正しい?イメージは浮かんできません。

瀬戸際、際どい、危ない、ぎりぎり、すれすれ、情欲、劣情・・・、段々と妖しい処に向かって行くのです。

でも、春日屋際物店は妖しくありません。正しい商いを営んでおります。 

本日は、”際”でまとめてみました。

それでは、また次回。

 

 

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春日部 ⑬ 粕壁宿で見損なった本殿!と驚きの煎餅の壁!そして一巻の終わり!

2018年04月11日 | 街の風景

前回の続きです。

前回は、最長3時間のAコースの三番目である、特記事項無しの「八坂神社」でした。

今回は四番目、八坂神社の直ぐお隣りの「東八幡神社」となります。

入り口は直ぐお隣なのですが、本殿は参道の遥か彼方なのです。

長い、長い、参道の両脇は住宅地となっています。

鳥居を潜ったそこは神域、集荷を待つゴミ袋、もしかして、鳥居を残して、現在は単なる市道でしょうか。

到着です。

数人の方が境内のお掃除をしていました。

こちらがパンフにある推定樹齢600年の大欅となります。

東八幡神社の見所は、パンフによると、この「大欅・・・オオケヤキ」と「力自慢の三ノ宮卯之助」が持ちあげた百貫目の力石」となっています。「三ノ宮卯之助」と云う人は、いったいどんな人なのか、パンフには特に説明はありません。

当日、力石の確認を忘れました。たぶん、きっと、「力石」の脇に、それなりの説明があったのでしょう。

ネットで調べてみました。

卯之助さんは、江戸時代の文化四年(1807年)越谷の三之宮に生まれたそうで、見世物興行の力持ちとして日本一になったこともあり、”牛一頭を乗せた小舟”を持ち上げる?のが売物だったそうです。

100貫目(375㎏)の力石は、卯之助が八幡神社境内で興行したさいに持ち上げ、記念に奉納されたものだそうです。

それで、調べていたら、この拝殿?の裏には立派な本殿があったのです。

当日は、東陽寺ゃ八坂神社の後遺症?で、かなり好奇心を失っていたのでした。 ホントもったいない事をしました。次回には是非です。

東八幡神社から④・⑤・⑥はすっ飛ばして、旧日光道中の春日部大通りを目指したのでした。

『NHKのど自慢!本日は埼玉県は春日部市民文化会館からお送りしております』何て、のアナウンサーの声が聞こえてきそうな佇まい。

青い空、白い雲、そして、匠大塚。

旧日光道中粕壁宿は、墓石屋さん、仏壇屋さんがよく眼に入ります。こちら、マックの隣は、墓石と仏壇の両方を商っています。

このメインストリートはなかなかです。気に入りました。当日はかなりの駆け足で通過しましたが、ゆっくりぶらつくのも、とても、とても、イイと思います。

こちらは、仏壇と仏具のお店。墓石は扱っておりません。

利根川煎餅さん。いゃ~、これには驚きました。

もしや、もしやと、近寄って見たら、やはり、煎餅の壁です、粕壁で煎餅の壁です。

写真ではなく、ホンモノの煎餅です、当然、ディスプレイ用だと思います。利根川さん『粕壁で煎餅の壁』グットジョブ! 

匠大塚の前に到着。店先では、農産物の直売会が開催されていました。 

線路を挟んで、親子で睨みあっているのです。集客・販売促進作戦の一環なのでしょう。いろいろ頑張っているようです。

 

IDC大塚と匠大塚、この争いはどちらに軍配? 両者で争っていると、何か、どちらが勝つかと云うよりも、何か、どちらも負けるような気がしたり・・・・・・。

販促の一環が、一巻の終わりに繋がらないよう、頑張って下さい。 

本日は、ここまで。

それでは、また次回。

 

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春日部 ⑫ 粕壁宿にて道中と!海道と!街道!について考えます!

2018年04月09日 | 街の風景

前回の続きです。

それで、粕壁宿の話しの前に、五街道の名称に対する疑問についての話しをちょっとだけします。まあ、重箱の隅を穿る的な話しですが、お付き合い下さい。

五街道とは、江戸時代に 徳川幕府が直轄で整備した道路の事で、江戸を起点とする東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道を五街道と称したそうです。

それで、日光、奥州、甲州は、江戸の頃は「街道」ではなく、「道中」が正式な名称だったそうです。「街道」は、明治以降らしいのです。

ですから、標識にも「日光道中 粕壁宿」とあるのです。でも、いまでは、誰もが日光街道とか、甲州街道とか、云うのがフツウです。日光道中なんて云う人は居ないのです。

何故に、「道中」が「街道」となったのか? 実は、昔も「カイドウ」が一般的だったのです。

でも、「カイドウ」の表記は「街道」ではなく、「海道」となっていたようです。これはたぶん、「東海道」の影響だと考えます。

江戸の中期頃までは「日光カイドウ」「甲州カイドウ」と云われ、「海道」と表記していたそうです。海もないのに「海道」は変との声が上がり、「道中」との名称が正式に採用されたようです。

でも、この「道中」はあまり使われていなかったようです。そもそも、「道中」とは、道半ばであり、旅の途中であり、地名の下に付けると収まりが悪いのです。とても、とても、違和感を生じるのです。

そういう事で、道中は、明治以降は、収まりの良い、誰も使っていた「カイドウ」が正式呼称に戻ったのです。でも、海辺を通らないのに「海道」では不自然なので、「街道」の表記となったようです。

そういう経緯での「カイドウ」だったのです。しかし、春日部市としては、教育委員会としては、文化財審議委員会としては、観光協会としては、パンフレットにも標識にも、徳川幕府の定めに従って「日光道中」と表記しています。

まあ、これは、今はなき徳川幕府に”忖度”した訳ではなく、語感的にも、表記的にも、それなりの歴史がイメージできるので「道中」を採用したのだと推測します。

この辺で重箱の隅を穿る的な話しでをお終いとします。ここから本題の粕壁宿散策を開始します。

粕壁宿、二番目の見学は先は、前回触れた東陽寺の先、道を隔てて斜め向かいにある「八坂神社」です。

因みに、この見学順は、パンフレットにある、所要時間(約3時間)の一番長いAコースを辿っています。

どんな神社かな~?と、期待していたのです。でも、こんな神社でした。

それなりに大きな本殿があったり、広い境内があったり、深い木立があったり、長い石畳の参道があったり、なんて思っていたのですが、小さな祠がぽつんとあるだけでした。

まあ、神様に大きいとか、広いとか、立派なとかは関係ないので、それなりに「二礼二拍手一拝」をして、それなりの金額のお賽銭をお納めしました。

それで、こんな説明板があったりするのです。と、この写真を見たら、何と、 八坂神社の文字の上に①とあるのに気付いたのです。

当日は、パンフレットはざっと見で、かなり適当に歩いていたこともあり、パンフレットの見学順は余り気にしていませんでした。

いま、パンフレットをじっくり眺めると、Aコースの①は「ぶらっとかすかべ」で、②が「郷土資料館」で、③が八坂神社となっています。

①と②は理解できるのですが、東陽寺はコースには無いのです。①ときて②と来て③が八坂神社となっているのです。そして、何故か案内板には①とあるのです。

コースの順番と案内板の数字表記には関連性は無いようです。それにしてもです。何故に東陽寺がパンフレットの見学コースから外されているのか?

もう一度パンフをよく見たら、1時間半の短縮コース「C」には八坂神社の次に東陽寺が入っていました。

コース毎の見学場所の選択には、いまいち合点がいきません。 最長3時間コースを選ぶ方達は、それなりにじっくりと見学していこうと思っている筈です。

それなりにじっくりコースに東陽寺が無くて、八坂神社が選定されているのは、もしかして、何か?裏に政治的な思惑が働いて居る?何て、妄想したりして・・・。

が、たぶん、これは、東陽寺が境内に見学者ぞろぞろ来て、境内でウロウロされるのを嫌ったのかも知れません。観光施設ではなく、あくまでも宗教施設として、信仰の場として、それは、それで、正しい判断です。

また、つまらない、重箱の隅を穿る的話しになってしまいました。

まあ、お気付きの方は、それなりに分かったと思うのですが、八坂神社には特段興味を引かれるものが無かった事で、重箱穿る話しで、お茶を濁しているのです。

それと、本日は、何故か、神社仏閣への興味が湧いて来ないのです。

まあ、そんな日もあるのです。

それでは、また次回。

 

 

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春日部 ⑪ 日光街道は粕壁宿に入り!ノミとシラミと馬のバリを考えます!

2018年04月07日 | 街の風景

前回の続きと云うか・・・。

今回より、春日部訪問の本題、宿場町ウォークとなります。いよいよ、旧日光街道に出ました。

旧日光街道の春日部市街は、今回が初めて目にする風景です。今回分かったのですが、現在の4号線は市街地の手前で二股に分かれ、市街地を通過していなかったのでした。

電柱もなく、歩道も広く、街灯もおしゃれ、なかなか整備されています。思っていたより、かなり、おしゃれな町並です。

こんな標識が建ってます。

 

道路の整備拡張のずっと前から、ここで八百屋さんを営んでいたのでしょう。ホントに、変わらず、きちんと、真面目に、細々の商い。スーパーに負けないで下さい。

 

ふり返ると、雲が切れて、青空が見えてきました。昼頃より晴れるとの予報は当たっりました。 道路案内標識に一部が隠れている白亜のビルが、あの”匠大塚”です。

春日部ではなく、ここはやはり”粕壁接骨院”です。

粕壁宿の入り口にある東陽寺です。

門前で六地蔵がお出迎え。手向けられた花は生き生きとしています。

鉄筋コンクリートです。そして、何やら修理中で足場が組まれていました。鉄とコンクリートのお寺は、ちょっとイマイチです。

本堂の前には、石碑が。松尾芭蕉の「奥の細道」の一文ではなく、弟子の曾良が書いた「曾良旅日記」の一文が刻まれていました。

アップにします。

”廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余”とあります。泊まったのがこの東陽寺だったとの説があるそうで、そこで、この石碑が、ここに建っているのです。

奥の細道には、粕壁に泊まったのに、まったく記述がありません。手前の草加は通過しただけなのに、記述があるのです。

芭蕉にとって粕壁は、出会いも、名所も、名物も、感動も、特段書き記すことは、何も無かったようです。

草加の先で記述があるのは、現在の栃木県惣社町にある「室の八島」となります。旅に出て最初に俳句を詠んだのは日光でした。

まあ、粕壁の次、間々田、鹿沼にも泊まっているのですが、何の記述もありません。 粕壁宿だけが冷たくされた訳ではありません。

因みに、奥の細道で芭蕉が詠んだ句の中で、一番好きなのがこちらです。

『蚤虱 馬の尿する 枕もと・・・ノミシラミ ウマのバリする マクラもと』

「バリ」ではなく、「シト」と読ませるする解説が一般的なようですが、曾良の解説本では「バリ」とルビが振ってあるそうです。「シト」と「バリ」では、迫力が違うのです。

我が家の本棚にある解説本にも「しと」あり、私はいつ何処で記憶したのかハッキリしないのですが、「バリ」とハッキリ記憶しているのです。

それで、馬の排尿ですが、映像で見た事があり、とても、とても、「シト」何てシロモノではなく、まさに「バリ」と表現が適切なシロモノなのです。

映像でもかなりの迫力ですから、これが生の体験であったなら、それなりに離れているはずなのに、枕元で起きているとの錯覚が起きるのです。

しとでは語感が弱いのです。バリと云う語感の強さがあって、成り立つ句だと思います。ノミときて、シラミときて、ウマのションベンですから、ここは「バリ」とこなければ、全体の、リズムが、バランスが崩れるのです。

因みに、「バリ」はこの地方(出羽)の方言だそうです。

こういう、ばっちい事をさらりと詠む芭蕉が好きです。親しみを感じます。情景が浮かびます、音が聞こえます、臭いがしてきます。

そういう事で、バリでは「ばっちぃ」ので、現在解説本では「バリ」ではなく「シト」と読ませるのです。

解説本を書く方々は、みなさん教養豊かで、お上品ですから、俳聖松尾芭蕉大先生が「バリ」なんて汚い、お下品な言葉は似合わないと考えているのです。

馬のバリ話しを長々としてしまいました。この辺で、ばっちぃ話しはお終いにします。

粕壁宿から話しが逸れてしまいました。

切りが良いので、本日はこれでお終い。

 

それでは、また次回。

 

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