コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

ギニアの大統領選挙

2010-10-21 | Weblog
コートジボワールの大統領選挙まで、あと1週間少々のこの時期に、西アフリカではもう一つ重要な大統領選挙が実施される。ギニアの選挙で、今週末の10月24日に第二回投票の予定である。どうも、この両国の大統領選挙、問題の本質から、解決への道筋、大統領選挙の推移など、まるで鏡に映したように対比される。ここはひとつ、ギニアの情勢について簡単に辿ってみたい。

ギニアは、その国民全体が、数がほぼ拮抗する3つの主要部族に分かれていて、それが政治の不安定につながってしまうという不幸がある。もともと、深い熱帯密林の地域において定着生活をしていた「森の民」というべき人々と、海岸地域で漁撈採集をしていた「海の民」というべき人々が「定住民」を形成してきたとすれば、元来アフリカ内陸部で遊牧活動をしていた部族を起源とし、内陸丘陵地帯に生活する「丘の民」と言うべき人々との間で、どうも社会習慣からか、生活文化からか、そりが合わないようなのである。

「海の民」といわれる人々は北西部・海岸部の「スス族(Sousou)」で人口の20%を占め、「森の民」といわれる人々は中南部の「マレンケ族(Malinke)」で30%ある。マレンケ族はギニアからマリ、コートジボワールまでの範囲にわたって、密林・山岳地帯に広がる部族である。伝統的には自然崇拝であり、主として森や畑などの土地を所有しての農業に従事している。

一方、「丘の民」というのは「プル族(Peuls)」のことで、人口の40%を占める。この人々はギニアだけではなくて、さらに北東にかけ、果てはチャド、スーダンあたりまでアフリカ中部に広がるサバンナ地域で生活する遊牧部族である。ギニア中部は丘陵地帯が広がり、通年25度の常春の気候で暮らしやすいことからここに定住し、牧畜業や商業などに従事しており、イスラム教徒が多い。

単純化して説明するならば、ギニアの人々は、「スス族」、「マレンケ族」という2つの「海と森の民」の部族と、「プル族」という「丘の民」の部族に分かれる。問題は、フランス植民地時代に、フランスが「プル族」を利用して、「スス族」と「マレンケ族」を間接支配した。だから、これら海と森の部族の「プル族」に対する悪感情が、いまだに強いしこりを残している。

1958年に、セク・トゥーレ(Ahmed Sékou Touré)が指導して、フランス植民地から独立を果たし、初代大統領になった。セク・トゥーレ大統領は、「マレンケ族」の出身であり、36年間の在任中に、「プル族」を激しく弾圧した。有名なのは、「プル族」のディアロ・テリ(Diallo Telli)への迫害である。「アフリカ統一機構」(アフリカ連合の前身)の創設者の一人であり、その初代事務局長を8年務めたほどの人物を、その後逮捕した上、座ることもできない独房に閉じ込めて餓死させた。

1984年に、セク・トゥーレ大統領が死去し、無血クーデタによりランサナ・コンテ(Lansana Conté)が大統領になった。コンテ大統領は、海の民である「スス族」の出身であり、「プル族」への弾圧を続けた。つまり、1958年の独立以来、「丘の民」である「プル族」は、ずっと政権に抑圧され続けてきており、「プル族」の「海と森の民」に対する復讐心には、根強いものがあるといわれる。

さて、コンテ大統領は一昨年(2008年)の12月、長患いの後74歳で死去した。その翌日、軍が動いて混乱が始まり、最後にダディス・カマラ(Moussa Dadis Camara)という大尉が出てきて、自分たち「民主主義と発展のための国民評議会(CNDD)」が政権を掌握したと宣言した。ふたたびクーデタである。このダディス・カマラ大尉は「マレンケ族」の出身であり、故コンテ大統領の息子の親友だった。そういう係累で、まわりに担ぎ出されたものと思われた。

ところがこのカマラ大尉、麻薬中毒であるという噂もあり、かなり度外れたところがあるのみならず、民政移行を口にしない。民政移行といえば、多数決選挙になり、そうなると「海と森の民」から「丘の民」の「プル族」に政権が移ってしまう。それを恐れる人々はカマラ政権の持続を望み、いっぽう「プル族」はカマラ政権への民主化圧力を高めた。

2009年9月28日、首都コナクリの競技場で、カマラ大尉が大統領選挙に出馬することに反対する集会が行われた。そこに、軍の治安部隊が入り込み、集会との間で衝突が起こり、多くの人々が殺傷される事件が起こった。死者は数百人とも、またその多くが「プル族」の人々だったともいわれるが、真相は分からない。

その後の混乱に輪を掛けるように、12月3日、ダディス・カマラ大尉は、コナクリ市街にある軍の駐屯地にいたところを、副官であるトゥンバ・ディアキテ中尉に頭を撃たれ、翌4日に、モロッコに緊急搬送された。このディアキテ中尉というのが、これまた麻薬の噂もあるし、呪術信仰のあやしい行者でもあった男である。狙撃の理由や真相は、よく分からない。ともかく同日、議会は、国防相であったセクバ・コナテ将軍(Sékouba Konaté)を「国民評議会」代表代行に任命した。

モロッコに運ばれたダディス・カマラ大尉は一命を取りとめ、さらにブルキナファソ経由で、ギニアに戻ろうとするが、阻止されてワガドゥグに留まった。その一方で、コンパオレ・ブルキナファソ大統領の調停が進み、セクバ・コナテ代表代行のもとで、2010年1月に政治当事者により「ワガドゥグ共同宣言」が結ばれた。

この「宣言」にしたがって、コテナ代表代行は「暫定大統領」となり、野党党首ドーレが首相に、と暫定政府を発足させ、大統領選挙を早期に実施することとなった。コンパオレ大統領が登場するところといい、野党党首が首相になって暫定政府をつくって、大統領選挙を図るところといい、どうもコートジボワールの「危機脱出」の複写の感がある。さて、コナテ「暫定大統領」は、自らも含め、「国民評議会」メンバー、現職閣僚、軍人は、これから行われる大統領選挙には立候補しないと宣言した。これで、民主化移行への道筋がはっきりと付き、一気に文民政権成立への期待が高まった。

大統領選挙は、6月27日に、きわめて平穏のうちに行われた。そして、丘の民「プル族」のセル・ダレン・ディアロ候補(Cellou Dalein Diallo)が43%、森の民「マレンケ族」のアルファ・コンデ候補(Alpha Condé)が18%を獲得する結果が出た。しかし50%を獲得した候補がいなかったため、ディアロ候補とコンデ候補との決選投票(第二回投票)が1ヶ月後に行われることになった。

ところが、その第二回投票がなかなか実施できず、しばらく立ち往生の状態になる。24名という多くの人数の候補者の間で争われた第一回投票と異なり、こんどは「プル族」候補と「マレンケ族」候補の、2人の間での一騎討ちである。両方の部族の間で、宿命の衝突は避けられない、と誰の目にも思えたからである。当初の8月実施予定が、大幅にずれて9月19日に決まった。ところが、直前の14日に、選挙管理委員長が突然に死去。そして15日には、大統領選挙が延期されてしまった。

新たな投票日は、10月10日にいったん決まったけれど、再度延期されて、いよいよこの日曜日(10月24日)に実施される。こうした、ギニア大統領選挙ののらりくらりした経緯は、どうもコートジボワールの大統領選挙の経緯と重ね合わせになって、「ギニアのコートジボワール化」と言われたり、「コートジボワールのギニア化」と言われたりしている。どちらも良くない意味である。

ここはひとつ両国で奮起して、ギニアでもコートジボワールでも、民主的・非暴力の選挙を実現し、良い意味での「ギニアのコートジボワール化」、「コートジボワールのギニア化」を実現してもらいたいものである。

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