萩原朔太郎「こころ」より
●
アジサイは、我が家の庭に、この青いのが2株
ピンクのが1株あるだけですが
今回は大活躍してくれました。
いろいろな角度から撮ると、さまざまな表情を見せてくれます。
混んだアジサイの名所などに行かなくても
写真は撮れます。
植物写真の醍醐味だと出不精のぼくは思っています。
萩原朔太郎「こころ」より
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アジサイは、我が家の庭に、この青いのが2株
ピンクのが1株あるだけですが
今回は大活躍してくれました。
いろいろな角度から撮ると、さまざまな表情を見せてくれます。
混んだアジサイの名所などに行かなくても
写真は撮れます。
植物写真の醍醐味だと出不精のぼくは思っています。
30 こころは二人の旅びと
2013.6.7
アジサイの花が庭に咲いて、その写真を撮っているうちに、何かアジサイのことを詠んだ俳句とか短歌でもないかなあと思って探したのだが、なかなかこれといったものがないままに、そうだ、萩原朔太郎にあったはずだと思って詩集をひもとくと、「こころ」という詩があった。朔太郎の初期の「純情小曲集」という詩集に入っている詩である。
それで、最近凝ってしまっている「書と写真の融合」(何て呼べばいいのかなあ。いずれ考えたい。)に使えると思い、作品にしてみた。それに付け加えて、詩の解釈も書いてみた。
そうしたら、友人が次のようなメールをくれた。
朔太郎の、これ、いいね。昔は、色の流れを追うのが楽しかっただけだけど。二人の旅人って、誰と誰なの? で、きみの解釈と違うんだけど。こころは必ず、一つに寄る相手がいるけど、その相手はいつも何も答えてくれない、寄る相手と一緒に、悲しむことは悲しむが、相手はなにも言わないので、「わがこころはいつもさびしい」と読んだんだけど? 二人の相手は、だから、心が思いを寄せるその相手だれでも、つまり、特定できない相手。こころのなかの、もうひとりの自分じゃなくて。こう思っても、なんだか写真、合わない?
彼の解釈を読んで、確かにこっちのほうが普通の解釈だよなあと思った。いま一度、詩を載せておく。
こころ
こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。
こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。
こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言うことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
読めば読むほど細かいところが分からなくなってくる詩だが(詩というものはそもそもそういうものだが)、要するに、ぼくは「こころは二人の旅びと」の「二人」を「自分と自分の中のもうひとり」と解釈し、友人は、「自分ともうひとりの誰か」と解釈したということだ。
どちらが妥当かというと、たぶん、友人の方だろう。「道づれ」が全然ものを言わないのでさびしい、と第三連では言っているのだから、やっぱり、不特定ではあっても、誰かを「道づれ」として想定していると考えるのが普通だろうし、納得しやすい。「こころは二人の旅びと」も「二人の旅びとのこころ」と入れ替えて考えれば、もっとすっきりする。
けれども、なぜ、ぼくはそうとらなかったのだろう。なぜ、「自分ともうひとりの誰か」なんて、普通じゃない解釈をしたのだろう。
毎晩床に入ると、儀式のようにiPad miniを開き、自炊した「本」を読むのだが、最近読んでいるのが岩波文庫の「シレジウス瞑想詩集」というヒジョウーに難しい、ヒジョウーに神秘的な本である。シレジウスという人は、17世紀のドイツのキリスト教の神秘主義的詩人。この詩集は、原文では2行詩らしく、翻訳でもだいたい2行、長くても5行ぐらいだが、とにかく、「分かりにくい」というようなレベルを遙かに超えている。
もし時間を捨ててわたしを神の中に、神をわたしの中に集中するならば、わたし自身は永遠である。「第1章・13」
人よ、何かであろうとし、何かを知ろうとし、何かを愛し、所有しようとするかぎり、自分の重荷からあなたは解き放たれることはない、わたしを信じてほしい。「第1章・24」
といった調子で、分かりにくいけれど、またどこか魅力的な詩句が並んでいる。「13」は超難解だが、「24」は、それほど難解でもなく、どこか仏教的で親しみやすかったりする。この本をだいたい2ページ読むと、ぼくは寝てしまうが、それでも、これが毎晩となると、上下2巻を読み終えるということにもなる。
この詩集の中で、シレジウスは、「神」はどこかここではないところに「いる」のではなく、実は「人」の中に「いる」。さらには「わたしがいなければ、神もいない。」とまで言い切るのである。こうした神秘思想は、とてもそう簡単には「理解」できるものではないが、「自分」というものが、単純に「自分」といえるようなものではなく、限りなく不思議な、神秘的な存在なのだということを教えてくれているような気がして、こころ引かれるのだ。
そんなわけだから、朔太郎の「こころ」を読んだとき、ふっと、「自分の中の自分」と考えてしまったらしい。ひょっとしたら、お遍路さんの「同行二人」が頭に浮かんでいたのかもしれない。
「自分」の中にどんどん入っていくと、そこに「自分」とは呼べないような何かが現れる、それを「神」と呼ぶか、「もう一人の自分」と呼ぶか、ということかもしれないし、そんな簡単なことではなくて、もっともっと奥が深いことなのかもしれない。そんなことを思ったか思わなかったかも分からないうちに、いつも深いのか浅いのか分からない眠りに落ちていく。