都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

早稲田大学第二学生会館

2007-04-30 | 新宿区  

 複雑な歴史を持ち、ある時代のシンボルでもあった建物。

早稲田大学第二学生会館
所在地:早稲田鶴巻町516
建設年:1965(昭和40)
構造・階数:RC6
設計 :武 基雄
備考 :1990改修、2002秋解体・建て替え
Photo 2002.6.19

 早稲田大学理工学部建築学科の、武 基雄 教授の設計により建てられた学生会館建物。部、サークルなどの部室が入居した建物だった。中二階を多用し、あちこちにたまり場空間がある建物だったと記憶している。昭和初期の校舎が建ち並ぶ西早稲田キャンパス周辺では、この建物はやや異色の存在だったかもしれない。 建物外側をジャングルジムのように柱梁が取り囲む。各々の柱は、二本一組で、角部分は各面に一本ずつになっている。柱に掛かる加重から考えた合理的なデザインらしい。

 しかしこの建物は不運な建物だったといわれる。建設後すぐに、学生運動の時代を迎え、学生会館は運動の拠点となり、大学当局との争いの現場になったという。当時の新聞写真を見ると、活動家・学生が、大隈講堂と学生会館に立てこもり、機動隊が周囲を取り囲み、放水したりしている。そしてこの後、第二学生会館は長らく閉鎖されてしまったのだそうだ。

 当時の写真は、毎日新聞のMAINICHI Photo Bankで御覧下さい。キーワードに「早稲田大学 第二学生会館」と入力して検索すると、1969年9月3日の攻防時の航空写真を見ることができます。(データベース内のページにダイレクトにリンクを貼るのは控えます。)

 諸々の記載から、第二学生会館について適宜整理すると、

1965年 竣工
1969年4月 第二次大学紛争(本部と第二学生会館を学生が占拠)
1969年10月 機動隊を導入して、占拠を強制解除。以後閉鎖
1980年 部分的に利用再開
1990年 改修工事の後、全館の利用再開
1995年 戸山キャンパスに新学生会館を建設することになる。
1998年 新学生会館着工
2001年 第一、第二学生会館の利用中止と解体が決まる。新学生会館完成・利用開始
2002秋 第二学生会館の解体開始
2006年2月 跡地に大隈記念タワー(26号館)完成

 ということにおよそなる。ここでは運動の詳細等について述べる気はない。当時、私はまだ生まれたばかりで、現場をリアルタイムで体験したわけでもないし、当時の空気を理解しているわけではないので、軽々にこの顛末についてコメントすることは不可能だ。興味のある方は、また別にお調べ頂きたい。あくまでここでは、建築物としての記述にとどめる。

 私自身は、大久保工科大学などと呼ばれた理工学部に居たので、この建物にはほとんど縁がなかった。建築的に見たとき、第二学生会館は、構造体を表現の一部とした、モダンなデザインで、どちらかというと好きだった。また二本一組で細く見える柱が、どことなく和風建築的で繊細な印象をもたらしていたようにも思う。

 だが、内部についての私のイメージはあまり良くない。建物内に入ったのは、もちろん改修後だが、あまりきれいではなかった気がする。大学が最低限のことしかしなかったからかもしれないし、部室があるスペースなんて、どこでも雑然としているのが当たり前だったのかもしれない。だが、なんだか独特の雰囲気が漂っていた気がするのも確かだった。多くの学生が出入りする建物なのだが、建物にコミュニティが存在するような感じ。部外者である私などが出入りするのが、かなりためらわれる雰囲気を持った建物だった。

 竣工当初は違っていたのかもしれないが、紛争の際、火を焚いたり、火炎瓶を投げたり、また放水で水浸しになったりして、建物のコンクリートなどはかなり傷んでいたとも云われる。実態としての劣化と、独特の経緯からくる薄暗さが、マイナスイメージを私に与えたのかもしれない。

 学生当時は、上述のような歴史のある建物だということはよく知らなかった。大学紛争時の砦だったという話ぐらい。長期間閉鎖されていたということもよく分かってなかった。でもこうして建物の歴史を見てみると、早稲田において、学生運動の一つのシンボル的な建物だったのだなぁと改めて思う。それは、裏返せば、大学としては負の遺産、負のシンボルで、これを建て替えて、消し去ることは、当時の清算でもあり、ある意味、悲願だったのだろうなと思われる。だから解体決定から利用中止、退去に至る過程では、実力による排除など、かなりのことがあったようだ。

 新学生会館の建設にあたっては、以前の学生会館が老朽化とともにやや手狭になっていたということもあったようだ。学生会館が6階建てと聞くと、そんなに大きいのに手狭とは、と思われるかもしれないが、なにしろ早稲田は学生だけで数万人で、ちょっとした地方都市よりも人口が多い。20m四方の6階建てビルでは、とても収容できなくなっていたのは事実だ。新学生会館は11階建てで床面積も相当大きくなったが、それでも全てが入居できたわけではない。

 さて、第二学生会館は5年ほど前に解体された。解体後、引き続いて、大隈記念タワー(26号館)の建設が行われ、2006年2月に完成、昨年から共用が開始されている。新しい建物は、学生会館ではなく、大学院などの研究室と、校友会スペース等として利用されている。本屋さんなどがあった一角も買収され、現在は総合設計制度に基づく芝生の公開空地になっており、人々が行き交っている。

 今ではほとんどの現役学生は、第二学生会館を見たことがない。建物の解体とともに、記憶も資料の中だけのものとなり、過ぎ去ってゆくのかもしれない。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区  #早稲田大学  #モダニズム 

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2 コメント

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Unknown (テレビなコラム)
2007-11-18 19:21:13
早稲田大学のキャンパスは何度か行きましたが、詳しく見たことはなかったので、いろいろあるのだなーと感心しています。しかも、その歴史や構造なんかは特徴的なもの多いんですね。

さて、この記事と他にもいくつかの記事を私のブログのページでご紹介させていただいたお知らせも兼ねて参りました。もしも、このご紹介について不都合があれば、お詫びを申し上げると共に、その旨、私のページの最新のコメント欄にご一報下さればうれしいです。確認でき次第、紹介の方はとりやめさせていただきます。もちろん、リンク継続OKということであれば、ご一報下さる必要はございません。今後ともよろしくお願いいたします。(最新のページ)http://sapuri777.blog31.fc2.com/
↓掲載のページです。
http://sapuri777.blog31.fc2.com/blog-entry-590.html
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Unknown (Unknown)
2008-06-07 18:56:08
学生会館の開いている時間を調べにきたらこんなとこに行き着くとは・・・
あのきれいなタワーのあった場所にはこんなものがあったのですねぇ
返信する

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