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日本近代文学の森へ 278 志賀直哉『暗夜行路』 165 名文 「後篇第四 十五」 その1

2025-03-05 10:08:57 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 278 志賀直哉『暗夜行路』 165 名文 「後篇第四 十五」 その1

2025.3.5


 

 その晩、謙作は夢を見た。

 

 その夜、謙作は妙な夢を見た。
 神社の境内は一杯の人出だ。ゆるい石段を人に押されながら登って行くと、遠く石段の上に大社造の新しい社(やしろ)が見える。今、其所(そこ)で儀式のような事が始まっている。しかし彼は群集に隔てられ、容易に其所へは近寄れなかった。
 石段には参詣人の腰ほどの高さに丸太を組んで板を敷いた別の通路が出来ている。儀式が済むと生神様(いきがみさま)が其所を降(くだ)って来るという事が分っていた。
 群集がどよめき立った。儀式が済んだのだ。白い水干(すいかん)を着た若い女──生神様が通路の端に現われた。そして五、六人の人を従え、急足(いそぎあし)に板敷の上を降って来た。身動きならぬままに押され押され少しずつ押上げられていた彼はこの時、もっとぐんぐん其方ヘ近寄って行きたい衝動を感じた。
 生神様は湧立つ群集を意識しないかのように如何にも無雑作な様子で急いで板敷の路を降って来る。それは今鳥取から帰っているお由だった。彼はそれを今見て知ったのか、最初から知っていたのか分らないが、とにかくその女の無表情な余り賢い感じのしない顔は常の通りだった。そしてそれは常の通りに美しくもあった。なおそれよりも生神様に祭上げられながら少しも思いあがった風のないのは大変いいと彼は思った。彼はお由が生神様である事に少しも不自然を感じなかった。むしろこの上ない霊媒者である事を認めた。
 お由はほとんど馳けるようにして彼の所を過ぎて行った。長い水干の袖が彼の頭の上を擦って行った。その時彼は突然不思議なエクスタシーを感じた。彼は恍惚としながら、こうして群集はあの娘を生神様と思い込むのだ──そんな事を考えていた。
 夢は覚めた。覚めて妙な夢を見たものだと思った。群集は前日の団体が夢に入って来たに違いない。ただあの不思議なエクスタシーは何であろう。そう考えて、夢ではそう感じなかったが、今思うと、それには性的な快感が多分に含まれていたように思い返され、彼は変な気がした。そんな事とは遠い気分でいるはずの自分がそんな夢を見るのはおかしな事だと思った。

 

 また、「変な気がした。」なんて言っている。

 謙作がお由を、美しいと思い、隣の部屋に寝るといったお由に不埒な期待を抱いたからか、この夢の中の「不思議なエクスタシー」は、「そんな事とは遠い気分でいるはずの自分がそんな夢を見るのはおかしな事だと思った。」などととぼけているが、読者からすれば、「変」でも「おかしな事」でもない。それなのに、どうして、とぼけるのだろう。

 謙作は、自分の中に巣くう「性欲」を直視したくないのかもしれない。直視したって、どうなるというわけでもないのだが、謙作がこんな山奥にまで来ることになったのも、人間の「性欲」のせいである。その「性欲」が引き起こした事件に、謙作がそれこそ不思議なほどイライラして、(といっても、妻の不義にイライラしない方がよほど不思議なわけなのだが)走り出した列車に乗ろうとしていた妻をホームに突き落とすというあるまじき振る舞いを生んでしまった。その結果として、妻との関係がこじれてしまい、その生活に耐えらなくなって、自分を変えるために山奥までやって来たのだ。謙作はここで生まれ変わるつもりなのだ。

 それなのに、目の前に現れた娘に好感を抱き、夢にまで娘が出てきてしまい、あろうことか、「性的快感」「エクスタシー」を感じてしまう。これじゃ、なんにもならないじゃないか、という謙作の気持ちを、「とぼける」という心理的態度で打ち消そうとしているのだろうか。

 さて、その翌日。

 

 翌朝(あくるあさ)、軒に雨だれの音を聴きながら眼を覚ました。彼は起きて、自ら雨戸を繰った。戸外(そと)は灰色をした深い霧で、前の大きな杉の木が薄墨色にぼんやりと僅(わずか)にその輪郭を示していた。流れ込む霧が匂った。肌には冷々(ひえびえ)気持がよかった。雨と思ったのは濃い霧が萱(かや)屋根を滴となって伝い落ちる音だった。山の上の朝は静かだった。鶏の声が遠く聴えた。庫裏(くり)の方ではもう起きているらしかった。彼は楊枝と手拭(てぬぐい)とを持って戸外へ出た。そして歯を磨きながらその辺を歩いていると、お由が十能(じゅうのう)におき火を山と盛って庫裏から出て来た。
 「夜前(やぜん)は彼方(むこう)へ寝て往生しました。団体の人たちが騒ぐので、やや児が眠られんのですわ」
 「少しは聴えたが、此方(こっち)はそんなにもやかましく思わなかった」
 「よっぽど引越ししょう思うて来て見ましたが、ようやすんでられる風じゃでやめました」

 


 相変わらず、素晴らしい自然描写だ。名文である。

 丸谷才一は、「名文」とは何かを定義して、「君が読んで感心すれば、それが名文である。」(『文章読本』)と身も蓋もないことを言っているが、そのことを書く前に、志賀直哉の文章(『焚火』)を引用することを忘れてはいない。

 名文の定義は、その後にくるオマケみたいなもので、ちゃんとこんなふうに言っている。

 

 名文から言葉づかいを学ぶなどと言へば、人々はとかく、大時代な美文、虚しい装飾、古人の糖粕をなめる作文術を連想しがちなやうである。しかしわたしがここで言ひたいのは美文がどうのかうのといふやうなことではなく、もつと一般的な事情にすぎない。落ちついて考へてもらひたいのだが、われわれはまつたく新しい言葉を創造することはできないのである。
 可能なのはただ在来の言葉を組合せて新しい文章を書くことで、すなはち、言葉づかひを歴史から継承することは文章を書くといふ行為の宿命なのだ。それゆゑ、たとへば志賀直哉の、

 

 こう言ってから、志賀の『焚火』を引用して、それを「達意で平明な写生文」だとするのだ。引用されているのは、次の部分である。


 Kさんは勢よく燃え残りの薪(たきぎ)を湖水へ遠く抛(はふ)った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行つた。それが、水に映つて、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了(しま)ふ。そしてあたりが暗くなる。それが面白かつた。皆で抛つた。Kさんが後に残つたおき火を櫂で上手に水を撥ねかして了つた。
 舟に乗つた。取りの焚火はもう消えかかつて居た。舟は小鳥島を廻って、神社の森の方へ静かに滑つて行つた。梟の聲が段々遠くなつた。


 この『焚火』の一文は、名文の一例として丸谷ならずとも、たびたび引かれているが、こうした「達意で平明な写生文」が『暗夜行路』の至る所に見られることは、さんざん書いてきたことでもある。

 まずは、朝の目覚め。「軒に雨だれの音を聴きながら眼を覚ました。」と聴覚による描写だ。今の建物に住む者にとってはため息が出るほど羨ましい状況だ。(子どものころ、こんなことがあったかもしれない。)

 「彼は起きて、自ら雨戸を繰った。」と書いて、自分が我が家ではなくて、旅の宿にいることを示す。我が家なら、謙作はそんなことは自分ではしないはずだからだ。

 そして、次には、視覚による描写がくる。澄んだ墨色でさっと描かれた水墨画のような光景が広がるかと思うと、「流れ込む霧が匂った。」と嗅覚に訴え、「肌には冷々(ひえびえ)気持がよかった。」と触覚を刺激する。

 「雨と思ったのは濃い霧が萱(かや)屋根を滴となって伝い落ちる音だった。」と書くことで、そこにゆるやかな時間の流れを感じさせ、雨から霧へのイメージの転換をしたあと、「山の上の朝は静かだった。鶏の声が遠く聴えた。」と聴覚に戻る。この「音」で、空間が横へ奥へと、ぐっと広がる。

 その空間の中に、そこに住む人々の暮らしを「庫裏(くり)の方ではもう起きているらしかった。」と点描するのだが、これは、聴覚と視覚の融合だ。庫裏のほうから聞こえてくる炊事などの音、そして、そこから立ち上る煙。

 五官で、ここにないのは味覚だけだが、朝の食事を予感させる「庫裏」の様子から、近未来の「味」が期待されていると考えれば、五官総動員で描かれているといっていい。

 実に見事なもので、これはもう、情景描写というのはこう書くものですよ、というお手本のようなものだ。昔の作家たちは、志賀の文章を書写したものだとよく言われるが、それも頷ける話である。

 さて、そこへお由がやって来て会話が始まる。「謙作の夢の中のお由とは大分異(ちが)っていた。」とあるが、当たり前である。こんな当たり前なことをわざわざ書くというのは、謙作がまだ妄想的な夢から覚めきっていないからだろう。

 それはそうと、そのお由との会話が、謙作がここでよく話し込むことのあった屋根屋の「竹さん」という若者の意外な一面を浮かび上がらせることになる。

 

 


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日本近代文学の森へ 277 志賀直哉『暗夜行路』 164  不味い米と美しい娘  「後篇第四 十四」 その2

2025-02-16 20:50:51 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 277 志賀直哉『暗夜行路』 164  不味い米と美しい娘  「後篇第四 十四」 その2

2025.2.16


 

  彼は大山の生活には大体満足していたが、ただ寺の食事には閉口した。彼は出掛けに食料品を送る事を断った位で、粗食は覚悟していたが、其所まで予期出来なかったのは米の質が極端に悪い事だった。彼はそれまで米の質など余り気にする方ではなかったが、食うに堪えない米で我慢していると、いつか減食する結果になり身体が弱ってくるように思われた。
 寺の上(かみ)さんは好人物で彼の世話をよくした。山独活(やまうど)の奈良潰を作る事が得意で、それだけはうまかった。

 

 「食うに堪えない米」とは、どんな米なのか。現代の都会の人間からすると、田舎の米はうまいだろうと思いがちだが、この時代には、やれコシヒカリだの、ユメピリカだのといった米があるはずもなく、貧しい地方では、質の悪い米しか作れなかったのだろう。炊き方が悪かったとも考えられるが、カマドで炊いたのだろうから旨いはずで、それより、何日も前に炊いた米を温め直したのかもしれない。「炊きたて」というわけにもいかなかったのだろう。こうした当時の食料事情というのは、なかなか分からないものである。

 山独活の奈良漬けというのは、確かに旨そうだ。ぼくは奈良漬けはあんまり好きじゃないけど。しかし、これしか旨くなかったということは、他にいったいどんなものが供されたのだろうか。


 鳥取へ嫁入った寺の娘が赤児を連れて来ていた。十七、八の美しい娘だった。座敷へは余り入って来なかったが、彼の窓の下へ来てよく話した。
 「やや児のような者にやや児が出来てどうもなりません」娘はこんな事をいって笑った。人からいわれたのをそのまま真似していっているとしか思われなかった。母親一人で忙しく働いているのに娘はいつも赤児を抱いてぶらぶらしていた。謙作はこの娘に対して別に何の感情をも持たなかったが、娘がよ<窓の外へ来て立話をして行く気持には、娘ながらに、既に人妻となったという事で男を恐れなくなったのだと思った。そして彼は直子の過失も直子がまだもし処女であったら、あるいはああいう事は起らなかったのではなかろうかと考えたりした。


 「娘ながらに、既に人妻となったという事で男を恐れなくなったのだと思った。」とあるのは、なんでもないようなことだが、ちょっとハッとする。当時は、「人妻になる」ということは「処女を失う」ことに他ならなかったのだから、「処女である」ということが「男を恐れる」原因となる。「処女を失う」ことは、「お嫁にいけなくなる」ことを直接に意味していたからだ。今ではまるでバカバカしいことではあるが、時代というのはオソロシイもので、あの田山花袋の『蒲団』では、女弟子に惚れてしまった先生が、その女弟子に彼氏ができたとき、女弟子に「処女の喪失」が起きていないかということを、まるで気が狂ったように執拗に問い詰める場面がある。場面があるどころじゃない。それが主題かと思われるほど執拗である。つまりは、それほど、「処女であること」が「結婚」にとって、大問題だったということだ。

 だから、というわけでもないが、謙作が「直子の過失も直子がまだもし処女であったら、あるいはああいう事は起らなかったのではなかろうかと考えたりした。」というのは、「ああいうこと」が、「人妻の過失」であるにもかかわらず、「もし処女であったら」というような矛盾した仮定をしてしまうというのも、直子が人妻となって処女を失ったから、男に対してルーズになったのかもしれないと思ってしまったからだろう。

 道徳的に考えれば、「人妻」となったからこそ、「ああいうこと」をしないように自分を律していくべきだということになるのだろうが、謙作の頭の中では、「処女性」が大きなウエイトを占めるから、こうした矛盾が生じてしまうのではなかろうか。


 ある日、寺の上さんが手紙を持って謙作の所へ相談に来た。四、五十人の団体の申込みだった。
 「どうしましょう」
 しかし謙作には分らなかった。
 「炊事は出来るんですか」
 「出来ん事はありません」
 「そんなら引受けたらどうですか。──もっとも私はなんにも手伝えないが」
上さんはなお迷うらしく少時(しばらく)考えていたが、遂に引うける事に決心した。そして独言のように、「お由(よし)がもう少し役に立っといいんだけど」といった。
 「赤ちゃんがいるから……それより竹さんをお頼みなさい」
竹さんというのは麓の村の屋根屋で、大山神社の水屋の屋根の葺きかえに来ている若者だった。板葺の厚い屋根で、山の木で、その折板(へぎ)から作ってかかるので一人為事(しごと)では容易な業ではなかった。寝泊(ねとまり)食事は寺の方にしてもらって、その労力を奉納するのだという話だった。謙作はこの人に好意を持ち、仕事をしているところで、よく話込むことがあった。
謙作は引受ける返事の端書を書かされた。
 二、三日して謙作は机に椅(よ)り、ぼんやりしていると、下の路から上さんが「来ました、来ました」とせかせか石段を馳登(かけのぼ)って来た。
 如何にも大事件らしいその様子がおかしかった。珍らしくもなさそうな事を何故こんなに騒ぐのかと思った。しかしいつもは和尚も働くらしく、上さん一人ではそれは大分重荷だったに違いない。上さんは午後になって何度か坂の上まで見に行ったが、今、四、五十人の人がぞろぞろ河原を渡って来るのを見、そんなに興奮しているのであった。
 間もなく団体の連中が着くと、寺の方は急に騒がしくなった。謙作は手伝えるものならば手伝ってやりたいと思ったが、出来ないので、そのまま散歩に出た。
 日が暮れ、彼が還って暫くして漸(ようや)く晩飯が赤児を抱いた娘の手で運ばれた。
 「自分でつけるから構いませんよ」
 「どうせ何もしないんですから」そして娘は笑いながら、「今夜は旦那さんの傍(わき)に寝させてもらいます」といった。
 謙作はちょっと返事に困った。勿論傍というのはこの離れの玄関の間の事だろうとは思ったが、きっと蚊帳などは足りなくなっているに違いないので、多少まぎらわしい気もするのであった。
 その夜、謙作はいつものようにして寝た。娘はそれきり顔を出さなかった。それで当り前なのだが、彼は娘が何故不意にそんな事をいい出したか不思議な気がした。


 謙作が滞在した「蓮浄院」という寺は、実在した寺である。「蓮浄院は、江戸時代中期に建てられた大山寺の支院のひとつで、以前は宿坊・旅館業として運営されていたが、平成2年に住職が亡くなった後は、旅館業も廃業。平成8年に無人となってからは、老朽化が進んでいた。」(「だいせん議会だより 第5号」 ここでの「質問」の中に、「志賀直哉の暗夜行路執筆の地、蓮浄院は…」とあるが、間違いである。「執筆の地」ではなくて「滞在の地」である。)ということだが、その後、改修などをめぐってゴタゴタがあり、改修も進まないうちに大雪で建物は崩壊。どうやら、現在は「蓮浄院跡」となっているらしい。

 志賀直哉は松江在住のころ、ここに10日間ほど滞在したことがあり、その記憶を頼りに『暗夜行路』の部分を書いたと言われている。その執筆は、滞在してから24年ほど後なので、やっぱり志賀直哉の記憶力というのはすごい。

 四、五十人もの客を受け入れることができるというのだから、相当大きな宿坊だったのだろう。神奈川県の大山(おおやま)も、「大山詣で」で有名だが、こちらの大山(だいせん)も、「大山参り」が盛んだったわけである。

 この寺のお上さんの慌てぶりが面白い。坂の上から「四、五十人の人がぞろぞろ河原を渡って来るのを見」たという描写も短いながら、鮮明だ。

 それにしても、この「お由」という娘。どうも気になる。志賀が「不思議な気がした」と書くときは、注意しなくてはならない。「お由」が、「今夜は旦那さんの傍(わき)に寝させてもらいます」と言ったのは、どういう意味だったのか、謙作は、「不思議」に思うのだが、謙作は、そこに性的なニュアンスがを嗅ぎ取っているのだ。

 「勿論傍というのはこの離れの玄関の間の事だろうとは思ったが、きっと蚊帳などは足りなくなっているに違いないので、多少まぎらわしい気もするのであった。」というのも、なにがどう「まぎらわしい」のか、よく分からない。蚊帳が足りないので、娘が、自分の蚊帳に入れてくれとでも言ってくるのかと思い、それはヤバいとか思ったのだろうか。そんな不埒な想像をちょっとでも巡らしたため、その晩、娘が顔を出さなかったのを「それで当り前なのだが」と書く。つまり、謙作は、「当たり前じゃないこと」を期待、といってはいいすぎだけど、ちょっと頭をかすめたということなんじゃないだろうか。そういえば、この娘が登場したとき、「十七、八の美しい娘だった。」と書いている。「美しい娘」というだけでは、別に「客観的」な記述かもしれないが、場合によっては「主観的」な記述ともいえる。だから、とっさに、言い訳のように「謙作はこの娘に対して別に何の感情をも持たなかったが」と書くことになるのだ。この「別に何の感情をも持たなかった」という記述が、この晩の謙作の「不埒な想像」への言い訳(?)になっているのかもしれない。

 とにかく、この辺りは、謙作の感情というか、生理というか、そんなものが、微妙に揺れ動き、なかなか面白いところである。

 この謙作の感情・生理の微妙な揺れは、その晩に見た夢となって具体的な形をとる。それは次の「十五」の冒頭から語られることになる。

 

 


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日本近代文学の森へ 276 志賀直哉『暗夜行路』 163  「自然」の美しさ  「後篇第四 十四」 その1 

2025-01-09 14:07:01 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 276 志賀直哉『暗夜行路』 163  「自然」の美しさ  「後篇第四 十四」 その1 

2025.1.9


 

 謙作は、常連院に腰を据えることとなった。


 永年、人と人と人との関係に疲れ切ってしまった謙作には此所(ここ)の生活はよかった。彼はよく阿弥陀堂という三、四町登った森の中にある堂へ行った。特別保護建造物だが、縁(えん)など朽ち腐れ、甚(ひど)く荒れはてていた。しかしそれがかえって彼には親しい感じをさせた。縁へ登る石段に腰かけていると、よく前を大きな蜻蜓(やんま)が十間ほどの所を往ったり来たりした。両方に強く翅(はね)を張って地上三尺ばかりの高さを真直ぐに飛ぶ。そして或る所で向きを変えるとまた真直ぐに帰って来る。翡翠の大きな眼、黒と黄の段だら染め、細くひきしまった腰から尾への強い線、───みんな美しい。殊にその如何にもしっかりした動作が謙作にはよく思われた。彼は人間の小人(しょうじん)、───例えば水谷のような人間の動作とこれと較べ、どれだけかこの小さな蜻蜓の方が上等か知れない気がした。二、三年前京都の博物館で見た鷹と金鶏鳥(きんけいちょう)の双幅(そうふく)に心を惹れたのも要するに同じ気持だったろうと、それを憶い出した。
 彼は石の上で二匹の蜥蜴(とかげ)が後足で立上ったり、跳ねたり、からまり合ったり、軽快な動作で遊び戯れているのを見、自らも快活な気分になった。
 彼はまた此所に来て鶺鴒(せきれい)が駈けて歩く小鳥で、決して跳んで歩かないのに気がついた。そういえば烏は歩いたり、跳んだりすると思った。
 よく見ていると色々なものが総て面白かった。彼は阿弥陀堂の森で葉の真中に黒い小豆粒のような実を一つずつ載せている小さな灌木を見た。掌(てのひら)に大切そうにそれを一つ載せている様子が、彼には如何にも信心深く思われた。

 

 荒れはてた阿弥陀堂、さまざまな生きものたち、それらは、「人と人と人との関係に疲れ切ってしまった謙作」(「人と人と人との関係」と「人と」の3回の繰り返しは、最初誤植かと思ったが、そうでもないらしい。かなりの破格。)の心にしみこんだ。これを「癒やし」というのは昨今のはやりだが、できるだけこの「癒やし」という言葉を避けたい。なんでもかんでも「ああ、癒やされる〜」と言ってしまうことで、繊細な人間と自然とが交流し、交感するような感じが抜け落ちてしまうような気がするからだ。


 志賀直哉という人は、自然観察をほんとうに細かく観察する人だ。その観察を正確に描写するのも得意なことは、今まで何度も言ってきたとおりだ。名作『城の崎にて』が生まれる所以である。

 ここに出てくる「蜻蜓(やんま)」は、その描写からオニヤンマであることがわかる。オニヤンマが、林の中などを、同じコースで何度も往復するのは有名なことだが、志賀はそれを何度も見て来たのだろう。そのオニヤンマの習性を描きながら、眼の色、体の模様、体の線・形を、「みんな美しい」とする。普通の作家は、トンボが飛んでいるところを描写することはあっても、点景どまりで、そのトンボにここまで神経を集中することはないし、それを「美しい」とも言わない。まして、それを人間と比較して、オニヤンマのほうが人間より「よほど上等だ」とまでは書かないし、思わない。ところが、謙作は、京都の博物館の絵に感動したのも、もとはといえば、こうした「自然」への感動があったと回想するのだ。
 

 トカゲのじゃれ合い(おそらく交尾の行動だろう)、そしてセキレイの観察。確かに、セキレイは、ハクセキレイでもキセキレイでも、地上ではぴょんぴょん跳びはねない。すばやく歩くのだ。長い距離を移動するときは、鳴きながら、波形に飛んでいく。

 余計な話だが、鳥には、地上では、「歩く」鳥と、「跳ねる」鳥がいる。「歩く=ウオーキング」「跳ねる=ホッピング」というが、身近なスズメなどは、決してウオーキングしない。いつも、ホッピングだ。もっと身近なハト(ドバトでも、キジバトでも)は、絶対にホッピングしない。いつもウオーキングだ。これがカラスになると、ハシブトガラスは、あまり地上を歩かないが、ハシボソガラスは、よく歩くし、ときどきホッピングもする、というように、鳥の行動というのも、種類によってずいぶん違うのだが、その辺のところを、志賀直哉は、しっかり見ている。鳥好きのぼくは、感動してしまう。

 ついで書いておけば、「葉の真中に黒い小豆粒のような実を一つずつ載せている小さな灌木」というのは、ハナイカダであろう。葉の上に実がなるおもしろい木だが、それを、「掌(てのひら)に大切そうにそれを一つ載せている様子が、彼には如何にも信心深く思われた。」と書くのも、心ひかれるところである。

 謙作は、今まで自分が生きてきた「人間関係」の世界と、この自然を対比して、自然の「美しさ」に圧倒される。それは何も珍しいことでもなく、新奇なことでもない。ごく一般に、多くの人間が感じ続けてきたことだ。

 けれども、どうして、自然は「美しい」のだろうか。なぜ「オニヤンマ」は「水谷のような人間」より「上等」なのだろうか。この水谷とオニヤンマとの比較をもう少し詳しく読むと、オニヤンマの「如何にもしっかりした動作」が「人間の小人(しょうじん)、────例えば水谷のような人間の動作」と比較されていることが分かる。この「動作」というのは、言葉としてはなんらかの「行動」を意味するだろうが、しかし、もう少し広くとると「有りよう」とか「姿」とかいうところまで意味するとも言える。

 オニヤンマは、太古の時代から、ずっと変わらず(もちろん幾多の進化を遂げたわけだろうが)、同じ形、色、線を保持して、堂々と同じ行動を繰り返す。そこに一点の迷いもない。体の黒と黄色の模様を恥じて、緑にしたいとか、同じ道を往復するのに飽きて、上下運動に切り替えるとかもしない。確固とした存在なのだ。

 それにくらべて、水谷のような小人は(いや小人でなくとも、たとえば謙作自身でも)、いつもおどおど周囲を気にして、右往左往している。絶世の美人でも、眉間に皺を寄せ、将来を悲観することもあるだろう。そこには「如何にもしっかりした動作」がないのだ。そして、それこそが、人間の人間たる所以なのだ。だから最初から勝負にならない。自然を前にした人間は、いつも圧倒され、畏怖するしかない。自然は、いつも、いつまでも「美しい」のだ。

 自然と人間を対比するとき、どうしても「雄大な大自然」と「ちっぽけな人間」の対比になりがちだが、謙作は、ちいさなトンボや、トカゲや、セキレイに、「自然」の美を発見し、それを「小人たる人間」と対比的に語るのだ。

 大山に行って悟る、というストーリーの中で、この「小さな自然」への眼差しは、注目に値する。

 

 人と人との下らぬ交渉で日々を浪費して来たような自身の過去を顧み、彼は更に広い世界が展(ひら)けたように感じた。
 彼は青空の下、高い所を悠々舞っている鳶の姿を仰ぎ、人間の考えた飛行機の醜さを思った。彼は三、四年前自身の仕事に対する執着から海上を、海中を、空中を征服して行く人間の意志を讃美していたが、いつか、まるで反対な気持になっていた。人間が鳥のように飛び、魚のように水中を行くという事は果して自然の意志であろうか。こういう無制限な人間の欲がやがて何かの意味で人間を不幸に導くのではなかろうか。人智におもいあがっている人間は何時(いつ)かそのため酷い罰を被る事があるのではなかろうかと思った。
 かつてそういう人間の無制限な欲望を讃美した彼の気持は何時かは滅亡すべき運命を持ったこの地球から殉死させずに人類を救出そうという無意識的な意志であると考えていた。当時の彼の眼には見るもの聞くもの総てがそういう無意識的な人間の意志の現われとしか感ぜられなかった。男という男、総てそのため焦っているとしか思えなかった。そして第一に彼自身、その仕事に対する執着から苛立ち焦る自分の気持をそう解するより他はなかったのである。
 しかるに今、彼はそれが全く変っていた。仕事に対する執着も、そのため苛立つ気持もありながら、一方遂に人類が地球と共に滅びてしまうものならば、喜んでそれも甘受出来る気持になっていた。彼は仏教の事は何も知らなかったが、涅槃(ねはん)とか寂滅為楽(じゃくめついらく)とかいう境地には不思議な魅力が感ぜられた。

 


 『暗夜行路』には、何ヶ所かに飛行機が出てくる。この小説が書かれた当時は、飛行機が驚きをもって迎えられた時代だからだろうが、この飛行機が「文明」の象徴のようにここでは扱われている。

 「青空の下、高い所を悠々舞っている鳶の姿を仰ぎ、人間の考えた飛行機の醜さを思った。」という対比である。現代の人間が、こんなふうに感じることはほとんどないだろう。けれども、謙作は(志賀直哉は)、「人間の考えた飛行機」を「醜い」という。それは、人間の欲望が作り出したものだからだ、というのだ。

 「かつての」謙作は、飛行機などの文明は、人類を滅亡から救うための「無意識的な意志」の表れだと思っていたが、それがまったく変わってしまって、「人類が地球と共に滅びてしまうものならば、喜んでそれも甘受出来る気持になっていた」とまでいう。


 この激しい気持ちの変化は、やや唐突の感があるが、長い謙作の苦悩の中で、徐々に醸成されてきたのだろう。仏教への関心も、そうした経緯の中で、生まれてきたものだろう。

 厳しい戒律的なキリスト教から離脱した謙作にとっては、当然の関心の行方だったともいえる。

 それにしても、「男という男、総てそのため焦っているとしか思えなかった。」という部分には、「時代」の雰囲気を強く感じる。少なくとも当時のエリート男性は、なんとかして、世界を救わなければならないと真剣に思い詰めていたのかもしれない。


 彼は信行に貰った『臨済録』など少しずつ読んで見たが、よく分らぬなりに、気分はよくなった。鳥取で求めて来た『高僧伝』は通俗な読物ではあったが、恵心僧都(えしんそうず)が空也上人(くうやしょうにん)を訪ねての問答を読みながら彼は涙を流した。
 「穢土(えど)を厭い浄土を欣(よろこ)ぶの心切(こころせつ)なれば、などか往生を遂げざらん」
 簡単な言葉だが、彼は恵心僧都と共に手を合せたいような気持がした。
 彼は天気がよければ大概二、三時間は阿弥陀堂の縁(えん)で暮らした。夕方はよく河原へ出て、夏蜜柑位の石を河原の大きい石にカ一杯投げつけたりした。《かあん》と気持よく当って、それが更に他の石から石と幾度にも弾んで行く。それがうまく行った時は彼はわけもない満足を覚えながら帰って来るが、どうしても、うまく行かない時は意地になって根気よく投げた。

 


 禅に凝っている兄の信行から貰った『臨済録』を読んで、「よく分らぬなりに、気分はよくなった」というのも、謙作らしい感想である。「気分」こそ、謙作の心の「軸」だからだ。恵心僧都と空也上人の問答を読んで「涙を流した」のも、「恵心僧都と共に手を合せたいような気持がした」のも、そこに宗教的真実を探り当てたというよりは、みな「気分」の問題である。

 「気分」の問題だからといって、謙作の態度を責めているのではない。人間はどうしたら「気分」よく生きていけるかということは、考えてみれば、いちばん大事な問題なのかもしれない。

 河原の石を投げて、大きい石に「気持ちよく当たった」ときの「わけもない満足」以上の「生きる喜び」は、人生にはないのかもしれない。そういう喜びがありさえすれば、人間はなんとかこの世に生きていけるのかもしれない。

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 275 志賀直哉『暗夜行路』 162  「リアル」のありか  「後篇第四 十三」 その2 

2024-12-29 14:35:22 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 275 志賀直哉『暗夜行路』 162  「リアル」のありか  「後篇第四 十三」 その2 

2024.12.29


 

 謙作は扇を使いながら、サイダーを飲み、それから遠い景色を眺めた。そして彼は二、三寸にのびた白髪頭の老人を背後(うしろ)から眺め、今、車夫に聞いた昔の爺(おやじ)とを想い較べ、それらが同じ場所に住んでいるだけに如何にも面白い対照に感じた。この老人にすればこれは毎日見ている景色であろう。それを厭(あ)かずこうして眺めている。一体この老人は何を考えているのだろう。勿論将来を考えているのではない。また恐らく現在を考えているのでもあるまい。長い一生、その長い過去の色々な出来事を老人は憶い出しているのではあるまいか。否、それさえ恐らく、今は忘れているだろう。老人は山の老樹(ろうじゅ)のように、あるいは苔むした岩のように、この景色の前にただ其所に置かれてあるのだ。そしてもし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。謙作はそんな気がした。彼にはその静寂な感じが羨ましかった。
 老人のいる左手の壁に寄せて、米俵がいくつか積上げてあった。その後ろで先刻(さっき)から何かゴソゴソ音がしていたが、不意に一疋(いっぴき)の仔猫(こねこ)が其所から米俵の上へ現われた。仔猫は両方の耳を前へ向け、熱心に今自分の飛出して来た所を覗き込んでいた。そして身体は凝っとしているが、長い尾だけが別の生き物のように勝手に動いていた。すると、下からも丸い猫の手がちょいちょい見えた。

 


 「車夫に聞いた昔の爺(おやじ)」というのは、寺に泥棒に入ってつかまって「海老責め」(ひどい拷問の仕方らしい)にされ、結局は米子で死刑になったという老人のことだ。そういう老人と、今ここに「枯れ木のように」座っている老人を、謙作は重ねてみている。そしてそれが「面白い対照」に思えてきたというのだ。

 この二人の老人はもちろん別人である。しかし、今ここに座っている老人の過去はいったいどうだったのだろう。この老人はどんな人生を送ってきたのだろう。謙作は、そんなふうに思ったのだろう。そして、この老人はいったい何を考えているのだろうと想像する。想像するが、それは誰にも分からない。

 「老人は山の老樹(ろうじゅ)のように、あるいは苔むした岩のように、この景色の前にただ其所に置かれてあるのだ。」と謙作は考える。何も考えていないのかもしれない。何かを思い出しているのかもしれない。でも、「もし何か考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考える程度にしか考えていないだろう。」と想像する。

 老人というのは、考えてみれば不思議なものである。自分が「老人」になって初めて分かったことだが、決して「老人」になったからといって「悟り」を得たり、日々平穏な気持ちで生きていられるわけではない、ということだ。心の煩わしさは、若い頃よりはマシだけど、若いころには感じたことのない、不安とかむなしさとか、もろもろの感情の揺れに悩まされているのが実態だ。

 この時点での謙作の年齢は29歳だから、まだ若者だ。そうは言っても、とても29歳には思えない。この件については、本多秋五がこんなことを言っている。

 

 『暗夜行路』を読んで、一番気になるのは主人公の年齢である。時任謙作が読者の前に登場したときほぼ二五歳だとすると、彼が伯者大山へ出かけるのはそれから五年目のことだから、ほぼ二九歳ということになる。伯誉大山の時任謙作がほぼ二九歳の青年だなどとは誰も思わないだろう。

(本多秋五『志賀直哉』岩波新書)

 

 しかし、29歳だというのだからしょうがない。しょうがないけど、どうして「29歳に見えない」のかというと、この部分を書いているとき、志賀直哉は書き始め(25歳)からすでに25年も経ち、50歳になっていたからだ。50歳になっていたとしても、フィクションとして、29歳らしい謙作を描きうるはずだが、どうも、「感じ方・考え方」が50歳の作者の影響を受けてしまっているのだというような論文がけっこうあるようだ。だから、これじゃ29歳とは思えないよなあと感じるのはしょうがないわけで、そこをつついても不毛だ。あるいは、『暗夜行路』は、駄作だという結論を出す人もいる。だから、それでも読み進めようと思う読者としては、29歳の謙作を目の前に据えなくてはならないわけだ。

 その29歳の謙作には、この老人の内面は想像することもできず、ただその佇まいを見て、「その静寂な感じが羨ましかった」というのである。「その静寂な感じ」は、あくまで謙作の印象なのであって、その老人が孤独と憂愁に包まれていないという保証はどこにもない。

 けれども、謙作にとって大事なのは、外界がどう自分に訴えかけてくるかということであって、その外界の一部である「老人」の内面の「リアル」ではない。

 「旦那も直しを一杯どうだね」と車夫は謙作に勧めるが、謙作は断る。米俵のあたりをちょろちょろしていた仔猫のことが話題になったりするこの辺の会話はのどかなもので、落語を聞いているようなゆったりした気分になる。

 そこへ、若い男がやってくる。


 乗馬ズボンに巻脚絆(まききゃはん)をした三十余りの男が入って来た。
 「やあ」そういって框(かまち)の所で後ろ向きになると、股を開き両手を腿に、さも疲れたようにドスンと腰を下ろした。「山田を探して山まで行ったが、おらなんだ。お婆さん、今日此処(ここ)を通らんかったかね?」
 「誰れが」
 「山田が」
 「見かけなかったね」
 「また御来屋(みくりや)へでも出掛けたかな」
 「昨日足を折った馬はどうしたかね」
 「それで山田を探してるんだが、いにゃあ仕方がない。殺して埋めちまおう」
 「山田さんの馬かい」
 「そうだ」
 「えらい損害だね」
 「時に、今日は肴は何だい」
 「鮭の塩びきは?」
 「塩びきか……。それより《するめ》でも焼いてもらおうか」
 婆さんは酒をつけ、するめを焼きながら、
 「今年は山でも蚊が出たそうだね」
 「そんな事も聴かなかったが、そうかね」
 「此処らは月初めから蚊帳を釣ってるよ」
 親猫は《するめ》の臭いで、五月蠅(うるさ)くその辺を立廻り、婆さんの裂いた《するめ》の皿へ鼻をつけそうにしてはそのたび、頭を叩かれ、眼を細くし、耳を寝かせていた。

 

 

 突然名前が飛び出してくる「山田さん」はいったいどこへ行ったのか。

 「御来屋」というのは、調べてみると「鳥取県西部、大山町の中心地区。大山町の町役場所在地。」とある。昔から大山の中心地のようだから、まあ当然遊郭などもあったのだろう。若い男の「また御来屋へでも出掛けたかな」には、そのニュアンスがある。というか、そのニュアンスしかない。

 それにしても、だからといって、馬を殺して埋めちゃうというのも乱暴な話だ。しかしまた、足を折った他人の馬を治療したり、毎日のエサを与えるような余裕はないのだろうし、飢えていく馬を見ているのも辛いということだろうか。のどかな山の中にも、「リアル」はある。

 猫の描写も相変わらずうまいものだ。

 

*「馬を殺して埋めちゃうというのも乱暴な話だ」というように書きましたが、読者の方から、馬という動物は、歩いたり走ったりして血液を循環させないと生きていけない動物なので、馬にとって足の骨折は致命的である。治療するにしても非常に困難なので、「殺して埋める」というのは、仕方のないことなのだというご指摘がありました。
 ぼくも、競馬馬の骨折が致命的だということは知っていましたが、この馬のような農耕馬(多分)の場合は、治療すればなんとかなるものだと思っていました。しかし、農耕馬であっても、馬にとって足の骨折が致命的である以上、「殺して埋める」ということしか選択肢はないでしょう。そうであれば、この「山田さん」に心境もよく分かってきます。自分が大事にしてきた馬が足を骨折してしまい、殺すしかない。けれども、おそらく気の弱い「山田さん」は、それができなかったのでしょう。その上、婆さんがいうように「えらい損害」を被ることになり、「山田さん」は絶望的な気分になり、家を飛び出してしまった。行く先はたぶん、「御来屋」の遊郭あたりだろう、ということなります。別に「遊郭」にこだわることもないのですが、そんなふうに考えました。
 ご指摘に感謝します。

 


 暫くして謙作と車夫とはこの茶屋を出た。三十分ほど歩く内に謙作はまた咽(のど)が乾いて来た。車夫はもう少し行くといい流れがあるからといった。しかし行って見ると、流れは涸れて底の砂が干割れていた。
 「昨晩、鳥取では大分降ったが、この辺は降らなかったかな」謙作は腹立たしそうにいった。
 車夫はもう十町ばかりで、鳥居の所に冷水(れいすい)がひいてあるからと慰め顔にいった。そして、
 「寺は何所にするかね。景色はないが、さっき話した蓮浄院の離れが空(あ)いてると、勉強にはいいと思うがね」
 「とにかく、行って見た上にしよう」
 「暫く滞在するのかね?」
 「気に入れば永くいたいと思うのだ」
 「永いといっても夏だけの所だよ。秋になりゃあ、下にいくらもいい温泉場があるから、山にいたってつまらない。第一ろくな食物がないから、余り永くはいられないよ」
 「寺は精進か?」
 「いや、生臭(なまぐさ)でも何でも食わすよ。梵妻(だいこく)もいるし、開けたもんだ。坊主は馬の売り買いばかり熱心にやっていらあね」
 謙作は叡山に次ぐ天台の霊場というように聞いていただけにこの話にはいささか落胆した。
 丹塗りの剥げ落ちた大鳥居の傍(わき)に宿屋がある。二人は其所で漸く冷水にありついた。車夫は寺までなお五、六町あるといい、
 「この宿は気に入らないかね?」と小声で訊いた。謙作は黙って首を振った。
 車夫は少し荷に参って来たらしい、約束よりは賃金を増してやろうと謙作は思った。


(*「梵妻(だいこく)」=僧侶の妻のこと。「梵妻」は「ぼんさい」とも読む。)

 


 謙作は暢気に「気に入れば永くいたい」などと言っているが、おいてきた直子や子どものことはどうするつもりなのか。働かなくてもいくらでも金があるのだろうが、その金はいったいどこから来るのか。作家といっても、そんなに売れているという設定でもないわけだから、まあ、親からふんだんに貰った、あるいは貰い続けているといったところで「納得」するしかないが、こういうところは、「リアリズム」の観点からみれば甘い。この甘さをあまりに重視すると、「しょせん、金持ちのボンボンの暢気な悩みさ」ということになってしまう危険があるし、じっさいそう思われても仕方のないことだ。世に『暗夜行路』否定論者は数知れぬのも、こんなところに根拠があるやもしれぬ。そして読み始めてそうそうに、あるいは、読み続けているうちにどこかで、「脱落」してしまうことになるのだろう。

 今の朝ドラ『おむすび』は、その脚本のあまりに雑な設定やら「リアル」を欠くセリフやらで、大量の「脱落者」を生み出しているが、それに似た現象は、きっとこの『暗夜行路』にもあったに違いないし、これからもあるだろう。

 けれども、『おむすび』と決定的に違うのは(比べるのも、志賀直哉に失礼だとは思うけど)、良きにつけ悪しきにつけ「時任謙作」という人間が、ちゃんと書かれているということだ。「金持ちのボンボン」だとて、「人間」である。金持ち特有の甘さがベースになっていたとしても、「人間」としての悩み苦しみは、ちゃんとある。そこを「リアル」に描けるかどうかが問題なのだ。

 「気に入れば永くいたい」などというねぼけたセリフも、謙作にとっての「リアル」だとしたら、それを含めての「人間理解」を目指したい。だから、ぼくは「脱落」しない。(ちなみに、『おむすび』も脱落しないけど、これは、「人間理解」を目指したいからじゃなくて、朝ドラをずっと見続けてきた記録を破りたくないというつまらぬ意地である。)

 


 絵菓書と巻煙草を買って出た。
 大山神社への道から右へ降り、石のごろごろした広い河原へ出た。河原はかなりの傾斜で森と森の間を裾野の方へ下っている。
 「地蔵の切分け」というので、河の流れ出た所があたかも切りさいたように断崖が二つに分れていた。
 二人は河原を越し、急な坂路を薄賠い森の中へ登って行った。右が金剛院、左が一段高くなって蓮浄院だった。
 庫裏の土間に入り車夫が声をかけると、四十前後の顔の角張った女が出て来て、謙作と荷とを見較べながら、
 「暫く御滞在ですか」といった。
 庫裏の炉端(ろばた)で白い単衣(ひとえ)を着た若い和尚が、伯楽(ばくろう)風の男を対手に酒を飲みながら高声に話合っているのが見えた。
 「暫く御厄介(ごやっかい)になりたいんです」
 女は心元ない風で後を向き、
 「ちょいと、どうです?」と和尚へ呼びかけた。
 「ようこそ」酒で赤い顔をした和尚が出て来て、立ったまま取ってつけたようなお辞儀をした。
 「泊めて頂けますか」
 「お泊めせん事もございませんが、この寺の先住が少し悪いというので、実は明日江州(ごうしゅう)の坂本まで出掛ける事にしているのですが、人手が足らんので、……。が、とにかくお上り下さいませ。もしお世話出来んようでしたら、他の寺を御紹介しますで」
 謙作は離れに通された。それは書院作りの座敷、次の間、折れて玄関という、何れ四畳半ばかりの家だった。先々住の隠居所に建てたもので、長押(なげし)から長押へ竹竿を渡し、それに縁(ふち)のない障子が何枚も積み重ねてある。それは寒中(かんちゅう)、その高さに障子で座敷を劃(くぎ)る、一種の暖房装置だった。
 小さな座敷の書院作りは少し重苦しい感じもしたが、結局三間ともに貸してくれるとの事で謙作は満足した。
 車夫はこの寺に一泊し、翌朝(よくあさ)還って行った。

 


 蓮浄院への道のりの描写、中から出てきた女の描写、若い和尚の描写、などなど、手練れの画家のクロッキーのように見事だ。

 あっさりとした描写なのに、その情景がありありと映画のように目の前に繰り広げられる。このあたりの映像は、小津安二郎というよりも、溝口健二といったところだろうか。なぜか溝口の『山椒大夫』を思い出した。

 

 


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日本近代文学の森へ 274 志賀直哉『暗夜行路』 161  「リアル」の大事さ  「後篇第四 十三」その1 

2024-12-09 20:31:31 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 274 志賀直哉『暗夜行路』 161  「リアル」の大事さ  「後篇第四 十三」 その1 

2024.12.9


 

 「十三」は、花の名前の列挙から始まる。列挙づいてるね。


 竜胆(りんどう)、撫子、藤袴、女郎花(おみなえし)、山杜若(やまかきつばた)、松虫草、吾亦紅(われもこう)、その他、名を知らぬ菊科の美しいは花などの咲乱れている高原の細い路を二人は急がず登って行った。放牧の牛や馬が、草を食うのを止め、立って此方(こっち)を眺めていた。所々に大きな松の木があり、高い枝で蝉が力一杯啼いていた。空気が澄んで山の気は感ぜられたが、登り故になかなか暑かった。そして背後(うしろ)に遥か海が見え出すと、二人は所々で一服しながら行った。


 都会育ちなのに、志賀はどうしてこんなに植物の名前を知っているのだろう。いや、志賀だけではなく、昔の人は、都会育ちであろうがなかろうが、案外こういう知識は豊富だったような気がする。都会でも、今の都会のありようと違って、すぐ近くに自然は広がっていただろうから。


 「さあ、もう一卜息だ」
 「荷は思ったより重いだろう」
 「うむ、ずっしりといやに重いね。こりゃあ本かね」
 「辛いようなら、その茶屋で少し出して行ってもいい。ついでの時に運んでもらうとして」
 「なに大丈夫だ。分けの茶屋で飯を一つよばれよう。そうすりゃあ元気がでらあね。」
 「お前は酒を飲むか?」
 「たんとはいけないね」
 「其所(そこ)で少し飲んだらいいだろう」
 「直しを一杯御馳走になるか。旦那はどうだね」
 「私は駄目だ」
 「全然(まるで)いけないという事はないだろう。直しを一杯やって、一時間ばかり昼寝をして行っちゃあどうだ」
 「昼寝はともかく、ゆっくり休んで行こう」

 


 ここで出てくる「直(なお)し」が、すぐに何だかわかるのが嬉しい。ぼくの愛してやまない落語『青菜』に出てくるのだが、そこで知ったのだ。関西では「柳蔭(やなぎかげ)」と呼ばれ、江戸では「本直し」と呼ばれる酒で、みりんと焼酎をほぼ半々に混ぜたものだ。冷酒用として飲まれたもので、植木屋が、旦那からこれを勧められるというくだりがある。夏の暑さの中で、なんともいえない清涼感がある。これを「分けの茶屋」で一杯やろうというのである。

 関西では「柳蔭」と呼ぶのに、この老車夫が「直し」というのは、関西でも「直し」と呼ぶ人がいたということだろうか。それとも志賀がそのことを知らなかったということだろうか。いずれにしても、今ではまず飲まれることもないだろう酒が、落語みたいに、こんなところに顔を出してくるのは楽しいことだ。

 それにしても、こんな山の中に歩いていくのに、「ずっしりと重い」ほど本を持って行くなんて、ちょっと信じられない。せいぜい2、3冊で事足りると思うのだが、「少し出して行ってもいい」とは、いったい何冊持っていったのだろうか。作家だからか、それとも謙作は、やっぱりまだ若いということか。

 ゆっくり休んで行こうという謙作に、老車夫は、この先はぶっそうなところだから、さっさと行こうといって、昔話をする。


 「もう三、四町だ。其所は分けの一つ家(や)といって、一里四方人家のない所だ。昔は恐ろしい爺(おやじ)がいて、よく旅人の物を盗ったりしたものだ」
 「何時(いつ)頃の話だ」
 「俺の若い頃の話さ。大山の蓮浄院(じょうれんいん)へ竹槍を持って押込みをやったのが知れ、茶屋の前で攻め木にかけられているのを見た事がある。海老攻めというので見ていられなかったね。真っ白い長い髪を振ってわあわあいう奴を段々にしめて行くのだ。俺(わし)は丁度雪を背負(しょ)って、其所(そこ)を通りかかって見たのだが、海老攻めというのはえらい拷問だね。身体(からだ)をぎゅうぎゅう海老のように屈(ま)げちまうんだから」
 車夫はなお、その時の話を精しくした。頬被りをした強盗が住職を嚇(おど)している間に、気の利いた小坊主が本堂の鐘を乱打した。それが火事その他不時の場合を知らす撞き方なので、他の寺々でも応じて鐘を撞き出したが、静かな真夜中だけに森や谷にこだましてごんごんごんごんそれが響いた。或る僧が戸外(そと)に出ているとちょうど月の入りで、森の中を真白な髪を振り乱しながら逃げて行く老人の姿を遥かに見たという。
 「山には竹はないが、その頃一つ家の前だけに竹藪があった。そこで藪を探すと、捨てて行った竹槍にすっきり切り口の合う株が見つかった。これには如何に強情な爺も恐れ入ったそうだ。調べ上げると他にも色々悪い事をしてたのが分って、間もなく米子で死刑になったよ」


 なんとも鮮明なイメージで描かれる事件だ。「海老攻め」という拷問の凄まじさ、真夜中の森や谷に響く鐘の音、月の光にまっ白な髪を振り乱して逃げていく老人──こんなイメージを志賀はどこから手に入れたのだろう。どこかで別のところで、かつて聞いたことのある実話だったのかもしれない。それをここに入れたのかもしれない。

 竹槍の切り口と、竹藪の中の竹の切り口が一致したなんて、嘘っぽいけど、おもしろい。

 このエピソードも、どうしてもなくてはならぬものではない。なければないでかまわないような話だが、やはり、『暗夜行路』では、こうした枝葉が魅力的に光っているのだ。

 もっとも、こうした犯罪が罰せられるというエピソードが、直子の過ちが頭を離れない謙作には、なんらかの意味をもって響いているという可能性も考えられるので、速断は慎まなければなるまい。


 やがて、二人はその茶屋に着いた。屋根の低い広々とした平家だった。軒前の大きな天水桶にはなみなみと水がたたえてあり、その下で襷(たすき)をかけた六十ばかりの婆さんが、塩びきの鮭を洗っていた。
 「暑い暑い」車夫は其所の縁台に重い荷を下ろした。
 広い平家は真中に士間が奥まで通ってい、その左が住い、右が客用の間になっていた。そしてその客用の間の真中に八十近い白髪(しらが)の老人が立てた長い胚を両手で抱くようにして、広い裾野から遠く中の海、夜見(よみ)ヶ浜、美保の関、更にそと海まで眺められる景色を前に、静かに腰を下ろしている。老人は謙作たちが入って来たのも気附かぬ風で、遠くを眺めていた。


 見事なものだ。茶屋のたたずまいが、たった二文(屋根の低い〜洗っていた。)で活写されている。天水桶にはなみなみとたたえられた水、塩びきの鮭を洗う六十ばかりの婆さん──これだけだ。これだけの「点景」で、全体を描いてしまう。

 そして、車夫の「暑い暑い」のセリフをはさんで、こんどは、まるでドローンで撮影したように視点を移動させて、家の間取りを描いていき、その果てに外の風景が広がる。その風景の中に、「静かに腰を下ろしている」老人。

 なんという美しい風景だろう。まるで、広重の絵だ。


 「車屋にめしと酒」謙作は婆さんにいった。「私には菓子と、それからサイダーをもらおうか」
 「お爺さん。お爺さん」婆さんは立って濡れ手を前へ下げたまま老人を呼んだ。
 「私は手が臭いからお客様に菓子とサイダーを上げて下さい」
 老人は黙って立った。脊(せ)が高く丁度風雨にさらされた山の枯木のような感じがした。
 「菓子と何だね?」
 「お爺さん、サイダーは俺(わし)が持って来る。菓子だけ出しておくれ」車夫はそういい、自身流しの方へそれを取りに行った。「此方(こっち)の方が冷えているのかね」
 爺さんは棚から硝子の皿を取り、石油鑵(かん)から駄菓子を手で掴み出し、それを謙作の前へ持って来た。そして「おいで……」こういってちょっと頭を下げると、また元いた場所へ還って腰を下ろした。
 「これを食べるかね」婆さんは塩びきを切りながら車夫にいった。
 「結構だね」車夫は胸に流れる汗を拭きながら答えた。


 婆さんが「私は手が臭いから」といって、菓子を出すのを爺さんに頼むあたりは、芸が細かい。「塩びき鮭」を洗っているので手が鮭臭いというのだ。こういう細かいところの「リアル」がとても大事だ。鮭の塩びきを肴にのむ「直し」もうまそうだ。これも「リアル」。

 余計な話だが、今やってる朝ドラ『おむすび』には、こういう「リアル」が極端に欠けている。同時に再放送中の『カーネーション』が、こうした「リアル」に満ちているので、『おむすび』は余計見ているのが辛い。

 「石油鑵(かん)から駄菓子を手で掴み出し」の「石油鑵」も懐かしい。ぼくが子どもの頃にも、「石油鑵」に菓子やら乾物やらを入れていたような気がする。

 爺さんが「おいで……」というのは、「おいでなさいまし」というような挨拶の省略形だろう。最初読んだとき、「こっちへおいで」の意味かと思って戸惑った。こういう勘違いがぼくには多くて困る。

 さて、ここで重要なのは、美しいパノラミックな風景の中に、ズームインしてきたような座っている爺さんが、謙作には「風雨にさらされた山の枯木のような感じがした。」というところだ。

 なんでもないようなたたずまいの爺さんが、この後、重要な意味合いを持ってくるのである。

 

 

 


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