日本近代文学の森へ 278 志賀直哉『暗夜行路』 165 名文 「後篇第四 十五」 その1
2025.3.5
その晩、謙作は夢を見た。
その夜、謙作は妙な夢を見た。
神社の境内は一杯の人出だ。ゆるい石段を人に押されながら登って行くと、遠く石段の上に大社造の新しい社(やしろ)が見える。今、其所(そこ)で儀式のような事が始まっている。しかし彼は群集に隔てられ、容易に其所へは近寄れなかった。
石段には参詣人の腰ほどの高さに丸太を組んで板を敷いた別の通路が出来ている。儀式が済むと生神様(いきがみさま)が其所を降(くだ)って来るという事が分っていた。
群集がどよめき立った。儀式が済んだのだ。白い水干(すいかん)を着た若い女──生神様が通路の端に現われた。そして五、六人の人を従え、急足(いそぎあし)に板敷の上を降って来た。身動きならぬままに押され押され少しずつ押上げられていた彼はこの時、もっとぐんぐん其方ヘ近寄って行きたい衝動を感じた。
生神様は湧立つ群集を意識しないかのように如何にも無雑作な様子で急いで板敷の路を降って来る。それは今鳥取から帰っているお由だった。彼はそれを今見て知ったのか、最初から知っていたのか分らないが、とにかくその女の無表情な余り賢い感じのしない顔は常の通りだった。そしてそれは常の通りに美しくもあった。なおそれよりも生神様に祭上げられながら少しも思いあがった風のないのは大変いいと彼は思った。彼はお由が生神様である事に少しも不自然を感じなかった。むしろこの上ない霊媒者である事を認めた。
お由はほとんど馳けるようにして彼の所を過ぎて行った。長い水干の袖が彼の頭の上を擦って行った。その時彼は突然不思議なエクスタシーを感じた。彼は恍惚としながら、こうして群集はあの娘を生神様と思い込むのだ──そんな事を考えていた。
夢は覚めた。覚めて妙な夢を見たものだと思った。群集は前日の団体が夢に入って来たに違いない。ただあの不思議なエクスタシーは何であろう。そう考えて、夢ではそう感じなかったが、今思うと、それには性的な快感が多分に含まれていたように思い返され、彼は変な気がした。そんな事とは遠い気分でいるはずの自分がそんな夢を見るのはおかしな事だと思った。
また、「変な気がした。」なんて言っている。
謙作がお由を、美しいと思い、隣の部屋に寝るといったお由に不埒な期待を抱いたからか、この夢の中の「不思議なエクスタシー」は、「そんな事とは遠い気分でいるはずの自分がそんな夢を見るのはおかしな事だと思った。」などととぼけているが、読者からすれば、「変」でも「おかしな事」でもない。それなのに、どうして、とぼけるのだろう。
謙作は、自分の中に巣くう「性欲」を直視したくないのかもしれない。直視したって、どうなるというわけでもないのだが、謙作がこんな山奥にまで来ることになったのも、人間の「性欲」のせいである。その「性欲」が引き起こした事件に、謙作がそれこそ不思議なほどイライラして、(といっても、妻の不義にイライラしない方がよほど不思議なわけなのだが)走り出した列車に乗ろうとしていた妻をホームに突き落とすというあるまじき振る舞いを生んでしまった。その結果として、妻との関係がこじれてしまい、その生活に耐えらなくなって、自分を変えるために山奥までやって来たのだ。謙作はここで生まれ変わるつもりなのだ。
それなのに、目の前に現れた娘に好感を抱き、夢にまで娘が出てきてしまい、あろうことか、「性的快感」「エクスタシー」を感じてしまう。これじゃ、なんにもならないじゃないか、という謙作の気持ちを、「とぼける」という心理的態度で打ち消そうとしているのだろうか。
さて、その翌日。
翌朝(あくるあさ)、軒に雨だれの音を聴きながら眼を覚ました。彼は起きて、自ら雨戸を繰った。戸外(そと)は灰色をした深い霧で、前の大きな杉の木が薄墨色にぼんやりと僅(わずか)にその輪郭を示していた。流れ込む霧が匂った。肌には冷々(ひえびえ)気持がよかった。雨と思ったのは濃い霧が萱(かや)屋根を滴となって伝い落ちる音だった。山の上の朝は静かだった。鶏の声が遠く聴えた。庫裏(くり)の方ではもう起きているらしかった。彼は楊枝と手拭(てぬぐい)とを持って戸外へ出た。そして歯を磨きながらその辺を歩いていると、お由が十能(じゅうのう)におき火を山と盛って庫裏から出て来た。
「夜前(やぜん)は彼方(むこう)へ寝て往生しました。団体の人たちが騒ぐので、やや児が眠られんのですわ」
「少しは聴えたが、此方(こっち)はそんなにもやかましく思わなかった」
「よっぽど引越ししょう思うて来て見ましたが、ようやすんでられる風じゃでやめました」
相変わらず、素晴らしい自然描写だ。名文である。
丸谷才一は、「名文」とは何かを定義して、「君が読んで感心すれば、それが名文である。」(『文章読本』)と身も蓋もないことを言っているが、そのことを書く前に、志賀直哉の文章(『焚火』)を引用することを忘れてはいない。
名文の定義は、その後にくるオマケみたいなもので、ちゃんとこんなふうに言っている。
名文から言葉づかいを学ぶなどと言へば、人々はとかく、大時代な美文、虚しい装飾、古人の糖粕をなめる作文術を連想しがちなやうである。しかしわたしがここで言ひたいのは美文がどうのかうのといふやうなことではなく、もつと一般的な事情にすぎない。落ちついて考へてもらひたいのだが、われわれはまつたく新しい言葉を創造することはできないのである。
可能なのはただ在来の言葉を組合せて新しい文章を書くことで、すなはち、言葉づかひを歴史から継承することは文章を書くといふ行為の宿命なのだ。それゆゑ、たとへば志賀直哉の、
こう言ってから、志賀の『焚火』を引用して、それを「達意で平明な写生文」だとするのだ。引用されているのは、次の部分である。
Kさんは勢よく燃え残りの薪(たきぎ)を湖水へ遠く抛(はふ)った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行つた。それが、水に映つて、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了(しま)ふ。そしてあたりが暗くなる。それが面白かつた。皆で抛つた。Kさんが後に残つたおき火を櫂で上手に水を撥ねかして了つた。
舟に乗つた。取りの焚火はもう消えかかつて居た。舟は小鳥島を廻って、神社の森の方へ静かに滑つて行つた。梟の聲が段々遠くなつた。
この『焚火』の一文は、名文の一例として丸谷ならずとも、たびたび引かれているが、こうした「達意で平明な写生文」が『暗夜行路』の至る所に見られることは、さんざん書いてきたことでもある。
まずは、朝の目覚め。「軒に雨だれの音を聴きながら眼を覚ました。」と聴覚による描写だ。今の建物に住む者にとってはため息が出るほど羨ましい状況だ。(子どものころ、こんなことがあったかもしれない。)
「彼は起きて、自ら雨戸を繰った。」と書いて、自分が我が家ではなくて、旅の宿にいることを示す。我が家なら、謙作はそんなことは自分ではしないはずだからだ。
そして、次には、視覚による描写がくる。澄んだ墨色でさっと描かれた水墨画のような光景が広がるかと思うと、「流れ込む霧が匂った。」と嗅覚に訴え、「肌には冷々(ひえびえ)気持がよかった。」と触覚を刺激する。
「雨と思ったのは濃い霧が萱(かや)屋根を滴となって伝い落ちる音だった。」と書くことで、そこにゆるやかな時間の流れを感じさせ、雨から霧へのイメージの転換をしたあと、「山の上の朝は静かだった。鶏の声が遠く聴えた。」と聴覚に戻る。この「音」で、空間が横へ奥へと、ぐっと広がる。
その空間の中に、そこに住む人々の暮らしを「庫裏(くり)の方ではもう起きているらしかった。」と点描するのだが、これは、聴覚と視覚の融合だ。庫裏のほうから聞こえてくる炊事などの音、そして、そこから立ち上る煙。
五官で、ここにないのは味覚だけだが、朝の食事を予感させる「庫裏」の様子から、近未来の「味」が期待されていると考えれば、五官総動員で描かれているといっていい。
実に見事なもので、これはもう、情景描写というのはこう書くものですよ、というお手本のようなものだ。昔の作家たちは、志賀の文章を書写したものだとよく言われるが、それも頷ける話である。
さて、そこへお由がやって来て会話が始まる。「謙作の夢の中のお由とは大分異(ちが)っていた。」とあるが、当たり前である。こんな当たり前なことをわざわざ書くというのは、謙作がまだ妄想的な夢から覚めきっていないからだろう。
それはそうと、そのお由との会話が、謙作がここでよく話し込むことのあった屋根屋の「竹さん」という若者の意外な一面を浮かび上がらせることになる。