映画で楽しむ世界史

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長男ジョチの国の行方「蒼き狼」(3)

2010-12-26 15:05:23 | 舞台は中央アジア・インド

タタールの頚木それとも平和

 

1、井上靖の小説も、あるいは今回の角川映画も描くとおり

 

・・・チンギス汗の長男ジョチは親父となんとなく旨くいかなかった。

愛憎絡む複雑な関係の原因は、ジョチは本当のチンギスの子か、それとも妻のボルテがメルキト族に略奪され囚われていたときの子か、それをチンギスが悩んだことにある。(チンギス自身、親父のイェスゲイの子か、それとも母のホエルンが他部族に略奪囚われていたときの子か悩んだことがある)。

従って、ジョチは何かと親父と別行動をとりたがる。それがモンゴル帝国がはるか西方に遠征し、東欧諸国を震撼とさせ、ロシアを長らく支配下におくことに、そして現代ロシア周辺諸国の歴史に繋がる。

 

 2、チンギス軍の西方攻略史をまとめてみると

 

・・・先ずはチンギスが始めてイスラム圏のホルムズ・シャーに攻め入った1220年、ジュチはサマルカンド攻略の右翼を受け持つが、逃げたスルタンを追ったかどうか、カスピ海の方に向かい、そのまま消息を絶つ。12222年、チンギスが召集した会議にも帰ってこない。病気という情報ももたらされるが・・・真相は分からない。没年も1225年か27年か定かではない。

 

① この時、モンゴル軍の精鋭ジェベ・スベエディ軍は逃げたスルタンを追ってアラル海、カスピ海の南部を通って、アゼルバイジャンに達し、キリスト教徒の住む国アルメニアやグルジアを荒し、ここで「タルタル人」なる仇名をつけられる。タルタルとは、ギリシャ神話に出てくる「地獄から来た恐ろしい人々」の意味。これが後世「タタール」となる。

彼らはコーカサス山脈を越え、ロシア南部を睥睨し、モンゴルへ引上げる。

 

② 1236年、チンギス死してオゴタイの代になって、ジョチの子バトゥを総大将にして本格的西方遠征軍が組織される(チンギス汗の遺言ともいわれる)。この遠征軍はアラル海、カスピ海北方経路をとり、ロシア南の草原に住むブルガール族やキプチャク族を西に追いやり、ロシアになだれ込む。

当時ロシアはキエフ大公国の統率が緩み、いわゆる「諸侯領分立時代」、数多くの公国が覇を競っているが、モンゴル軍はモスクワ、ウラジーミルそしてキエフ(1240年)などロシア諸都市を壊滅させる。侵略を免れたのは北のノブゴロドのみ。

 

③ さらにバトゥはポーランドに進み、1241年ドイツ・ポーランド連合軍を「ワールシュタットの戦い」で破り、南進してハンガリーのブタペストを落とし、アドリア海を見るに及ぶ。しかしここで本国でオゴタイハン死すの報に接し、東へ引上げる。

 

 ④ しかし彼は結局は本国へ戻らず、1238年ヴォルガ河畔のサライに居を構え、現代のロシア、ウクライナなどを含む大国「キプチャク・ハン国」を建設する。

 

3、ヨーロッパ史との絡み

 

多くの歴史教科書では、「アレキサンドル・ネフスキー」はロシア史のほうで出てくるが、モンゴル史とも密接に絡む。

モンゴル軍が総力を挙げてキエフ攻略の頃、バルト海に面するネヴァ川からスウェーデン軍がロシアに侵入してくる。ノブゴロドを支配するウラジーミル公ヤロスラフの子アレクサンドルがこれを破り「ネヴァ川の=ネフスキー」なる尊称を得る。

さらに北東ドイツやポーランドに勢力を張った十字軍帰りの「ドイツ騎士団」もロシアに侵入してくる。ネフスキーは有名な「チュード湖の戦い」でこれを破るが、ソ連史ではこれをゲルマンに対する勝利と喧伝したがるようである。(ソ連映画「アレキサンドル・ネフスキー」)

しかし面白いのはネフスキーのモンゴルに対する対応。丁度この頃よりキプチャクハンの「タタールのくびき=徴税と徴兵」が始まるが、ネフスキーは恭順の態度でこれに協力する。理由は・・・ウラジーミル内での内紛。彼は北のノブゴロドを制しているが、弟のアンドレイが南のキエフを押さえており「大公位」を競っている。彼は多分モンゴル勢力の後押しを得たかったのであろう。

しかしこれがその後のロシア史に影響する。タタールのくびきは、その過酷振りが強調されるが、その後勃興してくるモスクワ公国は、いわばモンゴルの徴税代理人のような立場をとりつつ国を富ませロシアを統一してゆく。 タタールのくびきが外れるのは 1380年の「クリコヴォの戦い」を経て、最終的には 1480年 イヴァン1世がロシア統一を成し遂げた時といわれる。

 

 4、キプチャクハン国のその後

 

キプチャクハン国のその後を若干だけ補記すれば・・・、

 

 ① バトゥの家系は早々にイスラム化し、14世紀前半ウズベク・ハンの時に全盛期を迎え、イスラム化が進むが、その後急速に解体過程に入り、

 ② バトゥの弟の家系から 1438年 カザフ・ハン国が独立。さらに1446年、アストラ・ハン国が独立。これらの国は1552年、54年イヴァン4世に敗れてロシアに併合される。

③ さらに 1441年 クリミヤ半島周りにクリム・ハン国が建国されるが、この国は1475年 オスマン帝国の支配下に入り、1774年 エカチェリーナ2世の南下政策 に屈する。

④ 15世紀末には、もう一人の弟の末裔 ノガイが「シビルハン国」を建て、

⑤ さらに他の弟の末裔は、ウズベクのシャイバーン朝に入る。

 

    


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