オゴタイ、チャガタイ、フラグの国
1、1227年のチンギス汗の死前後から、
・・・チンギスの三男オゴタイは外モンゴル西部のジュンガリア地方を(オゴタイウルス)、次男チャガタイは中央アジアのサマルカンドを拠点とするが(チャガタイウルス)、チンギス汗没後2年経った1229年、オゴタイが大汗の地位に就く。
そしてオゴタイは先ず四男のトルイと一緒に「金」を滅ぼし、各地へダルガチ(代官)を置き、首都カラコルムの建設、駅伝制の整備、バトゥの征西軍組織などに努め、モンゴル帝国の体裁を整える。
2、しかしオゴタイ、チャガタイ死後、
・・・オゴタイの子グユク(1246)は短期政権に終わり、オゴタイ、チャガタイ家は内紛が続き、モンゴル帝国の主要部分はチンギスの四男トルイ家の方に移ってゆく。
そして先を急げば、下記3の1260年、モンケからクビライの政権移譲の際、オゴタイの孫ハイドゥがハンを自称し40年間クビライに盾突くが(ハイドゥの乱)、彼の死後オゴタイ家は絶え、そのウルスはチャガタイウルスに統合される。
やがてそのチャガタイウルスも、元朝やキプチャクハンの介入もあり統治が安定せず、結局1231年、東西に分裂する(現代の東西トルキスタン)。そして西に勢力を張ったティムール(彼の家系もチンギスにつながるという)に征服される。
3、トルイの子供達、西へ南へ遠征
モンゴル宗主家は、1251年トルイの長男モンケが大汗の地位の就き、翌年同次男クビライに南宋征討を、同三男フレグにイラン方面征討を命ずる。
① すでにチンギス汗が一度通った中央アジアはイスラム勢力は衰退しつつあり、フレグ軍は順調に軍を進めるが、テヘランの北、カスピ海南端のアルボルス山中に立て籠もる奇怪な暗殺集団「イスマイリ教国」討伐には手を焼く。
② そして1258年、最大の敵地バクダットを攻め落とし、のムスタースィムを殺し、アッバース朝を滅亡させる。
③ その後フラグ軍はアゼルバイジャンに入り、1261年タブリスを首都に「イル・ハン国」(フレグウルス)を創設、キリスト教徒のアルメニアやかすかに存続している十字軍国家の手引きも得て、アレッポ、そしてシリア(ダマスクス)、パレスチナに進軍する。
④ しかし、ここでクビライ即位の報に接し、フラグ本隊は一度イラン方向に旋回するが、残りの軍は血気にはやり地中海東岸を南下し、エジプト侵入を伺う。
このときのエジプトは・・・対十字軍との戦いで有名なサラディーンを出したアイユーブ朝が倒れトルコ系軍人が建てたマムルーク朝。
キプチャク人奴隷だった「バイバラス」が軍事力を誇っていた時で、モンゴル軍到来に急ぎパレスチナを北上し、「アイン・ジャルートの渓谷」でモンゴル軍を大破する。その後怒ったフラグ本隊が、何度か復讐戦を試みるがエジプト軍がはね返す。
この戦いはエジプトマムルーク朝の自慢の種となり、今日エジプトがアラブ世界の盟主を自負する根拠の一つとなる。
4、イル・ハン国のその後
イル・ハン国は、1295年7代目カザン・ハンがイスラム教を国教とし、ラシード・ウディーンを宰相に起用し全盛期を迎えるが、14世紀半ばからは内紛が続き、やがて、ティムール朝に滅ぼされる。
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