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【劇評】テネシー・ウイリアムズ『ガラスの動物園』劇団キンダースペース ワークユニット2016

2016-11-13 10:03:50 | 批評

【劇評】テネシー・ウイリアムズ『ガラスの動物園』劇団キンダースペース ワークユニット2016 

2016.11.13


 

 『ガラスの動物園』は初見だった。

 テネシー・ウイリアムズといえば、杉村春子の『欲望という名の電車』の舞台を大学生のころに見た記憶がある。細かいことは忘れてしまったが、アメリカの体臭を感じさせるような芝居の雰囲気はよく覚えている。それと、いくら名女優で、当たり役だといっても、当時すでに還暦を過ぎていた杉村春子が演じるのは無理があるよなあと思ったことも。

 その手のことは山ほどあって、いずれも大学生のころのことだが、中村歌右衛門のお姫様が、どうみても、オバアサンにしか見えなくて気味悪かったとか、勘三郎と扇雀の「おかる寛平」の道行きを歌舞伎座の最前列でみて、あまりの「老醜」に腹をたて、もう歌舞伎なんか見るもんかって思った過去も思い出される。山本安英の『夕鶴』も見たが、これは遠くでみたためか、あまり体の衰えを感じることはなかったけれど、それでも、もっと若い女優にやらせてあげればいいのに、と思ったこともある。(『夕鶴』の「つう役」は、当時は、山本安英にしか許されていなかったのだ。)そう、山田五十鈴の舞台も見ている。日比谷の芸術座だったけれど、舞台に彼女が登場したとき、客席はしずかにざわめいたけれど、セリフがほとんど入っておらず、プロンプターの声がまる聞こえだったのには驚いたものだ。その後、若い頃の山田五十鈴の映画を見て、なんと美しい女優なのだと惚れ惚れしたのだったが、それだけに、あの舞台は「見なくてもいいものを見た」という苦さをともなって今も記憶によみがえる。

 演劇と肉体、ということを考えた、ということだ。

 老いた役は、若い役者でも何とかできる。けれども、若い役は、老いた役者にはできない。いや、できないということはないだろうが、やはり若い役は、若い役者で見たいと、ぼくは思うというだけのことだ。

 今回の『ガラスの動物園』は、若い役者、若いスタッフによって作られた舞台。それ故の未熟さはあるにしても、「若さ」と「熱意」の持つ魅力は十分に発揮されていた。特に、山田都和子と宮西徹昌の二人のシーンは、ドキドキするくらいスリリングな心理劇として見事な完成度だったと思う。足が悪いというコンプレックスを抱えて内向してしまうローラが、ジムのやさしい言葉に徐々に心を開いていく様は、見ていてすみずみまで納得され、共感される演技で、心地よかった。

 アマンダ役の齋藤美那子は、感情の振幅の激しい母親という難しい役への懸命の挑戦だったが、ローラが結局はジムと結ばれないことを知った後の演技に、母の悲しみの痛切さを見事に表現することができた。語り手でもあり、ローラの弟トム役でもある篠村泰史は、よく通るさわやかな声がかえってトムの内面の暗さを表現する邪魔になった感があるけれど、全体を爽やかなトーンに包んでいて好感を持った。

 なんて上から目線で、偉そうなこといってるが、演劇への情熱にあふれた舞台に、老骨も励まされる思いだった。そして、こうやってキンダースペースが次代を担う役者を懸命になって育てていこうとしている姿勢に心からの敬意を表したいと思う。今まで、ワークユニットの公演を見てこなかったけれど、これからは見に行きます。

 そして、今回、特筆すべきは、女優の深町麻子が初演出をしたということだ。キンダーにまた新人演出家が生まれたということで、ほんとうにうれしくてならない。古典ともいうべきテネシー・ウイリアムズの芝居に最初から取り組んだというだけでも壮挙というべきだが、心に沁みてくる芝居に仕立てたことに心からの拍手をおくりたい。今後の大活躍を期待しています。

 


 

 

 

 

 

 

 

 


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【劇評】「座・コスモス」の『イーハトーブ、星と虹と。』──魂の叫び

2016-11-12 10:33:29 | 批評

【劇評】「座・コスモス」の『イーハトーブ、星と虹と。』──魂の叫び

2016.11.12


 

 「座・コスモス」の『イーハトーブ、星と虹と。』を、せんがわ劇場で見た。宮沢賢治の『よだかの星』と『ひかりの素足』の二つの作品が、それぞれ独特のスタイルで演じられた。

 『よだかの星』は、昔、栄光学園の演劇部を設立したとき、自分で脚色・演出して、なかば強引に旗揚げ公演の舞台に載せたことがあるが、そのときは、原作のセリフだけではとうていもたないので、様々な余計なセリフを加え、原作にはない登場人物まで加え、挙げ句の果てに、ラスト近くでヨダカがタカを撲殺するというとんでもない設定にまでして、「ドラマチック」な芝居にするために苦心した。幸い、生徒の熱演もあって、ぼくにとっては、そして結構多くの観客にとっても忘れられない舞台になったのだが、今回の『よだかの星』を見て、まったくといっていいほど(じっくり付き合わせていないので正確なことは言えないが)「原作のまま」で演じて、それで、十分ドラマチックな舞台になっているのに、驚いてしまった。

 「原作に忠実」というのがモットーだということは、キンダーの高中さんから聞いていたので、どのように演じるのか興味津々だったのだが、朗読と演技をバランスよく組み合わせ、チェロとパーカッションの生演奏も加えた舞台は、なるほど、こういう可能性があるんだなあと感心しきりだった。もっとも、作ったばかりの高校生の演劇部では、こんな芸当は望むべくもないわけだから、ぼくの脚色の「無理矢理」な所は、必然的だったとも思ったわけである。

 この後に演じられた『ひかりの素足』とも共通することだが、今回の舞台のキーワードは、「魂の叫び」だったと思う。賢治のこころの深淵にある罪の意識。そこからの救済を懸命に求める心。よだかは、空に向かって飛び続け、太陽や星に救済を求めて叫ぶ。けれども、救済はどこからももたらされない。よだかは、それでも飛び続け、やがて「自分のからだがいま燐りんの火のような青い美しい光になって、しずかに燃えている」のを見るのだが、まるで、それは「求めて飛び続ける」ことだけが、「救済」の条件であるとでもいうかのようだ。

 少なくとも『よだかの星』では、賢治が提示した「救済」は、そのような形でしかもたらされないものだったのではなかろうか。そこに賢治の生きる姿が二重写しになる。あれほど熱烈な信仰に生きながら、賢治は、「悟り」やら「心の安らぎ」やらとは無縁だったように思える。ほとんど絶望と紙一重のところに成り立つ賢治の信仰のありかた。だからこそ、賢治の作品は、現代人の心をとらえて離さないのだ。

 小さなリングのような舞台から声を絞って叫ぶよだかの声は、賢治の「魂の叫び」を現出して見事だった。そして、わがキンダースペースの高中愛美さんの若々しく溌剌とした演技で舞台を盛り上げる姿が、頼もしく誇らしかった。

 休憩を挟んでの『ひかりの素足』は、衝撃的だった。宮沢賢治が大好きだなどと広言しているわりには怠け者で、その半分も読んでおらず、限られた作品ばかりを繰り返して読んできたので、この『ひかりの素足』は、読んだことがなかったのだ。そのせいもあるのだろうか。とにかく、思わず体が震えるほど感動した。

 作品としてはそんなに長いものではないが、その全文(たぶん)を8人で朗読するというスタイル。ひな壇に座ったまま、ほとんど縛られているといった感じで、体の動きを抑制されて、80分近い時間、ほとんど声だけで、言葉だけで、舞台が進行する。鍛え抜かれたベテランの役者さんの声や、若手の実力者の声だから素晴らしいのは当然のことだが、それにもまして、その言葉をつむいだ賢治のすごさが実感された。ほんとうに、賢治の世界はどこまで奥深いのだろう。

 この『ひかりの素足」の言葉の群れを、怒濤のように押し寄せる「声」の中に聴きながら、その中に、ぼくが長いこと親しんできた『青森挽歌』『無声慟哭』『春と修羅』などの詩、そして『銀河鉄道の夜』の中の言葉たちが、ひしめき、うずまいていることを感じていた。初めて耳にする「作品」なのに、それは「聞いたこともない作品」ではなかった。ぼくの心に染み込んでいる「作品」だった。

 そうだ。賢治は、結局、たったひとつの「作品」を書き続けたのだ。たったひとつのことを求め、叫びつづけたのだ。その「ひとつ」が何かを言葉にすることはできない。できないからこそ「ひとつ」であるのだろう。

 『ひかりの素足」では、『よだかの星」とは違って、はっきりと「救済」のイメージがある。身も震えるような地獄のような「厄災」のイメージ。(ほんとに怖くて震えた。朗読がいかに素晴らしかったかという証左だ。)そしてその後にくる目もくらむような法悦のイメージ。安らぎに満ちた極楽のありさま。それが「真実」であることを賢治は心から願っていたのだろう。けれども、それは「客観的な結論」ではない。それが「客観的な結論」なら、賢治はもっと心安らかに生涯を終えることができたはずだ。「救済」を願いながらも絶望し、絶望しながら祈る。やはり、それが賢治の生き方だったのだろう。

 そしてそうであるからこそ、賢治の作品は、賢治の言葉は、今でも、震災という厄災に苦しむ東北の人々を励まし続けているのだ。

 この公演は、「東日本大震災復興支援公演」と銘打たれている。「座・コスモス」の思いは、十二分に達成されていたと思う。心からの敬意と感謝の意を表したい。



 

 

 









 

 


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一日一書 1033 山形県鮨洗(水墨画)

2016-11-11 08:35:43 | 一日一書

 

山形県鮨洗

 

45×52cm

 

 

 

20年以上前に青山高校の国語の先生たちと訪れた場所。

その時撮った数枚の写真をもとに

何枚も水彩画を描いてきましたが

水墨画にしたらどうなるだろうと思って描いたものです。

 

来年の1月頃に、開催される水墨画教室の展覧会に出品するために

掛け軸にしてみました。

まだまだ掛け軸にするほどの作品じゃないのですが

展示するためには、こうするしかないわけで

軸装してみると、「馬子にも衣装」とやらで

なんだかそれらしく見えなくもない。

結構、自分では気に入っています。

 

全体はこんな感じです。

 

 

 

 

 


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一日一書 1032 入船亭扇蔵・寄席文字

2016-11-10 09:01:28 | 一日一書

 

入船亭扇蔵

 

80×18cm

 

 

 

弁天寄席のためのめくり。

今回も依頼を受けて書きました。

 

次回の「弁天寄席」は

2017年1月17日(火)

江ノ島の近くの、「カフェ&レストラン girino」にて。

予約(35名定員)は、0467-23-3935藤本、まで。

 

 

久しぶりの寄席文字ですが、

「元の字」(橘右近著「寄席文字字典」)に

それほど忠実でなくてもいいやって

思えてきました。

 

普通の「書道」の字とは

書き方や、筆、紙などが違います。

 

筆は「だるま筆」という穂先の短い筆を使います。

紙は、まったく滲まない紙(ぼくの場合は模造紙)を使います。

墨は、「超濃墨」の墨汁を使います。

 

書き方は

まず、字の輪郭を丁寧に鉛筆で書きます。

つぎに、だるま筆で、その中を埋めていくように書きます。

この時、一度で「決める」必要はなく

いわゆる「ペンキ屋さん」的に、何回かなぞって書きます。

ただし、あんまりチマチマとなぞらないようにしています。

筆は、なるべく穂に近いところを鉛筆を持つようにしっかり持って

手のひらの側面を紙の上に滑らせて書きます。

墨が乾いたら、鉛筆の線を消します。

 

 

 

 

この字典を使っています。

定価4500円ですが絶版で

古本で10000円しました。

 

 

 

 

 

 


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一日一書 1031 線と形 2

2016-11-09 14:34:12 | 一日一書

 

線と形

 

半紙

 

かずら筆・スプレー

 

 

いろいろ研究中。

 

 

 


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