2012年4月
彼は
家と
車と
お店
のすべてを同時に手に入れた
あとは、人徳だけ
だね
うそです
彼にはきっと
その人徳のおかげで
これだけのお客様に
支えられています
オープンしてから
毎日、毎日お祝いに来てくれる
お客様がいて
ウレシイね
読んでるこっちまで
ハッピーになります
自分もオープンさせた頃を思い出します
お店がオープンしてから
半年~1年は
『おめでとう』
って挨拶でお客さんが入ってきます
自分、こんなに知り合いいたんやーってくらい
いっぱいお祝いにきてくれます
毎日こんな日が続けば一生食っていけるぜい
なんて、思える半年間
オープン景気とも呼んでます
でも、そんな甘い日も長くは続きません
1年~3年してからは
『久しぶりー』
って挨拶が増えてきます
いろんな環境の変化もあったりで
1年以内によく来てくれてたお客さんも
ご無沙汰が増えてきます
知り合いの数でいえば、開店した頃より
増えてるはずなのに
簡単に営業ってでけへんもんやと
気付きます
5年~10年してからは
まだ、らくだばにとって未知の世界ですが
どんな挨拶に変わるんでしょう
『薄なったな』とか
『老けたな』とか
容姿の言葉が増えるんでしょうか笑
そして
10年~20年たったら
きっと
『店まだつぶれてへんかったなー』
って、お店が残ってることに
喜びを感じた挨拶に変わるでしょう
そして
30年~40年たったら
きっと
『まだ生きてたかー』
って、店主が生き残ってることに
喜びを感じた挨拶に変わるでしょう
昔いった
大阪難波の老舗『吉田バー』
今は三代目の娘さんが切り盛りしてるそう
この記事によれば
ボクが会ったのは
二代目の芳二郎さんだ
芳次郎さんが亡くなったのは2001年
享年78歳
ボクが訪れたのは1996年だったと思うので
73歳の芳二郎マスターということになる
もう、ホントにおじいちゃんでした
でも、そのマスターがシェーカーを振ってた姿は
今でも忘れない
そして
吉田バーに入ってきたお客さんと
マスターが交わした挨拶がまさに
『生きてたかー』
『おう、生きてたよー』
という挨拶だった
大学生の頃、再会を喜んで
強く握手しているそれをみたとき
どれだけ微笑ましい光景だったか
鮮明に覚えている
吉田さんの最期は存じ上げないが
現場にこだわった吉田さんの生き方は
そう簡単に真似できることではない
吉祥寺で38年
お店を切り盛りする佐藤さん
38年ですよ
いまだ、現場に立つオーナーは
還暦を迎える
先月ゆっくり話す機会があって
本当に刺激を受けた
業態は何度も変えた
コンセプトはない
こだわりもない
ただ、生きるためにやってきた
なんと重い言葉だったろう
お客さんのニーズに応えてきた
時代時代のニーズに応えてきた
生きるために
応え続けた結果が38年という
歴史だったんだろう
自分の未来はわからない
らくだばが5年、10年、20年あるのかも
わからない
誰もわからない
でも、こうなってたいと
思える人と出会えた自分は幸せだ
お店というのは皮肉なもので
閉店が決まってから
惜しむお客さんがどっと押し寄せる
もっと、こうなる前に頻繁に来てくれたら
つぶれなくて済んだのにって
思うオーナーさんも少なくないだろう
でも、結局は
その時代にお客さんを呼べなかった
オーナーの力不足に過ぎない
明日は我が身
常に緊張感をもつために
自分は、あえてここに綴っています
オープンしてまだ1ヶ月も
たってない彼に
閉店の話題なんて
できっこないけど
お店っていとも簡単につぶれてしまう現実と
常に背中合わせにいるっていう不安と
自分たち個人経営者ってのは
誰からも守られてないっていう恐怖と
一生仲良くお付き合いしていかな
あかんねんなーって
肝に銘じておきたいね
ま、どんな世界も厳しいのは
同じだと思いますが
お客さんが入ってきた時に
交わす挨拶は
その時代時代にあった
おもろい言葉で
ありたいですね
挨拶は変わるもの
今は素直に
たくさんの
おめでとうを
受け入れよう
皆様、つぶれる前に
沖縄いったげてくださいね(笑
最後、どんなオチやねん
今年の7月
その話しが本当なら
25年やってきたお店を閉めるママを
知っている
悔いは思いっきり残ってそうだけど
55歳という若さで
引退の道を選んだ理由は
ちやほやされてるうちに去りたい
なんか、わかるなー
落ちぶれてから引退するよりも
華やかなうちに去って伝説を残したい
生き方ってばヒトそれぞれ
まぁ、あんま先のことを考えすぎても
よーわからんし
今はとにかく毎日を真剣に
いや、そこまで真剣じゃなくていっか
『生きるために』
ほどほどに、やってこう
明日は何回
挨拶できるかな
挨拶できることに
感謝しよう
明日もあさってもしあさっても
らくだばもはなれもふじ晴も
たくさんの挨拶できますよーに。
彼は
家と
車と
お店
のすべてを同時に手に入れた
あとは、人徳だけ
だね
うそです
彼にはきっと
その人徳のおかげで
これだけのお客様に
支えられています
オープンしてから
毎日、毎日お祝いに来てくれる
お客様がいて
ウレシイね
読んでるこっちまで
ハッピーになります
自分もオープンさせた頃を思い出します
お店がオープンしてから
半年~1年は
『おめでとう』
って挨拶でお客さんが入ってきます
自分、こんなに知り合いいたんやーってくらい
いっぱいお祝いにきてくれます
毎日こんな日が続けば一生食っていけるぜい
なんて、思える半年間
オープン景気とも呼んでます
でも、そんな甘い日も長くは続きません
1年~3年してからは
『久しぶりー』
って挨拶が増えてきます
いろんな環境の変化もあったりで
1年以内によく来てくれてたお客さんも
ご無沙汰が増えてきます
知り合いの数でいえば、開店した頃より
増えてるはずなのに
簡単に営業ってでけへんもんやと
気付きます
5年~10年してからは
まだ、らくだばにとって未知の世界ですが
どんな挨拶に変わるんでしょう
『薄なったな』とか
『老けたな』とか
容姿の言葉が増えるんでしょうか笑
そして
10年~20年たったら
きっと
『店まだつぶれてへんかったなー』
って、お店が残ってることに
喜びを感じた挨拶に変わるでしょう
そして
30年~40年たったら
きっと
『まだ生きてたかー』
って、店主が生き残ってることに
喜びを感じた挨拶に変わるでしょう
昔いった
大阪難波の老舗『吉田バー』
今は三代目の娘さんが切り盛りしてるそう
この記事によれば
ボクが会ったのは
二代目の芳二郎さんだ
芳次郎さんが亡くなったのは2001年
享年78歳
ボクが訪れたのは1996年だったと思うので
73歳の芳二郎マスターということになる
もう、ホントにおじいちゃんでした
でも、そのマスターがシェーカーを振ってた姿は
今でも忘れない
そして
吉田バーに入ってきたお客さんと
マスターが交わした挨拶がまさに
『生きてたかー』
『おう、生きてたよー』
という挨拶だった
大学生の頃、再会を喜んで
強く握手しているそれをみたとき
どれだけ微笑ましい光景だったか
鮮明に覚えている
吉田さんの最期は存じ上げないが
現場にこだわった吉田さんの生き方は
そう簡単に真似できることではない
吉祥寺で38年
お店を切り盛りする佐藤さん
38年ですよ
いまだ、現場に立つオーナーは
還暦を迎える
先月ゆっくり話す機会があって
本当に刺激を受けた
業態は何度も変えた
コンセプトはない
こだわりもない
ただ、生きるためにやってきた
なんと重い言葉だったろう
お客さんのニーズに応えてきた
時代時代のニーズに応えてきた
生きるために
応え続けた結果が38年という
歴史だったんだろう
自分の未来はわからない
らくだばが5年、10年、20年あるのかも
わからない
誰もわからない
でも、こうなってたいと
思える人と出会えた自分は幸せだ
お店というのは皮肉なもので
閉店が決まってから
惜しむお客さんがどっと押し寄せる
もっと、こうなる前に頻繁に来てくれたら
つぶれなくて済んだのにって
思うオーナーさんも少なくないだろう
でも、結局は
その時代にお客さんを呼べなかった
オーナーの力不足に過ぎない
明日は我が身
常に緊張感をもつために
自分は、あえてここに綴っています
オープンしてまだ1ヶ月も
たってない彼に
閉店の話題なんて
できっこないけど
お店っていとも簡単につぶれてしまう現実と
常に背中合わせにいるっていう不安と
自分たち個人経営者ってのは
誰からも守られてないっていう恐怖と
一生仲良くお付き合いしていかな
あかんねんなーって
肝に銘じておきたいね
ま、どんな世界も厳しいのは
同じだと思いますが
お客さんが入ってきた時に
交わす挨拶は
その時代時代にあった
おもろい言葉で
ありたいですね
挨拶は変わるもの
今は素直に
たくさんの
おめでとうを
受け入れよう
皆様、つぶれる前に
沖縄いったげてくださいね(笑
最後、どんなオチやねん
今年の7月
その話しが本当なら
25年やってきたお店を閉めるママを
知っている
悔いは思いっきり残ってそうだけど
55歳という若さで
引退の道を選んだ理由は
ちやほやされてるうちに去りたい
なんか、わかるなー
落ちぶれてから引退するよりも
華やかなうちに去って伝説を残したい
生き方ってばヒトそれぞれ
まぁ、あんま先のことを考えすぎても
よーわからんし
今はとにかく毎日を真剣に
いや、そこまで真剣じゃなくていっか
『生きるために』
ほどほどに、やってこう
明日は何回
挨拶できるかな
挨拶できることに
感謝しよう
明日もあさってもしあさっても
らくだばもはなれもふじ晴も
たくさんの挨拶できますよーに。
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