日本近代文学の森へ 235 志賀直哉『暗夜行路』 122 あわれなる人間への眼差し 「後篇第三 十五」 その1
2023.1.12
「第三 15」は、謙作と末松が連れだって、末松が入れ込んでいる「三流芸者」のところへ遊びに行くところから、謙作が直子の元へ深夜に帰ってくるまでが、簡にして要を得たとしかいいようのない文章で綴られる。
謙作は、新婚故、直子を裏切るようなことはしたくないのだが、末松への配慮から、ずるずると付き合ってしまい、結果として、「裏切」ってしまう。
始まりはこうだ。
ーつは他に友達もない所から、自然彼は末松とよく会っていた。しかしその頃、末松は祇園の三流芸者との新しい関係でいくらか有頂天になっている時で、謙作は此方(こっち)から訪ねて行くような場合、多少はその心遣いもしなければならなかった。末松の方はまた、直子に対する遠慮から謙作を其処(そこ)へ誘おうとはしなかった。
こうした背景をまず簡潔に説明しておいて、「ある晩」のことへを筆を進める。
ある晩、謙作は出先きから晩(おそ)く末松の下宿を訪ねた。出掛けるものなら、もう出掛けているだろうと思いながら行った。ところが、末松はこれから出掛けようとする所で、二人は両方でちょっと気の毒な想いをした。
「いいんだ。本統にいいんだよ」こんなにいい、末松は殊更(ことさら)寛いだ風で、火鉢に炭を次いだりした。しかし暫くするとやはり落ちつかぬらしく、
「此所(ここ)へ呼んでみようか」といい出した。
「呼ぶ位なら、彼方(むこう)へ行こう。その方がいいよ」謙作がいった。
「本統にいいのかい? 何だか奥さんに悪いな」末松は羞入(はじい)ったような嬉しそうな顔をして頭を掻いた。
二人は間もなく寒い戸外(そと)に出たが、その時はもう九時を過ぎていた。平安神宮の前の広い静かな通りを真直ぐに電車路の方へ歩いた。
「何所(どこ)で呼ぼう?」末松がいった。
「君の普段行く所でいいじゃないか」と答えた。
「芸者も赤切符なら、茶屋も赤切符なんだよ。どうもヴァニティを傷けるからな」末松はこんなにいって笑った。「それより何所か料理屋へ行こう」
「肝心の本人がいなかったら仕方がないね。僕は今飯を食ったばかりだし、君もそうだろう?」
「うむ。だけど、余り売れっ児(こ)でもないから、……」
とにかく、何所かで一度電話を掛ける事にして、二人は電車で祇園の石段下まで行き、近いカフェーに入った。末松は直ぐ電話口ヘ立った。
「うむ」──「うむ」──「うむ」末松は返事ばかりしていたが、
「じゃあ、さいなら」ガチャンと邪見(じゃけん)に受話器を掛け、不愉快な顔をしてテーブルに還(かえ)って来た。
「六十円じゃ威張れないが、何しろ癪(しゃく)に触るな」こんな事をいいながら、傍に立っていた給仕女に強い酒を命じた。
「いないのか」
「大阪の芝居へ行って、今日は帰らないというんだ。──嘘だよ」気の毒なほど露骨に苛々していた。彼は何所かで自身以外のいわゆる旦那と一緒に騒いでいるその女をまざまざと見るかのような不愉快な顔をした。
末松の、謙作に対する気兼ね、女に対する焼け付くような欲望、そして嫉妬。そして自嘲。そうしたことが、手に取るように描かれている。
芸者と会うには、まずは茶屋に連絡して、その芸者を確保し、その上で、どこかに一緒に行くということになる。芸者本人と直接連絡を取ることができないわけで、その仲介をする茶屋が大事。しかし、その茶屋もピンキリで、「三流芸者」を扱っている茶屋は「赤切符」(=「汽車に三等があった当時、その切符の色が淡紅色であったので、これをもじって下等の意に使われた。」岩波文庫・注)なぞと呼ばれたわけだ。「六十円じゃ威張れない」とあるが、この60円は、茶屋に払った金だろうけど、その明細はどうなってるのかよく分からない。まあ、とにかく、三流どころで遊んでいたということだ。
そんな「赤切符」の芸者と付き合っていることは末松の「ヴァニティ=虚栄心」を傷つけるわけだが、それでも、末松は、その芸者に「有頂天」になっているのだ。この「有頂天」という言葉の使い方は、今とは微妙に違う。今では、「得意の絶頂であること。また、そのさま。大得意。」(デジタル大辞泉)という意味あいで使うことが多いようだが、ここでは、「我を忘れること。夢中になり、他をかえりみないさま。」(日本国語大辞典)の意味で使っている。
「有頂天」になっている末松を謙作は、「気の毒なほど露骨に苛々していた。」と冷静に観察している。この表現も面白い。つまりは、「こんなに誰が見てもイライラしていると分かるほど自分の欲望・嫉妬を露わにしたら、末松の尊厳が傷つけられるのに、それを顧慮する余裕もない末松が気の毒だった。」というようなことだろう。欲望にとらわれた者の哀れさを、謙作はジッと見つめているのである。これもまた「伏線」なのだろうか。
そんな苛つく末松のところは、赤切符の茶屋の女将から電話が入る。カフェーの女給仕に、電話には出ないと言えという末松だったが、結局しつこい女将と押し問答の末に、茶屋に行くことを承知する。ヴァニティに欲望が勝ったのだ。
「きたない家(うち)だよ。──しかしいないなら、急ぐ事もない。もう少し此所(ここ)へいよう」
彼は続けて強い酒をいい、無理にも落ちつこうとした。また、女将にいわれ、直ぐ出向く事も業腹(ごうはら)だという風だった。そして、
「本統にいいね? 何だかつまらないおつき合いをさせて、悪いな」ともいった。
「僕はいいよ」謙作は末松を気の毒に思い、何気なくそうはいったが、末松の今の気分と自分の気分とが如何に離れているかが顧られ、それが具合悪かった。実際彼の心はともすると、淋しい衣笠村の家に彼の帰りを待ちわびている直子の上へ帰って行った。彼はそれが末松に映る事を恐れ、出来るだけ自分でも何気なくしていた。
謙作は、末松の家を訪ねたとき、末松が遊びに行くと聞いたら、すぐに家に帰ればよかったのだ。ところが、そこで、お互いに気を遣ってしまって(これを志賀は「二人は両方でちょっと気の毒な想いをした。」と表現している。ここでの「気の毒」は、「困ってしまうこと。また、そのさま。困惑。迷惑。」〈日本国語大辞典〉の意で、今ではあまり使わない言い方。)
お互いに困ってしまって、末松は、行きたいけど、行かないといい、謙作は、帰ろうかと思うが、そうも言えないというような妙な状態になってしまったのだ。
その後も、カフェーに行っても、茶屋に行っても、結局、謙作は、直子のことを思いつつ、末松にも気を遣うということが続く。こういうところがいわゆる「日本人らしい」ところと言えるのだろうか。欧米人だったら、まずは自分の意志を明確に相手に示して、こういう混乱を避けるのだろう。実情は知らないけど。
末松は、やはり、安っぽい赤茶屋に行くことを恥じていた。すっかり酔っ払った末松は、「花見小路」の方にもう一軒知ってる店がある、そっちへ行けばよかったなんてことを言いだす始末。見栄だけからくる発言だ。で、やっとその赤茶屋に到着する。
そして茶屋へ来ると、やはり彼はどうしても上がる事を厭(い)やがり高台寺の方の料理屋へ行く事にして、既に十時を過ぎていたから、茶屋から先へ電話をかけさせ、二人だけでその家へ向かった。
植込みの奥の小さい中二階に電燈がついていた。二人は其所へ通された。二十分ほどすると植込みの踏石を踏む三、四人の忙しい履物の響がして、女将と若い芸者二人とが女中に導かれ、賑やかに乗込んで来た。
末松は絶えず苛々しながら、女将に当り散らした。若い芸者たちがその女の事で揶揄(からか)い、彼の機嫌をいくらかでも直そうと努めたが、末松はその手に乗らず、意固地に憎まれ口をきいた。
「何しろ六十円の旦那だからな。威張れねえよ」こんなことをいい、そういう女にこんなにも嫉妬を起こす自身を憐れむ風さえあった。
女将も無理に呼び出しながら今は持て余していた。そしていよいよ白らけ切った座を持ち兼ねると、女将からいい出し、其所を引上げる事にした。
まあ、しかし、くだらないといえばくだらない。欲望と見栄がからみあい、醜態をさらして恥じることを知らない末松。人間はあわれなものだ。あわれなものだが、こういうところにしかまた人間の真実はないのかもしれない。
醜態をさらす末松の姿を、目を背けることなくジッと見つめている謙作の目は、また、志賀直哉の目でもある。