歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

母が亡くなりその後の手続はほぼ完了!そして後期高齢者の2割負担の猿芝居!

2020年12月10日 | その他

人が亡くなった後には、いろいろな届け出が、手続きが必要なのでした。

死亡届は7日以内で、これは知らない間に葬儀社が代行してくれました。代行料は一万円でした。

それで手続きですが、葬儀後に葬儀社から、

①「葬儀後の諸手続き・・・A4紙表印刷1枚」

②「手続きチェックリストA4紙表印刷1枚」

③「死亡届を提出してからの主な手続き・・・A3用紙裏表印刷1枚」

の3枚を貰いました。①・②は葬儀社の作成で、③が市役所の作成です。

貰ったときに、ざっと目をとおしたのですが、面倒くさそうで、しばらく放って置いたのです。

介護保険関係はこの中で、介護保険被負担者証、負担割合証を市の介護保険課に返却となっていたのです。

でも、しかし、亡くなって数日後?にケアマネージャーの方に連絡を入れ、その後、数日してお線香を上げに来てくれたとき、特に、届け出、手続きは要りませんと云われました。両方とも廃棄してくださいとの事でした。

それで、その他の手続ですが、葬儀終わったのが21日、それから暫くして、少しずつ、少しずつ、チラチラと目を通し始めたのです。

12月に入って、従兄弟たちがお線香を上げに来たのが8日の日曜日。そろそろ、来週からでも、手続きに動き出そうか、と、思い始めたのです。

そして、翌日、3枚の用紙に、しっかりと向き合い、じっくりと読み進めたのでした。でも、読めば、読むほどに面倒に思えてくるのです。

でも、まあ、そして、必要な書類、印鑑、通帳、健康保険証、国民年金、厚生年金の証書と手帳、埋葬許可証、それに軍人恩給の証書、等々を揃えました。

揃えたと云っても、これらは母が生前より、私に何かあった時は、このバックの中にすべて入っているからと聞いていたので、特段の手間は掛かりませんでした。

此処までは、いいのですが、ここからが大変なのです。

書類を持って市役所、そして、土浦の年金事務所へ出掛け、いろいろな証書・手帳を提出し、いろいろな書類に、住所だとか、氏名だとか、電話番号だとか、本人と届け人との関係だとか、いろいろ記入したりする、そんな事を思うと、とても、とても、億劫になるのです。

7日の月曜日は、まあ、週の始まりだし、きょうでなくてもと思い、行動は翌日以降に先延ばしを決定。

8日の朝を迎え、朝食、ウォーキング、洗濯物干し、食器洗い、トイレを済ませ、録画した朝ドラを眺め、そして、突然、ヨシ!行くぞ!と、立ち上がり市役所に向かったのです。

わたしは前もって計画を立て、それに沿って行するのは嫌いなのです。兎に角、その場の、そのときの気分で、突然、行動に移します。

この日は、市役所だけで、土浦の年金事務所は、またそのうちに、いつかまた、との考えでした。一日に二カ所で面倒な手続は、とても、とても、やりたくないのです。

市役所と書きましたが、行ったのは家に近い、市役所の支所「窓口センター」に向かったのです。

それで、手続きなのですが、市役所の本庁舎に行ったならば、手続きごとに、いろいろな窓口を行ったり来たりするのですが、窓口センターならばワンストップで済みそうなのです。

7~8分ほどでセンターに到着。時刻は9時10数分頃、中に入ると訪れていたのは私以外1名のみ。カウンターの中には4~5名の職員。

カウンターの前で「母が亡くなったので手続きに来ました」と告げると、年の頃なら50歳前半?男性が「それではあちらの席で」となり、国民年金関係、健康保険関係の、なんたら、かんたらの書類2~3枚に、母と私の、住所、氏名、郵便番号、電話番号、本人との関係、等々を記入。

次に、「厚生年金は土浦の年金事務所ですよね?」と云うと、こちらでできますと云われたのです。

そして、年金事務所に電話連絡して、何やらやり取りをした後に、書類を何枚か用意して、テーブルの上に置いたので、また、いろいろな記入作業か、と思っていたら、記入はその職員がすべてやってくれたのでした。私は捺印だけ。

これって、もしかして、原則として当事者が記入するのを、こいつに記入させると時間が掛かると判断し、さっさと自分で記入したのかも知れません。それにしても、こちらとしては楽ちんの対応。

必要な戸籍謄本も、住民票も、揃えてくれて、今回は亡くなられた手続きなので、発行は無料との事でした。

年金証書、年金手帳を渡し、預金通帳(私の)のコピーもしてくれて、これですべて終了。後日、土浦の年金事務所に行き、面倒な手続をする手間が省け、ほんとうに助かりました。

帰りに、心を込めて、しっかりとお礼を述べて、窓口センターを後にしたのです。ホント!「○○主査さん」ありがとう御座いました。センターを出たのが9時40分過ぎ、ほぼ30分ですべては終了。

それで、何で、こんな面倒な手続きをするのかと云えば、死亡届を出した時点で、年金の振り込みが停止されるので「未支給金」とか、「葬祭費」とか、「死亡一時金」とか、の請求手続きなのでした。

これらの手続きが、とても面倒だと思った方は、何もしなくても大丈夫なのです。数年後に請求権が失効するだけですから。

でも、しかし、この手続で、十数万円から数十万円が支給されるので、私としては面倒でも、しっかり手続を行ったのでした。まあ、振り込まれるのは、来年の一月中旬ごろ?

軍人恩給の手続が未だ残っています。こちらも、「住基ネット」の活躍で、死亡届が出されると、直ちに支給は停止されるそうです。こちらは、もう少し時間をおいてから手続をします。

まあ、これで、母の亡くなった事による、事務手続はほぼ終了。

まあ、これだけで済んだのですから、かなり楽なのでした。これが、電気、電話、ガス、水道、新聞等の支払い口座の変更手続とか、土地建物の登記の変更とかが加わると、これは、もう、相当に大変。

まあ、兎に角、それなりに、いろいろ経験にはなりました。まあ、こんな事は、人生で1回か?、2回ぐらい?の事でしょう。まあ、経験したからと云って、それがどうした?程度の事でした。

まあ、兎に角、そんな事でした。

それにしても、新型コロナは大変な事になっています。

菅内閣の支持率も低下しています。

それでも、選挙では勝てるので、あまり危機感は無いようです。

それにしても、後期高齢者の医療費の負担割合を、1割から2割に変更する改正案ですが、自民党案が年金額170万円以上、公明党案が240万円以上。

両党、どちらも譲らず難航なんて、わざとらしい報道。本日、両党の党首会談で200万円で合意したとの報道。とても、とても、分かり易い展開、私の予想どおりでした。

もう、これは、240万円と170万円の間をとってと云うか、最初から、40万円は、所謂、その筋で云う「糊代」なのです。公明党の顔を立てる、わざとらしい猿芝居。

菅首相、ガースーとか、スガーリンとか、云われていますが、この方、ほんとうに、筋が悪い、危険な政治家です。

まあ、その話は、そのうち。

 

それではまた。

 

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母の葬儀が終わりました!安倍晋三に地検特捜より事情聴取の要請!すこし気分晴れてきた!

2020年12月03日 | その他

前回の続きです。

13日に入院し、それ以降の出来事の日付感覚が、かなり、かなり曖昧になっています。

13日の入院は、はっきりと記憶しているのですが、亡くなった17日の日付が曖昧なのです。

何故か入院は5日間だった事は覚えていて、時々思い返して、亡くなったのは、5日後で、13、14、15、16、17日と数えてしまうのです。

18日、葬儀の日程を打ち合わせている際にも、「20日(金)通夜、21日(土)告別式で如何ですか?」と聞かれて、「えッ!そんなに先なの?」と云ってしまったり。頭の中が13日で留まっているのでした。

こんな状態ですので、記憶を辿り、記録として綴りつつ、気持ちの整理をしていきたいと思います。

それで、13日は暗くなってから病院から帰宅。ヘッドライトを点灯しての運転は、かなり、かなり、暫くぶりで、それとなく、ちょっぴり不安でした。所要時間は20分程度。

姉に入院したことを知らせたのは、入院した当日、医師の説明を受けた後です。

その後、直ぐに姉の長女にも連絡。長女は看護師で、旦那は循環器が専門の開業医。病状を告げそれなりのやり取りが、二人とあったのですが、ほとんど記憶無し。

14日は、歯ブラシ、カップ、服用しているクスリ、ティッシュペーパーを持って病院へ。現在、コロナで面会は禁止なのですが、ナースステーションと繋がった観察室に案内されました。

ベットに横たわり、酸素吸入のマスクを付けた母の姿。辛そうで、苦しそうで、看護師さんが、「息子さんが見えましたよ!」と母に声を掛けても、あまり反応はなく、私としても、何も言えず、顔を見つめるだけで、直ぐに退室しました。

病状としては、そこそこ安定しており、直ちに命に別状無いと聞き、それなりに安心して帰宅。

15日?の午前?だったか、午後?だったか、病院から連絡が入り、きょう、医師からの説明がありますから、と、来院要請。

病院への道すがら、どうなんだろう?どうなんだろう?もう危ないの?と、思いつつ到着。入り口で検温、手の消毒を済ませ、エレベーター前で係の人に、来院理由を説明、来院者氏名、入院者氏名を記入し、名札を貰い、エレベーターで3Fへ。

ナースステーション前の小部屋で待つこと10数分?医師が現れ、

「病状が急速に悪化している。治療をしても回復の見込みは無い、治療は患者にも負担がかかる、治療を中止して、家族の了解のうえ、緩和ケアに切り替えたい」

と告げられました。

私は、母の辛く、苦しい状態から早く解放してあげたいと思い、

「はい、わかりました、よろしくお願いします」と迷うこと無く、即座に返答しました。

「それでは、麻酔薬の投与を行い・・・」これから先の医師の説明はよく覚えていません。

一言だけ、「どのくらいもつのですか?」「患者さんそれぞれで、今日中かも知れませんし、数日かも知れません」、はい「わかりました」

これで医師から説明は終わり、看護師に案内され、観察室の母の姿を暫く眺め、退室。病院から姉に連絡し、明日、こちらに来るとの返答。

16日、時間はまったく記憶無し、姉と旦那が、姉の息子の車で我が家に到着。病院に連絡し、2名だけに限って面会を許可される。

17日、午前中に姉と二人で面会。帰宅後の午後2時頃に病院より危篤の連絡が入る。2時半過ぎに病院に到着し病室に案内され、母は2時19分に亡くなったことを告げられる。

酸素吸入は続けられていて、強制的に酸素が送られ、一見、呼吸をしている様に見えました。医師の説明では、酸素吸入は家族が見えるまで続けるそうです。

2時半過ぎに葬儀社に連絡し、1時間から1時間半後に、そちらに到着すると告げられました。

私の家はつくば市で、病院は取手市、葬儀社も取手市ですが、霊柩車は土浦市から来ると告げられました。

この間、待っている時間は実際に長かったのですが、それ以上に、とても、とても、長く感じました。

葬儀の細々とした事とか、母をもっと早く病院に連れて行けばよかったとか、親戚への連絡とか、いろいろと考えても、なかなかまとまらず、兎に角、霊柩車はいつ来るのか?とか。

もしかして?間違えて他の病院に?と思い、葬儀社に電話を入れると、退社ラッシュに巻き込まれ遅れているとの連絡が入ったそうで、もう少しお待ちくださいとのことでした。

暫くして、葬儀社の方が現れ、遺体は病院の裏口より霊柩車に乗りました。姉と私は自分の車で後に続き、10分ほどで葬儀社に到着。簡単な打ち合わせをして、詳しくは明日との事で帰宅。

18日の午前中に葬儀の打ち合わせ、金額がはるのが祭壇と、納棺式でした。兎に角、葬儀社ペースで、あれやこれや、そのほか、数十項目を決めていくのです。何が何だか分からないまま、進められます。

私としては、兎に角、総額で、予想の、予算の、範囲を超えたなら、細かい項目を詰めようと、細かい項目には葬儀社ペースに任せました。

結果としては、ほぼ予想の、予算の範囲内でしたので契約成立。

通夜と告別式で、前日に打ち合わせした「川の流れに」と「愛燦々」がシンセサイザーの生演奏で流れたのには驚きました。

シンセサイザーの生演奏は、これまでの葬儀で、見たことも聞いたこともありませんでした。今、初めて、見積書を見たら、二日間の演奏代が13万円とありました。

まあ、もったいない気もしたのですが、当日演奏された女性の生活とか、葬儀社の売り上げとか、社員の生活とか、まあ、世の中は、こんな事で、成り立っているわけですから、それなりに納得。

それに、生演奏の際、式場内の照明が落とされ、祭壇に照明が当たり、司会者より「故人を振り返り、あり日の想い出に浸り・・・」のコメントともに、シンセサイザーから曲が流れると、それなりに心に染みるものがありました。

20日の通夜、21日の告別式、火葬、すべて滞りなく行われました。

母が亡くなってから、十数日が経過しました。

朝起きて、顔を洗って、食事の支度をして、洗濯機を回し、食事をして、朝のウォーキングをして、洗濯物を干して、歯を磨いて、食器を洗って、コーヒーを飲んで、ネットを覗いて、テレビを見て、昼食、夕食、就寝。

あれから、毎日、毎日、同じ事を繰り返しているのですが、やっぱり、母の居ない日常は、とても、とても、変です。

あれで良かったのか? もっとできることがあったのでは? あの時、何で、あんな言い方をしてしまったのかとか、いろいろ、悔やんだり、悩んだり、反省したり、いろいろと思いを馳せる日々。

兎に角、70年間も一緒に同じ屋根の下、暮らしてきた重さは、それなりなのです。

兎に角、「人間は事故や病気では死な無い!死ぬときは寿命!」と、わたくし、常々考えています。

兎に角、わたくし、独居老人の仲間入りをしました。

それでも、楽しく、元気に、過去は振り返らず、前を見て、生きていきたいと思う、今日この頃。

これからも、惚け防止の為に、ブログを更新したいと思う所存。

それと、きょう、安倍晋三前総理が、東京地検特捜部より、任意の事情中聴取の要請を受けているとのニュースがNHKから流れました。

これは朗報です。任意から、逮捕、起訴、有罪、実刑収監を期待します。単なるガス抜きに終わらせない為には、世論の力が重要です。

それでも、安倍が実刑くらって、塀の中に入っても、世の中は良くなりません。多少は空気が綺麗に? 

 

まあ、兎に角、それでは、また。

 

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母が旅立ちました98歳で急性心不全でした!もしかして?ロキソニンプロフェンNa錠60㎎が引き金に?

2020年12月01日 | その他

11月17日に、母が旅立ちました、98歳でした。

年齢的にも、そう遠くない、いつの日にかは、と、思ってはいました。

でも、その日は、突然でした。

10月の半ば頃、腰の痛みを訴え、立ったり座ったりが辛そうでした。特に、捻ったり、打っ付けたり、転んだり、といったことは無いとの事でした。

一週間ほど市販の湿布薬を貼って様子を見たのですが、痛みに変化はなく、10月29日、近所にある掛かり付けの診療所で受診。

この診療所は親子二人の医師がおり、父親はどちらかと云えば整形外科担当で、息子はどちらかと云えば内科担当、のようです。

29日当日の診察は息子が担当、問診、触診、レントゲン撮影。診断結果は骨には特段の異常は認められず、その場で痛み止めの注射、痛み止め薬の処方で、診断は終了。

痛み止めの薬が、少し気になり、医師に副作用の心配は無いか質問すると、「強い薬ではなく、重大な副作用のエビデンスは無い」との回答。

帰り道、薬局で28日分の「ロキソプロフェンNa錠60㎎」を受け取り帰宅。

薬は、一日三回、朝食後、昼食後、夕食後に服用。29日の夕食後から服用を開始。

最近の母ですが、「飲み忘れ」は無く、「飲んだのを」忘れ、私に「飲んだっけ?」と、服用後、一分置き位に、2~3度聞いて、「飲んだょ」と、2~3度云われて納得する状況でした。

そのため、クスリの服用は私が管理することにし、飲んだ後すぐに、カレンダーに赤いマジックで○を記入。母から「飲んだっけ?」と聞かれるとカレンダーを指さし「赤い○が付いているでしょ」と答えると母は納得。

痛み止めを飲み始めて2~3日後に、痛みの具合を聞くと、「効いているような?いないような?」との返事。

一週間ほどしても、効いているような?いないような」状態が続きました。その頃より、身体を動かした後の呼吸が、少しずつ、少しずつ、荒くなり始めたのです。

以前より、動いた後は、口呼吸で、暫く、ハッ、ハッ、ハッ、繰り返していたのですが、飲み始めて1週間位より、以前よりも増して呼吸が荒くなり、落ち着くまでの時間が長くなったのです。

そして、11月の第二週の前半から、動作が遅くなり、夜間トイレに行くのが辛いと云い始めたのでした。

※このころ、痛み止めの「ロキソプロフェンNa錠60㎎」に、それとなく気になりネットで検索すると、心不全には禁忌、原則禁忌で、高齢者には注意となっていました。

11日にポータブルトイレを部屋に設置しました。しかし、13日の朝、部屋を覗くトベットに腰掛けてじっとしているので、どうしたの?と効くと、「おしっこがしたい」と云うのです。

でも、立ち上がって一人ではベット脇のポータブルトイレに行けなかったのです。私が介助し用を済ませたのです。

このとき、これは、もう、医師の診察を!と思い、掛かり付けの診療所で午後の予約を取ったのです。

診察は2時半、2時15分に着替えを手伝い、介助しながら玄関まで来て、靴を履かせようとしたのですが、立ち上がると、「今日は止めよう」と辛そうに云うのです。

容態は、今日より明日のほうが悪くなるのは明らかなので、何とか連れて行こうと思ったのですが、母は呼吸は荒く、とても辛そうにして、座り込んでしまったのです。

私は、後ろに回り座って抱きかかえ、立ち上がろうとしたのですが、母の身体がとても重く、立ち上がれないのです。後で医師から聞いたのですが、下半身に水が溜まって浮腫んでいたのです。人によって5~10㎏ほど水が溜まるそうです。

玄関で、私も座り込んで、母を後ろから抱きかかえながら、これは、もう、救急車だと決断、母に告げると頷いたので、ポケットから携帯を取り出し119番。

待つ時間は、とても、とても、長かったです。救急車が来て、消防車が来て、隊員に状況を説明。以前、心肺機能で検査入院した病院名を告げ、隊員が連絡し病院側の了解を得て搬送。

私は自分の車で後を追ったのですが、途中で道を間違えてしまい、たぶん?10数分のロス。病院に到着、受付に告げ、一番奥の方の緊急処置室に案内され、看護師に廊下の椅子で待つように指示される。

部屋のドアが開いた際に、中の様子を窺うと、酸素吸入のマスクを付け、点滴されベットに横たわる母の姿を確認。

暫くして(救急搬送後よりの時間経過が判然としません)医師が出てきて、

「これから病棟に移動します」と告げられ、

「容体はどうですか」と聞くと、

「未だ、なんとも云えません」

「命の方は」

「判りません」と云って立ち去って行きました。

看護師さんから「緊急処置は院長がしたので、これから病棟で循環器専門の医師が診察治療を行います」と告げられました。

1Fから3Fに移動、ナースステーション前の小部屋で待つように云われました。暫くしてと云うか、かなり時間が経ってと云うか、医師からの説明がありました。

いろいろ説明があったのですが、記憶できたのは、「急性心不全」で、「入院期間が3週間ていど」しか覚えられませんでした。

「ロキソプロフェンNa錠60㎎」の服用ついて問うと、「もしかして、今回の引き金になった、かも、知れません。でも、断定することはできません」と告げられる。

説明が終わると、看護師から「入院診療計画書」が渡されました。今、それを見ると、「診療計画」の欄に、「非侵襲的陽圧呼吸、酸素吸入、強心剤の点滴、利尿剤の投与で初期治療を開始します。いずれ内服に変更し、リハビリテーションを開始します」との記載。

説明が終わると、「入院診療計画書」サイン。そのほかに、入院生活用品使用申込書」、「身体拘束に関する説明・同意書」、「入院申込書(兼誓約書)」、「入院についての自己申告書」、「日常生活用品リース申込書」等などに、住所、氏名、生年月日、電話番号、等などを記入。

そして、最後に入院保証金5万円を支払い、この日は、これで帰宅。

医師の説明を聞いて、直ぐに命の別状は無さそうなので、それなりに安心して帰宅。外はもう暗くなっていました。その晩はあまり寝られませんでした。

記憶が消えない前に、記録として残そうと思い、綴りました。でも、書こう、書こうと思いつつ、この日になってしまいました。

入院が13日で、亡くなった17日、20日・21日が、通夜・告別式。

今日は、もう、12月の1日で、亡くなってから2週間が過ぎました。

 

本日は、ここまでとします。

 

それでは、また。

 

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