プルサーマル計画を憂慮する有志の会

原発問題に関して投稿します。

薄伽梵(バガボン)

2014-03-22 11:42:45 | 日記
 「薄伽梵」、「バガボン」と読みます。尊師(グル)を意味するのだそうです。「伽」の字は元々「キャ」とか「カ」と読みます。正しく、子どもの頃に観たアニメ、「バカボン」は「尊師」だったわけです。そう言えば、トルストイが描いた「バカボン」はイワンという名前でした。(『イワンの馬鹿』)お人好しで、利用されても利用されたとは思わない、馬鹿になれる、馬鹿そのもののイワンは、やはり「尊師」バカボンだったのです。

 (ご存知の方は沢山おられると思いますが)仏陀の弟子に「槃特」(ハンドク)という最も頭が悪く愚かだと馬鹿にされていた弟子がいました。(参照は『ブッダの一言』より)(キリスト教だと大罪に当たる)絶望をし、弟子をやめることを告げる槃特に対して仏陀は、「(槃特の)大好きな掃除をしながら、『掃除は心の塵を払う』と唱えるように説いたそうです。そして掃除を20年続けた槃特は悟りの境地に達した(阿羅漢になった)そうです。

 仏陀は『ウッダーナバルガ』の中で、「もし愚者が、我は愚者であると知るならば、その人は既に賢者である」と説かれています。槃特は弟子を辞めると仏陀に告げた時点で、既に「バカボン」(尊師)だったのかもしれません。私も既に51歳(ちょうど日野原先生の半分の歳月です)。そろそろ「バカボン」への道を歩み始めなければ(早々長生きはできないでしょから)手遅れになってしまいます。自分の「愚かさ」加減にも嫌気が差してきています。悟りは得られないまでも、私も掃除を20年続けてみようと決心しました。あと20年生きられるのか分かりませんが、槃特のように「心を込めて」掃除をしようと思います・・・

P.S. 庭の片づけをしていて息が上がったので、暫く目を閉じ、(裸足で)「下坐」して蓮華坐を組んでいました。10分ほど坐っていると、目の疲れが取れ、肩も楽になっていました。やはり気持ちが良いです。瞑想は心の掃除だと思います。お経を唱えるのも、内観もそうだと思います。清々しい気持ちになれるのは、一瞬でも、ほんの少しでも、心が清められたからかもしれません。有り難いことですし、続けたいと思います・・・

P.S.2 私のパソコンの机の上には、通俗の聖画家として知られるホフマンの「キリスト像」(部分画)を飾っています。キリスト教の伝道者の方から頂いたものです。その絵は、温厚な美しいお顔のキリストが、真っ赤なシャツを着て、濃緑の肩掛けをして頭を傾げている、とても魅力的な絵です。私は仏像も好きですし、お寺や5重の塔なども見ていると嬉しく楽しく有り難くなってきます。仏陀は仏舎利など残さず流してしまうように言い残しているのに、人は(と言いますか私は)「偶像」(アイドル)が大好きです。美しいものに憧れます。「偶像」であっても、心が篭り、念が込められたものには「共鳴」します。「愚か」でも良いのではないかと思うのです。「バカボン」になる第1歩だと思うのです・・・

P.S.3 (馬鹿ついでに)私の最近の趣味は、空海が仏像を並べて作り出した「立体マンダラ」の空間を真似て、(父が沢山集め)庭に転がっていたり、埋もれている石を仏像に見立てて、「立体マンダラ」を庭で再現しようとすることです。(笑わないで下さい、私的には巨大な「箱庭」療法の積もりでもあります)やはり、やっていると夢中になり、楽しいのです。庭が綺麗になり整っていくのも嬉しいのです。昨日は、30キロほどある石を掘り出して、松の木の下に据えました。父曰く、お坊様の後姿だと言って、これこそ「掘り出し物」だと悦んでいました。私には、こちらに向いて合掌しているように見えたのですが。(親不孝な不肖の息子なので)父があんなに喜んだのを見たのは久しぶりで、私もとても嬉しく思いました。私の(バカボン同様)「立体マンダラ」探求の旅はまだまだ続きそうです・・・

by「プルサーマル計画を憂慮する有志の会」 (平成26年3月22日)