Yoz Art Space

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一日一書 893 岩手山・宮沢賢治

2016-05-26 16:24:50 | 一日一書

 

宮沢賢治「岩手山」全文

 

そらの散乱反射のなかに

古ぼけて黒くえぐるもの

ひしめく微塵の深みの底に

きたなくしろく澱むもの

 

 

半紙

 

 

賢治にしては、短い詩。

ここでは「そら」あるいは「宇宙=微塵」が主体で

「岩手山」は、それを「えぐり」、その底に「澱む」ものとして描かれています。

反転した世界。

賢治ならではの、「自然」のありようです。

 

 

 

 


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一日一書 892 盲目の秋 2・中原中也

2016-05-25 15:48:07 | 一日一書

 

中原中也「盲目の秋」より

 

これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるまゝだ……

 

半紙

 

水彩画用の筆で

 

 

「盲目の秋」の第2章。

 

全文は以下の通りです。

 

これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のやうにしむみりと、
朝霧を煮釜に填(つ)めて、跳起きられればよい!

 

 

「自恃」とは「自分自身をたのみにすること。自負。」の意。

生きているといろいろなことがあって、なんやかやと悩まされます。

そういうとき、この詩句を呪文のように唱えたくなります。

「自恃があればよい」と言うけど、そう簡単には「自恃」は持てない。

どうしたって「自己嫌悪」に負けてしまうものです。

だから忠也は心の中で何回も叫ぶわけです。

「自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、」と。

「なんだか自信が持てないよ」と呟く一方で、そうやって自分を励ましていたのでしょう。




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一日一書 891 盲目の秋・中原中也

2016-05-24 17:45:42 | 一日一書

 

中原中也「盲目の秋」より

 

 

風が立ち浪が騒ぎ


無限の前に腕を振る

 

 

半紙

 

 

「盲目の秋」は4つの部分からなる長編詩です。

切ない恋を歌った絶唱です。

 

 


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一日一書 890 頑是ない歌・中原中也

2016-05-22 14:26:11 | 一日一書

 

中原中也「頑是ない歌」より

 

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜よるの
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ

 

半紙

 

 

 

全文は以下のとおり。

 


  頑是(がんぜ)ない歌

 

思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気ゆげは今いづこ

雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しようぜん)として身をすくめ
月はその時空にゐた

それから何年経つたことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ

今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜よるの
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我がン張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ

考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう

考へてみれば簡単だ
畢竟(ひつきやう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ

 

 

「思えば遠く来たもんだ」とは、海援隊の歌にもありましたね。

あの歌は、この詩を元にしているのでしょう。

 

「遠く経て来た日や夜よるの/あんまりこんなにこひしゆては/なんだか自信が持てないよ」

という呟きには、身を切るような切なさがあります。

その切なさが深く感じられることで

ぼくらは、どこかで救われているのです。

歌や詩は、そういうものではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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100のエッセイ・第10期・85 写真の楽しみ(3) トリミング

2016-05-21 11:27:33 | 100のエッセイ・第10期

85 写真の楽しみ(3)トリミング

2016.5.21


 

 ネットに写真を載せる人の「調整してません! 自然のままです!」が、無意味であることを最初の回で書いたのだが、それに続いて、あるいはそれ以上に多くて、実際には無意味なのは「トリミングしてません!」だ。

 トリミングというのは、今では犬や猫の毛をきれいに刈ることを意味する場面が多いようだが、写真では、実際に撮れた写真画像の一部を切り取ることを言う。それを「やっちゃいけないこと」だと思っている人が案外多いようなのだ。

 もっとも、こういう言い方が多く見られるのは、「価格コム」などのカメラやレンズのサイトで、参考としてアップされている写真に関してである。そういう場所でならそれはもちろん無意味ではない。つまり、そこではレンズの画角(どの範囲まで撮れるか)がどういうものかの「証拠」となるわけだ。広角レンズで撮ったのに、それをトリミングしてしまっては、画角が分からなくなってしまう。「トリミングしてません!」は、いわばレンズのテストとしての報告なのだ。

 それと同じことが「調整してません!」にもある程度言える。そういうサイトで、あるカメラで撮った写真をアップする際に、色彩やコントラストを「調整」してしまうと、そのカメラの特徴が分からなくなってしまう。だからあえて「調整してません。」と言うわけである。

 つまり、これらの言葉は、ある専門的な目的のために使っている言葉で、ぼくらが普通に写真を撮るときの、あるいは写真表現をするときの「お約束」ではないのである。ところが、こうした言葉を、カメラの初心者がみると、ああ、「調整」とか「トリミング」なんてしちゃいけないんだと早合点してしまうのだ。それが問題なのである。

 トリミングが嫌がられるのは、それをすると、画像の一部だけを使うことになるので、それだけ解像度が落ちてしまうということがある。写真展などに大きなサイズで出品するときに、特殊な目的がない限り、画像はできるだけ鮮明な方がいい。粒子のあれた画像では汚らしい。それなら撮ったままのサイズでプリントしたほうがいいということになるわけである。

 けれども、これも昔の話。今ではデジタルカメラの映像素子も当初からは考えられないような高密度となっている。撮った画像の四分の一しか使わなかったとしても、A4とかA3とかいった大きさにプリントしてもなんら問題はないのである。(厳密にいえば粒子は粗くなっているから問題だという人もいるだろうが。)

 話が専門的になるとメンドクサイと思われる読者も多いだろうから、簡潔にまとめると、「トリミングがダメ」という場合は、レンズの画角テストの場合、そして解像度を下げたくない場合の二つとなるはずである。前者は、特殊な場合だから普通は問題外。後者は、カメラの画質が進歩したからこれも普通はほとんど問題にならない。つまり、「トリミングはダメ」という根拠は、普通はない、ということになるわけだ。

 ところが、ここに変な「精神主義」が混入してくる。実際にそういう指導を受けたことはないが(ぼくは写真に関しては誰に師事するなんてことはしていない)、どうも察するに、写真というものは、撮った時点で、最高の構図を決めるべきだというような考えがあるように思うのだ。あとからトリミングして構図を変えるなどというのは邪道だとでもいいかねない人もいそうだ。しかし、そういう考えがどこから来たかを考えてみると、これもやはり、35ミリのフィルムで撮っていたころの名残で、できるだけ解像度を落とさないために、トリミングをせずにすませたい。そのためには、撮った時点で構図をバッチリ決めておこう、ということだろうと思う。

 ぼくの家内の父が、35ミリをやめて、大判のブローニーのフィルムをもっぱら使ったのも、トリミングがどうしても必要だったからであり、そのためには、解像度を稼ぐ必要があったからだと言えるだろう。

 実際のところ、二科展の写真部に毎年出展していた義父は、師匠の指導を受けながら、どうトリミングするかに苦辛惨憺していた。写真を撮ることはまず第一段階で、これがもっとも大事なことだが、撮った写真をどうトリミングするかが、写真を撮ることと同等ぐらいに大事なことだった。同じ写真をああでもない、こうでもないとトリミングして、その仕上がりを検討し、いちばんいいものを出品していた。それが当然だと思うのだ。

 たとえば、公園で花の写真を撮るとする。構図をばっちり決めようと思ったら、まず三脚にカメラを据えて、じっくりファインダーやらビューモニターやらを眺めて、あれこれ考えなければならない。手持ちであっちへフラフラ、こっちへフラフラしていたのでは、しっかりした構図を持った写真にならないわけである。実は、ぼくもこういうふうに、三脚を据えてじっくりと撮影したいものだと思わないわけではないのだ。けれども、ただでさえ重たいカメラとレンズにめげそうになっているのに、そのうえ、3キロ以上もある三脚を担いでいく体力はないし、そもそも写真だけが趣味ではないので、そんな時間的余裕もないのだ。

 で、ぼくは、三脚は使わない。ありがたいことに最近のレンズ、あるいはカメラにはたいていは手振れ補正という機能がついているし、感度もいいから速いシャッタースピードでとれる。だから慣れればまず手振れはせずにクローズアップの写真も撮れる。三脚は使わなくてもすむのだ。どうしても三脚が必要なのは、「鳥屋」さんたちで、400ミリとか500ミリとかいった大砲みたいなレンズを使うには、とても手持ちは無理だ。スポーツ写真も同様だろう。これは、「構図」の問題ではなくて、「体力・腕力」の問題だ。

 では、構図はどうするか。もちろん、考えて撮る。けれども、あんまり厳密には考えない。あとでトリミングすればいいのだと割り切るわけだ。

 後はひたすら枚数を撮る。撮りまくる。素材がなければ、加工することもできない。こんなの撮ってもしょうもないと思っても、「現像」でどうなるか分からない。だから撮る。最近、植物を撮ることが多いが、2~3時間の撮影で、300~400枚は撮る。(何百枚撮ろうと、金がかからない。これがデジタル時代の最大の恩恵である。)それを家のパソコンで、処理する。コントラストを変える、色調を変える、トリミングする、こうした一連の作業自体がとても楽しい。楽しくて仕方がない。

 「調整してません。」「トリミングしてません。」と誇らしげに言う人は、この楽しみを放棄していることになる。デジタル時代になったからこそ味わえる写真の楽しみを存分に味わえばいいのにと、他人事ながら思うのである。


 


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