とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

スズキ26車種“不正”も燃費偽装意図なし

2016-06-06 22:37:40 | 海外・国内政治情報等

スズキ26車種“不正”も燃費偽装意図なし
2016年5月31日 15:32
http://www.news24.jp/articles/2016/05/31/07331498.html

 自動車メーカーのスズキは31日、国土交通省に対し、計26車種で国の規定と異なる方法で燃費データを測定していたものの、再測定した燃費値はカタログの記載よりも高く、燃費を偽装する意図はなかったと報告することがわかった。

 スズキは、今月18日、販売中の16車種について、国の規定とは異なる方法で燃費データを測定していたと発表していた。関係者によると、スズキが改めて調査したところ、16車種のうち3車種については正しい方法で測定されていたが、新たに「アルトエコ」1車種でも不正が発覚し、さらに他のメーカーに供給した12車種についても国の規定と異なる測定方法での燃費データが国に提出されていたという。

 しかし、全ての車種を法令通りに測定し直した結果、いずれもカタログの記載よりも高い燃費値が出ており、燃費を不正に操作する意図はなかったという。

 スズキは31日、国土交通省に報告する予定。


これについて、プレジデントか東洋経済で佐藤優さんがスズキの”偽装”をかなり批判してたけれども、しかし実態はこうだったのかという。
しかし佐藤さんでも外す時は外すのだと逆に安心したりもした。
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自転車後記

2016-06-06 09:43:08 | 最近の出来事
一昨日自転車に乗った。
いつもであれば、その後に控える仕事に気をつけて連休の前半とかに行っていたりした。翌日には体が動かなくなったり、太ももが痙攣して大変なことになっていたりしたからである。

たあだ今のところ、足の痙攣なし。筋肉痛なし。仕事に影響するような疲労なし。

昔と比べて随分と良くなった。完全ではないが、しかし回復しつつある。

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金持ちの世界2

2016-06-06 09:11:28 | 最近の出来事
この世に異世界は存在する。
これはどういうことか。

何の変哲もない学生時代の同期が、実はちょっとしたボンボンで、親はとある大企業の子会社社長、幼少期にはウィーンで育ち(今でも第九の合唱は歌えると言っていた)、それでいて本人はおくびにも出さず、全く性格のいい人間であったので、貧乏で性格が悪く育った私とまるで正反対である。本人の弟は、東京でいま官僚をしている。別世界だなあ、と。

あるいは旅行先で、「このメロンにどうして生ハムがついていないんですか? 」と言っていた令嬢にもびっくりである。

あるいは、これまた学生同期の家でお風呂をお借りしたところ、体を拭く時にフワッフワのバスタオルが出てきて「ふわわわわー、信じられない、これは超常現象だ」と。私にとっては幽霊が出たのと同じくらい、お金持ちの家でビックリする。

それでいてみんな性格いいのはなんででしょうね。本当。





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アプリオリの意味が全く分からん→からの→教養主義の若干の批判について

2016-06-06 01:22:52 | 哲学・社会
アプリオリという単語が文章上に出てきて、意味が分からなかった。
ので調べてみた。


アプリオリ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%AA

アプリオリとは、経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念。カントおよび新カント学派の用法。ラテン語のa prioriに由来する。日本語では、「先験的」「先天的」「超越的」などと訳される。

カントにおける「アプリオリ」の概念

「わたしは何を知ることができるか」「わたしは何をなすべきか」を問い、自然や人間を認識する「理性」(理論理性)の限界を明らかにするために批判哲学を打ち立てた18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、哲学もまた数学や自然科学にならって、必然的で普遍的な思考方法を獲得しなければならないと主張した。そして、そのためには、人間のあらゆる経験から独立して、理性自身が認識のわく組みを決めることができなければならない、とした。これが「アプリオリな認識」である(アプリオリな認識のうち、経験的なものをまったく混入していない認識を「純粋認識」と呼ぶ[1]。

カントによれば、時間および空間はアプリオリな概念である。なぜならこの2つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念だからである[注釈 1]。

なお、この2つは自然に想像される時間あるいは空間ではなく、形式的なそれである。感覚的には太陽が地球を回っているように「感じられる」としても、実際にはそうではないという比喩をカント自身も援用していることから、ある新しい「構成」のために、それらは純粋直観にあたえられるのである[注釈 2]。この空間は、物理空間に先立つ(=アプリオリな)空間である。純粋直観が不可能であればヒューム的懐疑に陥るという懸念にも留意されたい。


ということで、この文章を読んで分かる奴がいるのか? 
というか天才向けの哲学的文章を読んでもよく分からない。

のでもっと調べてみると大体おぼろげながら分かってきたことがある。

アプリオリとは、「ぶっちゃけそんなこと考えなくてもわかるっしょ」くらいの議論や考察の上での大前提、という定義らしい。
同じくWikipediaに書いてあった次の文章が比較的分かりやすい。

哲学における今日的な一般的用法としては、アプリオリとは、「演繹的証明の必要のない自明的な事柄」という意味で使われることが多い。

フレーゲによれば、命題の真偽が論理法則のみに依拠すれば「アプリオリ」であり、経験的事実に依拠すれば「アポステリオリ」となる。なお、ここでいう「命題」とは厳密には「ある判断の真理性の証明」を指している[2]。


つまり1+1を考える時、1が1たる所以(ゆえん)は問わずとも自明であろう、という考察不要の大前提がアプリオリであり(簡単に言うと考えなくても分かるでしょ的なことがら)、1+1がなぜ2になるか、という議論、特に、考察プロセスを伴う結論などへの帰結方法に関する議論(簡単に言うと考えたら分かるでしょ的なことがら)がアポステリオリである。
カタカナで書くからややこしいので言語に直すと、
a priori
a posteriori
となる。なるほど、preがつくと先験的で、因果の前に無ければいけない。
postがつくと、後験的で、因果の後へと続くことになる。

なるほど。ようやく自分と世間の齟齬が分かってきた。
私が常日頃疑っているのは、世間では考察や議論の必要の無いとされるアプリオリであったのだ。

時間とは何か? 貨幣とは何か? 
私はこれらに対して、自分の中で一定の解を出した。
どの科学者も、時間を考える際にどうもアポステリオリを基準に戦っているように思えるのだが、私は人間の認識そのものを疑っているので、それが世間に受け入れられないようである。
1+1の1はどうして1なのか? と言っても世間では相手にされない。
(しかしこれを考えなければ、泥団子を二つくっつけて1つになった、という例えは解決できない。この答えは、1が1たるゆえんは、人間が勝手に決めた分割や区別の尺度が1なのであって、それをもう一つくっつけると次の値の2になるという人間側の理解の取り決めなのである。だから泥団子の例だと、二つくっつけて一つの泥団子にしたものは、最初に「これが一つですね」と決めた泥団子の二つ分の物体、ということになる。この為、分割の尺度を最初に取り決まっていればいいので、コップ1杯でも、ガソリン1ガロンでも、プール○杯分でも構わない)。

さて、マルクスも実世界の考察から金銭論への帰結を示した。あるいは後の経済学での貨幣論も、金の役割について様々な見解を出したが、これも結果としてアポステリオリ的な帰結ではなかったか。実態の比較としてアポステリオリ的考察結果を出したのであって、「そもそも人間の貨幣に対する認識はそれでいいのか」という、人間の認識に対する疑い、アプリオリへの疑義を出したものではなかった。

そもそもが、キリスト教社会においては、人間主体が見たり感じたり、観念を考えるのが絶対的尺度であるという認識であり、人間の理解が絶対であったので、中世実念論などではリンゴやオレンジはあるが、それならば果物という概念もあるだろう、という認識であったのである。
こうした人間主体の絶対的尺度は科学知識を生み出し、高度社会をもたらすものと明るい未来を期待されたが、実態の結果として生み出されたのは第一次世界大戦での大量虐殺であり、そこから欧州の思想は転換を迫られた。

転換を迫られた結果どうだっただろうか? 結果はあまり変わったとは言えない。欧州--特にゲルマン系--は人間の認識を完全だと見做しすぎる傾向があるように思われるのである。移民を入れれば経済も人道も解決することができる--そう理想をドイツ人は夢見たとは思うが、しかし結果はそうではなかった。
移民に対し、危険地域からの避難所を提供できたことは人道的だったが、移民は1ユーロジョブに就かざるを得ず、その個人の社会的な経済活動としては人道的とは言えない。移民に働かない者も出始め、治安を悪化させ、増える移民は労働人口の過剰供給により、ますます賃金を自らディスカウントさせざるを得なくなる。人間社会とはかように不完全であるが、その未来をどうして見越せなかったかというと、人間認識の完全性に寄って立っているからではなかっただろうか。

さて、話を戻す。アプリオリへの疑義を私は行っている。
それが一体何の役に立つのか? と言うとすぐには役に立たないとは思うが、私と同じく、「ものごとをどう捉えればいいのか? 」というような、混乱している人や、悩んでいる人の解決策を示して、そのような疑問に思いわずらう日々を解消して快活に過ごせる日々を提供できるかもしれない。

あるいはもしかしたら、ほんの少しの可能性として、「考え方の創出」というものがひょっとしたら実益にかなうかもしれない。例を出してみよう。

世紀計算は1-100年は1世紀、101-200年は2世紀・・・と来て、1901-2000年は20世紀、2001-2101年は21世紀となる。
1996年は20世紀で2016年は21世紀なのである。世紀表記は不便この上無い。
なぜこのようなことになったのかというと、世紀計算の代にはゼロが発見されていなかったからであろう。当然、ゼロ世紀というものはない。それが世界的に固着して、不便のまま使われ、別の表記に乗り換えたり、あるいは表記方法の改善をしたりすることもなくそのまま使われている。
この時、世紀計算でゼロを発見できたり提案していたりした場合どうだっただろう。現代に住む我々は格段に計算や書類上での記載や、あるいは文章の記載、年代の記載にわずらわされなくて済んだはずだろう。
であるが、世紀計算でゼロを提案しても、圧倒的多数決で否決されればそれがスタンダードになる。

私が今までここに記載した考えが、そこまで役に立つとは思わないけれども、しかし世間一般から変人扱いされることを鑑みると、こうした状況からは、私は気持ちの落ち着けどころの無い焦燥を感じたりもする。

今、衆愚に裁かれ、そして後世に利用されたりもするのだろうかと、ちょっと偉そうな人になったつもりでこれを書いていたりするわけであるが、しかしそうであってもちょっとだけ悲しかったりもする。

・-・-・-・-・-・

さて、本題であるが、アプリオリの意味を調べていて当初は全く分からなかったが、調べていく内に分かっていった。
文章読解とはそういうものであるかもしれないのだが、しかしちょっと不便すぎやしないか? ということなのである。

本当の教育や教養、素養などは、簡単なものから始まり、そして次第に応用する問題へと挑戦していくように思われる。

そこへ来て、冒頭で記載した、このアプリオリの説明は不親切極まり無かった。単純に分かりにくいのである。というか哲学的説明はかなり初学者をつきはなしているように思える。

4メートル上にある、この建物の二階に上がりましょうね、という時に通常は階段を用意しているものだが、この説明はロッククライミングで登れと言わんばかりだ。そうではなく、段階的に簡単な説明をして、そこから徐々に「学術的にはこう言います」「厳密にはこういう定義です」と言えればいい。
そこをすっ飛ばしてイチから厳密な定義の説明を始めるものだから、初めて触れうる人間には分からないのである。
教養主義には、受学側がそれを理解する素養が無ければいけないのは勿論なのだが、しかし授学側に関してもそれを分かりやすく説明できる努力をすべきではないのだろうか。

人間における哲理的理解というのは、人間の内的考察における認識が、外部からの学習によって内部に再構築されればいいのだから、その理解が最初は簡単であってもいいわけだ。その構築努力は今まで学ぶ側がうんせこらせと頑張ってロッククライミングをするが如くなんとか理解していたわけだが、それを教える側が階段を用意してやってもいいのではないか。
天才だけが登れる岩壁を用意するのではなく、皆が登れる階段を用意する--そうすることによって社会の力が増殖するように思われるのである。

このアプリオリの例で言えば、冒頭のWikipediaのような説明ではなく、

1.説明不要の大前提をアプリオリと言います。(例:1+1を考える時、1についての定義は皆考えません~→用語としては、最初の大前提であるという、アプリオリに相当します。)
2.そこから派生した考察をアポステリオリと言います。(例:1+1がどうして2になるのかを考えます~→結論を導き出すプロセスを理解します。用語としてはアポステリオリに相当します。)

くらいの簡単な説明から初め、「厳密に定義をするとなるとこういう形です。」という紹介から理解の構造的文章を構築するのが教養主義の本来の努力義務ではないだろうか。そしてその授学側の努力を放棄してきて、「学生が学ばないのが悪い」と突き放して、学問に高い壁を作ってきたのが、教養主義の汚点ではないのだろうか。
先生は偉いかもしれないが、偉いから分かりやすく教えなくてもいいというわけではない。高度社会を構築できる根源だからこそ偉いのであって、その推進には献身すべきで、階段を用意すべきなのである。

人間における哲理的理解というのは、人間の内的考察における認識が、外部からの学習によって内部に再構築されればいいのだから、その理解が最初は簡単であってもいい。それを難解な学術用語によって学習意欲の出鼻を挫くという状況を放置していたのが問題なのであって、簡易な表現から応用へとつながる構造的文章を用意すべきなのである。
コメント (4)
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