伊東静雄「春浅き」より
わが子よかの野の上は
なほひかりありしや
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伊東静雄の詩集「春のいそぎ」より。
全文は以下の通りです。
春浅き
あゝ暗(くら)と まみひそめ
をさなきものの
室に入りくる
いつ暮れし
机のほとり
ひぢつきてわれ幾刻をありけむ
ひとりして摘みけりと
ほこりがほ子が差しいだす
あはれ野の草の一握り
その花の名をいへといふなり
わが子よかの野の上は
なほひかりありしや
目とむれば
げに花ともいへぬ
花著(つ)けり
春浅き雑草の
固くいとちさき
実ににたる花の数(かず)なり
名をいへと汝(なれ)はせがめど
いかにせむ
ちちは知らざり
すべなしや
わが子よ さなりこは
しろ花 黄い花とぞいふ
そをききて点頭(うなず)ける
をさなきものの
あはれなるこころ足らひは
しろばな きいばな
こゑ高くうたになしつつ
走りさる ははのゐる厨(くりや)の方(かた)へ
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子どもと父の、暖かな交流を描いた佳編ですが
どこか、底知れぬさびしさが漂っています。
うす暗い書斎に幼い子どもが
「ああ、暗い」といって入ってくる。
机に肘をついてぼんやりとしていた詩人は、その声に我に返る。
子どもの手には、野の草が握られており
自分ひとりで摘んだのだと誇らしげな顔だ。
そして、詩人に聞くのだ、「この花はなんという名前?」
けれど、詩人は花の名を知らない。
それでも名を教えてとせがむ子どもに
「白ばな、黄ばな」というんだよとでまかせを言うと
こどもはこっくりと頷き
「しろばな、きいばな」と歌いながら
母のいる台所に走っていった。
という内容です。
こう読んでくると、むしろ、心温まる家庭の状況にすぎません。
でも、どうして、「さびしさ」が漂っていると
感じられるのでしょうか。
伊東静雄の生涯についての知識があると
その「さびしさ」もある程度理解できるのでしょうが
それがなくても、感じられる「さびしさ」。
「わが子よかの野の上は/なほひかりありしや」の2行にカギがあります。
暗い詩人の部屋と、「野の上」の「ひかり」。
鬱屈した心をもてあます詩人は、
野にはまだひかりがあるのかと、子どもに問いかける。
何とも切ない。
この一見、やさしく穏やかな詩は
現代の日本に、するどく問いかけるものがあるように思います。