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日本近代文学の森へ (54) 田山花袋『蒲団』 1

2018-10-24 15:44:43 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (54) 田山花袋『蒲団』 1

2018.10.24


 

 『田舎教師』の後は、徳田秋声でも読もうかと思ったのだが、やはり、花袋とくれば『蒲団』を外すわけにはいかないだろうと思い直した。

 これは、少なくとも二度読んでいる。一度目は、たぶん高校生のころ。なんて、ヘンテコな小説なんだと腹を立てたような気がする。その「衝撃的」なラストシーンばかりが記憶に残り、そもそもこの小説のせいで、その後の日本の自然主義がヘンテコな方向へ行ってしまったのだというような文学史的な定説のようなことを、国語の授業でもしゃべったような気がする。

 そのヘンテコな方向というのは、何がなんでも自分の醜い部分を洗いざらい告白すれば文学になると思い込む方向、というように理解して、そんなのはダメなんだ、文学は、そんな狭くて、せこいもんじゃないんだと生徒にも言ったような気がする。すべて、「気がする」レベルのおぼつかなさだが。

 二度目に読んだときは、そのラストシーンが「衝撃」でもなんでもないことに呆れ、それよりも、当時の日本社会が女性の「処女性」をいかに強烈に重んじたかという事実にそれこそ衝撃を受けた。小説のほとんどを占める問題が、「彼女はまだやってないか、どうか」という一点にのみあるように思われ、ただただ呆れた。それがたぶん、20年ほど前のことである。その時、その驚きを味わってほしくて、周囲の人間に、「『蒲団』を読め! びっくりするから。」と、ずいぶん熱っぽく勧めたものだ。

 で、今回は三度目。どうなることか。

 冒頭からいきなり感情が異様な勢いでぶちまけられている。『田舎教師』の、しずかな、ロマンチックな味わいは、どこにもない。



 小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして渠(かれ)は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」
 数多い感情ずくめの手紙──二人の関係はどうしても尋常ではなかった。妻があり、子があり、世間があり、師弟の関係があればこそ敢て烈しい恋に落ちなかったが、語り合う胸の轟、相見る眼の光、その底には確かに凄じい暴風(あらし)が潜んでいたのである。機会に遭遇(でっくわ)しさえすれば、その底の底の暴風は忽(たちま)ち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係も一挙にして破れて了(しま)うであろうと思われた。少くとも男はそう信じていた。それであるのに、二三日来のこの出来事、これから考えると、女は確かにその感情を偽り売ったのだ。自分を欺いたのだと男は幾度も思った。けれど文学者だけに、この男は自ら自分の心理を客観するだけの余裕を有(も)っていた。年若い女の心理は容易に判断し得られるものではない、かの温い嬉しい愛情は、単に女性特有の自然の発展で、美しく見えた眼の表情も、やさしく感じられた態度も都(すべ)て無意識で、無意味で、自然の花が見る人に一種の慰藉(なぐさみ)を与えたようなものかも知れない。一歩を譲って女は自分を愛して恋していたとしても、自分は師、かの女は門弟、自分は妻あり子ある身、かの女は妙齢の美しい花、そこに互に意識の加わるのを如何ともすることは出来まい。いや、更に一歩を進めて、あの熱烈なる一封の手紙、陰に陽にその胸の悶(もだえ)を訴えて、丁度自然の力がこの身を圧迫するかのように、最後の情を伝えて来た時、その謎をこの身が解いて遣(や)らなかった。女性のつつましやかな性(さが)として、その上に猶(なお)露(あら)わに迫って来ることがどうして出来よう。そういう心理からかの女は失望して、今回のような事を起したのかも知れぬ。
「とにかく時機は過ぎ去った。かの女は既に他人(ひと)の所有(もの)だ!」
 歩きながら渠はこう絶叫して頭髪をむしった。



 いきなり話の核心の飛び込んでいく様は、泡鳴の書きっぷりに似ている。いや、泡鳴がこの『蒲団』の書きっぷりを真似たのかもしれない。泡鳴自身、『蒲団』からの影響を認めていたのだから。

 しかし泡鳴の小説より、格段に分かりやすい。この冒頭だけで、この話がどういう輪郭を持っているかがすぐに分かる。

 妻子ある作家が、女弟子に恋をしたのだが、裏切られた、ということである。実にシンプルで他愛のない話だ。それなのに、どうして日本の近代文学において、良くも悪くも重要な作品となったのか。その辺を、頭におきつつ読んでいこうと思う。

 この冒頭部の後、主人公の男の仕事の様子が描かれる。



 縞セルの背広に、麦稈帽、藤蔓の杖(ステッキ)をついて、やや前のめりにだらだらと坂を下りて行く。時は九月の中旬、残暑はまだ堪え難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充ち渡って、深い碧の色が際立って人の感情を動かした。肴屋、酒屋、雑貨店、その向うに寺の門やら裏店の長屋やらが連って、久堅町(ひさかたまち)の低い地には数多(あまた)の工場の煙筒が黒い煙を漲らしていた。
 その数多い工場の一つ、西洋風の二階の一室、それが渠の毎日正午から通う処で、十畳敷ほどの広さの室の中央(まんなか)には、大きい一脚の卓(テーブル)が据えてあって、傍に高い西洋風の本箱、この中には総て種々の地理書が一杯入れられてある。渠はある書籍会社の嘱託を受けて地理書の編輯の手伝に従っているのである。文学者に地理書の編輯! 渠は自分が地理の趣味を有っているからと称して進んでこれに従事しているが、内心これに甘じておらぬことは言うまでもない。後れ勝なる文学上の閲歴、断篇のみを作って未だに全力の試みをする機会に遭遇せぬ煩悶、青年雑誌から月毎に受ける罵評の苦痛、渠自らはその他日成すあるべきを意識してはいるものの、中心これを苦に病まぬ訳には行かなかった。社会は日増に進歩する。電車は東京市の交通を一変させた。女学生は勢力になって、もう自分が恋をした頃のような旧式の娘は見たくも見られなくなった。青年はまた青年で、恋を説くにも、文学を談ずるにも、政治を語るにも、その態度が総て一変して、自分等とは永久に相触れることが出来ないように感じられた。

 

 花袋は、明治4年、今の群馬県館林市に生まれた。父は館林秋元藩士だったが、西南の役に従軍して戦死している。花袋が7才の時だった。その後は、学校に行くことはなかったが、漢学や英語や和歌を学び、21才のときに尾崎紅葉門下となる。しかし、その後の文筆活動は芳しくなく、ここに書かれているように、「ある書籍会社」に入社して「地理書の編輯(へんしゅう)」をしたりしていた。この会社は、明治32年、花袋29才のときに入社した「博文館」であり、花袋は明治45年まで在職する。つまり、42才になるまで、花袋の創作活動は、会社勤務の側らに行われたのだ。

 『蒲団』は明治40年、花袋37才の作だから、まさに、この小説はほとんどが花袋自身の実体験であるわけで、この小説がいわゆる「私小説」への道を切り開いたといわれるのも、そのためである。

 出版社に勤めながらの文学活動が思うにまかせず、評判も悪いことへの愚痴も、作者自身の感慨であろう。

 それにしても、世の中の変化に驚き嘆く様は、まるで今と同じで、人間や社会というものは、いつまでたっても、「一変」の連続なのだろう。

 「女学生は勢力になって、もう自分が恋をした頃のような旧式の娘は見たくも見られなくなった。」と花袋は書くわけだが、それなら、今の世の中の「娘」を何とみるだろう。明治の末期、すでに「旧式の娘」はどこにもいない。36才の花袋は、ついていけないやと嘆いているのである。こういうことって、ほんとに不思議である。



 で、毎日機械のように同じ道を通って、同じ大きい門を入って、輪転機関の屋(いえ)を撼(うごか)す音と職工の臭い汗との交った細い間を通って、事務室の人々に軽く挨拶して、こつこつと長い狭い階梯を登って、さてその室に入るのだが、東と南に明いたこの室は、午後の烈しい日影を受けて、実に堪え難く暑い。それに小僧が無精で掃除をせぬので、卓の上には白い埃がざらざらと心地悪い。渠は椅子に腰を掛けて、煙草を一服吸って、立上って、厚い統計書と地図と案内記と地理書とを本箱から出して、さて静かに昨日の続きの筆を執り始めた。けれど二三日来、頭脳(あたま)がむしゃくしゃしているので、筆が容易に進まない。一行書いては筆を留めてその事を思う。また一行書く、また留める、又書いてはまた留めるという風。そしてその間に頭脳に浮んで来る考は総て断片的で、猛烈で、急激で、絶望的の分子が多い。ふとどういう聯想か、ハウプトマンの「寂しき人々」を思い出した。こうならぬ前に、この戯曲をかの女の日課として教えて遣ろうかと思ったことがあった。ヨハンネス・フォケラートの心事と悲哀とを教えて遣りたかった。この戯曲を渠が読んだのは今から三年以前、まだかの女のこの世にあることをも夢にも知らなかった頃であったが、その頃から渠は淋しい人であった。敢てヨハンネスにその身を比そうとは為(し)なかったが、アンナのような女がもしあったなら、そういう悲劇(トラジディ)に陥るのは当然だとしみじみ同情した。今はそのヨハンネスにさえなれぬ身だと思って長嘆した。
 さすがに「寂しき人々」をかの女に教えなかったが、ツルゲネーフの「ファースト」という短篇を教えたことがあった。洋燈の光明(あきら)かなる四畳半の書斎、かの女の若々しい心は色彩ある恋物語に憧れ渡って、表情ある眼は更に深い深い意味を以(もっ)て輝きわたった。ハイカラな庇髪、櫛、リボン、洋燈の光線がその半身を照して、一巻の書籍に顔を近く寄せると、言うに言われぬ香水のかおり、肉のかおり、女のかおり——書中の主人公が昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる段を講釈する時には男の声も烈しく戦(ふる)えた。
「けれど、もう駄目だ!」
 と、渠は再び頭髪(かみ)をむしった。



 引用部の最後のあたりの女の描写を読むと、この二人はすぐにでも肉体関係を結ぶかと思われるのだが、そうはならない。そこが、変といえば変だし、面白いといえば面白い。

 とにかく、こうして、『蒲団』は、始まる。


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