歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“関東三大聖天”で“日本三大聖天”は?

2008年06月30日 | お寺・神社
先週の続きです。

先ずは、高くて大きな本堂にお参りします。首を思いっきり後ろに反らして見上げます。兎に角、デカイです。



震災後に建てられた本堂を、昭和40年代にコンクリートの台座に乗せたものと推測しますが、嵩上げ工事はかなり“見物”だった筈です。

7~8メートルの嵩上げですから、一日10数㎝として、3ヶ月ぐらいは?かかったかも知れません。いゃ。もしかして、一日30㎝で1ヶ月くらいかなァ~?

油圧ジャッキで持ち上げ、枕木を入れ、また持ち上げ、枕木を入れる。延々とこれを繰り返す。

こんな工事の光景を、時々テレビで採り上げることがあります。こんな工事をする業者がけっこうあるようです。

曳家(ひきや)、揚方(あげかた)、嵩上げ(かさあげ)等と、その業界では呼ぶそうです。

まぁ。兎に角、見上げたものです。


本堂の見学は後で“じっくり”行いたいと思います。先ずは、山門から正面に位置する“聖天堂”を参拝・見学します。

こちらも、本堂と同じ高さに嵩上げされています。


境内の案内板にあったように、平井聖天は“関東三大聖天”だそうです。


“聖天”と云う神様?を始めて知りました。除災・富貴・夫婦和合・子宝の功徳ある神様のようです。

昔はヒンズー教の神様でしたが、いつの間にか仏教の方に変わられたようです。正式には、“大聖歓喜天”と云うそうです。

歓喜で、夫婦和合で、子宝で、何だかとっても親しみ易そうです。

関東三大聖天とくれば、日本三大聖天は?

知りたくなって調べたところ、そのような表現を使っているのは、「wikipedia」以外に2~3のサイトしかありませんでした。あまり使われないようです。

それで、「wikipedia」に依る、“日本三大聖天”ですが、一つ目が「浅草の待乳山聖天」、二つ目が「奈良の生駒聖天」、この二つ目までは「確定」だそうです。

残りの三つ目が、聖天マニア?、聖天界?、で大きく意見が分かれ、それぞれの社会的、歴史的、宗教的な評価基準と、そして、「好み」により、“以下”のどれかを加えるそうです。

“以下”の三番手を争って?いるのが、熊谷市の“妻沼聖天”、静岡県の“足柄聖天”、桑名市の“桑名聖天”、兵庫県豊岡市の“豊岡聖天”たそうです。

しかし、こんなこと、何処の、誰が、どうやって決めるのでしょうかね。

まぁ。兎に角、“夫婦和合”をお祈り致しました。


山門の方向に振り返ります。真っ直ぐ先に平井駅があります。


隣の諏訪神社。


裏手は幼稚園。


聖天越しの本堂。


いい眺めです。


立派な鯱です。


次は、いよいよ、本堂の見学です。


それでは、また明日。


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平井聖天燈明寺の茶室は何処に?

2008年06月27日 | お寺・神社
昨日の続きです。

諏訪神社を後に、大屋根を目指します。


この日、二つ目の使命である“燈明寺”に到着です。事前の予想とは大違いの大きな“お寺さん”です。


先ずは、塀越しに眺めます。大きくて立派な本堂です。


山門には石造りの仁王様です。


お二人供に、筋骨隆々の大男ではなく、小柄で堅太りタイプの金剛力士です。



それではいよいよ、仁王門をくぐり境内に入ります。


直ぐに眼に付いたのはこの座像です。これまでの経験から、この寺に一番貢献した住職の方と推測します。


いろいろな石像が並んでいます。


石像の傍らに2枚の案内板があります。


木製の案内板に“此の茶室は・・・”とあるのですが、辺りをいくら探しても「此の茶室」と思われる建物は見当たらないのです。


伊藤左千夫が設計して、正岡子規も遊びに来たと云う茶室は何処にあるのでしょうか? それにしても、左千夫が茶室の設計もしていたのには驚きです。

後で判ったのですが、この山門越しに見える、左手の建物が「茶室」らしいのです。しかし、茶室の説明板は向かい側に立てられていたのです。


何故か?建物側に無く、それなのに「此の茶室は・・・」と表記されているのです。「此の」とあれば、その背後か近辺を指す言葉です。

茶室と案内板の位置関係から、敢えて云うならば、「彼の茶室・・・」と表記すべきです。ホントは茶室の前に案内板を立てるべきです。

それにしても、この建物、如何にも案内所的、受付的な外観でした。一部改築されたように見受けられます。

こちらは江戸川区教育委員会が立てた案内板です。


【平井聖天(燈見寺)】と表記されています。「平井聖天」がメインのようです。灯明寺は「新義真言宗」とあります。

調べてみたら、真言宗には「古義」と「新義」があり、それぞれが、いろいろな宗派に分かれているのでした。

“古義真言宗”には、醍醐派、泉涌寺派、御室派、山階派、大覚寺派、善通寺派、東寺派があり。

“新義真言宗”には、豊山派、智山派があるそうです。しかし、まぁ、いろいろあるものです。これでは、ホントに、

『お釈迦様でも、あッ、気が付くめェ~』と、思うのです。

本堂です。大きくて、立派で、美しい建物です。


関東大震災後、26代目の住職、“関澄道さん”の時代に建てられたようです。入り口の座像はこの方のようです。


良く見ると、木造の本堂が、鉄筋コンクリートの台座の上に乗っかっています。昭和40年代の地盤沈下が騒がれた頃、改修工事を行ったものと思います。

台座で嵩上げされた結果、建物の高さが増し、その偉容も増したようです。

“高くて、大きい”と、人は見上げることになります。見上げると、敬う気持ちが自然に生まれるようです。

“高くて、大きい”ことは、宗教にとって必要条件のようです。

これから、じっくり、見学させて頂きます。

それでは、また。


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平井“諏訪神社の富士塚”

2008年06月26日 | お寺・神社
昨日の続きです。

“東大寺大仏殿”のような大屋根に驚き、興奮しながら大屋根を見据えて歩いていると、手前の処で鳥居を見つけました。

素通りすることはできません。兎に角、覗いて見る事にしました。諏訪神社とあります。


それなりに、なかなかの神社です。奥に、目指す大屋根のお寺が見えます。


この諏訪神社は、享保年間(1716年~1736年)の創建だそうです。

“富士塚”がありました。


富士塚は江戸時代に盛んに造られたようですが、ここの富士塚は大正9年に造られたと有ります。かなり新しいものです。


小御嶽神社が祀られています。


富士塚の必需品である“富士山の溶岩”です。これってホントに富士山から運んできたのでしょうか? 

いゃ。神様を疑ってはいけません、罰が当たります。


もしかして、昔は“富士塚”を専門に扱う、造営業者があったかも知れません。

本殿は残念ながら、鉄筋コンクリート製です。


キンキラキンに、極彩色の塗装も日本です。



この際、狛犬も極彩色で派手に決めて見たらと思うのですが、狛犬は本殿と異なり、かなり年代が経っているようです。


本殿の内部をガラス越しに覗いたのですが、神社と云うよりも、お寺の本堂に見えます。神社は質素で自然な白木造りが似合います。


どうですか?この写真、なかなかでしョ! どう見ても、千葉の匂いが漂う総武線平井駅の近所とは思えません。


奈良の香りがしてきます。


諏訪神社には失礼ですが、早く、隣に行きたくなりました。


それでは、また明日。


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妙光寺“文六さんの日蓮像は?”

2008年06月25日 | お寺・神社
昨日の続きです。

妙光寺に到着しました。

どんな処にある、どんなお寺か、楽しみだったのですが、こんな処にある、こんなお寺でした。

“こぢんまり”として、手入れの行き届いた、なかなかいいお寺です。周囲の町並みも“こぢんまり”です。



この墓石のような石柱は、いったい何でしょうか?
 

慶長3年の創建ですから、今から410年前です。元禄年間に津波の被害を受けたようです。この辺りは海に近かったと云うか、海岸淵だったかもしれません。


やっぱり、ここも、“0メートル地帯”の影響を受けているのです。昭和40年代は地盤沈下が騒がれた頃です。

平井橋周辺は「海面下8メートル」だったそうです。あれから、地盤沈下はどうなったのでしょうか? 

地下水の汲み上げは規制されたようですから、8メートルで止まっているのでしょうか?

水害防止で持ち上げた本堂です。


庫裏の方は、持ち上げていません。いざと云う時は2階に避難するのでしょう。


階段を登り参拝しました。質素ですが“きちん”として清潔で、気持ちの良い向拝です。


後で判ったのですが、先ほどの「案内板」には、採り上げてありませんでしたが、『武江年表』の中に、この寺に関する記述があったのです。

「武江」は江戸を意味します。あの有名な『江戸名所図会』の著者でもある、“斎藤 月岑”(さいとう げっしん 文化元年1804年~明治11年1878年)が書いた江戸の年表です。

それで、その年表に、

【文化4年・1807年6月20日、中平井村の百姓文六、蜆取りの際に日蓮上人の像を得、平井妙光寺に収める】

と、記されているのです。文六さんの拾った日蓮上人の像は、それからいったい、どうなったのでしょうか? 

武江年表の信憑性が疑わしいのか、それとも、日蓮上人だと称する像が、文六さん以外の誰が見ても、日蓮上人には見えない、怪しい代物だったのか?

寺に当時の記録は残っているのか? いないのか? それとも、秘仏として、極々限られた関係者だけに伝わっているのか?

謎は暫く残しておいた方がよさそうです。寺に電話して聞けば、直ぐ謎は解明されるでしょうが、それでは詰まらないのです。

たぶん、当時の記録も、日蓮上人の像も何も無く、まったく判りませんとの返答が推測されます。


本堂脇の供養塔? まだ新しいです。
 

裏は墓地になっています。


江戸川区登録有形文化財である“田口初右衛門筆子塚”見るのを忘れました。


妙光寺を後に、次のお寺を目指します。


通りに戻り、一つ先の交差点を左折します。


交差点で、左手前方を望むと、何と、何と、驚きです! こんな処に、東大寺大仏殿のような大屋根が見えたのです。


目指すお寺の本堂に間違いありません。


予想外のお寺のようです。楽しみです。


それでは、また明日。


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平井橋はリベット橋?ボルト橋?

2008年06月24日 | 東京の風景
昨日の続きです。

いよいよ?平井橋を渡ります。橋のこちら側は墨田区、あちら側は江戸川区になります。

橋の真ん中が区境となっています。でも、橋の管理は墨田区のようです。


銅製の“橋銘板”が取り付けられているコンクリートブロック。銘板、左下隅の雨だれの跡が、風に吹かれて左から右に斜めに流れ落ちています。

風は、川に沿って上流から下流に吹く確率が高いようです。銘板の右下隅から緑青の流れた跡が見られます。

緑青の流れは垂直に落ちています。銘板の四隅を流れてきた水滴が、右下隅で合流し、流体力学的都合?により、流れは垂直に落下した模様です。



それにしても、長い年月、風雨に晒され、コンクリートブロックのコンクリート成分が溶けだし、小石が露出してきています。

この劣化具合に、世の移ろいを、人の世の儚さを、わびさびの世界を、感じてしまったりして・・・・・・、腹が減ったせい?かも知れません。

小石の露出具合といい。

鉄板のリベット結合と云い。


全体の佇まいと云い。


どう見ても、昭和初期の橋だと、思ったのでした。が、しかし、後で調べたところ、何と、1980年(昭和55年)竣工となっていました。

何と、28年の歳月しか経過していないのです。1980年と云えば、ついこの間のことです。80年代製としては、かなり時代遅れのデザインだと思います。

写真をズームアップして確認したら、鉄板はリベット結合ではなく、ボルトで結合でした。この当時であれば、溶接だと思うのですが、かなり中途半端な橋です。


まぁ、当日は、なかなケッコウな、昭和初期のリベット橋と思いつつ、辺りの景観を眺めつつ、渡りました。

ここからは、江戸川区となり、妙光寺はもうすぐそこです。


軒先に、袋が積まれています。何か中に商品でも入っているのかと思ったなのですが、


よく見ると、川が氾濫した時に使用する“土嚢”のようでした。この辺りも、戦中、そして戦後の高度成長時期まで、地下水の汲み上げによる、地盤沈下が激しかったようです。


あの当時、この辺りも“0メートル地帯”と騒がれたようです。通りすがりの者にとっては“0メートル地帯”は懐かしい響きです、郷愁です。

橋を渡って、二つ目の信号を右に入って直ぐに、妙光寺がある筈です。

信号の角に妙光寺の駐車場がありました。

妙光寺の山門が見えてきました。


この日の使命である、妙光寺に到着です。

これから、本堂に参拝し、境内の観察です。


それでは、また明日。


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“老人公園”と“報奨金・懸賞金・謝礼金”

2008年06月23日 | 東京の風景
先週の続きです。

さてェ、これから、この日の“使命”である、東武亀戸線“東あずま駅”より、日蓮宗のお寺“安立山妙光寺”を目指します。どんなお寺か楽しみです。

それでは、駅前、丸八通り交差点、寂しげに佇む“下町マック”の処から脇道に入ります。


下町、裏町、裏通り。


場末感、


外れ感、なかなかいいです。


通りに面した“ちっちゃな公園”


“福寿公園”とあります。名称から推測するところ、もしかして、たぶん、公園は子供ではなく、お年寄りを対象にしたように思われます。

児童公園から“老人公園”の時代のようです。初めてです老人向け公園。

福寿公園は時代の先端を切り開いているのです。

道は、右に、左に、緩やかなカーブが続きます。川岸に突き当たったようです。右隅の石段の先が土手になっています。


川と云い、橋と云い、


土手と云い、遊歩道と云い、


東京と云うよりも、どこかの地方都市の匂いがします。やはり、千葉がかなり入っている風景です。

暫く辺りの風景を眺めます。

丁度いいです。川幅の具合と云い、橋の長さと云い、広くもなく、狭くもなく、長くもなく、短くもなく。

土手の緑具合、周囲の民家、マンション、工場の混ざり具合、風景も丁度いいのです。のんびり、落ち着く風景です。


風景を堪能し、通りに戻ります。


橋の袂には交番がありました。橋は交通の要所です“橋番”です。


指名手配の顔写真、何人か見覚えがあります。“市橋達也”は未だ記憶に新しいです。彼に対する“公的懸賞金”は“最低”の100万です。



500万円が最高額になっていました。ところで、良く見ると、“公的懸賞金”とか、“捜査特別報奨金”とか、“謝礼金”とか、いろいろあるようです。

最高額の500万円は“柴又女子大生殺人・放火事件”で謝礼金となってました。名称の違いは、金の出所の違いでしょうか?

犯罪者の手配ポスターを“しげしげ”と見つめる姿は、かなり怪しそうです。お巡りさんに“職務質問”されないうちに退散します。

そろそろ、旧中川を渡ることにします。


それでは、また明日。


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少子高齢化“チャーリー浜は何処(いずこ)に?”

2008年06月20日 | 東京の風景
昨日の続きです。

丸八通りを歩いています。男女の二人連れがこちらに向かって歩いて来ます。女性のピンクに視線が向きます。

若いような、そうでも無いような、日本人のような、そうでもないような、何となく、ボンヤリと想像を巡らしながらすれ違いました。

すれ違いざまの、一瞬の観察と交わす会話から、20代後半の中国人と判明。この辺りにも、中国人が多く住んでいるのでしょうか。

海外からの移民問題は難しい問題です。少子高齢化による労働力不足の解決策なのでしょうが、低賃金、格差、貧困の原因でもあり、結果ともなります。

そして、いつの日か起きる民族紛争・・・・・・???。

労働条件を法律で厳しく規制すると、企業は海外に出て行ってしまう? そんな企業は、こちらから、あちらへ、追い出してしまいますか?

拡大再生産ではなく、縮小再生産でも、のんびり楽しく暮らせる社会を考えた方が正解のような・・・・・・。

生産性を上げ、品質を上げ、一円でも安い、良い製品を造り、市場占有率を上げ、売り上げを伸ばし、そして、利益を上げる。

その為に、大きな犠牲を払っているのは誰ですか? その犠牲によって得た利益は“何処(いずこ)へ?”・・・・・・懐かしい! “チャーリー浜”のギャグです。

それにしても、最近はめっきり見かけなくなりました。チャーリー浜は“何処に!”

話が、あっち、こっち、とっちらかってしまいました。丸八通りを歩いているのです。


ピッキングは中国語で、この様な漢字で表現するようです。やはり、ここいら辺には中国人が多く住んでいるのでしょう。


“プロレスラー松永光弘”ですか? 聞いたような気がしないでも無いです。私のプロレス観戦歴は“坂口征二”の時代で終わりました。


目指していた“東あずま駅”に到着しました。民家造りの駅舎に親しみを感じます。


都内のローカル線です。


理想的ホームです。緩やかなカーブがいいです。踏切から直接ホームへの侵入を防ぐ、“剣山型障害装置”が設置されています。


踏切もなかなかいいです。


昼時になりました。駅の近く、中華屋さんをチェックしました。


いろいろあります。


ランチは700円から800円台のようです。今一、決定的なメニューがありません。店内を覗くとテーブル席に空きが有りません。よって諦めました。


昼飯は、もう少し経ってからにします。


それでは、昼飯前に、いよいよ本日の“使命”である、お寺を目指して歩きます。


それでは、また明日。


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亀戸線の踏切に“謎の構造物”

2008年06月19日 | 東京の風景
昨日の続きです。

蔵前橋通りを東に向かって歩いています。位置を確認する為、地図を開きました。この先で“丸八通り”と交差し、丸八通りを北方向に上ると、東あずま駅に辿り着くようです。

地図で見るのと、現実の交差点はかなりイメージが異なり、あれェ、何これェ、どうなっての?でした。

“蔵前橋通り”が“亀戸線”を越える為に高架になっており、“丸八通り”は“北十間川”を渡る為に高架になっており、高架の丸八通りの上を高架の蔵前橋通りが越えて行く、三重の立体交差になっているのです。

丸八通りを目指し、蔵前橋通りの立体交差の手前から測道に入った処で、周囲の景観とはかなり異なる民家を発見。


かなり自由に枝を伸ばした木と、かなり自由に生い茂った雑草達に囲まれた家です。

何だこりャ? ガラス戸に何故か白い矢印。


矢印を辿った先は“郵便受け”でした。


外に出ないで、郵便物や新聞を受け取る為の「工夫」なのでしょう。構造上からガラス戸の上にしか、取り付け場所はなさそうです。

高さ的にはかなりキツイ位置ですが、止むを得ない苦渋の選択と理解しました。それにしても、一番下の矢印は要らない気がします。

複雑な立体交差の下、高架を見上げ、辺りウロキョロしながら、丸八通り方向に向かって、狭く薄暗い高架下の道を歩きます。

亀戸線の踏切に出ました。


ここでも、何じゃこりャ?です。


コンクリートの石柱と云うか?、台座と云うか? 何なんだこりャ? 何かを撤去した跡の様にも見えます。


鉄橋の向こうにも“何じゃこりャ”が見えます。


踏切を渡り、その先にある橋を渡って対岸の踏切に行って見ました。


ここで、そうか!、そう言う事か! 謎が解けました。川の堤防と“何じゃこりャ”と高さが同一なのです。

そうなんです! 川が増水した時、“何じゃこりャ”の溝に、仕切板を差し込み堤防が繋がるのです。

本来であれば、予算があれば、堤防の上を亀戸線が通過すれば、こんな苦肉の策は必要ないのです。

こういう状況で、改修工事するとしたら、何処の責任でやるのでしょうか? 東京都? それとも墨田区? それとも東武鉄道?

何となく、亀戸線の開通後に地盤沈下が起こり、こんな状況になった様な気がします。すると、都か区の責任でやる?

まぁ、そんな事、私が考えても仕方無い事です。兎に角、東京の下町には、いろいろな事があるのです。

「何じゃこりャ」の謎が解けて、ヨカッタ、ヨカッタと歩いていると、第三の「何じゃこりャ」です。


両手に釣り竿を持つ少年。


ガラス玉に、松ボックリに、網に、小鳥に、コヒーの空き缶。


奥には、自販機が据え付けられています。自販機のランプは点灯していました。

この怪しい佇まいの中を分け入り、缶コーヒーを買う人は“相当普通でない人”です。

何故か私、この時、「相当普通でない人」になってしまいました。自販機のコーヒーは、まったく普通のコヒーでした。

コーヒーを飲み干し、踏切を後にしました。



振り返ると、北十間川は坂の上を流れていました。

さぁ、もうすぐ“東あずま駅”です。

丸八通りをウロキョロ歩いて行きます。


それでは、また明日。


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“亀戸大根升本”で行ったり来たり

2008年06月18日 | 東京の風景
昨日の続きです。

浅草橋通りに出たところで右に折れ、交差する明治通りを越え“丸八通り”を目指します。明治通りの交差点の先で見つけました。

“生”の“亀戸大根”です。本物が店先に“展示”されていました。


     “大根に かけ水わけて 福もらい” 

いいですねェ~! 爽やかです、江戸情緒です。亀戸大根は別名“福大根”とも呼ばれていたそうです。

ここは“割烹升本”の店先です。ちょっとした料理屋さんです。


メニューを眺めます。


昼も近いし、亀戸大根、食べてみたくなりました。


セイロめし、鍋めし、1450円です。迷いました、折角ここ亀戸に来て、名物の亀戸大根の料理を食べない手はありません。

店構えを眺めます。それなりの店です。この手の店に一人で入り、一人で黙々と食事をするのは、やはりもったいない気がしてきました。

この手の店は“二人”で入り、それなりに語り合い、味わい、料理の“うんちく”を述べ合い、楽しくいただくお店なのです。

そうだァ! そうなのだァ! 次の機会を待つべきだァ!との結論に到り、店を後にしたのです。

ところが、数十歩進んだ処で、待てョ! 折角来たのだから、次の機会の事前調査が!と、ひらめき、引き返しました。

店の前まで戻り、メニューを確認し、店の様子を見回し、いざ入ろうと思った瞬間、四人掛けのテーブルに一人で、黙々と料理に向かう姿が頭に浮かびました。

“やっぱり、だめだァ、寂しい、料理も不味くなる! 次の機会だァ”

と、云う最終結論に達したのであります。この経過を誰か遠くで眺めていたら、かなり怪しく映ったことでしょう。

次の機会の為に、“割烹升本”のホームページを見ました。


【亀戸大根は10月~4月までが、東京葛飾の鈴木さん産を始め、亀戸近郊産。5月~10月は北海道、長野産です。その他、千葉・茨城産の亀戸大根をスポットで仕入れています】
  
【常に亀戸大根で提供できる様準備を心掛けていますが、天候により亀戸大根が出来ない場合があります。その時は江戸大根を使用しています】

かなり、最近の“産地偽装”を意識した内容になっています。この次は、必ず二人で、亀戸大根料理を食べたいと思っています。


亀戸大根は忘れて、浅草橋通りを歩きます。

スゴイです。見た瞬間は木が密生していると思ったのですが、なかに建物がある様です。


蔦に覆われているのです。隣の「タイヤ屋さん」とは別の様です。これからの季節“省エネ”で涼しそうですが、虫がいっぱい出てきそうです。

歩道橋から撮ったのですが、改めて写真を見ると、現実感の無い不思議な風景に見えてきました。人影がまったく見当たりません。


そして、この建物の色使いがより現実感を喪失させている気がします。この手の色はこれまでの日本人には馴染みのない気がします。


日本人の色彩感覚が変化してきたのでしょうか。

この建物は、以前に浅草で撮ったものです。何処か似ている色使いを感じます。


下町の風景も変わって来つつあるようです。“東京スカイツリー”が完成すると、その周辺は大きく変化する気がしてきました。

それでは、また明日。



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“亀戸大根”知ってました?

2008年06月17日 | 東京の風景
昨日の続きです。

亀戸香取神社の境内をウロキョロしていると、この“大根碑”が眼に付きました。


知りませんでした“亀戸大根”何て、大根と云えば“練馬大根”です。亀戸と云えば“天神様”と“藤の花”でした。


“亀戸大根”覚えておきます。


こちらは? 大根の話ではないようです。香取神社のお祭りを、あの“歌川広重”が描いたようです。


先ほどから境内のあちらこちらで眼に付くのがこの貼り紙。

“スポーツの神”、病気に勝つ、自分に勝つ、“勝守り”が一体500円だそうです。

スポーツの神?が居られるのです。「香取」は「カトリ」で「カツトリ」で、「勝ち取る」で、「勝守り」に変化したのか、と思ったのです。

ところが、香取神社のホームページを見たところ、

【天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平らげたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。現在でもこの古事により勝矢祭が5月5日に執り行われております】

このことから、何故か大胆にも、勝負を争う事では、戦争もスポーツも同じであるとして、

【香取神社は「スポーツ振興の神」として、現在はスポーツ大会・試合の勝利を願う多くの参拝者が訪れ篤い祈りを奉げています】

との事だそうです。

本殿にお参りします。


本殿の柱にも「勝守り」の貼り紙。


“テレビで評判の勝ち守り”何とも、まぁ、ここまでやるか?と、思うのであります。財政状況がかなり“逼迫”しているのでしょうか?

それにしても、テレビで評判の“勝守り”、ここに来るまで知りませんでした。“アド街ック”か“ちい散歩”、それとも“途中下車”でしょうか?

本殿の脇には、恵比寿様に大国様です。


鉄製です、水をかけられまっ赤に錆びています。錆色の恵比寿様、大国様です。



自分の身体の痛い処、悪い処に、水を掛ける、たわしで擦る、手でさする、よく見かけるアレです。

お賽銭箱の様な物が脇にあるのですが、箱の名称?、投入口?をガムテープで覆っています。



使用していないのであれば、いっそのこと撤去したらと思うのですが、何か、いろいろと“訳あり”のようです。

そろそろ、香取神社を後にします。


参道の先は商店街です。ここを抜けると“蔵前橋通り”に出ます。


“東あづま駅”に向かっているのですが、またしても、方向がずれてしまいました。蔵前橋通りに出たら左に行きます。


それでは、また明日。


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