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100のエッセイ・第10期・37 「やばい」問題

2015-05-26 16:19:32 | 100のエッセイ・第10期

37 「やばい」問題

2015.5.26


 

 定年退職してヒマになったけど、新聞をすみずみまで読んでると半日なんかあっという間に過ぎちゃうよ、なんて友人が言っていたが、ぼくの場合は、ほとんど新聞を読んでいるヒマなどない。いろいろと「やらなきゃならないこと」が目白押しで、といっても、その「やらなきゃならないこと」というのは、自分で勝手に作り出しているのだから文句もいえないのだが、とにかく、午前中はゆっくりと新聞に目を通して、などという日々ではない。

 でも、たまに新聞を覗いてみると、やっぱりいろいろ気になる記事にぶつかる。その中でも、特に気になるのは「投書」である。以前にも、「投書」について何か書いたような気がするが(近ごろ、以前に何を書いたか忘れてしまうので、このエッセイも重複だらけのような気がします。その節はご容赦ください。)、昨日も朝日新聞にこんな投書があった。

 若者言葉 温かく見守って
       高校生 阿部あかり(東京都 17)


 日本語が大好きで、大学で日本文学を学びたいと考えています。私は最近の若者言葉が乱れているとは感じません。
 例えば「やばい」という言葉を「とても悪い」と「とても素晴らしい」という二つの意味で使うのは、日本語の乱れだという指摘があります。しかし、「いみじ」という平安時代からある古語は「ても悪い」と「とても素晴らしい」のつの意味で使われていました。「やばい」現象は今に始まったことではなく、千年前にはすでにあったのです。
 目上の人に若者言葉を使うのは失礼ですが、仲間内では楽しいことです。大切なのは使う時と場所をわきまえること。使わないことではないと思います。若者言葉を不快に思わず、一つの文化として温かく見守っていただけませんか。

 「ツッコミどころ満載」の投書だが、相手が17歳の女子高生となると、あんまりイジワルなことは言いたくない。おお、そうかそうか、とニコニコしながら、相づちうっていたいものだと思うのだが、どうもこの手の文章は、気持ちが悪いというか落ち着かないというか、好々爺でもいられない気分で、黙っていると、健康を害しかねない。

 「日本語が大好きで、大学で日本文学を学びたいと考えています。」という冒頭。どうも分からない。「日本語が大好き」ということ自体もどういうことだかよく分からない。これが「英語が大好き」とか「フランス語が大好き」ならよく分かる。あるいは、「津軽弁が大好き」とか「能登弁が大好き」とかいうのもよく分かる。けれども、阿部さんがごく一般的な日本人だとして、その彼女が「日本語が大好き」だといきなり言われても、なんか面食らう。まあ、それはそれでもいいが、その後に「大学で日本文学を学びたいと考えています。」と続くのが、これまた分かりにくい。これが、「日本語文法を学びたい」とか「言語学を学びたい」ならすんなり納得できるが、「日本語が好きだから、日本文学を学びたい」というようなことを、今まであまり聞いたことがないような気がする。安部公房が好きだから、三島由紀夫が好きだから、太宰治が好きだから、だから「大学で日本文学を学びたい」というようなのが普通だろう。でも、まあ、それもいい。

 で、次の文。「私は最近の若者言葉が乱れているとは感じません。」この前の文は、つまり、これを言いたいための枕だったのね。「日本文学を大学に行ってまで学びたいと考えるほど日本語が大好きな私は」ということなのだろう。それなら、前の文がいきなり主語なしで始まるのも分かる。もちろん、「私は」で始まる文章が幼稚な感じを与えるということを計算してのことだったかもしれない。

 しかしそれにしても、「私は最近の若者言葉が乱れているとは感じません。」とは、まるで、高校の授業でのディベートの中の発言みたいだ。国語の教科書には、よくディベートのテーマとして「若者言葉について」なんてのが挙げられているが、ひょっとしたら、この投書はその副産物なのかもしれない。

 「最近の若者言葉が乱れている」という意見は、こうした投書のテーマとしては古典的で、すでに、意見は出尽くしていると思うのだが、どうしてこの投書が採用されたのか、それも分からない。たぶん、なんらかの「新しさ」があるのだろう、と思って読み進める。

 「私は最近の若者言葉が乱れているとは感じません。」という文だが、「感じません」はどうだろうか。「思いません」のほうがすっきりする。「感じる」かどうかでは、議論にならない。それはそれとして、「感じない」理由に、「やばい」があがっている。

 ここがこの投書の「新しさ」なのかもしれないが、これがアヤシイ。

 「『やばい』という言葉を『とても悪い』と『とても素晴らしい』という二つの意味で使うのは、日本語の乱れだという指摘があります。」と彼女は言うのだが、どうも正確でない。

 「やばい」という言葉は、本来、悪い意味だから、それもそうとう「やばい」人たちの隠語で、非常に品の悪い言葉だから、それをむやみに褒め言葉として使うのはいかがなものか、というあたりが、「美しい日本語を愛する人たち」の「指摘」だろうと思う。

 念のため、この「やばい」という言葉の「本来の意味」を日本国語大辞典の記述をひいて紹介しておく。

【やばい】
危険や不都合が予測されるさまである。危ない。もと、てきや・盗人などが官憲の追及がきびしくて身辺が危うい意に用いたものが一般化した語。
*日本隠語集〔1892〕〈稲山小長男〉「ヤバヒ 危険なること則ち悪事の発覚せんとする場合のことを云ふ」
*浅草紅団〔1929~30〕〈川端康成〉四一「この間お糸に紹介してくれたのはいいが、私と歩くのはヤバイ(危い)からお止しなさいっていふんだ」
*砂時計〔1954~55〕〈梅崎春生〉二四「どうも今日の研究所出勤はヤバイような気がする」

 ぼくが幼い頃も、「やばい」は、まったくこの通りの意味で使われていた。ヤクザ映画なんかにもこの言葉は頻出したし、日活映画なんかでもよく聞いたような気がする。

 それが15年以上も前のことだろうか、テレビで誰かが、うまいものかなんか食べて「これ、やばいよ。」ってなんて言い始めたような気がする。その頃は、その本来の意味はまだ色濃く残っていて、「これはうますぎて、こんなもの食べていたら、はまってしまって、抜け出せなくなる。それは、私の生活を危うくするだろう。近づかないほうが安全だ。」てな意味であったのだと思う。この手の使い方を初めて耳にしたのはいつだったか覚えていないが、かなりインパクトがあって、面白かった。(2001年にぼくはこんなエッセイを書いている。)

 そのうち、それがはやりだし、今では、その元の意味が消失してしまい、阿部さんのいうように「とても素晴らしい」という意味で使われるようになったということだろうと、ぼくは認識している。阿部さんは、「やばい」が「とても悪い」という意味を持っているというが、それは正確ではない。昔の人が、たとえばある絵をみて「これはやばい」といったとしたら「この絵はとても悪い」とか「この絵はとてもヘタだ」とかいうことでは全然なくて、「この絵は危険思想を表しているように思える。特高に目をつけられたら大変だ。命のキケンもある。」ぐらいの意味を文脈によっては持つわけだ。

 だから、「やばい」は、阿部さんが、その後に持ち出した「いみじ」とは、全然性質の異なる言葉なのだといっていい。「やばい」は、強いバイアスのかかった言葉なのだ。それに対して、「いみじ」は語源については諸説あるにせよ、「程度のはなはだしいさま」を表す言葉で、いい意味にも悪い意味にもつかうフラットな言葉なのだ。

 この「いみじ」は、高校の古文の授業では必ず出てくる「最重要単語」なので、阿部さんが学校で古文の授業を真面目に受けていることはよくわかる。(この「いみじ」についてはこんなエッセイを書いたことがある。)

 まあ、いずれにしても、「言葉の乱れ」は「千年前からあった」ことは事実だし、だからこそ、平安時代の言葉が、今のぼくらにはまるで外国語のようにしか感じられないわけだ。言葉が乱れなかったら、今でも、ぼくらは平安時代の人々と同じ言葉を話し、書きしていたことだろう。

 だから、「言葉が乱れている」ことを問題視する必要はそもそもないのだ。しつこいようだが「言葉は乱れる」ものだからである。

 問題なのは、ある言葉を、ある人が「不快に思う」という現実である。これはもうどうしようもない。それは「言葉の乱れ」ということとは関係ない。たとえば俗にいう「美しい言葉」でも、ある人は「不快だ」と思うことだってある。「あなたすこしお疲れあそばしていらっしゃるのではございませんか。」なんて家内がもしぼくに言ったら、「不快」である。バカな上司に同僚が「バカ! なにマヌケけなこといってやがるんだ!」って叫んだら、「快感」であろう。(ぼくも、言ってみたかったなあ。)

 結論は、だからこうだ。阿部さんの投書の問題は、最後の一文にある。「いみじ」と「やばい」を同列に論じてしまったことなんかたいした問題じゃない。

 「若者言葉を不快に思わず、一つの文化として温かく見守っていただけませんか。」これがイケナイ。

 「若者言葉」を、だれも「不快に思わない」なんていうことはありえない。「不快」の原因は、「若者言葉」にあるわけじゃないからだ。「不快」の原因は、人間のこころにある。機嫌が悪いときは、何を見ても、何を聞いても、「不快」である。「ありがとう」と言われても、「ごきげんよう」と言われても、「がんばってね」と言われても、「不快」なのである。原因は、「内部」にある。だから、阿部さん、それは無理なのです。

 その後の「一つの文化として温かく見守っていただけませんか。」というのは、もっとイケナイ。「一つの文化」であるかどうかは別にして、「温かく見守っていただけませんか。」というのは、芸能人の男女の交際の事実が発覚したときに、そのどっちかがつかう常套句だ。何の意味もない「軽い言葉」だ。いったいゴシップ好きの人々のだれが「温かく見守る」だろうか。そんなことは百も承知で、そういっておくしかないわけだ。そういう言葉を、若い人が使ってはいけない。けれども、この投書の「新しさ」を、新聞社の人はここにみたらしい。だから見出しが「若者言葉 温かく見守って」となっているのだろう。だとすれば、新聞社の人も、もうちょっと言葉に対する敏感な感受性をもっていただきたいものだ。

 考えてもみてほしい。高齢者ばかりのバスの中に、たまたま乗ってきた高校生が、大声で「あれやばいよ。」「ちょう~、やべえ~!」なんて大騒ぎしているのを、高齢者の誰が「あれもひとつの文化なのだ、温かく見守ってあげよう。」なんて思えるものだろうか。世の中の人たちは、それぞれみんな違ったこころや感受性を持っていて、「快・不快」を感じながら生きている。それをコントロールすることなんてできやしないのだ。

 とすれば、阿部さん、あなたはどうすればいいのか。あなたの投書の中で、文句なく共感できる部分、「大切なのは使う時と場所をわきまえること。」これを実行すること。簡単にいえば、他人がいるところでは、大声で話さないこと。これだけでいいんじゃないだろうか。「若者言葉を使うこと」を禁ずることなんて、戦時中じゃあるまいし、今の世の中、誰にもできはしない。(と信じたい。)言葉は自由なんだ。(と叫びたい。)

 「他人がいるところでは、大声で話さないこと。」……しかしねえ、これは、若者よりはむしろ高齢者こそが、自戒しなければならないことのような気もする昨今ではあるのだが……。


 



 

 

朝日新聞 2015.5.25

 

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