歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

足利市 ② 鑁阿寺 (ばんなじ) は "日本百名城" で境内ではシュウマイとソース焼きそばが販売されています

2023年11月29日 | 東京の風景

前回の続きです。

足利学校の見学を終えて、お次は鑁阿寺に向かいます。

大通りから鑁阿寺へと続く石畳の参道です。両側に建ち並ぶ、商店、民家、蔵、風情、趣、味わいがあり、なかなか結構。

出ました、在りました、足利と云えば、足利尊氏(1305年ー1358年) の銅像です。室町幕府の初代征夷大将軍(在位1338年ー1358年)

はい、山門が見えてきました。

なかなかの構え。

こちらもまさしく、堀と土塁で周囲を囲んだ武家屋敷、城塞です。東西南北に門ががあるようです。鑁阿寺は足利氏の屋敷が始まりのようです。

因みに、"日本百名城"に指定されているようです。"日本百名山"は知っていましたが、百名城は知りませんでした。

"名山の方"は、小説家・随筆家・登山家であった"深田久弥"の命名。

"名城の方"は「財団法人日本城郭協会」が2006年に定めたそうです。 選定委員には、NHKの"城番組"でお馴染みで、お城とくれば、この人"千田 嘉博"さんも名を連ねていました。

境内の大イチョウが、とても、とても立派でした。

国宝の本堂が、とても、とても、小さく感じてしまいます。

真言宗で、大本山で、金剛山鑁阿寺。

真言宗は一番宗派が多く、13宗派56派があるそうで、56派ですから大本山も56か所にあるの ? 何だか良くわかりません。

まあ、真言宗と云えば、弘法大師空海で、総本山として一番有名なのは、和歌山県の高野山にある、 金剛峰寺です。その他に、京都の醍醐寺とか、仁和寺とか、大覚寺とか、ぐらいですかね。鑁阿寺は知りませんでした。

境内を逍遙していると、こんな光景に出会いました。可愛いで~す!⒒月です、ママと二人で七五三参りです。三歳かな ? おめでとうございま~す!

境内にある茶屋、大日茶屋に入ります。"足利シュウマイ"と"ジャガイモ入りのソース焼きそば"の二品で勝負しています。シュウマイが足利名物で、じゃが焼きは栃木名物?

ダブル炭水化物の焼きそばは血糖値が爆上がりしますので、シュウマイを注文、180円だったような気がします。これで本日のランチとします。 

シュウマイを食べつつ、境内を見まわしつつ、思ったのです。どうも、このお寺、何となく、どことなく、現役ではないような? そんな雰囲気がするのです。  

境内には、この規模の神社仏閣には必ずある、おみくじを引く場所とか、お札を授ける場所とか、事務所とか、庫裏とか、庫裡とか、そんな施設が一切無く、線香の匂いも無く、僧侶の気配もなく、もしかして? お寺の"遺跡"なの? と、思ったりしたのでした。

※改めて写真を見直したら、本殿の左右に、おみくじ、お札、お守りはありました。

それにしても、このての寺院で、境内に茶屋は珍しいです。そして、そして、茶屋の名前が、なんと、なんと、"大日"茶屋です。

真言宗大日派で、総本山で、御本尊は大日如来で、その境内で、茶屋の名前が大日茶屋とは、ちょっと恐れ多いのでは? 寺側もよく許可したものだ、と、シュウマイを食べつつ思ったりしたのです。

それにしても、名物の"足利シュウマイ" ですが、ソースの味しかしませんでした。中身の具には、肉は無く、玉ねぎのみ、とのことですが、玉ねぎのシャキシャキ感ももなく、とても、とても、不思議な食べ物でした。

まあ、秋田県知事に見せたら、たぶん、"貧乏くさい!" の一言を頂く事と思います。"佐竹の殿様"は、とても正直な方なのです。 

超軽いランチを済ませ、鑁阿寺を後にします。

西門 ? より出て、次は、織姫神社を目指します。

本日は、この辺で終わります。

それでは、また。

 

 

 

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足利市 ① 足利学校は復原か? 復元か? 日本最古って!いつ創立や?日本遺産第一号って!2号はどこや?

2023年11月24日 | 旅の話し

前回の続きです。

市営の無料駐車場から”日本最古の学校”を目指します。

しかし、”目指す”と云うほどの距離ではありませんでした。駐車場から通りに出ると、道路の反対側の右斜め前に、目指す足利学校が見えました。歩道橋を渡ります。

雲一つ、イヤ、二つ、三つ・・・・ありますが、空が青いなァ~~。絶好の観光日和で~~す!

それにしても、駅からの距離が近いです。”史跡”は、特に地方都市では、昔は、煙を吐き出し、大きな音を立て走る鉄道は、市街地から遠ざけられて敷設されたものです。

それで、このJR足利駅ですが、私、高崎線と思っていたのですが、ちょっこと調べて見たら、両毛線でした。”両毛”は聞いたような、聞かないような名称です。

両毛線とは、栃木県小山市の”小山駅”から、群馬県前橋市の”新前橋駅”間を結ぶ鉄道だそうです。両毛とは、栃木県南西部から群馬県南東部を跨る広域地域を”両毛”と呼ぶそうです。

路線距離は84.4㎞、19駅、開業は1884年(明治17年)。それで、実は、新前橋駅を始発・終着とする列車はなく、新前橋より、上越線に乗り入れ高崎駅まで運行しているので、旅客案内上は、小山駅から高崎駅間を両毛線としているそうです。←私の高崎線との勘違いはこれが原因。

因みに、高崎線とは、大宮駅から高崎駅間を結ぶ路線だそうです。でも、いまは、東京駅や上野駅からも高崎線が、相互乗り入れで出ているので、起点が何処か分からなくなります。それにしても最近は、あっち、こっちで、相互乗り入れが流行っています。

話を足利学校に戻します。

こちらが足利学校のほぼ全景。周囲は堀と土塁で囲まれて、一見、”城塞”のような構え。元は武家屋敷だったのか?

日本で " 最古の学校"で、”日本遺産第一号”だそうです。

それで、最古と云われると、当然、いつ?誰が?との疑問が生じます。ところが、これが難しく、諸説入り乱れているそうなのです。

奈良時代の国学の遺制説とか、平安時代の小野篁説とか、鎌倉時代の足利義兼説とか、いろいろあるのです。奈良、平安はあり得ないと思います。

私としては、「学問に関心を寄せて居た北条実時が鎌倉時代の1253年に金沢文庫をつくり、実時の子の顕時、孫の貞顕も学問を好み、文庫を中心に活動していた。足利学校は、この時代に足利氏が一族の学問所として、下野国足利に創立」説を支持したいと考えます。

戦闘集団の武士が政治権力を貴族階級から奪取し、政治支配の必要から、学問に関心を持ち始めたのです。

創立は明確ではないのですが、再興については、諸説はなく、明確に、上杉憲実により1439年との記録があるそうです。

1439年頃と云えば、その28年後に応仁の乱、そして、戦国時代に突入するのです。

次に、”日本遺産第一号”についてです。そもそも、日本遺産は、世界遺産の日本版で、まあ、観光で?集客で?商売繁盛で?・・・、何て本音が、チラチラ見え隠れする制度。

この第一号なのですが、この表現は、かなり誤解を与えかねないと思います。

調べて見たら、日本遺産には幾つかの分野があり、その中のひとつ『近世教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源』の分野で、2015年4月24日に第一回目の発表が文化庁からあったそうです。

それで、そのとき、水戸市の弘道館等とか、岡山県備前市の”何とか等”とか、大分県日田市の”何とか等”とか、同時に四か所が認定されたそうです。

第一号は、教育遺産群としては四か所、その他の分野を入れると、第一号は数十か所から数百か所あるようです。

と云う事で、第一号と云う表現は、適切ではないと考えます。また、認定されるには都道府県が文化庁に申請するのですが、すでに世界遺産に認定されている、有名どころは、当然、日本遺産の申請はしていません。

まあ、兎に角、足利学校です。

イチョウの葉がまぶしいです。ここで入場料を400円だったか、420円だったか払いました。

校門。

こんな案内板。

こちら書院。

書院前のお庭。

学校とは云っても、いまのような校舎的なものは無いようです。

こちらは学生寮。

こんな説明板があります。

足利学校は、まあ、こんなところです。

建築物が、お庭が、特に、どうこう、と云う訳でもないようです。すべては、平成2年の復原なのです。

因みに、案内板にある「(宝暦年間の姿に復原)とありますが、文化財に関しての「ふくげん」ですが、

改造された建物を元の姿に戻す事を『復原』と云い、

失われた消えた建物を、元の姿に戻すことを『復元』と、云うそうです。

それで、それで、学校内の案内板には「復原」の表記で、足利市のホームページには「復元」の表記。この違いは重大です。

兎に角、足利に!日本最古の!教育機関があった!そのことが売りなのでした。

兎に角、栃木県の足利市に来ました。足利学校を見学しました。

と、云う事でした。

次は、鑁阿寺と、織姫神社と、雪輪町を見学です。

 

それでは、また。

 

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足利は思ったよりも近かった!そして道中は桂子ちゃんのポスターばかり!喜四郎先生は?後継者は? 

2023年11月18日 | 旅の話し

14日の朝、8時少し前に家を出て足利に向かいました。

この日は、十数年前に、何かの ? ポイントが貯まって、タダで貰った定価1万円ほどのカーナビ(これまでそこそこ役に立っていました)を頼りに、一般道を伝っての足利行きです。所要時間は約3時間の予定。

もしかして、もしかして、出勤時間帯で渋滞が ? との予想が的中。水海道市街(現在は常総市)の手前から、街中を抜けるまで渋滞に巻き込まれ、30数分 ? のロス。

常総市からは354号線で、坂東市を通過し、境町を通過し、古河市を通過。この辺りまでは、それなりに見覚えのある町。この先からは、まったくのカーナビにお任せとなります。

坂東市を通過中から、道路際には衆議院議員で現在は文科大臣の"永岡桂子"のポスターが、いつまでも、いつまでも、付いてくるのでした。彼女の選挙区は、常総市と坂東市あたりだと思っていたのです。

どこまで続くのこのポスターは ? と、思いつつ横眼で眺めていたのでした。今調べてみたら、彼女の茨城7区は 、古河市、結城市、下妻市、常総市、坂東市、結城郡、猿島郡が選挙区だと判明。茨城7区の隣は、もう栃木県なのでした。

茨城7区は、かの有名な"選挙の神様 中村喜四郎"の選挙区。14回連続当選の彼が、前回、小選挙区で永岡桂子に負けたのです。旦那の急死で、急遽後継候補となり、小選挙区では喜四郎先生に負け続けて、前回初めて勝利した桂子さんは目出度く初入閣。

因みに、小沢一郎先生もこの時の選挙で、初めて小選挙区で敗北し比例で復活。 一郎も、喜四郎も、田中角栄を政界の師と仰いだ二人。何か、時代とか、因縁とか、感じたりして・・・。 

自民党を離党し、汚職事件での逮捕後は、保守系無所属。そして、前回は立憲民主党からの立候補でした。保守的な茨城では、自民党の看板、保守の看板は、絶対なのです。自民党・保守の看板があっての選挙の神様だったのです。比例での復活でした。私より1歳年上です。

因みに、10数年前、坂東市のそば屋で、隣のボックス席に、黒く日焼けした人相の悪い男を発見し、何処かで見たようなと思っていたら、中村喜四郎先生でした。

それにしても、喜四郎先生のポスターも、後継候補のポスターも、立憲民主党のポスターも、1枚も見かけませんでした。次回の選挙は、息子の勇太を立てるような噂を耳にしたのですが、後継候補問題は揉めているの ?

因みに、"喜四郎"という名前ですが、父の後を継いで政治家になるときに、父の名を継いで喜四郎(出生時は伸)を襲名 ?したそうです。母は参議院議員で、息子は現在県会議員。

茨城県では、日本では、政治一家と云うか、家業が政治家と云うか、世襲制議員と云うか、こういう二世・三世が、いまや自民党では幅を利かせているのです。”とてつもなく無能”な岸田君も二世だったか、三世だったか。

立憲がだめなら、後継者を自民党から、何てことは無理筋だし、立憲民主党は、立憲民主党で、”ニタニタ兄ちゃん”の泉健太執行部体制で、もう、ほとんど、断末魔状態。

あっ!話が逸れてしまった。

それで、古河を過ぎたあたりからは、カーナビは当てにせず、道路案内板を頼りに足利を目指しました。

実は、古河から舘林へ向かう辺りから、354号線の新しいバイパスらしき広い道路を外れ、狭い旧道らしき道路への、案内表示、音声案内が繰り返され、それに従い走行していました。

舘林の市内を抜けて50号線を走ります。到着までの距離数は10㎞を切ったのですが、道路案内板に”足利”の文字は現れません。

まだか、まだかと案内板が現れる度に眼を凝らしていたのです。しかし、突然、予告もなく、足利市内表示が現れたのです。 これって、 遠くから、足利を目指して訪れるような酔狂な人が居ないので、こんなことになってるの?

まあ、兎に角、渡良瀬川を越えて市の中心部に向かい、駅前を通過し、ルートイン(通り1丁目交差点の左下の角辺り)の建物を左前方に見て交差点を右折し、市営の無料駐車場(善徳寺の下Pマーク)を目指したのですが、案内表示を見落として、鑁阿寺をぐるっと一周して駐車場に11時半過ぎに到着。

思っていたより早く着いてしまいました。途中、ホームセンターでトイレを借り、お礼に缶コーヒー買い、10分ほど休憩して、所要時間は3時間半弱。水海道での朝の通勤渋滞がなければ2時間半。足利は近かった。

それなりに満車を心配していたのですが、駐車場は空いていました。途中で買った缶コーヒーを飲みつつ一休みして、駐車場の係員に足利学校の方向を確認して、いよいよ、足利学校に向かいます。

この先は次回とします。

それでは、また。

 

 

 

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ゾルゲ事件でユダで「ベニスの商人」と「アンネの日記」でパレスチナの難問 !

2023年11月10日 | 世間話し

最近、本棚の隅から、赤茶色に変色した『生きているユダ』を見つけて、読みなをしました。

昭和52年(1977年) 5月20日発行(三刷)の角川文庫ですから、40数年を経てから再読。

単行本として出版されたのは昭和34年(1959年)です。

「ゾルゲ事件」で検挙され処刑された、尾崎秀実(ほつみ)の異母兄弟である、弟の尾崎秀樹(ほつき)…1928年ー1999年…が著者。

それにしても、タイトルに使われている「ユダ」ですが、キリストを裏切ったことにより、裏切り者の代名詞として "ユダ"の表現。現在では、ほとんど耳にも、眼にも、しなくなりました。

無くなったと云えば、同じく、シェイクスピアの戯曲で、人肉を担保にとった、ユダヤ人高利貸しシャーロックが登場する、『ヴェニスの商人』も、現在では、ほとんど耳にも、眼にも、しなくなりました。この話は、子供向けの童話的なものとして、昔はかなり一般的に普及していた気がします。

ベニスの商人が消え、裏切り者の代名詞ユダの表現が消え、そして、その後、ナチスの残虐非道の犠牲となった、ユダヤ人の象徴としての少女のお話「アンネの日記」の世界的に普及。

これらは、かなり、かなり、イスラエルによる、情報戦略の匂いを感じます。彼らは、こういう方面で、かなり、長けています。

欧米では、金融・経済・学者・ジャーナリスト・映画演劇等々にユダヤ人が幅を利かせ、世の中に対して、大きな影響力を持っていると言われています。

特に、米国では政界への影響力は絶大だと云います。そのことが、米国のイスラエル政策に大きく影響していると聞きます。

今回の、パレスチナに対するイスラエルの行為は、明らかに"ジェノサイド"そのものだと考えます。それでも、"人権・人道"を掲げる米国が、イスラエルを外交的に擁護し、軍事的にも支援しているのです。

イスラエルは、ハマスの奇襲攻撃に対する自衛権の行使として、ガザへの攻撃を正当化しています。しかし、明らかに、過剰で、無差別的な武力行使です。

10月7日のハマスによる、イスラエルへの奇襲攻撃を起点にして、物事を判断すべきではないと考えます。数十年の、パレスチナとイスラエルの歴史的経緯のなかで、今回の事態を捉えるべきです。

今回のハマスによる奇襲は、これまでの歴史的経緯、そして、日常的に行われているイスラエルによる、パレスチナへの侵略への、正統な抵抗権の行使だと考えます。

どちらにしても、犠牲になるのは子供たちです。子供たちだけでも、全員避難させてほしい。

それにしても、イスラエルの一部高官は、子供はいずれテロリストになると公言しているそうですし、パレスチナは、パレスチナで、イスラエルは国民皆兵で男も女徴兵され、イスラエルに民間人はいない、居るのは、軍人と元軍人、これから軍人になる人間だけと云っているそうです。

2千数百年前に、パレスチナを追われ世界に散っていたユダヤ人、約束の地として、神に選ばれた民として、ナチスの被害者・犠牲者として、パレスチナの地にイスラエル国家を建設するユダヤ人。

ユダヤ人国家建設の為に、パレスチナの地を追われた、国家を持たない、被害者、犠牲者のパレスチナ人。

悲しいことに、宗教が絡む争いは残虐なものとなります。そのなかでも、神はただ一つとする一神教の、ユダヤ教とイスラム教の対立は、より残虐な争いとなります。

イスラエルの後ろにいるアメリカ、パレスチナの後ろにいるアラブ諸国。そして、中国、ロシアも、絡んで、まさに、まさに、答えの無い、拗れに、拗れた、縺れに、縺れた、捻じれに、捻じれた、とてつもない難問。

2千数百年の背景がある難問は、答えを導き出すのに、今後、2千数百年の年月が必要なのかも知れません。

話が、いつものように逸れてしまいました。

ゾルゲ事件で、「生きているユダ」です。ゾルゲも、秀実も、そして秀樹も、コミュニストです。コミュニストと云えば、マルクスとなり、マルクスはユダヤ人でした。

秀樹も、その事は、当然、知っていた筈、それでも、裏切り者の代名詞として「ユダ」を使っているは、とても不思議だったので、脇道にそれてしまったのです。

それで、ゾルゲ事件は太平洋戦争に突入する前夜の昭和16年(1941年) の秋、東京で、リヒャルト・ゾルゲ、 尾崎秀実ら5名が、治安維持法、国防保安法、軍機保護法等違反で検挙され、当時、「国際諜報団事件」として世間の注目を集めた事件でした。

事件が起きたのが、戦前で、今から82年前の事ですし、単行本の出版は、事件が起きてから18年後で、私が読んだ文庫本の出版は36年後です。

ゾルゲ事件を、それとなく耳にし、眼にし、それなりの記憶のある、興味関心を抱く年代は、70代の私たちが最後かと思います。

何で、また、今頃、読み返したの ? との疑問を抱く方も、いらっしゃると思います。

それは、世間の一部が、タモリが、森田一義が、"新しい戦前"として、あの頃と、いま頃との時代状況が、空気が、どこか似てきていると、云われ始め、感じ始め、思い始めたからだと思います。

それで『生きているユダ』主題は、著者である尾崎秀樹が、ソ連のスパイとして検挙された兄の尾崎秀実の、検挙の「端緒を提供した」と言われた"伊藤律"を追及していくドキュメント。

伊藤律(1913年ー1989年)は戦前からのコミュニストで、戦後も日本共産党の政治局員になった人物です。1953年に"階級的犯罪行為"により除名処分。

それで、「伊藤律スパイ説」ですが、以前より、いろいろな人から、いろいろと否定する、いろいろな文献が発表されています。

近年、伊藤律の遺族や、伊藤律の「名誉回復を求める会」等が、松本清張の伊藤律スパイ説をとる「日本の黒い霧」の該当部の出版取りやめを求めたりしているのです。

2013年、文春編集部の責任で『日本の黒い霧』の該当部に伊藤の証言の引用とスパイ説を否定する文献への参照を促す注釈を、編集部の責任で入れることを決めたそうです。

そんな、こんなで、本日も、あっちに、こっちに、と、いろいろと書き散らしました。

 

それでは、また。

 

 

 

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足利市は足利学校だけ ! と思っていたら鑁阿寺(バンナジ)と云うお寺もありました !

2023年11月07日 | 旅の話し

新潟へ行ったのが、先月の23・24日でした。

それからというもの、近所を歩いていると、いつも眼にする風景が、何故か、少し、違って見えるのでした。

よその土地から訪れた観光客ような感覚で眺めているのです。

以前、鎌倉を訪れ後、近所を歩くと、鎌倉的風景を探して、ここは鎌倉、ここも鎌倉と、呟きつつ歩いていた記憶があります。

少しの旅でも、知らない町を歩くと、それなりに楽しく、日常と異なる感覚が、しばらくは刺激されるようです。

♪知らない町を歩いてみたい !  ♪どこか遠くへ行きたい ! 

と、云う事で、また何処か行きたくなりました。

以前より、それとなく、なんとなく、行ってみたいと思っていた、"足利市"が頭に浮かんだのです。あの "足利学校"で有名なところです。 人口は14万人ほどで栃木県で第四位だそうです。

私のお目当ては、やはり足利学校です。失礼ながら足利市には、足利学校の他には、これと云った観光資源は無いと思っていました。

足利学校の創設は、何と、何と、平安時代の初期 ? もしくは鎌倉時代 ? と、あまりはっきりしないようです。

平安時代初期は、歴史分類上は "古代"となります。何故に? そんな昔に、都から遠く離れた関東の、そのまた外れの地に、そんな高等教育機関が創設されたのか ? とても、とても不思議なのです。創設者も不明だそうです。

学問の機関ですから、創設者、創設年、創設理由等など、文字による記録が残して然るべき、残さなかったのには、何かそれなりの理由があった ?

まあ、兎に角、足利市の足利学校へ行ってみたいと思うのでした。

それで、数日前に、ホテルの予約を入れたのですが、やはり、日、月、火、あたりは僅かに空き室があり、それ以外は満室でした。14日の火曜日の予約をとりました。

今回の宿は、"ルートイン"にしました。前回の新潟では"東横イン"でしたが、決め手は"大浴場"です。やっぱり偶には大きなお風呂に入りたいのです。

それで、大きなお風呂、お風呂と、考えていたら、大きなお風呂とくれば、そこは、それ、やっぱり"温泉"となります。

そうだ ! 温泉 ! 温泉 ! となり探してみました。

足利の近くには、かの有名な日光があります、そして、その奥には、かの有名な"奥日光湯元温泉"があるのです。足利から日光へは、下道で83.7㌔で2時間48分、高速で1時間48分です。

これはもう、足利で一泊、湯元で温泉に浸かって、のんびり一泊なんて考え、湯元の旅館を検索したら、何処を探しても空きはまったくゼロ。何と何と、どこもかしこも年内は予約で埋まっていたのです。

考えてみたら、世の中は、紅葉シーズだったのです。そして、そして、日光はインバウンドで、大盛況のようで、オーバーツーリズムの一歩手前 ? 

兎に角、最近のYouTubeで海外観光客の声を聞くと、皆さんが口にするのが、日本は食事も、宿泊も、何から、何まで、とても、とても、安い ! と、答えるのです。これって、円安です、完全に、日本が安売りされているのです。

海外観光客の誘致政策の成果ではなく、単なる、円安効果です。アベノミックスの成果で~す。

話が、逸れてしまいました。

兎に角、温泉の大浴場でのんびり計画は、別の機会に、と、諦めました。

それでは、足利一本勝負で、よっくり楽しもうと調べてみました。

足利学校以外の見どころとしては、先ずは、鑁阿寺(バンナジ)です。そんなお寺があったとは、今回初めて知りました。

ネットで調べてみたら、

『鑁阿寺は、鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来を祀る。

敷地は約4万平米、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、大正10年3月に、国の史跡に指定されており、現在では「日本の名城百選」にもなっている。

寺院としては、鎌倉時代初期、1196年(建久7年)源姓足利氏2代目の足利義兼(よしかね)が発心得度し、邸宅内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。義兼死後、その子義氏が建立した本堂は、1229年に落雷により、焼失したが、足利貞氏が禅宗様式を取り入れ改修した。日本としては禅宗様式への転換期の最初期にあたる。

鑁阿寺は正式にはvana寺で、バンナ寺でもよく、鑁や阿という漢字の発音を梵語(サンスクリット)に代って当てはめたに過ぎない。したがって鑁や阿に漢字的、日本語的意味が含まれているのではない。単なる当て字である。すなわちバンナとは大日如来のこと、よって、パンナ寺は、すなわち"大日寺"のことである』

と、云う事で、これは、これは、意外に、足利学校と比べても、それなりの歴史的施設で、訪れ、参拝する価値が、それなりにありそうです。

他に、お寺や神社が数か所ありますが、事前に調べすぎるのも、何なんで、ここまでにして、現地に行ってのお楽しみとします。

それと、神社仏閣以外に、街歩きとして面白そうな雪輪町と云う一画が、鑁阿寺の西側にあるのです。これは、YouTubeで見たのです。

面白そうな、と、云うのは、以前、遊郭として栄え、今でも、それなりに、当時の面影を残す一画です。ここをウロチョロして、侘しさ、寂しさ、" わび・さび " の世界に浸って来ようと思います。

我が家から足利までは、下道で2時間57分、88.2㎞。高速で1時間49分、116.8㎞。どちらで行くか迷っています。

早く来い来い14日。

それでは、また。

 

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