電脳筆写『 心超臨界 』

悲しみは二つの庭を仕切るただの壁にすぎない
( ハリール・ジブラーン )

日本史 鎌倉編 《 後醍醐天皇を取り巻く女性たち――渡部昇一 》

2024-05-20 | 04-歴史・文化・社会
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中宮(ちゅうぐう)は、鎌倉幕府と関係のよい太政大臣西園寺実兼(さねかね)の娘禧子(きし)であったが、これは政略結婚であったから、愛情を欠いていたため、子どもがない。この中宮の侍女が、先に挙げた阿野中将藤原公廉の娘の廉子(れんし)であって、この女性を後醍醐天皇は特に寵愛した。廉子自身はでしゃばりの女で、宮廷の会議や訴訟など何にでも口を出したので、天皇の評判を大いに落としたが、天皇自身は容色に目がくらみ、そのことを気にしなかった。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p82 )
2章 南北朝――正統とは何か=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(2) 後醍醐(ごだいご)天皇――正統絶対主義者の功罪

◆後醍醐天皇を取り巻く女性たち

鎌倉の執権高時がこのような享楽的な生活を送っていたとき、朝廷では後醍醐天皇がひきしまった生活をしていた。というならば教訓的なことになるが、実情はそうでなかった。

後醍醐天皇は、皇太子のころから多くの女性に子どもを産ませ、親王・内親王を合計すると30人を超え、その中には母親の名前が不明な場合もある。

たとえば、次のようになるが、カッコ内の方(かた)が、その女性から生まれた親王である。

権大納言(ごんのだいなごん)藤原為世(ためよ)の娘(尊良(たかなが)親王、尊澄(そんちょう)親王)
参議藤原実俊(さねとし)の娘(世良(ときなが)親王、静尊(じょうそん)親王)
大納言藤原師親(もろちか)の娘(護良(もりなが)親王)
藤原隆資(たかすけ)の娘(俊尊(しゅんそん)親王)
菅原在仲(すがわらのありなが)の娘(聖助法(しょうじょほう)親王)
権大納言藤原為通(ためみち)の娘(法仁(ほうにん)親王)
左大臣藤原実泰(さねやす)の娘(玄円(げんえん)法親王)
阿野中将(あのちゅうじょう)藤原公廉(きみかど)の娘(恒良(つねなが)親王、成良(なりなが)親王、義良(のりなが)親王)

このように賑やかであるが、これがすべてではない。

中宮(ちゅうぐう)は、鎌倉幕府と関係のよい太政大臣西園寺実兼(さねかね)の娘禧子(きし)であったが、これは政略結婚であったから、愛情を欠いていたため、子どもがない。この中宮の侍女が、先に挙げた阿野中将藤原公廉の娘の廉子(れんし)であって、この女性を後醍醐天皇は特に寵愛した。廉子自身はでしゃばりの女で、宮廷の会議や訴訟など何にでも口を出したので、天皇の評判を大いに落としたが、天皇自身は容色に目がくらみ、そのことを気にしなかった。

後醍醐天皇は宋学を学び、自ら名君になろうという努力を真剣にやっていた方である。『太平記』には、天皇が大津(近江(おうみ)国)と葛葉(くずは)(摂津(せっつ)国)の二つ以外は関所を撤廃して、商売往来の障害を除いたり、大旱魃(だいかんばつ)で米の値段が上がったとき、公定価格を設け、悪徳商人には検非違使に命じて米を供出させて、安売りもさせたと伝えられる。また飢饉自体が、自分の徳が至らなかったことによるものと自責しているのも、いかにもシナの学問をした人らしい。

だが一方、新しい関所を設けて税金を課して大仏殿の修理に金を使ったりしたほか、一般に生活がはなはだ派手で贅沢であった。また、私生活は今述べたようなものであるから、名君とは言いがたいように見える。

にもかかわらず、北条氏の政権をひっくり返すことができたのは、まったく宋学の理念を抱いて迷わなかったことと、エネルギーがあったので、みんなにたのもしく思われたからであろう。

「正中(しょうちゅう)の変」で近親の日野資朝(すけとも)や俊其(としもと)が捕まってからも、天皇はつねに高姿勢である。そして幕府に向けた手紙の中にも「この国土の人民はみな天皇の重恩(ちょうおん)を受けているのであり、戎夷(じゅうい)である幕府は天下を管理する資格がない」というようなことを言っている。幕府を「戎夷」(蛮国)と見るからこそ、まさに中華思想なのであり、後醍醐天皇の建武の中興の原因は、この中華思想にほかならないのである。

シナにおいても戎夷が侵略して間もないころは活力があるので、中華思想も利(き)かないのであるが、そのうち戎夷が文明化してくると、中華思想に飲み込まれる。

頼朝以来12将軍、15執権を出した鎌倉幕府は、十五代将軍で終わった江戸幕府のように、結局、日本的中華思想に敗れたのであった。
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