プルサーマル計画を憂慮する有志の会

原発問題に関して投稿します。

「アトムド・ピース」に利用された「第五福竜丸」被曝被害

2014-03-03 11:06:19 | 日記
 (某テレビ局の「報道特集」によると)水爆による(第五福竜丸乗組員の)被曝被害に対する「見舞金」と「アトムド・ピース」(「原子力の平和利用」)が表裏一体のものとして進められていた実態があったということです。(以下、要約しながらまとめてみたいと思います)

 1953年、アイゼン・ハワー大統領は「平和のための原子力」という演説で、「アトムド・ピース」(「原子力の平和利用」)を提唱しました。(これまでにも書いてきましたが)「核抑止」という名の「核威嚇」と「原子力の平和利用」という名の「核発電」は、正しく米国の核戦略においては「表裏一体」のものです。核で脅しつけながら、一方で原発をプレゼントすることによって「支配」を行なう「飴と鞭」政策です。

そうした中、1954年の水爆(「ブラボー」)実験が行なわれ、(一帯の島民は勿論)第五福竜丸をはじめとする多くの船舶の乗組員が被曝する「事件」が起こります。アイゼン・ハワー大統領は(原子力は危険だとの)「日本人の誤解を解くため」に「見舞金」という小さな小さな「キャンディー」を用意します。しかも大統領が「非公式に承認」したこの200万ドルの「見舞金」は、(極秘文書によると)「相互安全保障法」(MSA)に基づく、軍事支出でした。軍事費が実質的な賠償に支出されるなど異例のことだそうです。

しかもこの(1955年の)日本政府と米国政府による「200万ドル合意」(被曝事件の幕引き)と、原子力の平和利用の「二国間合意」は表裏一体のものとして進められたということです。被曝被害とその賠償が、原発をプレゼントすることで核による支配を実行しようとする米国に利用されたのです。日本政府もまた、(世界的な核戦略の)「大勢から乗り遅れる」とした中曽根氏や正力氏(読売新聞オーナー)らによって、その「プレゼント」を喜んで受け入れます。

 1956年には原子力博覧会が全国各地で行なわれます。(「弥彦丸」を含む多くの船舶の被曝事件は隠蔽され)「第五福竜丸事件」が皮肉にも原発の推進役となってしまったのです。ちなみに、米国が一番最初に博覧会の候補地に挙げたのが広島でした。原爆を投下した広島から始めることで、非人道的な原爆投下という「歴史的事実」をなきものとし、さらに「平和」な原発をプレゼントすることで日本と日本人の心を掌握する「心理作戦」だったのです。結果、日本はまんまとその戦略に乗り、福島第1原発事故という大敗戦を喫することになるのです。その犠牲の、如何に大きいことでしょう・・・

P.S.  「第五福竜丸事件」の乗組員だった大石さんは、この(米国は認めていませんが)被曝被害とその賠償が、原発のプレゼントと「表裏一体」だったことに、「酷い話」だと述べられていました。被害とその賠償まで「利用」される、それがこの世の習いというものなのでしょう・・・

P.S.2 「核なき世界」の実現を訴える式典が、ビキニ環礁首都のマジュロで開かれたそうです。クリストファー大統領は、「私たちは痛みを日常的に味わっている」と述べられています。また、マーシャル諸島から多くの島民が移住していいるアーカンソー州でも集会が開かれ、駐米大使のチャールズ氏は、「(クリントン政権時に解除された文書によって)核実験の影響の大きさや住民の病気と(被曝と)の因果関係が明らかになった」と述べた一方で、米国で核実験があったことすら知らない人が増えていることを指摘してます。60年経っても帰還できない島民、被曝による健康被害と「痛み」が癒えることはない現実が、風化(忘れられる)するのではなく、(自国民すら)知らない「現実」があるということのようです・・・

by「プルサーマル計画を憂慮する有志の会」 (平成26年3月3日)