歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

火器管制レーダー照射問題で見えた日韓関係のガラパゴス化!

2019年01月21日 | 世間話し

韓国海軍艦艇の、海上自衛隊哨戒機に対する、火器管制レーダー照射問題ですが、両国の対応には、ホントに、ホントに、困ったものです。

事の経緯は、いろいろな情報から、大胆に、ざっくりと、推測するに、管制レーダー担当指揮官レベルの、結果に対する影響の大きさを、まったく考えない行動だったと思います。

その結果が、安倍政権の確信犯的な、相手に逃げ道を塞ぐような、火に油を注ぐような、政治的、扇動的、対応でした。

両国政府の対応は、ホントに、ホントに、ホントに、両国関係の長期的視点の欠如した、両国民の「なめられるなょ!云ってやれ!」的な風潮にのかって、一時的、感情的、国内向け的、子供の喧嘩的だと考えます。

そして、政権指導者の、目先的、政権支持率向上的、当面の選挙対策的なのです。

そんな対応を、マスコミが面白おかしく報道し、これまた、火に油を注いでいるのです。

こんな対応が、両国で、それなりに支持されるのは、互いに抱えた、歴史問題への解釈が、とても、とても、感情的で、互いに、自己に有利な一面を強調しているため、と、考えます。

今回のレーダー照射問題も、米軍艦艇からの照射であれば、また、その逆でも、何かの間違いとして、事務レベルで、水面下で処理した筈です。

軍事事情に通じた、それなりの関係者の、漏れ伝わる話としては、火器管制レーダー照射が、即、火器の発射に繋がる訳ではなく、それなりのステップを踏むそうです。

そして、戦争または、それに近い状況でのレーダー照射と異なり、それなりに訓練のため、行われることがあるそうです。

今回の、韓国艦艇からの照射を受けた哨戒機は、もしかして、冗談や間違いではなく、ホントに攻撃する気かァ!と、一瞬考えたのかも知れません。

韓国艦艇も、指揮官レベルの判断による、それなりの威嚇攻撃だったと思います。

この両国の軍事関係者の思いは、日韓関係を象徴しているのです。背景には、両国が友好国的、同盟国的ではなく、敵対国としての意識を潜在的?持っていると考えます。

両国政府の対応は、沈静化を図るのではなく、感情的な言葉のお応酬を繰り返しています。互いに、両国間関係の長期的視点ではなく、国内世論を意識した、とても、とても、感情的で、攻撃的です。

互いに、感情的、攻撃的に対応する方が、世論の支持が得られるのです。

「慰安婦」問題も、元徴用工の問題も、今回のレーダー照射問題も、単なる「現象」であって、ホントの原因は別にあると考えます。

その原因は、日本人の朝鮮民族に対する差別意識です。

テレビも、新聞も、微妙すぎて、解っていても、触れようとしません。

差別意識は、朝鮮併合の時代頃から、今日まで、日本人の、「感情」に、深く、深く、染みこんでいるのです。

差別する側は無意識、無反省ですが、される側は、とても、とても、敏感に感じ取るのです。

韓国の車が日本ではまったく売れなかったのも、芸能界でも、スポーツ界でも、文化人でも、政治家でも、両親が、片親が、本人が、韓国、朝鮮籍の方たちに、それを隠す方がいます。差別されるからです。

ですから、慰安婦問題も、徴用工問題も、差別意識のフィルターを通して語られるために、互いに、感情的な対立となるのです。

慰安婦問題も、軍が関わっていたのも事実だし、単なる「売春婦」として朝鮮側の業者も関わっていたのも事実だと考えます。

韓国でそんな主張の本が出版され著者が告訴された事件もありました。

朝鮮併合で、産業の振興、インフラ整備、教育の向上、衛生面の向上等が、日本の手で進められたのも事実だと考えます。

どちらも、自己の都合のいい側面だけを主張し合っているのです。

「従軍慰安婦」問題も、徴用工問題も、過去の歴史的な問題ではなく、現在の問題なのです。

もう、ここで、歴史の事実の、定性的分析ではなく、定量的分析はできないものかと考えるのです。

例えば、従軍慰安婦的、強制的な人数と、単なる金銭目的の売春婦的な人数の比率を調査するとか・・・・・・、やっぱり、そんなこと、難しいか・・・・・・。

今はやりの、第三者委員会的な学術的な国際的機関を立ち上げて、日韓の歴史を検証し、その結論を互いに尊重するとか、できないか・・・・・。

差別意識は、理性ではなく、感性の問題なので、理屈では、如何ともしがたい?

やはり、これは、国家という壁が無くなるまで続くのか・・・・・。

それと、問題が複雑化し、顕在化しているのは、世界的に寛容さが失われ、対立の時代に入った背景があるからです。

欧米諸国、そして、日本、経済が成長しても、労働者の所得は向上せず、逆に低下し、暮らし難い時代になったからです。

経済先進国の労働者の賃金は、発展途上国の賃金に引っ張られ、平準化されているのです。途上国の賃金はそれなりに上がり、先進国の賃金は、それ以上に下がっているのです。

寛容さを回復する特効薬は賃金を上げることです。

でも、しかし、賃金の世界的平準化は、まだまだ、はじまったばかり、日本、欧米の賃金が上がるのは、まだまだ、かなり、時間がかかる。

それで、日韓関係も、ですが、賃金の平準化が進み、経済力も均衡してくれば、それなりに、両国関係も、上下関係的に見なくなる?ので、それなりに、差別意識は、時間とともに消えていく?

ホントに、髪の毛の色も、顔つきも、背格好も、食べるものも、箸を使うのも、それなりに、似通っているから、お互いに解り合えると思うのが、そもそもの間違いなのかも?

しかし、感情的対立の先にあるのは戦争です。

外に敵をつくり、国民の敵対感情を煽動し、国内をまとめるやり方は、必ず破綻するのです。歴史が証明しています。

兎に角、日韓関係は、世界から見ると、21世紀になっても、20世紀の過去を引きずりつつ、いつまで、ゴチャゴチャとやりあっている両国は、「ガラパゴス」に見えている?

日韓関係が正常化するには、あと100年の時の流れが必要かも・・・・・・・。

 

それでは、また。

 

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稀勢の里!それなりに頑張った!ご苦労さん!ありがとう!

2019年01月18日 | 相撲の話し

稀勢の里が、とうとう引退しました。

誰が見ても体調は不十分で、稽古も不十分、でも、場所前には、先場所と同じく、体調は十分ですと「明るく」答えていました。

まあ、そう答えるしかありません。

引退発表の記者会見では、ケガをする以前の身体に戻る事はなかった、と云っていました。

年齢的、医学的に、一度断裂した筋肉を元通りに回復するのは、困難なのです。

本人も十分解っていながら、今日まできたのです。

 横綱での勝敗記録は見るも無惨。

2017年
(平成29年)
東大関1
14–1 
西横綱2
13–2[238] 
東横綱
6–5–4[239] 
西横綱
2–4–9[240] 
東横綱2
休場
0–0–15
東横綱2
4–6–5[241] 
2018年
(平成30年)
西横綱
1–5–9[242] 
東横綱2
休場
0–0–15
東横綱2
休場
0–0–15
東横綱2
休場
0–0–15
東横綱2
10–5 
東横綱2
0–5–10[243] 
2019年
(平成31年)
東横綱
引退
0–4–0[244

 日本人横綱と云う、期待に潰された?

それにしても、30歳での横綱昇進は遅すぎました。

2004年に18歳での新入幕は早かった。

2006年に小結も早かった。

でも、しかし、大関昇進は2013年で、足掛け7年は長かった。

2017年の横綱昇進までは足掛け4年。ホントに長かった。

三役1~2年で大関、大関1~2年で横綱、そのくらい”稀”に見る”勢い”で、横綱を締めて欲しかった。

全盛期を過ぎての横綱昇進でした。

ホントに、ホントに、ホントに、頑張りました!

ホントに、ホントに、ホントに、ご苦労様!

ホントに、ホントに、ホントに、ありがとう!

これからは、親方荒磯として、後進の指導を宜しくお願いします。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ありがとう! 兼高かおるさん 合掌!

2019年01月10日 | その他

今朝のニュースで知りました。

いまから12年前の記事です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先日の深夜、「名曲のアルバム」を見ていて思い出しました。

「兼高かおる世界の旅」です。中学生の頃から、20代前半まで見ていたような記憶があります。

最初のころは「白黒」だった気がしたのですが、調べてみたら、「カラー」で放送されていました。アレ?と思ったら、我が家の受像機が「白黒」だったのです。

遠い昔のテレビ番組と思っていましたが、「1990年」まで放送されていました。放送開始は1959年からです。



放送は日曜日の11時ごろだったと思います。兎に角、夢のような番組でした。「兼高かおる」さん素敵でした。綺麗でした。

それと、彼女が「日本人」として世界を回ると、「何か変?」と思ったりしました。容貌は西洋人ですし、英語はペラペラでしたから、外国の人達は「日本」と云う国は、「ヨーロッパ」の「端っこ」の国と思ったのか? 一度は聞いて見たかったのです。そんなことも思い出しました。


提供が「三井物産」で、後援?協賛?があの今は無き、航空会社「パンアメリカン航空」でした。そう「パンナム」です。垂直尾翼の「あのマーク」鮮明に覚えています。



番組は「パンナム」の「大型ジェット旅客機」が大空を飛んでいるシーンから始まったような気がします。もしかして、FMの「ジェットストリーム」のイメージと重なってしまった?

「世界の旅・三井物産・パンナム・ジェット機」この言葉の響きを聞いただけで、ドキドキしました。手の届かない「遠い夢」「憧れ」・・・・・・そんな時代でした。

見た事も、聞いた事も、行った事もない、遠~い国の「見知らぬ風景」。南の国の「青い空・紺碧の海・白い波・白い雲」・・・・・・。



見知らぬ「ヨーロッパの街角」歴史を刻む、建物、石畳、見るものすべてが、新鮮でした。不思議でした。驚きでした。



夢の海外旅行が現実となり、誰でも手軽に海外旅行に行かれる時代となった、1990年に番組が終了しました。

それで、「誰でもいける時代」なったのですが、私の場合、海外旅行はバブルの時代に「会社持ち」で行った、「香港」と「グァム」の2回しか経験がありません。

少し無理をすれば自腹の「海外旅行」も可能ではありましたが、「少し無理」するほどの「欲求」が生じなかったのです。

今は、私にとって「見知らぬ外国」は「夢と憧れ」のままで、大事に「とって置きたい」・・・・・・そんな気がしています。

私にとって、見知らぬ外国の、見知らぬ街の、夢と憧れナンバー1はスペインの「アルハンブラ宮殿」です。



スペイン、グラナダ、アルハンブラと見ただけ、聞いただけで「あの曲」、あの「幻想的」で、「寂しく」、「もの悲しく」、「やわらか」な・・・・・・ギターの弦を弾く音、そして、夕陽に照らされた「宮殿」の「情景」が目の前に現れてきます。

これって、宮殿」の建築的素晴らしさと、「曲」の素晴らしさですね。そして、宮殿が「スペイン・グラナダ・アルハンブラ」であること、曲が「ギター演奏」であること等、幾つかの重なりが生んだ、奇跡と云ってもいい出会いだと思います。

曲と宮殿はふたつで一つの「芸術」です。


そうだ。「兼高かおる世界の旅」でした。

番組の終了後の翌年。1991年に、アメリカの「自由と繁栄の象徴」、「パンアメリカン航空」が倒産しました。

調べてみると、「パンナム」は番組終了のかなり以前に降りていて、後半は「スカンジナビア航空」の協賛になっていました。知りませんでした。

夢の番組、「兼高かおる世界の旅」の想い出でした。ホントに「かおる」さんは「素敵」でした。「綺麗」でした。


今夜は「アルハンブラ宮殿の想い出」を聞きながら飲みます。

Recuerdos de la Alhambra アルハンブラの思い出


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日本も、私も、未来に夢を描けた、ホントに、ホントに、いい時代でした。

兼高かおるさん、ありがとうございました。

ご冥福をお祈りします。

     合掌

 

 

 

 

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日69歳に辿りつきました!これからもボーっと生きて!チコちゃんに叱られるかも?

2019年01月05日 | その他

本日は誕生日です。

69歳です。

1950年1月5日に生まれたのです。 

ホントに!ホント!に信じられません!生まれてから69年の時が流れたのです。

昭和に生まれ、平成の世になり、今年で平成が終わりを告げるのです。

最近はテレビなどで、この店は老舗で、創業70年とか、80年とか、90年とか、100年とか言われても、その程度では老舗じゃねぇ!と、画面に向かって独り呟いてしまうのです。

1950年の69年前は、1950-69=1881で、明治14年となります。

何故?そんな事を?と、お思いの方もいらっしゃるでしょうが、69年の変化を、長さを、考えるのに、私としては、この方法がとても良いのです。

明治14年から昭和25年までの間には、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争の勃発、と、69年間の時代の、長さを、変化を、実感するのです。

昭和25年から平成31年の69年間も大きく変化しました。

敗戦、復興、高度経済成長、バブル崩壊、そして、現在の長期低成長で格差社会で、少子高齢化。

1950年(昭和25)の人口は83,199,637人で、1億人を越えたのが1970年(昭和45)で、2010年頃より人口は減り始めたのでした。

話は逸れますが、1970年前後は、いろいろ思い出すのです。いろいろあった時代でしたので、昨日の事のように感じるのです。でも、しかし、何と、半世紀近く前なのでした。

話を戻します。

それで、1950年の特殊出生率は驚きの「4.54」で、現在は何と「1.3~1.4」に落ちているのです。

戦後ベビーブームの世代は、進学でも、就職でも、競争が激しかった!何て解説?を聞いた事がありますが、私としては、まったく意識することはありませんでした。

景気は絶好調で、高校に入学する時期は、新設校ラッシュで都内に公立高校が乱立した時代でした。私も乱立した新設の工業高校に潜り込みました。

木造2階建ての「ハーモニカ長屋(死語?)」の「引き揚げ者住宅(死語?)」で生まれて、普通の能力で、普通に働き、普通の給料で、普通の庭付き一戸建てに住めた時代。

歳をとると、これからより、これまでの方が長いので、昔の事を思い出すのです。

ちなみに、69歳の余命を調べてみたら「15年」でした。80と4・5歳でこの世を去るみたいです。

う~ん、15年は、やっぱり、かなり短いです。

仕事を辞めて15年が経ちましたが、ホントに、ホントに、ホントに、アット!云う間の15年でした。これから先も、アット!云う間。

これから先のアット云う間を、それなりに、密度の濃い時間にしなければ、と、誕生日を迎えて、つらつら思うのです。

う~ん、でも、やっぱり、密度濃くは、かなり、かなり、かなり難しい。

やはり、これまでどおり、ボーっと生きてしまう可能性大。

きっと、チコちゃんに叱られるかも?

 

それでは、また。

 

 

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おめでとうございます

2019年01月01日 | その他

    

 

 

 

    2019年もよろしくねェ!

 

 

 

 

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする