歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

語り継いでも! 祈っても! 誓っても! 後の祭り! そして中国の皇帝 !

2023年08月31日 | 世間話し

岸田自公政権は、原発事故"汚染水"を、"処理水"として海水で薄め、海洋への放出を始めました。

これは、これで、問題なのですが、これに対しての中国の反応が、とても、とても、過剰に、異様に、見えるのです。

そもそも、中国が、これまで、こんなに環境問題に敏感な国にだったでしょうか?

これは、どう見ても、どう転んでも、米中の対立で、米国側に立ち、7月23日より施行した、半導体製造装置等の輸出規制に対する報復措置に見えます。

そして、そして、中国は日本よりも多くの原発を保有し、稼働している国です。明日は我が身です、放射能汚染は他人事ではありません。まずは、自国の原発を停止しましょう。

それにしても、中華人民共和国は、"中国共産党"による"一党独裁政権"から、"習近平"による"ひとり独裁政権"に変わりました。まさに、習近平は"皇帝"となりました。やはり、中国は"秦の始皇帝"いらい皇帝の続く 国。

習近平皇帝が権力を掌握した時を同じくして、中国経済は、成長が止まり、インフレからデフレ経済に、出生数が減少し、少子高齢化で、人口が減少が始まり、成長から停滞のサイクルに入ったようです。

ひとり独裁ですから、成功は習近平ただ一人のお陰、失敗は習近平ただ一人の責任。これって、もしかして、中国共産党の深謀遠慮かも?

責任の矛先を中国共産党ではなく、習近平個人に向かわせ、共産党は生き延びる作戦? 

まあ、よその国の事は、よその国の国民が決める事で、余計なお節介、失礼しました。

我が国のお話をします。

8月は、きょうで終わります、8月は、マスコミ恒例の戦争を、平和を、考える月。第二次大戦の、太平洋戦争の、悲惨さを語り合い、二度と戦争のない、平和な世の中を、願い合う、誓い合う、日となっています。

悲惨な経験を語り継いでも、神様、仏様に、祈っても、誓っても、戦争を防ぐ事はできません、屁の突っ張りにもなりません。

そも、そも、ほんと、もう、将来の歴史家から、今は"後の祭り段階"と評価される、かも知れません。

こんなことを、もう一度繰り返すのかも ?

“15歳の志願兵” ① 後の祭りで夏川結衣 - 歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・ (goo.ne.jp)

 

防衛予算は倍増予定ですが、いまでも、自衛官不足は深刻とのこと、近い将来、徴兵制が具体的な政治課題となります。国会は多少の混乱があっても可決され、選挙でも自民党は勝利します。

いや、いまの政治情勢が、このまま続くと、国民には国を守る義務があるとして、反対者は非国民として、多分、与野党共同議員提案で徴兵制法案は、すんなり混乱なく可決かも・・・。その可能性大。

そして、また、こんな事を書く羽目になるのかも ?

伊丹万作の『戦争責任者の問題』を読む - 歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・ (goo.ne.jp)

ここ十数年?、二十数年?、後の祭り的な発言が、その筋の、あちら、こちらで、漏れ伝わるようになりました。もう老い先短い私には、それほどの影響はないのですが、人生これからの人たちは、ある日、突然、まさか!の展開が待っているかも?

熱中症警戒アラートが続く毎日。とても、とても、寒くなるお話でした。

はい、本日は、これにてお終い。

それでは、また。

 

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停戦・休戦が見えてきた"ウクライナ・ロシア戦争" プーチンもゼレンスキーもチョボチョボです!

2023年08月24日 | 世間話し

このところ、頭の中は戦国時代になっています。

でも、家康、秀吉は飽きてきました。

ここで、大風呂敷を、目いっぱいおっ広げて、戦国時代頭で、今の世界を見渡したりしたいと、思ったりしています。

群雄割拠で、下克上で、いまも、世界は戦国時代。

第二次大戦後、世界は、米国とソ連の二極化、そして、ソ連崩壊で米国一極化へ、と思われましたが、米国の経済力の低下、中国の台頭、世界は多極化で、G7からそG20。

先進国のグローバルノースと、発展途上国のグローバルサウスの対立に、中国、ロシアが絡まって、世界は混沌。

そして今、世界の混沌 を"象徴"する、ウクライナとロシアの戦争。

グローバルノースはウクライナに肩入れ、中国はそれとなくロシア支持、グローバルサウスは、ほぼ中立。

それで、このところのウクライナ・ロシア戦争ですが、流れが変化してきたようです。

私も当初は、米欧の軍事力・経済力はロシアを上回るため、持久戦になるとロシアは不利になると予想していました。

しかし、どうも、6月ごろよりの、"鳴り物入り"の報道で期待を煽っていた、ウクライナの反転攻勢は、華々しい戦果はあげられず、膠着状態のようです。

米欧のロシアに対する経済制裁は、戦況を変えるほどの効果は無かったようです。いゃ、効果は、これから、これから、の方たちも、最近は、その件には、あまり触れなくなりました。

そも、そも、この戦争に対しての、我が国の報道は、明らかに、米欧に、ウクライナに偏っていました。まさに、第二次大戦の大本営発表を思い出させます。生まれてはいませんでしたけどね。

鳴り物入りで投入された、ドイツが誇る世界最強の戦車"レオバルト2"も、アメリカの誇る 戦車"M1エイブラムス"も、英国の戦車"チャレンジャー2"も、いまのところ華々しい戦果の報道はありません。

世界で、軍事的にウクライナに肩入れし、ロシアへの経済制裁に加わっている国は、グローバルノースの、米欧の、一部の国だけです。

世界のGDPランキング (22年度)でみると、  

   1位 米国       26兆8546億      7位 フランス      2兆9234億 

   2位 中国       19兆3735億      8位 イタリア  2兆1697億

   3位 日本         4兆4097億      9位 カナダ   2兆0896憶

   4位 ドイツ     4兆3088億       10位 ブラジル  2兆0812億

   5位 インド     3兆7368億           11位 ロシア   2兆0626億

   6位 イギリス  3兆1589億           12位 韓国    1兆7219億

GDPで見ると、ロシアの経済力は米国の13分の1以下、G7では23分の1以下です。ロシアは23倍の国力と戦っているのです。GDPの数値は国力を反映していないようです。

ロシアは食料も、エネルギーも、輸出国です。経済を封鎖されても、食うに困らないのです。食うに困るのはEU諸国。

どちらにしても、そろそろ戦争の継続は、苦しくなってきたようです。このところ、あちこちから、停戦、休戦の話が漏れ伝わってきます。

あのNHKも、ウクライナとしては、触れられたくない、ニュースも流れ始めました。徴兵逃れに手を貸していたのが、何と、何と、徴兵を仕事とする、地域徴兵事務所でした。組織的に手を貸し、賄賂を稼いでいたのでした。

むかし、ウクライナはソ連邦の一部でした。一党独裁の体質は、役人の汚職は、蔓延していたのです。そして、いまでも、その体質は消えていないのです。

以前から、政権内部の汚職、援助物資の横流し、そんな話は、チラホラ漏れ伝わっていました。ウクライナは、挙国一致で侵略者ロシアと正義の戦い! 何て、そんな、単純な、綺麗ごとでは、世界は動いていません。

ロシアも、ウクライナも、プーチンも、ゼレンスキーも、チョボチョボなのでした。

兎に角、米国でも、欧州でも、戦争継続の世論は過半数を割ってきました。米国は来年大統領選挙があります。

共和党は戦争協力、武器援助に反対です。 民主党バイデン政権も、選挙に勝利するためには、年内に停戦・休戦を探ってきます。

兎に角、このままでは、ウクライナも、ロシアも、どちらも、負けない、勝てない、膠着状態が続きます。

兎に角、停戦、休戦の動きが出てきたことは、ウクライナの、ロシアの、国民にとって、世界にとって良いことです。

兎に角、四の五の言わずに、停戦・休戦です。

戦争は起きてしまってから、反対することは非常に困難です。

でも、しかし、起きる前に反対するのも、それなりに困難です。

ですから、制度として、戦争を防ぐ手立てが必要なのです。そのための憲法でした。しかし、その制度としての憲法は、実質的に改憲されました。

国際法上も戦争は違法なのです。でも、しかし、自国の防衛の為の武力行使は認められています。

ですから、自国の防衛戦として、これまで、いろいろな戦争が起こりました。

防衛か侵略かは、都合よく解釈されてきました。

"世界の戦国時代"を終らせるには、やっぱり武力による世界統一なのでしょうか?

それとも、宇宙からの侵略者に対抗して、地球が、世界が、一つになって戦い、その結果として、世界統一国家の樹立? それとも人類滅亡?

暑さのせいか、話が、どうも、変な方向に、SFチックな方向に、逸れてきたようなので、ここで、終わります。

それでは、また。

 

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⑫ “どうする家康” 自害したときの”お市の方”と演じた”北川景子”は同い年!これもなにかの因縁?

2023年08月14日 | 世間話し

今回も、懲りずに家康です。

信長が光秀に討たれ、光秀は秀吉に討たれ、織田家内部の権力闘争が始まります。

織田家は、信長の、強力と云うか、強引と云うか、強烈と云うか、その個性によって、戦い、勝ち上がってきました、求心力を失った家中は分解し始めます。

信長の妹が、信長の次男が、三男が、秀吉が、織田家の有力家臣が、いろいろ絡みあった、権力闘争を繰り広げます。

それで、なんですが、みなさん、それぞれ懸命に頑張って、戦ってます。ホント、どこからそのエネルギーが出てくるのでしょうか。

自らが頂点に立ち、己の思い描く世の中を、己の力で実現したい、支配欲、権力欲の、とても、とても、強い方達なのです。

そんな方達が、群雄割拠で、下克上の戦国の世を駆け抜けるのです。 

そして、生々しい権力闘争に、お市の方と家康の、男と女の色模様が、絡まっての人間ドラマ。事実だけでは、ドキュメントだけでは、面白くも、可笑しくもなく、ドラマになりませんから、いろいろと人間の感情が絡まります。

それで、お市の方ですが、かなりの美人で、"戦国一の美女"との通説があるようで、美人女優の役どころで、この作品では北川景子(37歳)さんが演じているのです。

まあ、そんな事は、いいのですが、お市さんは、20歳で浅井長政の「後妻」となり、しかし、長政は1573年に信長との戦に敗れ自害享年29歳。お市の方は26歳。

そして、大嫌いな秀吉と戦う為に、60歳を過ぎた老人の柴田勝家の継室(後妻)となり、しかし、敗北、1583年北ノ庄城にて勝家ともに自害。本能寺の変から1年。

それで、このとき、お市の方は37歳でした。そして、そして、何と、何と、演じていた北川景子さんも、そのとき37歳だったのです。これは、単なる偶然か、それとも、何かの因縁でしょうか?

まあ、ドラマとは特に関係ないのですが、暇な老人としては、こんな発見が、それなりに、嬉しかったりするのです。

話は戻ります。

お市の方、そして、信長と家康。人質時代に出会っていたとする記録は無いそうです。ですから、創作は自由。

家康は織田の人質時代に、お市の方と交わした「必ず助けに行く」との約束と、天下取りへの戦局判断と、人としての約束と、色恋と、いろいろと行ったり来たりで、迷い、悩み、苦悶し、結局、家康は、戦局判断を優先します。

戦国時代、天下を争う武将たち、それを取り巻く女たちに、愛だ、恋だ、は無かったと思います。

武将の、息子も、娘も、ほとんどすべては、政略結婚です。結婚は政治の手段でした。それが当たり前で、疑問も、不満もなく、皆さん、あたり前に受け入れていたと思います。愛とか、恋とか、結婚とは無関係なのです。

人間、色恋がなくとも、一緒に暮らしていれば、それなりに、互いを愛おしく思い始めるのは、それなりにふつう。犬猫でも長く一緒に暮らせば愛おしくなるものです。

戦国時代でなくとも、いつの世も、それなりの階級の方たちは、愛とか恋とかは、結婚に関係ないと思います。

まあ、それなりでない階級の方たちも、結婚には、色恋だけでない、それなりの、いろいろな打算が絡み合います。

色恋には、打算、誤解、勘違い、計算違い、いろいろと絡み合い、男と女、ムズカシイのです。ムズカシイからこそ、いろいろな物語が生まれるのでしょう。

はい、突然ですが、ここで豆知識です。信長、秀吉、家康の性格を現す有名な歌があります。

【鳴かぬなら】に続いて、

「殺してしまえ」の信長 「鳴かしてみせよう」の秀吉  「鳴くまで待とう」の家康

この作者は「松浦静山」と云う方で、江戸時代中期、平戸藩(長崎県)の大名だそうです。まったく知りませんでした。それとなく、なんとなく納得できる歌です。

わたしとしては、このような、物事に対する対応の違いを生じた、その背景を、ちょこっと、考えて見ました。

信長の織田家は、それなりの、領地を、国力をもち、戦国の世、領地拡大願望、天下統一願望を抱きやすい環境で、幼い時より天下取りを宿命づけられ、天下とりの強迫観念によって天下統一。

家康の徳川家は、三方を強国に囲まれた小規模の国。継いだ領地を、奪われたくない、守りたい。その防衛戦を繰り返した事で、結果として、戦に強くなり、戦に勝利し、領地を広げ、天下を統一。

秀吉は、家督も領地も何もない、何にもないところから始まり、上昇志向で、己の才覚だけで、強運で、天下を統一。しかし、その成功体験から、成り上がり体験から、支配欲は拡大し続け、結果として、朝鮮出兵で権力の衰退を招いた。

ホントに、信長も、家康も、秀吉も、権力欲の強い方々の争いは、見ていて疲れます。そんなことで、殺したり、殺されたり、悩んだり、悲しんだり、恨んだり、悔んだり、ホント!、面倒くさいです。

まあ、いまここで『それを云っちゃ~おしまいよ!』です。

兎に角、本日は、"お市の方様"が自害なされた時の年齢37歳。それを演じた時の"北川景子さん"の年齢37歳。この偶然の、奇跡の一致を発見したことで、すべてよしと致します。

まあ、そんなことで、おしまい。

それでは、また。

 

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⑪『どうする家康』"伊賀を越え" は〈神君家康の物語作り〉で真実は海上コース!

2023年08月09日 | テレビの話し

"どうする家康"です。

本日は、『伊賀を越えろ』の回となります。

家康の話も、本日で連続11回目となり、そろそろ飽きてきました。

何を隠そう、私、とても、飽き易い質なのです。長続きしないのです、熱中しないのです、諦めが早いのです、極めることができないのです。

そういう質の人間には、世を極め、天下人となる、偉大な人物の話は、段々と、重たくなり、疲れるのです。

でも、しかし、そもそも、"どうする家康"を、ブログを、綴る一番の目的は、ボケ防止ですので・・・。兎に角、飽きずに励みます。

因みに、このブログは開設が2006年9月からで、来月で17年となります。我ながら、よくも、まあ、飽きずに続けてこられたもんだ、と思います。この際ですから、あと17年やッてみッか ァ! 何て、今、突然、思って、見たり、しているのです。

ハィ、話は家康に戻ります。

ドラマの冒頭、

『岡崎まで、距離にして250㎞。神の君、一世一代の逃避行が始まったのでございます。』

のナレーション。

この、堺から岡崎までの逃避行のコースはいろいろな説があるようで、それによって距離も変わってくるのです。

そも、そも、信長が、光秀に殺された事を、家康が知った時点で、咄嗟に、次は自分だァ!と、身の危険を感じる筈です。でも、ドラマでは、周りから言われて、それなりに感じるのです。

史実によれば、家康は逃げられないと諦め、自害を決意したと言われています。しかし、家臣の説得で諦めたようです。

それにしても、家康は逃避行でいろい危険な目にあうのですが、史実として、その後、家康が天下を取った事を知っていますから、あまり、見ていて、ドキドキハラハラはしないのです。

突然、話は戻ります。

前回、お市の方が、

「あなた様は、兄のたった一人の友ですもの・・・兄はずっとそう思っております。こころを許すたった一人の友には憎まれている・・・あれほど哀れな人はおりませぬ。兄の人生で楽しかったのはほんのひととき・・・竹殿(幼き頃の家康)と相撲を取っていたあのころ・・・。いずれ誰かに討たれるのであれば、あなた様に討たれたいと、兄は、そう思っているのではと・・・兄が遠い昔に捨てさせられたものを、あなたは、ず~っと持ち続けているから」

この相撲を取っていた話ですが、ドラマの前半でも描かれていました。

家康が、織田家に人質として預けられていたのが、天文16年からの2年間です。

家康が生まれたのは天文11年(1542年)で、干支は寅年、寅の日、寅の刻、とされています。しかし、史実としては、天文12年だそうで、この年は卯〈うさぎ〉年なのでした。

このことが、ドラマでは、家康の内面を、生き方を、想いを、悩みを、迷いを、そして、決断を、読み解く、鍵となり、ストーリーは展開されていくのです。

信長に、度々、耳元で「白うさぎ」と云われ、挑発され、屈辱感を味合わされ、そして、最後に、"安土城の決闘"の回、信長の耳元で「兎が狼を食らうのじゃ」と反撃するのです。

それで、話は相撲の話になるのですが、信長は家康より8歳年上です。家康が6~8歳まで織田家の人質でした。ドラマでは二人は相撲を取ったことになっていますが、真ん中をとって、家康7歳、信長は15歳として。

家康は、一歳サバを読んでいますので、6歳対15歳の対決となります。小学校の1年生と中学3年生の闘いです。相手になりません。設定に無理があります、古沢さん。

またしても、ドラマにケチを付けてしまった。でも、こういうの、好きなんです。昔、むかし、品質管理で糊口を凌いでいたので、職業病かもしれません。あら捜しが好きになってしまったのでした。

話を『伊賀を越えろ』に戻します。

兎に角、結末を知りながらの視聴ですから、それなりです。

それにしても、捕らえられた家康と家臣たち、家康は家臣を庇い、家臣は家康への忠誠心を叫び、互いに信じあう姿。

まあ、何とも、美しい人間愛と云うか、主従愛と云うか、人間として、指導者として、後の天下人としての家康への、賛歌を歌い上げるような、美化し過ぎで、気持ち悪かったです。

殿様が「わしを先に殺せ!」何て、あの戦国の世に、云う筈ありません。もし、言ったとしても、それは、かなりの計算ずく、そろばんずく、打算です。

ドラマでは、そんな打算を感じさせるような描き方はしていません。もしかして、していたの? 家康の”タヌキ親爺的面”が顔を出しつつ有る、としての表現?

う~~ん、やっぱり、もっと素直にドラマの世界に浸っていた方が、心と身体の健康の為にも良いのかも・・・反省。 

あッ! 最後に忘れていました。堺から岡崎までの逃避行ですが、一番安全なのは、堺の港からの海上コースだと思います。

最終日は海上を船で渡っていますが、これは、ホントは、堺の港から、ずっと、ずっと、船だったのでは、と、これが一番安全です。

当時の操船技術では、時間が読めないとか、気候的に、どうの、こうの、いろいろ言われていますが、ここは、家康の命が一番ですから、真実は海上コースでは、と、思ったりしています。

“伊賀越え“は、やはり〈神君家康の物語作り〉としての、後の創作だと思ったりしています。わたしの新たな視点です。

うん、まあ、兎に角、そんな、あれ、これ、でした。

 

それでは、また。

 

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⑩ 『どうする家康』本能寺の変はかなり変!北川景子の”お市の方”は良かったです!

2023年08月05日 | テレビの話し

家康です。

本能寺の変です。

冒頭は、突然、少年信長のシーン。

 『身内も家臣も、誰も信じるな。信じられるのは己一人! それがお主の道じゃ!』

父の教育方針に健気に従う少年信長が、遂にぶち切れて、通説どうりの"うつけもの信長"に変身します。信長12歳。

次に、何度か流れた、寝床で物音に気付き、刀を抜き辺りを警戒するカット。ホント、このシーンは、夢幻として2~3回見せられています。

画面に『天正十年(1582年)6月2日』文字、そして、本能寺の文字が映し出されます。

ここで、視聴者に『今回は夢幻ではありません』のメッセージです。

信長と鎧兜に覆面の武士と切り合うシーン。どうなるのかと思って見ていると、途中で場面は、本能寺門前のシーンへ転換。

そして次の場面は、家康と家臣たちが山中を駆けるシーン。

ここで、タイトルバックに転換。

この手の演出が流行りなのでしょうか、冒頭に、本編のキーになる場面を細切れにして見せる手法。

わたしは、これが、嫌いです。分かりずらく、ドラマの中に入りずらく、思考が途切れます。

タイトルバックが終わります。

場面は出陣の準備をする明智光秀のシーン。5月29日のテロップ。

家来より、信長が少ない手勢で京に向かったことを知らされた光秀。

そこで、明智光秀が、小雨降る中、本能寺に向かう決意を固め、天を仰ぎ、

『ときは 今 雨がしたしる 五月かな』と、歌を呟くのです。

本能寺の変の9日前に、京都の威徳院での歌会で、明智光秀によって詠まれた有名な発句。

何故に有名かと、それは明智光秀が、天下取りを決意した歌との説が、戦国時代好き筋で、それなりに支持されているのです。

こういう解釈なのです。

「とき」は、明智光秀の本姓「土岐」で、

「雨がした」は、雨〈あめ〉は天〈あま〉で、

「した」は下で、

「知る」は「治める、支配する」で、

         『ときは 今 雨がしたしる 五月かな』

                 ↓

         『明智は 今 天下を治める 五月かな』

まあ、それなりに面白いです。解釈が強引です、いくら何でも、そんな風に解釈される歌を、本能寺襲撃の9日前に、それなりの公の場で詠むことは、とても危険で不自然です。

かなり強引な説を、古川良太さんは採用しました。特に、新たな視点ではありません。

これまでの「新たなる視点」が、それなりに面白かったので、いろいろ期待していたのですが、この回は、期待外れでした。

考えて見たら、いくら、なんでも、新たな視点で「本能寺の変」の史実を変えることはできないのです。

本能寺に至る、家康と信長の、内面を、新たにな視点で描くことは可能ですが、史実を新たな視点で、変える事は出来ない、と云う、当たり前の話。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が、京都本能寺に宿泊する、織田信長を襲撃し、信長が亡くなった。これだけの話。

それにしても、です。この明智光秀でですが、人相からして、とても、とても、嫌な奴として、悪役として描かれています。光秀がすこしだけ可哀そう。

そして、家康が京都に向かった情報は、京都で待つ家康にも届き、信長を討つ決意を固める家康。

しかし、家臣たちより、「信長を討ったとて、天下は転がり込んでこない。信長の息子たちはどうする 天子様は、公家たちは、彼らを味方につけなければ」と問われ。

「わかっている、だから、これから境に向かう」と、答える家康。堺は国際貿易港で、国産鉄砲の生産地。有力商人との顔つなぎ。

5月29日 織田信長本能寺へ。

6月1日、6日間滞在した京から堺へ向かう家康。信長の入京直前に、京を離れ、堺に向かった家康。このことも「本能寺の変」謎のひとつ。これについての、新しい視点は特になし。

それにしても、実質滞在は一日だけ、信長後に向けての体制作りには、実質的な成果は無理。

そして、そして、ここで新たなる視点。

堺の町で、家康は、信長の妹、お市の方と町中で出会います。

はじめは、男と女、恋愛感情を挟み込み、中休み的な色模様と思っていたら、突然、

「兄を恨んでいるでしょう」と云われ、「とんでもない」と答える家康。そして、驚きの話をきかされます。

「あなた様は、兄のたった一人の友ですもの・・・兄はずっとそう思っております。こころを許すたった一人の友には憎まれている・・・あれほど哀れな人はおりませぬ。兄の人生で楽しかったのはほんのひととき・・・竹殿(幼き頃の家康)と相撲を取っていたあのころ・・・。いずれ誰かに討たれるのであれば、あなた様に討たれたいと、兄は、そう思っているのではと・・・兄が遠い昔に捨てさせられたものを、あなたは、ず~っと持ち続けているから」

※家康は幼少期に織田家に人質にだされていたのです。その後、今川家の人質に。

家康、衝撃です、混乱です。安土城での信長の言葉を思い出し動揺します。

でも、でも、しかし、恨まれることを承知で、たった一人の友に、妻と息子を殺すように命じるでしょうか。疑問です。

まあ、それなりに、互いに男と女を意識しての、なかなか微妙なやりとりもあるシーンでした。立ち去るときのお市の方の表情、よかったです。

『花のあと』〈2009年公開〉での北川景子 2013年08月19日 | と比べると、うまくなりました。十数年の歳月が流れ、それなりに、大人の女に見えてきました。よかったです。景子ちゃん。

話は戻ります。それで、本能寺で家康を待つ信長。死が近いと父から、家督を継ぐように言われた時のことを回想します。

『どうしても耐え難ければ、心を許すのは、一人だけにしておけ。こいつなら殺されても悔いはないと思う友を、一人だけ』との言葉を思い起こし、家康を待つ信長。

そして、本能寺の襲撃シーン。信長を襲った鎧兜に覆面の武将に、腹を刺されながらも反撃し、覆面を剥ぐと、何と驚きの家康。

混乱しました、わたしの見間違い、このカット何度も見直しました。家康なのです。どうなっての、歴史の改ざん、しかし、そのあとの死に絶えたカットを何度も見ると、武将は別人になっていました。

混乱します。こんな演出はありません。

信長の目で、一人称でのカメラアングルで撮影されたならば、信長の目にはそう見えた、となりますが、信長の肩ごしのカットに家康の顔ですから、こんな混乱する手法はありません。

そして、燃え上がる本能寺、腹を刺されても、超人的に闘う信長。あのような闘いの状況であれば、光秀軍は信長の首を取れたと思います。

本能寺の変の謎の一つとして、信長の遺体が見つからなかった事が伝えられています。

そして、堺での家康。お市の方から聞かされた信長の想い。瀬名と息子を殺され、信長に復讐すること、"瀬名の夢"を実現するために天下を取ると誓ったこと。迷います、苦悶します。

そして、「今のわしには到底成し遂げられぬ」と、信長を殺し、天下をとることを断念する、苦渋の決断を家臣に告げます。

そして、翌朝、信長が本能寺で、明智光秀の軍勢により、討ち死にしたことが伝えられます。

数日前まで、殺そうとしていた信長、断念した翌朝に信長の死を知ります。迷い、苦悶し、苦渋の決断をしていた頃、信長はすでに殺されこの世にはいなかったのです。

何という、悲劇、何という喜劇。

明智が、家康の首をとれとの号令を発したこと、明智の兵も名を上げたい浪人、褒美目当ての民百姓、四方は敵だらけと告げられます。

信長は家来と共に、敵だらけの中、伊賀の山中を岡崎に向け、距離約200kmを2泊3日間で駆け抜けます。これも謎のひとつです。

次回、『伊賀を越えろ』となります。きっと、謎の「神君伊賀越え」の新しい視点が提示されるのでしょう。

 

それでは、また。

 

 

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⑨ "どうする家康" 安土城の決闘『是非に及ばず』は信長の解き放たれた言葉 !

2023年08月02日 | テレビの話し

はい、今日も家康です。

このところ、更新のペースが早くなっています、家康、面白いです。

そして、本日は『安土城の決闘』です。

冒頭より、信長の心象風景を夢として映し出します。

武田を滅ぼし、ほぼ天下統一を成し遂げ、信長の緊張の糸が切れかかり、戦うことに、殺しあうことに疲れ、いつか、誰かに、殺される不安を抱く、信長も戦に疲れている・・・。そんな説明シーンだと思いました。

そして、信長を殺し天下を取ると宣言した家康は、忍びを使って、本能寺周辺で信長襲撃の準備を進めます。

えっ、まさか、家康が実行犯 ? 歴史を塗り替えるの ? いや、その展開はありえません。どういう筋書きで、新たな視点で、実行犯の光秀に繋げていくの興味が湧きました。

話の途中ですが、ここまで画面を見ていて気づいたのです。

あれ、もしかして、本能寺で襲撃され、それが明智光秀の謀反と知った信長が発した『是非に及ばず』の言葉です。これも本能寺の謎のひとつ 。

いろいろ解釈が分かれますが、古沢良太氏は「是〈良い〉も、非〈悪い〉も及ばす〈言っていられない〉」と言うことで、「仕方がない」説で、それを「信長も疲れている説」へと繋げた?  何て思ったりしたのです。

"信長も疲れている説"は、家康が、信長を京都で殺す計画の為に、唯一京都に残る光秀の軍勢を遠ざける為、光秀の差配による祝宴を失敗させます。

しかし、信長がぶち切れし、光秀を激しく打ちのめします。その結果、この謀は、成功しすぎて、光秀は完全に"ぶち切れ"ます、恨みます。本能寺の変、光秀遺恨説です。

この後の、信長と家康が対峙するシーン。これがタイトルの『安土城の決闘』です。

そこで、信長と家康との、生まれ育った環境の違いによる、つくられた性格、考え方の違いによる、言葉の対決が展開されます。

家康「明智殿のご処分は、ほどほどに」

信長「しくじりは許さん、使えんものは切り捨てる」

家康「上様は、厳しすぎる。うちには使えんのが、ようおります」

信長「お前が甘すぎる。おまえのところの家臣は、お前のことを友恒のように扱うではないか。甘くみられれば、足元をすくわれる」

家康「それなら、それで、しょうがない。かって古い家臣に、信じなければ、信じてもらえんと。それで、裏切られるなら、それまでの器だったと。上様、あなたは何でも一人でおできになる。常人ではござらん。まさに乱世を鎮めるために、天が遣わしたお人かも知れません。しかし、私は違います。一人では何もできぬ、これまで生き延びてこられたのは、周りの助けがあったゆえ」

家康が立ち去る際。

「上様、京へ入られるのでございましょう。一足先に行ってお待ちしております。穏やかになった京を堪能したいと思います。今後のことは、その時に」

「京で待ち伏せして、俺を討つつもりか・・・図星か、やめておけ、お前には無理だ白兎。腹の内を見せなくなったな。謝ってほしいか。妻と子供殺して、すまなかったと、謝ってほしいか、謝らんぞ。下らん」

"下らん"の言葉に、家康、ぶち切れます。

「下らん・・・我が妻と息子の死を下らんと申すのか!」

「ああ、下らんな」

「ふざけるな!」

しかし、信長は意外な言葉を、涙を浮かべて、

「俺は、そのような感情、とうに捨てたわ! 人を殺めるということは、その痛み、恨みすべて、この身に受け止めるということじゃ!10人殺せば、10の痛み、100人殺せば100の痛み。万殺せば、万の痛みじゃ! 俺はどれだけ殺した・・・」

意外な展開に呆然の家康、私も、呆然、信長はこんな人?

涙を流しつつの信長、

「俺はどれだけ殺した・・・どれだけ殺した・・・この報いは必ず受けるであろう。俺は誰かに殺される、誰よりも無残にな。だが俺は覚悟はできている。お前はどうじゃ、お前にできて、せいぜい、俺を支えることぐらいじゃ」

家康、呆然、自失。私も、アレレでした。

しかし、しかし、です。人を殺めた痛みに苦しむ信長。この設定は、とても、とても、変です。不自然です、理解できません。

戦国時代を今の感覚で捉えていること。そして、そして、自らの手により殺したのではなく、殺しを指揮しただけの信長。

殺して、心を痛めるのは、前線で殺し合った末端の兵士です。指揮命令する立場の人間には、死者の数は、単なる数字で、それ以上の意味は無いのです。

そして、平時を語りだす信長。

「戦なき世の政は、乱世を鎮めるよりはるかに困難じゃろう。この国のありすがたのためには、やらねばならぬことが多すぎる、恨め、憎んでもいい。俺のそばで、俺を支えろ。」

家康も涙を流しつつ

「私には、あなたのまねはできん。したいともおもわん。わしは、わしのやり方で、世を治める。たしかに、わしは弱い、だが、弱ければこそ、できることがあると、わしは信じる。行き詰まっておるのお主ではないのか?  弱きウサギが狼を食らうんじゃ」

「なら、やればいい」

「俺はわずかな手勢を率いて京に向かう。本当に、お前が、俺の代わりをやる覚悟があるなら、俺を討て、待っててやるさ、やってみろ」

家康が下がり。信長の少年時代の回想シーン。

・・・論語を繰り返し、繰り返し唱え、何度も、何度も、書き写し、父信秀より、

『誰よりも強く、賢くなれ。お主の周りはすべて敵ぞ。誰もが、この首を狙っている。身内も家臣も、誰も信じるな。信じられるのは、己ひとり。それがお主の道じゃ』と、叩き込まれる少年信長。

純真で、可愛らしい少年信長、愛おしくも、可哀そうに思えました。

頑張って、頑張って、父の教えに忠実に生きてきて、それとは真逆の家康。

疲れ、混乱し、限界を感じ始める信長。

京で待つ家康、少ない手勢で本能寺に向かう信長。

自分を試す、家康を試す、本能寺。 

これは、やはり、すべては『是非に及ばず』の言葉が起点となって、あらたな視点の「家康物語」が組み立てられた、そんな気がしています。そうでしょ古沢さん。

前に、磯田説として、『信長の下に使える者は、どこかで"信長疲れ"を起こしてしまいます。その信長疲れの総決算ともいえるのが、明智光秀の起こした本能寺の変だったといえます』

家臣の失敗を許さない信長、これは、自らの失敗も許さない事だと、そして、相手に緊張を強いる事は、自分にも緊張を強います。

自分だけを信じ、強いリーダーを演じ続け、戦乱の時代を戦い続け、駆け抜けた信長。

本能寺の変は"信長疲れの総決算"の磯田説ですが、わたしは"本人の信長疲れ"の総決算"でもあったと考えます。

信長の自刃を前にしての『是非に及ばず』は、緊張感からの解き放たれたことで、発した言葉だった、と、思うのです。

戦乱の時代は終わりつつあり、信長の時代も終わりつつあり、強い緊張感から解き放たれることを、予測していた、望んでいた・・・・・。

まあ、そういう事です。

さて、本能寺の変、どのように描くのか、楽しみです。

それでは、また。

 

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