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日本近代文学の森へ 253 志賀直哉『暗夜行路』 140  エスカレートする「不愉快」 「後篇第四 二」 その4

2024-01-13 11:23:06 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 253 志賀直哉『暗夜行路』 140  エスカレートする「不愉快」 「後篇第四 三」 その1

2024.1.13


 

 九時何十分に汽車は漸く京都駅へ入った。謙作は直ぐ群集から少し後ろに離れて直子と、それに附添って水谷が立っているのを見つけた。彼は手をあげた。
 水谷は直ぐ人を押分け、馳寄って来た。そしてまだ動いている列車について走りながら、荷を受取ろうとした。謙作は末松なら分っているが、水谷が迎いに来ている事が何
となく腑に落ちなかった。自分とのそれほどでない関係からいって何か壺を外れた感じで漠然不愉快を感じた。
 彼は小さい荷物を水谷に渡しながら、
 「赤帽を呼んでくれ給え」といった。
 「いいですよ。ずんずんお出しなさい」
 そういいながらお栄の出す荷物も一緒に水谷は忙しくおろしていた。
 直子はちょっと羞(はにか)んだ微笑を浮べながら近寄って来た。
 「お帰り遊ばせ」そしてお栄の方にも頭を下げた。
 「とにかく赤帽を呼んで来ないか」彼は直子にいった。
 「いいですよ。奥さん」水谷は自分の働きぶりを見せる気なのか、またそういった。謙作は苛々しながら、
 「いいですって、君、これだけの荷が持って行けるかい」といった。
 大きなスーツケースが三つ、その他信玄袋や、風呂敷包みがいくつかある。水谷はそれらを眺めて今更に頭を掻いた。そして、
 「じゃあ、僕が呼んで来ましょう」と、急いで赤帽を探しに行った。

 


 直子は京都駅には迎えに来ていたが、やはり大阪、神戸、三ノ宮と迎えを期待していた謙作には、不満があった。その上、末松ではなくて、水谷が同行している。

 末松というのは、謙作の中学以来の年下の幼なじみで、ずいぶんと親しいのだが、水谷というのは、その末松が謙作の愛読者だといって連れてきた男だ。初対面のときから、謙作は水谷にいい感情を持たなかったのだ。

 その水谷が、頼みもしないのに直子についてきて、なんやかやと世話を焼こうとする。それが謙作にはうっとうしい。手伝わなくてもいいから赤帽を呼べという謙作の苛立ちがよく伝わってくる。


「お帰り遊ばせ」という直子の言葉は、謙作が待ちに待った言葉なのに、それも頭に入ってこないように、謙作は苛立っている。それは、水谷に対して、というよりも、直子に対して、であろう。しかも、自分がお栄を連れているという微妙な「負い目」が、その苛立ちに拍車をかけているようにも思える。

 

 謙作は忘れ物のない事を確め、お栄を先に列車から下りた。
 彼は簡単に、
 「直子です」とお栄に紹介した。
 「栄でございます、何分よろしく……」二人は丁寧に挨拶を交わしていた。
 「どうぞお先へいらして下さい」こういいながら水谷が赤帽と一緒に還って来た。
 「毀物(こわれもの)があるんだが、それだけ持って行こう」
 「どれです。これですか?」
 「僕が持って行くよ」謙作は高麗焼を少しばかりと李朝の壺をいくつか入れた一卜包みを取上げた。
 「大丈夫です。僕が持って行きますよ」水谷は奪うようにそれを取った。
 一体そういう所のある水谷ではあるが、今日は一層それが謙作には五月蠅(うるさ)く思われた。
 彼はお栄と直子を連れ、改札口を出、そこに立って赤帽らを待った。

 


 水谷のこうした態度は、今に始まったことではないが、「今日は一層それが謙作には五月蠅(うるさ)く思われた」というのは、やはり直子への不満が根底にあったからだろう。
自分は気をきかせたつもりでも、相手が、そうとるとは限らない。機嫌の悪いときというのは、かえってそういう「気遣い」が「五月蠅く」感じられるものだ。

 謙作は、なぜ水谷が来たのかと問わずにはいられない。

 


 「どうして水谷が来てるんだ」彼は直子に訊いてみた。「今日自家(うち)へいらしたの。この間要(かなめ)さんが来て、三晩ばかり泊って、その時水谷さんや久世さんもいらして、お花で夜明しをしたんですの」
「何日(いつ)」
「四、五日前に」
「要さんは何日(いつ)帰った。末松は来なかったのか?」
「末松さんは一度もいらっしゃいません。要さんの帰ったのは《さきおとつい》です」
「敦賀へ帰ったのか」
「九州の製鉄所へ見学に行くとかいっていました」
「八幡だね」
「ええ」
 謙作は何となく不愉快だった。直子の従兄(いとこ)が、来て泊る事に不思議はないようなものの、自分の留守に三日も泊り、その上、自身の友達を呼んで夜明かしで花をしたというのは余りに遠慮のない失敬な奴らだと思った。また、直子も直子だと思った。

 


 水谷が一緒についていたのは、「今日」水谷が家に来たからだという。水谷は、今日謙作が帰ってくるということを知っていて、「手伝い」にやってきたのだろうか。それはそれでいいとしても、直子の言った言葉が、謙作を更に苛立たせる。

 謙作は「何となく不愉快だった」というが、「何となく」どころではないだろう。夫のいない家に、3日も泊まるというのは、いくらなんでも不見識で、それを許す直子もよくない。まさに「直子も直子だ」と誰だって思うだろう。

 こうした謙作の感情の揺れを、志賀はこんなふうに書く。

 


 僅か十日間ではあるが、結婚してこれが初めての旅だった。彼は直子がその間、淋しさに堪えられないだろうと思い、敦賀行きを勧めた位で、自分も朝鮮でそう気楽にしている事が直子に済まない気がし、かつ自身も早く帰りたく、彼は直子に会う事にかなり予期を持って帰って来たのだ。しかし会った最初から、何か、直子の気持がピタリと来ない事が感ぜられ、それに水谷の出ていた事がちょっと彼を不機嫌にすると、それが直子にも反射したためか、直子の気持も態度も変にぎごちない風で、不愉快だった。


 「不愉快」がだんだんとエスカレートする。だから言ったじゃないか、おれはお前のことを思って敦賀の実家へ行けといったんだ。オレは、朝鮮にいる間、ずっとお前に申し訳ないと思っていたんだぜ、それなのに、男三人と夜っぴて花札かよ、まったく何やってんだ、と、ガラの悪い男なら口に出して言うところだが、謙作は生まれがいいから、そんなことは言わない。言わないけど、腹の中は煮えくり返っている。

 「予期」という言葉が出てくるが、今なら「期待」とするところ。今では「予期」は「予想」ぐらいの意味で使われるが、もともとは「あらかじめ期待すること。前もって期待して待ち受けること。」の意味だ。

 

 水谷が毀物の風呂敷を下げ、赤帽についてニコニコしながら出て来た。
 「チッキの荷もあるんでしょう? 直ぐとらせましょう」
 謙作はそれには答えず直接赤帽にいった。
 「市内配達があるだろう」
 「ござります」
 「衣笠村だけど届けるかね」
 「さあ、市外やと、ちょっと、遅れますがな」
 「そう。じゃあ一緒に持って行こう」謙作は側で何かいっている水谷には相手にならず、割符を赤帽に渡した。荷とも俥四台で行く事にした。謙作の不機嫌にいくらか気押され気味の水谷は、それ
でも別れ際に、
 「二、三日したら末松君とお伺いします」
 といった。
 「それより末松にあした行くといってくれ給え」
 「承知しました。あしたは末松君も僕も学校は昼までですから、お待ちしています」
 「少し用があるから一緒に出たいと末松にいってくれ給え」
  謙作は苛々した。


 苛立つ謙作と、なんでそんなに苛立つの? って感じの水谷のやりとりが面白い。水谷は善人には違いない。それだけに手の付けようがない。

 「結婚して初めての旅(一人旅)」が、この後、とんでもない出来事を生んでいたのだが、そのことを知らなくても、なにやら不穏な雰囲気が漂う「帰宅」だ。

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 252 志賀直哉『暗夜行路』 139  彫り込まれた思い 「後篇第四  一〜二」 その3

2023-12-14 10:13:38 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 252 志賀直哉『暗夜行路』 139  彫り込まれた思い 「後篇第四  一〜二」 その3

2023.12.14


 

 お栄の話は、一端途切れて、謙作の朝鮮での観光(?)の様子が描かれる。あっさりした記述だが、気楽な旅の様子が短い言葉で綴られる。

 


 謙作は朝鮮では余り歩かなかった。開城から平壌ヘ一泊で出かけた以外は、或る晴れた日、お栄と清涼里の尼寺に精進料理を食いに行った位のものだった。途中山の清水の湧いている所で朝鮮人の家族がピクニックをしているのを見かけた。白髯(はくぜん)の老人が何か話している、囲りの人々が静かにそれに聴入っている、長い物語でもしているらしかった。昔ながらの風俗らしく、見る者に何か親しい感じを与えた。
 南山から北漢山を望んだ景色が好きで、彼は二度其所へ出かけて行った。景福宮、昌徳宮、それから夜は一人で鐘路(しょうろ)の夜店あさりをした。古い螺釧の鏡台があり、欲しかったが、毀れている割りに値が高かった。彼は美しい華革張(かかくば)りの文函(ぶんこ)を直子のために求めた。これも今出来でなく、いい味があった。
 平壌への汽車の中で、彼は高麗焼の窯跡を廻っているその方の研究家と一緒になり、色々そういう話を聴いた。謙作とはほとんど同年輩の人だったが、話しぶりにも老成した所があり、朝鮮統治などにも一卜かどの意見を持っていた。


 謙作は、この「同年配の人」からある「不逞鮮人」となっていった若者の話を聞く。鉄道敷設にからんで、土地の買い占めを役人(日本人ということになる)から依頼されて土地を買い占めるが、やがて、土地の人々から裏切り者と言われるようになった。しかも、鉄道敷設の計画はいつの間にか変更され、その若者が買い占めた土地は、実際の敷設される土地からは3、4里も離れたところで、若者は破産する。彼は、計画変更を自分に知らせなかった日本人の役人を恨んで、やがて、「札付きの不逞鮮人」となり、日本への復讐を誓ったが、悪事に手を染め、結局死刑になってしまったという話だ。

 

「多分この間死刑になったはずですが、四、五年前例の窯跡探しで、案内してもらった時など、何だか非常に静かでそんなになろうとは夢にも思えないような若者でした」

 

 こういう言葉で、このエピソードは終わるが、謙作のそれに対する感想は書かれていない。日本統治下の朝鮮での出来事だけに、なぜ志賀はこのエピソードを書いたのか、そして、なぜ、それに対する感想を書かなかったのだろうか。

 「暗夜行路」には社会情勢がちっとも描かれていないという批判があるが、志賀がそれに無関心だったとは思えない。無関心なら、こういったエピソードを書き込むはずもない。関心はあるが、深入りは避けたといったところだろうか。

 「非常に静かな若者」が、日本の役人の不誠実によって破産に追い込まれ、その責任をとろうともしない日本人を恨み、日本への「絶望的な復讐」を誓うが、「不逞鮮人」のレッテルをはられ、結局は破滅するというエピソード自体、統治する日本への批判を含んでいることは明らかで、わざわざそれに対する「感想」など要らぬというのが志賀の考えだったのかもしれない。

 このエピソードの後、章を変えて、お栄の話に戻っていく。


 謙作は十日目にお栄を連れ、帰って来た。蒸々(むしむし)暑い日中の長旅で、汽車の中は苦しかった。
 下関から電報を打ったので、直子が大阪あたりまで出迎えているかも知れないと謙作は思った。「お帰りの時は何所かまでお迎いに出ようかしら」そんな事を直子がいっていたのを彼は想い出していた。で、彼は神戸でも、三ノ宮でも、汽車の止まるたび、プラットフォームに下り立って見た。大阪では列車が駅へ入る前から首を出していたが、此所(ここ)まで来ると、その賑わしさが彼にやっと帰って来たという気をさした。
 彼はプラットフォームの人込みの中に直子の姿を探したが、見えなかった。彼は何か軽い失望を感じながら、いっそ、はっきり出て来るよう、いってやればよかったと思った。


 「軽い失望」──嫌な予感がすでにある。直子のちょっとした言葉に期待したのだが、それが「軽い失望」に変わる。「いっそ、はっきり出て来るよう、いってやればよかった」と思う謙作の感情は微妙だ。迎えに来てくれとはっきり言っては、「そうか、やっぱり来てくれたのか」という思いは味わうことができない。謙作は、直子の心遣いを期待して、それが報われた喜びを味わいたかったのだ。

 

 お栄は腰掛に横向きに坐って、うつらうつらしていた。一年半、──一年半にしては多事だった、そして漸く帰って来たという事は何人にも感慨深くありそうな事だが、お栄はもうそれさえ想わないほど、疲れて見えた。謙作にはお栄の感情がそれほど乾いたように思われた。
 「いらっしゃいませんか」居ずまいを直しながらお栄は物憂そうに袂(たもと)から敷島の袋を出し、マッチを擦った。お栄は久しく止めていた煙草をこの一年半の間にまた吸い始めた。謙作の方は僅(わず)か十日の旅でも、帰って来た事がいやに意識された。今乗込んで来た連中(れんじゅう)は何れも見知らぬ顔だったが、それが皆、知人(しりびと)かのよう思われるのだ。彼は今度は間違いなく出ている直子の晴れやかな顔を想い浮べ、汽車の遅い速力を歯がゆく思った。

 

 見事だなあと思う。お栄の「疲弊」が、こんな僅かな言葉で浮き彫りになっている。長い間やめていたタバコを、また吸い始めたお栄の物憂いたたずまいは、この一年半の労苦を自然と物語っている。そしてそのお栄をいたわりの目で見つめる謙作の心も身にしみて感じられる。

 謙作は典型的な「自己中」人間のように言われるが、それは大きな間違いだろう。女を快楽と癒やしの道具としか考えていないと、声高に「暗夜行路」を批判する論文もあるが、こういう細かいところを読まずして、なんの文学研究かと思う。

 文学の本質は、細部に彫り込まれた作家の思いを丹念に辿ることによってしか把握することはできない、とぼくは思っている。

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 251 志賀直哉『暗夜行路』 138  お栄という女 「後篇第四  一」 その2

2023-11-24 10:16:00 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 251 志賀直哉『暗夜行路』 138  お栄という女 「後篇第四  一」 その2

2023.11.24


 

 お栄は、お才に誘われて天津に出かけたのだが、商売はうまく行かなかった。お才にだまされたというわけでもないが、お才も気が咎めたか、お栄が大連に引き上げたあとも、またやってくるように言ってきたが、お栄はもうその親切が信じられなかった。

 

 鉄嶺(てつれい)ホテルの女あるじ、増田というのは、男まさりのしっかり者だという噂はお栄もかつてお才から聞いていたが、この女が最近土地の検番と喧嘩し、一つは意地から自力で別に検番を作る事にし、前から多少知合いだったお才ヘ手紙でその事をいって寄越た。お才はそれを直ぐお栄の方へ知らして来た。
四、五人の芸者に間に合うだけの衣裳を持ち、それを《もとで》に何処かで芸者屋を開こうとしているお栄には、実にこれは渡りに船の話だった。勿論二つ返事で乗って来るものとお才は思っているに違いなかったが、お栄はそれも断ってしまった。
 これが大連とか京城とかの話ならば嬉しいのだが、近頃のように病気をしていると一層気が弱くなり、鉄嶺まで入込んで行くのが、益々内地と縁遠くなるようで心細い、折角の親切を無にするようだが、鉄嶺へは行きたくない。そしてこの大連も今の所いい話もなさそうなので、そのうち京城へ行こうと思う。少しでも内地に近づきたく、もし京城の方にいい話でもあったら、その時はぜひ知らしてもらいたい、と書いた。

 

 天津、大連、京城と、今から思うとずいぶん遠いところだが(といっても、飛行機に乗れないぼくにとってだけの話かもしれないが)、この頃はずいぶんと気軽に移動している。当時は朝鮮は日本の統治下にあったわけだから、当然なのかもしれないが、こうした地理感覚は、時代が変わると、なかなか実感できない。

 お栄も苦労ばかりだが、こうして女一人「外地」で生きて行く姿は、たくましくも思える。

 


 その後またお才から、もし京城に行くなら警部で野村宗一という知人がある。それに頼めば万事便宜を計ってくれるだろう。もし行く場合は此方から手紙を出しておこうと言って来た。
 お栄は早速その手紙を出してもらう事を頼んだが、隔日に瘧(おこり)の発作が来、塩酸キニーネで漸く治めている時で旅行はまだ暫くは出来そうもなかった。そしてぐずぐずしている内に盗難に会い、唯一の《もとで》としていた芸者の衣裳幾行李かを荷作りのままそっくり持って行かれてしまったのである。
 お栄はその時落胆もしたが、何となく清々した気持にもなった。もう内地に帰るより仕方なく、信行に頼んで旅費を送ってもらい、直ぐ帰るつもりだったが、もう再び来る事はないと思うと、少しは見物もしたく、朝鮮を廻って帰る事にした。一つは船の長いのもいやだった。

 


 暢気と言えば暢気な話である。「外地」で「たくましく」生きるといっても、頼めば少なくない金を内地から送ってもらえるのだ。たしか300円を信行から──といっても、結局は謙作が出したのだが。当時の300円といえば、今なら150万から300万ぐらいにあたるわけで、これだけの金をもらえるなら、朝鮮見物だって平気でできる。そういう金を、ホイホイ出せる謙作も、金持ちのお坊ちゃんだといえば、身も蓋もないが。

 お栄は、病気(マラリア)がよくなると、京城まで来たが、お才の手紙にあった野村宗一を訪ねると、ここでもう一度商売を始めたらどうかと勧められた。


 警部の野村が何故こんな事をいったかよく分らない。しまいに腕力でお栄を自由にしようとした、その下心がその時からあったのか、あるいは単に軽い親切気からそんな風に勧め、同居している内にそういう気になったのか、お栄の話では謙作には見当がつかなかった。が、とにかくお栄はそれでまた其所へ腰を下ろしてしまったのだ。

 この章の初めの方の書き方では、客観的な叙述だったが、ここで、これまでのお栄の経緯が、お栄の話によるものだということが、明らかになる。まあ、当然なのだが。

 それにしても、お栄というのは、どうにも捉えどころのない女である。内地へ帰ると言って、300円を送ってもらったのだから、さっさと内地へ帰ればいいのだ。それなのに、ずるずると居座ってしまう。

 で、「下心」って何なのか。


 「食料は払っていたんですけど、とにかく厄介になっていると思うから、町のお使もなるべく私が行くようにしてましたし──京子という五つになる女の児があって、小母さん小母さんってよく懐(なつ)いているもんですから、私も可愛くなって、お使の時はいつでも連れてって、翫具(おもちゃ)やお菓子なんか買ってやってたんですけど、それがどうでしょう。──野村がおかみさんの留守に私に変な事をしようとして、しまいには腕ずくでかかって来たから、私は野村を突飛ばしてやったんです。すると、丁度其所へ入って来た京子が、何にも分らない癖に、小母ちゃん、馬鹿馬鹿、畜生畜生って泣きながら二尺差しを持って私をぶちに来るんです。それが一生懸命なの。その時は私も何だか、情けなくなって涙が出ましたわ。あんなに可愛がってやり、むこうもよく懐いていて、やはり他人は他人ですわね。そういう時には本気になって親の加勢をしようとするの。腹が立つやら、おかしいやら、情けないやら……。でも親子というものはいいものだと私は自分がその味を知らないせいか、つくづくそう思いましたよ」
 お栄は自分の年にも恥じたし、よくしてくれる野村の妻にも気の毒で、事を荒立てる気にはならなかった。そして翌日なるべく穏かにこの家を去った。

 


 たしかにこれは、「下心がその時からあった」のか、「同居している内にそういう気になった」のか、分からない。分からないけれど、男っていうのは、どうしようもないものである。

 このエピソードでは、「親子」の情が、さらっと、しかもくっきり描かれていて、胸を打つ。志賀の筆が冴えている。

 

 謙作はお栄の話を聴きながら何となく愉快でなかった。近頃の自分の生活とは折り合わぬ調子が気持をかき乱した。彼は放蕩をしていた頃にも、そういう場所の空気に半日以上浸っていると、いつも息苦しくなり、憂鬱になり、もっと広々した所で澄んだ空気を吸いたいという慾望にかられた。今彼は丁度そういう気持になった。切(しき)りと京都の家──直子の事が想われた。
 彼はお栄が不検束者(ふしだらもの)になっていなかった事を嬉しく思った。要するに、いい人なのだ、ただ人間にしっかりした所がなく、その時々の境遇に押流されるのがいけないのだ、そういうお栄を一人放してやった自分が無責任だったとも顧(かえりみ)られた。
 かつて彼はお栄の止(と)めるのも諾(き)かず、一人尾の道に行き、幾月かして、からだも精神もヘトヘトになって帰って来た時、お栄から、「脊せましたよ。もう、これから、そんな遠くヘ一人で行くのはおやめですね」といわれた。
 その同じ言葉を今彼はお栄にいってやりたかった。そして彼はそれを彼自身の言葉でいった。
 「貴女は馬鹿ですよ、少しも自分を知らないんだ。一本立ちでやって行こうなんて、柄でもない考を起こしたのが間違いの原(もと)ですよ」
 しかしお栄の将来をどうしていいか、彼には分らなかった。自分が結婚を申込んだという事さえなければ、当然自家(うち)へひき取り、一緒に暮らしたかった。また、その事があったとしても直子が意に介さないなら、そうしたかった。しかし少しでも直子がそれに拘泥(こうでい)するようなら、きっと面白くない事が起りそうだ。多少でもそういう点で絶えず直子が何か思うようなら、それは避けねばならぬ事だと考えた。

 

 ここが肝心な箇所。謙作自身のお栄への思いが、精密に、正直に書かれている。

 お栄の話から流れ出てくる「気分」が、「近頃の自分の生活とは折り合わぬ調子」であることに、気持ちがかき乱される。謙作は、そういう気分から解放されたいと思ってあがき、直子との結婚によって、ようやくそれを成就した。直子との生活には「澄んだ空気」が流れているのだ。

 しかし、お栄は、「時々の境遇に押流される」ことはあっても、野村を突き飛ばす気概があった。「フシダラ」ではなかった。それが謙作を喜ばせた。そして、その喜びは、お栄に対する謙作の深い愛を、あるいはお栄の謙作に対する深い愛を確認させることとなった。

 お栄が自分にかけてくれた言葉を、今度は「自分の言葉」で、お栄にかける。なんだかとてもほっとするシーンだ。

 しかし、そのお栄をどうすればいいのか。謙作は、お栄を自分の家に引き取りたいと考える。けれども、自分とお栄との過去のいきさつ、そしてそれを直子がどう思うかへの不安は、謙作を逡巡させる。

 お栄が実の親であれば、なんら問題はない(ということもないが)が、かつて「結婚を申し込んだ」という間柄である以上、ここでそういう考えが浮かぶこと自体があり得ないことだ。それでも、なお謙作は、そこに拘る。

 ここまで来ると、謙作がほんとうに愛していたのは、直子ではなくて、お栄だったのではないかと思えるくらいだ。

 なんとなく、先ほどの「京子」のエピソードが重なってくる。お栄は「やはり他人は他人だ」と思うわけだが、ここに当てはめると、「他人」なのは直子だ。お栄は「親」ではないが、ある意味「親以上」の存在だ。直子が逆上して、謙作に殴りかかったら、お栄は「馬鹿馬鹿!」と言って、直子を「二尺差しを持って」ぶちに行くだろう。そんな気がする。

 

 

 


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日本近代文学の森へ 250 志賀直哉『暗夜行路』 137  冷たい謙作・冷静な直子 「後篇第四  一」 その1

2023-10-29 16:54:02 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 250 志賀直哉『暗夜行路』 137  冷たい謙作・冷静な直子 「後篇第四  一」 その1

2023.10.29


 

 謙作はその冬、初めての児を失い、前年とはまるで異った心持で、この春を過ごして来た。都踊も八重桜も、去年はそのまま楽めたが、この春はそれらの奥に何か不思議な淋しさのある事が感ぜられてならなかった。
 彼は今後になお何人かの児を予想はしている。しかしあの子供はもう永遠に還っては来ないと思うと、その実感で淋しくさせられるのだ。次の児が眼の前に現れて来れば、この感情も和らげられるに違いない。が、その時までは死んだ児から想いを背向ける事は出来なかった。
 散々になやまされ、しかも、それが何から来るか分らなかった自身の暗い運命、それを漸く抜け出し、これから新しい生活に踏出そうという矢先だけにこの事は甚(ひど)くこたえた。丹毒は予防しようもない。むしろ偶然の災難だ。普通ならばそう思って諦める所を、彼は偶然なこと故に、かえってそれが何かの故意のよう考えられるのだ。僻(ひが)み根性だ、自らそう戒めもするが、直ぐ、と、ばかりもいえないという気が湧いて来る。彼はこういう自身に嫌悪を感じた。しかしそういう自分をどうする事も出来なかった。

 


 最初の子どもを失った謙作と直子だが、それからの数ヶ月、意外に淡々とした日々を過ごしているような書きぶりである。いよいよこの長編小説の最終段階へとさしかかるわけだが、始まりを慎重に、抑えた書き方をしている。

 「この春はそれらの奥に何か不思議な淋しさのある事が感ぜられてならなかった。」と言うのだが、子を失うという人生の一大事を経験したのに、いったいどこが「不思議な淋しさ」なのだろう。そんな生やさしい感情ではなくて、もう生きていけないというような混乱と絶望に満ちた感情に苛まれるのが普通なんじゃなかろうか。もちろん、「あの子どもは永遠に還っては来ない」とか、「死んだ児から想いを背向けることは出来なかった」とかいった記述もあるが、それも観念的であり、痛切な感情の表出ではない。

 赤ん坊の死の原因となった「丹毒」も、「偶然の災難」だとして、「普通ならばそう思って諦める所」だと言うが、それが「普通」なのだろうか。そうは思わないが、謙作は、あるいは志賀直哉はそう思っているのだから仕方がない。

 とにかく、謙作はどこか冷たい。子どもの死を、自分の精神の平穏を乱すものとしてしか捉えていないようにも見える。

 せっかく、長年にわたる「自身の暗い運命」からようやく抜け出せたと思っていたのに、子どもが死んだ。なんだ、これは。やっぱり、これはなにかの報いか、やっぱりおれは「暗い運命」から抜け出せていないのか、そう思って謙作は思い悩んでいる。そこに、もはや子どもの具体的な死の影はない。死んだ子どものことを思う気持ちも薄い。それが「冷たさ」を感じさせるのだ。

 この「冷たさ」は、この直後の直子と謙作の会話で露わになる。

 


 直子は思い出してはよく涙を流した。それを見るのが彼はいやだった。
 そして殊更(ことさら)ひき入れられない態度を見せていると、「貴方は割りに平気なのね」と直子は怨言(うらみごと)をいった。
 「いつまで、くよくよしてたって仕方がない」
 「そうよ。だから私も他人には涙を見せないつもりですけど、仕方がないで忘れてしまっちゃあ、直謙に可哀想よ」
 「まあいい」謙作は不愉快そうにいう。「あなたはそれでいいよ。しかしこっちまで一緒にそんな気になるのは御免だ。実際仕方がないじゃあないか」
 「…………」

 


 直子がよく涙を流すというのは、ごく自然のことだ。しかし、「それを見るのが彼はいやだった。」という謙作は、実にエゴイストだ。直子が怨み言を言うのも無理はない。それに対して、「くよくよしたって仕方がない。」と言うのはまだいいにしても、「あなたはそれでいいよ。しかしこっちまで一緒にそんな気になるのは御免だ。」というのも、ずいぶんヒドイ言い方ではないか。

 子どもの死という夫婦にとってはそれこそ一大事に対して、夫婦でともに堪えていこうという気持ちが謙作にはまるでない。直子が寂しいなら勝手に泣いていろ。オレにその涙を見せて、オレを不愉快にさせるな、というのだ。

 こういう部分を読んでいると、時代は変わったんだなあということを、改めて実感する。この「暗夜行路」の時代から、すでに、100年(!)経っているのだ。

 100年と一口に言うが、これは大変な時間だ。謙作の言い分を、「ヒドイ」なんて軽々しく言えるのは、その100年を無視しているからだろう。

 この時代の「夫婦」とか「結婚」とかいうものが、どういうものであったかをちゃんと知らないと、とても「暗夜行路」なんて読めない。それは、平安時代の貴族の暮らしやその歴史的背景を知らずには「源氏物語」を読めないのと同じなのだ。

 子どもの死という事件も、今とその頃では受け取り方がまるで違うだろう。悲しいことは悲しいが、乳幼児死亡率が非常に高い当時では、「悲しみ」も、謙作の感じる程度で収まっていたのかもしれない。直子にしても、謙作に嫌味を言えるほどには冷静なのだ。

 まあ、しかし、そういう時代背景を抜きにしても、謙作のエゴイストぶりは相当なもので、今だったら、直子はすぐにでも謙作と別れる決心をして、家を出て行ってしまうだろう。

 こんな冷たい言葉を放ったあとに、謙作は、更に予想外の発言をするのだ。

 


 「それより僕は近頃お栄さんの事が少し心配になって来たんだ。此方(こっち)にはまるで便りを寄越さないし、前の関係からいって信さんに任せっきりというわけには行かないから、その内一度朝鮮へ行って来ようと思うんだ」
 直子はちょっと点頭(うなず)いたまま、返事をしなかった。少時(しばらく)して謙作は、
 「その間、あなたは敦賀へ行っていないか」といった。
 「泣言(なきごと)でもいいに行くようでいやあね」
 「泣言をいって来ればいいじゃないか」
 「それがいやなの。貴方にならいいけど、実家の者にもそれはいいたくないの」
 「何故。……一緒に行ってあなただけ置いて来よう」
 「いいえ、結構。どうせ、十日か半月位なら仙と二人でお留守番しててよ。あんまり淋しいようだったら、その時勝手に一人で出かけるわ」
 「それが出来れば一番いい。家で悲観しているようだと、こっちも旅へ出て気が楽でないからね」

 

 この発言にはびっくりする。

 お栄は、謙作の母代わりの人だったとはいえ、謙作が結婚の申し込みまでした女だ。それを直子が知らないはずもない。そのお栄が心配だから会いに行ってくると謙作は言うのだ。直子が「ちょっと点頭いたまま、返事をしなかった。」気持ちも分かる。腹がたっただろう。しかし、直子は逆上しない。冷静なのだ。そこもちょっと不思議な感じがする。

 案外気丈な直子に対して、謙作は「それが出来れば一番いい。家で悲観しているようだと、こっちも旅へ出て気が楽でないからね」というのだが、まさに、極めつけのエゴイストである。お栄が心配だからちょっと行ってくるといいながら、「気楽」な旅をしたいと考えているのだ。

 子どもの死の衝撃や悲しみを静かに癒やしたいという思いで行くのではない。子どものことなんか忘れたいのだ。正直といえばそれまでだが、なんとも身も蓋もない話である。

 

 しかしこんな事をいいながら謙作はなかなか出かけられなかった。西は厳島より先を知らなかった。それで京城までが甚(ひど)く大旅行のよう思われ、億劫だった。一つはお栄の方にも差迫ってどうという事もなかったから、出掛けるにも気持に踏みきりがつかなかった。
 直子が出来、お栄に対する彼の気持もいくらか変化したのは事実だった。が、少年時代から世話になった関係を想い、また、一時的にしろお栄への一種の心持──今から思えば病的とも感ぜられるが、とにかく結婚まで申込んだ事を考えると、差迫った事がないとしても、こうぐずぐず、ほっておく事が、如何にも自分の冷淡からのよう思われ、心苦しかった。

 

 「暗夜行路」でいちばん分かりにくいのは、謙作のお栄に対する気持ちである。「少年時代から世話になった関係」は十分に分かる。しかし、お栄に結婚を申し込んだ気持ちが、どうしても理解に苦しむのだ。「育ての母」への恋というのは、何も、「源氏物語」を持ち出すまでもなく、あり得ることだろうが、正式に結婚を申し込む、ということになると、どうにも理解しがたいのだ。その理解のしがたさを志賀直哉も感じていて、それで、ここで「今から思えば病的とも感ぜられる」と書いているのだろうか。そんな気もする。

 しかし、この、わが子を失って間もない時期、いわば夫婦にとっては危機的な時期に、なんで急にお栄に対する「心苦しさ」が持ち出されるのか。いかにも不自然な気がする。その理由は、どうもお栄からの手紙にあるのだが、それはそれとして、小説の構造からして、ここにお栄を持ち出す必然性があるのかどうか、疑問を持つのだ。

 もちろん、この旅が、この「第四」におけるもっとも重大な「事件」を引き起こすきっかけとなるわけではあるのだが。

 

 ある日、鎌倉の信行から書留で手紙が届いた。それに信行宛のお栄の手紙が同封してあった。
 不愉快な出来事から、最近、警部の家を出て、今は表記の宿で暮らしております。私もほとほと自分の馬鹿には呆れました。この年になり、生活の方針たたず、その都度お手頼(たよ)りするのは本統にお恥かしい次第ですが、他に身寄りもなく、偶々(たまたま)力になってもらえると思ったお才さんは私が思ったような人でなく、どうしても、またお願いするよりございません。
 精しい事情はここで申上げません。また申上げられるような事でもございません。私は一日も早く内地に帰りたく、今はその心で一杯でございます。
こんな意味だった。つまり宿の払いと旅費を送ってもらいたいというのだ。謙作は読みながら、信行の手紙にもちょっと書いてあったように、前には大連で盗難に会い、直ぐ帰るよう、金を送っても帰らず、勝手に京城に行き、今、またそんな事を言って金を請求して来る。もしかしたら植民地らしい不検束(ふしだら)な生活から変な男でも出来、それが背後で糸を引いているのではないかしらというような疑問も起こした。
 謙作は一緒に暮らしていた頃のお栄を想うと、こういう推察は不愉快だった。しかし、また、病的にもしろ、自分がそういう感情を持ったお栄には何かまだそういう誘惑を人に感じさせるものが残っているに違いなく、かつ話に聞いたお栄の過去が過去であるだけ、この推察も必ずしもあり得ないとは思えなかった。お栄が精しい事情を書かない点からも何か色情の上の出来事らしく感ぜられた。
 信行も、今度は行って連れて来るより仕方あるまいと書いて来た。
 その日はもう銀行が間に合わないので、彼は翌晩の特急でたつ事にし、その事を京城と鎌倉とに電報で知らせた。

 

 実際には、お栄にはどんな事情があったのか。それは、次の章で説明される。

 

 


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日本近代文学の森へ 249 志賀直哉『暗夜行路』 136  運命 「後篇第三  十九」 その4

2023-09-26 10:27:14 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 249 志賀直哉『暗夜行路』 136  運命 「後篇第三  十九」 その4

2023.9.26


 

 赤ん坊は、懸命の治療もむなしく、死んでしまう。

 この赤ん坊の死に至るまでの経緯は、読むのも辛いほど詳しく描かれている。あくまで謙作の目を通して描かれているのに、そこに感傷の入る余地がない。謙作は苦しむが、その目は涙に濡れることなく、どこまでも澄んでいて、その死を見つめている。

 もちろん、謙作は、現実のすべてに直面できるわけではない。むしろ、肝心なところで逃げようとするのだ。

 いよいよ赤ん坊が、死ぬか生きるかの手術に向かおうとするとき、謙作は、立ち会いを拒否する。


 

 謙作はK医師が食塩注射の支度をする手伝いなどをしていた。しかし彼は自身手術に立合う気にはなれなかった。恐しかった。
 「かまいませんか?」
 「ええ、かまいません」こうK医師にいわれ、彼は庭へ出てしまった。手術着を着た若い外科医が縁側でシャボンとブラッシで根気よく手を洗っていた。
 間もなく皆病室へ入って行った。謙作は直子のいる部屋の方へ行った。
 「お立合いにならないの?」直子は非難するような眼附をしていった。
 「いやだ」謙作は顔をしかめ、首を振った。
 「可哀想だわ、そりゃあ、可哀想ですわ」
 「Kさんがいいっていったんだ」
 「そう仰有(おっしゃ)ったかも知れないが、誰も血すじが行っていなくちゃ、可哀想よ。じゃあ、お母さんに行って頂きましょうか」直子は傍(そば)に坐っていた母を顧みた。
 「はい」そういって母は直ぐ出て行った。
 謙作はまた庭を病室の方へ歩いて行った。障子を〆切(しめき)った中からは時々医者たちの低い話声と、ちょっとした物音がするだけで、勿論、声の全く潰(つぶ)れてしまった赤児の声は聴こえて来なかった。謙作は急に不安に襲われた。もう死んでしまったんだ。そう思わないではいられなかった。彼はじっとしていられない心持で庭を往ったり来たりした。ベルが、頻りにその足元に戯れついた。

 


 直子は謙作を冷たいと思っただろうが、ぼくには謙作の気持ちがよく分かる。「男というものは」という言い方はよくないかもしれないが、やっぱり、男はこういうとき、ダメなものなんだとつくづく思う。その点、直子の母は、即座に「はい」といって、病室に入っていく。すごいなあと思う。

 謙作が病室に入らないので、事態は、「音」だけで描写される。「医者たちの低い声」「ちょっとした物音」、そして「聴こえない『潰れてしまった』赤ん坊の声」。──短い文章だが、ここに流れる「長い」時間がありありと感じられる。そうした果てしないような時間の中に、謙作の「不安な時間」が組み込まれる。

 


 少時(しばらく)して、障子が開いて、林が顔を出した。亢奮し切った可恐(こわ)い顔をしていた。謙作を見ると、
 「どうぞ、直ぐお乳を上げて頂きます」そういって直ぐまた障子を〆めてしまった。
 「助かった」謙作は思った。彼は急いで直子の部屋に行き、
 「オイ。直ぐお乳……」といった。
 「よかったの?」直子は立ち上がりながらいった。
 「うむ」
 直子は急いで縁を小走りに行った。林が血のついた綿やガーゼを山に盛った洗面器を隠すように持って風呂場へ急ぐのが見えた。
 謙作が行った時には病室は綺麗に片附いていた。K医師が赤児に酸素吸入をかけていた。直子は側に坐って泣き出しそうな顔をしてそれを見ていた。
 「どうもなかなかえらい膿でした」K 医師は顔を挙げずにいった。
 「…………」
 「食塩注射と酸素で、どうか取止(とりと)めましたが、しかしよく堪えて下さいました」
 謙作はK医師に代って、酸素をかけてやった。赤児は疲れから、よく眠入っていたが、その顔は眉間に八の字を作り、頬はすっかりこけ、頭だけがいやに大きく、まるで年寄りの顔だった。赤児は眼を閉じたまま急に顔中を皺(しわ)にして、口を開く。苦痛を訴えるには違いないが、もう全く声がなく、泣くともいえない泣き方だった。それを見ると、これが助かるとはとても思えなかった。しかし直子が乳首を持って行くと、これはまたどうした事か、死んだようになっていた赤坊が急に首を動かし、直ぐそれへ吸いつくのだ。それは生きようとする意志、そういう力をまざまざと現わしていた。が、それも余り長くは続かなかった。赤児は充分飲む前にまた眠りに落ちて行った。

 


 看護婦林の「亢奮し切った可恐い顔」「血のついた綿やガーゼを山に盛った洗面器を隠すように持って風呂場へ急ぐ」姿、などに、手術の有様が想像される。

 そして、謙作が入っていった「綺麗に片附いていた」病室に、緊張感が余韻のように漂っている時間が流れる。すべてが見事だ。

 この後、数日におよぶ治療が行われるが、赤ん坊は衰弱していくばかりで、謙作は、こんなに苦しむなら、少しでもはやく苦痛から解放させたいとすら思うのだった。

 


彼は今は、もう死ぬと決ったものなら、少しでも早く苦痛から逃がれさせたいという気さえしていた。しかしこの考は赤児が生きよう生きようとする意志を現わす時に僭越な済まない考だとも思われた。しかし医者たちもとても六ヶしい事を明瞭にいってい、彼自身見ても何所(どこ)に希望を繋いでいいか、分らないほどひどい様子を見ると、赤児のなお生きよう生きようとする意志が彼には堪らない気がした。
 「死ぬに決った病人でも、死に切るまでは死なさないようにしなければならないんですか。生きてる事が非常な苦痛になってる場合でも」
 「仏蘭西(フランス)と独逸(ドイツ)で考が違います。仏蘭西では権威ある医者が何人か立会って、家族の者もそれを希望した場合、薬でそのまま永久に眠らす事が許されているのです。ところが独逸ではそれが許されてないんです。医者としては最後の一秒まで病気と戦わねばならぬという考なんです」
 「日本は何方(どちら)です」
 「日本はまあ独逸と同じ考なんですが、考というより医学が大体独逸をとってるからでしょうが、それはまあ何方にも考え方の根拠はありますわな」
 「医者の判断が例外なしに誤らないという事が確かなら、仏蘭西流も賛成ですがね……」
 「それは数ある中では何ともいえませんからな」
 謙作と外科医とがこんな事を話し合った翌日、赤児は発病後一卜月でとうとう死んでしまった。赤児は苦みに生れて来たようなものだった。

 


 この安楽死の問題は、いまだに決着をみていない。フランスとドイツの差ということは、知らなかった。

 葬儀は簡単に済ませ、遺骨は花園の霊雲院という寺に預かってもらった。この死にいちばんこたえたのはやはり直子だった。

 

 赤児の死で一番こたえたのは何といっても直子だった。その上、産後肥立たぬ内に動いた事が障り、身体がなかなか回復しなかった。謙作はまだ一度も直子の実家へ行っていなかったし、神経痛で寝ている伯母の見舞いを兼ね、二人で敦賀へ行き、それから、山中、山代、粟津、片山津、あの辺の温泉廻りをして見てもいいと思った。しかし直子の健康がそれを許さなかった。それに、直子は心臓も少し悪くし、顔にむくみが来て、眼瞼が人相の変るほど、腫れ上がっていた。医者はその方からも、温泉行は以(も)っての外だといった。
 直子は毎日病院通いに日を送っていた。

 

 赤ん坊の死を描く筆致とは違って、ささっとスケッチするように、直子の現状を描いている。こんなところに、
「敦賀、山中、山代、粟津、片山津」といった地名が列挙されるのも、どこか新鮮だ。暗い病室から、いきなり温泉地の空気のなかに気持ちが解き放たれるように感じる。
 で、謙作はどうだったか。

 

 謙作は久しく離れている創作の仕事に還り、それに没頭したい気持になったが、まだ何かしら重苦しい疲労が彼の心身を遠巻きにしているのが感ぜられ、そう没頭は出来なかった。彼の感情は物総てに変に白々しくなった。ちょうど、脳に貧血を起こした人の眼にそう見えるように、それは白らけてしか見えなかった。彼は二階の机に向い、ぼんやり煙草ばかりふかしていた。
 どうして総てがこう自分には白い歯を見せるのか、運命というものが、自分に対し、そういうものだとならば、そのように自分も考えよう。勿論子を失う者は自分ばかりではない、その子が丹毒で永く苦しんで死ぬというのも自分の子にだけ与えられた不幸ではない、それは分っているが、ただ、自分は今までの暗い路をたどって来た自分から、新しいもっと明かるい生活に転生(てんしょう)しようと願い、その曙光を見たと思った出鼻に、初児の誕生という、喜びであるべき事を逆にとって、また、自分を苦しめて来る、其所に彼は何か見えざる悪意を感じないではいられなかった。僻(ひがみ)だ、そう想い直して見ても、彼はなおそんな気持から脱けきれなかった。

 

 直子の状況は、身体の不調を中心に描かれたが、謙作のほうは、精神的苦悩の面で語られる。

 思えば、そもそもの出生が、稀にみる不幸であったともいえる。それにまつわっての、最初の結婚話の破綻。さらに、お栄への恋とまたその破綻。自暴自棄になってもおかしくない境遇にいながら、やっとのことでつかんだ直子との結婚と、子どもの誕生。そこに「曙光を見た」と思った謙作を襲った苛酷な「運命」。

 「自分は今までの暗い路をたどって来た自分」というところに、「暗夜行路」という題名の芽生えがあるようだ。

 このまま、謙作の運命への思いを書き継げばいくらでも書いていけるのに、志賀直哉は、そうせずに、次の行で、こう書いて、筆をおく。


 霊雲院は衣笠村からそう遠くなかったから、謙作はよく歩いてお参りをして来た。


 この短い一文で、「暗夜行路」後篇「第三」は終結する。

 


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