以前、ちょっと不思議な経験をしたことがあります。
先日、K沢くんの起こした粗相の後足末をして、会社への途に着くと、一軒、除雪もされていない、雪に埋もれた一軒の大きなお宅が目に入りました。
道に面した居間の大きな窓には、『売り物件』の紙が貼られていて、人の気配の全くないその家をみて、『ああ、そうか、もう人はいないんだ…』と当たり前の事を呟いたりしてしまいました。
そこは以前、蛇口屋が工事を行ったお宅でした。
今から4年ほど前になります。丁度季節は今くらい。
ボイラーの交換を依頼してきたのがここの奥さんで、大きめの住宅に一人暮らしをしていました。
奥さんと言ってもかなり高齢なご婦人で、年齢は70歳以上(享年74歳でした)だとは思えない、体の芯がピシッとしている印象があって、どこか高貴な空気が漂っていました。
家自体も、古いんですが、それでも相当良い建築をされているのか、手入れが良いのか、年代の古さや時代は感じても、立派な物でした。
昔の家って、今の住宅より、無垢な木を本当にふんだんに使ってますよね。
玄関に入って、まず一番最初に思ったことは、家の中が暗かった事です。
今は、高齢な奥さん一人だけしか住んでいないと言う話だったので、電気の無駄遣いをしないようにしているのだろうなあ、と思っていました。
「ご苦労様です」と迎え入れられて、奥のユーティリティーへ案内されました。
交換工事自体は、普通の工事だったんですけど、そのお宅、ユーティリティーの床が妙に軋むのが印象的でした。
蛇口屋くらいの体重で、なんか床が沈む感じがするんですよね。
水回りが絡む室内の木材って、他の部屋に比べて湿度が高いから、割と痛みやすいので、この家もそうだと思っていました。
工事を始めると、程なくして奥さんが、お茶と、お茶請けを持って来たくれました。
普通に世間話をして、この家が実はもうかれこれ40年くらいの築年数になることとか
今は、奥さん一人で、この家を維持させていると言うことでした。
これだけ広ければお掃除も大変だろうなあ、なんて事を考えていると、
「そんなに寂しくは無いんですよ」と奥さんはおっしゃいました。
そうですよね、一人って言うのは、寂しさだってあるけど、ご主人や家族の思い出の詰まったこの家ですもの、心細さなんてなのは無いでしょうね。なんてな事を言おうと思っていると、次の奥さんの言葉は、蛇口屋なんかの想像を絶する物でした。
「主人は、この家で、待ってるんですよ、私が死ぬのを」
聞き間違いだったら良かったんですが、奥さん、か細く笑って、そう言ったんです。
でもその言い方って、決して重い物ではなくて、なんか、銭湯に行って、帰りに遅い方の人を待っている、ぐらいの言い方でした。
蛇口屋的には、笑って、『またまた!』なんて軽くかわす所なんでしょうけど、この家の雰囲気と奥さんのどこか透き通った声が、蛇口屋のそんな言葉の介在を許してはくれませんでした。嘘や、冗談ではない。少なくとも彼女にとってそう言う意志みたいな物を見せつけているんです。
蛇口屋には理解しがたい事ですが、確かに奥さんにとって、ご主人はこの家にいると言うことなんだろうなあ。と何となくです判ったような気にもなりました。
そして、自分が死んでも、「一緒に逝こうよ!」って待っている、相当に寂しがりやのご主人です。きっと生前は奥さんにあらゆる意味で甘えていたんでしょうね。
でも、多分、蛇口屋はその時、半信半疑な顔をしていたんだと思うんですよね。奥さんの思い入れって言うか、気持ちって言うのを、言葉先で捉えてはみても、本当に芯から納得する事が出来ない、狭間な感情が顔に出ていたんだと思います。
そんな思いを察してか、「あ、工事の邪魔でしたね」って言って、背を向けようとしたとき、彼はやって来ました。
キシっと床が軋んだんです。
まるで見えない誰かが歩いて来るみたいに、ゆっくりと、床が軋んで来たんです。
そう、ご主人です。
蛇口屋と、奥さんの間、距離にして3メートルに満たないその場所に人はいません。
それなのに、床がゆっくりと軋んで僅かに下がる、その感触が、蛇口屋の足の裏から確実に伝わってきて、いるはずもない、男の人の気配が伝わって来るんです。
見えてもないのに、「結構大柄な人だ」という印象、どういう訳か、毛深い二の腕も、視覚以外の感覚で伝わって来るんです。
本当に、驚きました。多分、目なんか飛び出すくらい開けてましたよ。
確かに目の前にいるのはご高齢の奥さん一人、彼女自身、全く動く気配も無く、蛇口屋を見て微笑んでいる奥さん一人がいるだけです。
キシ、キシとそのきしみはゆっくりと蛇口屋に近づいてきます。
確実に、蛇口屋に向かって誰かが歩いてきているんです。
別に、何をされるって訳もないでしょう。しかも蛇口屋自身に何の遺恨の繋がりもない。
そうは思っても、体の芯からこみ上げる感情は、恐怖以外の無いものでもありませんでした。
「ほら、あなた、職人さんの邪魔しちゃ駄目ですよ」
奥さんがそんな一言を告げると、床に掛かっていた加重は、スーっと消えて、生暖かな人の気配も消えて、替わりに、この家の何処か、奥の方の部屋の戸が、パタンっと閉まる音が聞こえました。
ただ立ちつくす蛇口屋に、奥さんは、「ごめんなさいね、もう邪魔はしませんから」と居間の方へ戻ってゆきました。
それ以上のことは無かったんですが、あんまり幽霊や心霊体験なんてすることがない蛇口屋で、おおむね人の生み出す物だと決めつけていたんで、目の前に迫る理解しがたい現象の恐怖を実感しました。
本当に不思議な体験でした。
今、あの家に、誰も住んでいる人がいないって言うことは、ご主人の望みが叶ったって事でしょうか?
それとも、ご夫婦揃って、また誰かを待っているのかなあ?
なんて思うと、そう思うと、誰もいないはずのあの家の中で、蛇口屋の付けたボイラーがいないはずの誰かのためにお湯を沸かすため、今でも動いている気がして、ちょっと確認したいような、したくないような。この時期なんで、凍結も心配な少し複雑な気持ちです。
先日、K沢くんの起こした粗相の後足末をして、会社への途に着くと、一軒、除雪もされていない、雪に埋もれた一軒の大きなお宅が目に入りました。
道に面した居間の大きな窓には、『売り物件』の紙が貼られていて、人の気配の全くないその家をみて、『ああ、そうか、もう人はいないんだ…』と当たり前の事を呟いたりしてしまいました。
そこは以前、蛇口屋が工事を行ったお宅でした。
今から4年ほど前になります。丁度季節は今くらい。
ボイラーの交換を依頼してきたのがここの奥さんで、大きめの住宅に一人暮らしをしていました。
奥さんと言ってもかなり高齢なご婦人で、年齢は70歳以上(享年74歳でした)だとは思えない、体の芯がピシッとしている印象があって、どこか高貴な空気が漂っていました。
家自体も、古いんですが、それでも相当良い建築をされているのか、手入れが良いのか、年代の古さや時代は感じても、立派な物でした。
昔の家って、今の住宅より、無垢な木を本当にふんだんに使ってますよね。
玄関に入って、まず一番最初に思ったことは、家の中が暗かった事です。
今は、高齢な奥さん一人だけしか住んでいないと言う話だったので、電気の無駄遣いをしないようにしているのだろうなあ、と思っていました。
「ご苦労様です」と迎え入れられて、奥のユーティリティーへ案内されました。
交換工事自体は、普通の工事だったんですけど、そのお宅、ユーティリティーの床が妙に軋むのが印象的でした。
蛇口屋くらいの体重で、なんか床が沈む感じがするんですよね。
水回りが絡む室内の木材って、他の部屋に比べて湿度が高いから、割と痛みやすいので、この家もそうだと思っていました。
工事を始めると、程なくして奥さんが、お茶と、お茶請けを持って来たくれました。
普通に世間話をして、この家が実はもうかれこれ40年くらいの築年数になることとか
今は、奥さん一人で、この家を維持させていると言うことでした。
これだけ広ければお掃除も大変だろうなあ、なんて事を考えていると、
「そんなに寂しくは無いんですよ」と奥さんはおっしゃいました。
そうですよね、一人って言うのは、寂しさだってあるけど、ご主人や家族の思い出の詰まったこの家ですもの、心細さなんてなのは無いでしょうね。なんてな事を言おうと思っていると、次の奥さんの言葉は、蛇口屋なんかの想像を絶する物でした。
「主人は、この家で、待ってるんですよ、私が死ぬのを」
聞き間違いだったら良かったんですが、奥さん、か細く笑って、そう言ったんです。
でもその言い方って、決して重い物ではなくて、なんか、銭湯に行って、帰りに遅い方の人を待っている、ぐらいの言い方でした。
蛇口屋的には、笑って、『またまた!』なんて軽くかわす所なんでしょうけど、この家の雰囲気と奥さんのどこか透き通った声が、蛇口屋のそんな言葉の介在を許してはくれませんでした。嘘や、冗談ではない。少なくとも彼女にとってそう言う意志みたいな物を見せつけているんです。
蛇口屋には理解しがたい事ですが、確かに奥さんにとって、ご主人はこの家にいると言うことなんだろうなあ。と何となくです判ったような気にもなりました。
そして、自分が死んでも、「一緒に逝こうよ!」って待っている、相当に寂しがりやのご主人です。きっと生前は奥さんにあらゆる意味で甘えていたんでしょうね。
でも、多分、蛇口屋はその時、半信半疑な顔をしていたんだと思うんですよね。奥さんの思い入れって言うか、気持ちって言うのを、言葉先で捉えてはみても、本当に芯から納得する事が出来ない、狭間な感情が顔に出ていたんだと思います。
そんな思いを察してか、「あ、工事の邪魔でしたね」って言って、背を向けようとしたとき、彼はやって来ました。
キシっと床が軋んだんです。
まるで見えない誰かが歩いて来るみたいに、ゆっくりと、床が軋んで来たんです。
そう、ご主人です。
蛇口屋と、奥さんの間、距離にして3メートルに満たないその場所に人はいません。
それなのに、床がゆっくりと軋んで僅かに下がる、その感触が、蛇口屋の足の裏から確実に伝わってきて、いるはずもない、男の人の気配が伝わって来るんです。
見えてもないのに、「結構大柄な人だ」という印象、どういう訳か、毛深い二の腕も、視覚以外の感覚で伝わって来るんです。
本当に、驚きました。多分、目なんか飛び出すくらい開けてましたよ。
確かに目の前にいるのはご高齢の奥さん一人、彼女自身、全く動く気配も無く、蛇口屋を見て微笑んでいる奥さん一人がいるだけです。
キシ、キシとそのきしみはゆっくりと蛇口屋に近づいてきます。
確実に、蛇口屋に向かって誰かが歩いてきているんです。
別に、何をされるって訳もないでしょう。しかも蛇口屋自身に何の遺恨の繋がりもない。
そうは思っても、体の芯からこみ上げる感情は、恐怖以外の無いものでもありませんでした。
「ほら、あなた、職人さんの邪魔しちゃ駄目ですよ」
奥さんがそんな一言を告げると、床に掛かっていた加重は、スーっと消えて、生暖かな人の気配も消えて、替わりに、この家の何処か、奥の方の部屋の戸が、パタンっと閉まる音が聞こえました。
ただ立ちつくす蛇口屋に、奥さんは、「ごめんなさいね、もう邪魔はしませんから」と居間の方へ戻ってゆきました。
それ以上のことは無かったんですが、あんまり幽霊や心霊体験なんてすることがない蛇口屋で、おおむね人の生み出す物だと決めつけていたんで、目の前に迫る理解しがたい現象の恐怖を実感しました。
本当に不思議な体験でした。
今、あの家に、誰も住んでいる人がいないって言うことは、ご主人の望みが叶ったって事でしょうか?
それとも、ご夫婦揃って、また誰かを待っているのかなあ?
なんて思うと、そう思うと、誰もいないはずのあの家の中で、蛇口屋の付けたボイラーがいないはずの誰かのためにお湯を沸かすため、今でも動いている気がして、ちょっと確認したいような、したくないような。この時期なんで、凍結も心配な少し複雑な気持ちです。