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意志の発信

2010-12-05 17:15:28 | コラム・社会
幼い頃からの教育の影響か、社会人生の中で「意志の発信(表明)」はさほど尊ばれていないように考えられている。

何よりも尊ばれ大切に教育される事は、「能力」や「知識」である。
職に就くにも、進学するにしても、「能力」と「知識」が問われ、本人の「意志の発信」にはさほど考慮されてない。

そのため、一般教育機関は当然の事として、家庭内の教育でさえ「意志の発信」という能力には重きを置いていないし、具体的な教材さえ見当たらない。

実は、社会史を少し振り返れば明らかなように、社会は「能力」や「知識」だけで構成されていない。
確かに、原始の時代の狩猟や農耕技術に始まり、近代の産業革命からIT革命などは「能力」や「知識」によってもたらせたと表現しても良いのかも知れない。

しかし、社会は「意志の発信」によって大きな影響を受けており、それによって日々変化を続けているのである。

「意志の発信」の象徴的な行為の一つが「デモ行進」だろう。

近代史を振り返ってみれば、社会を大きく変革させるきっかけとなった「意志の発信」は幾つも挙げられる。
例えば、1930年のマハトマ・ガンディーが率先した「塩の行進」、1963年のキング牧師が呼びかけた「ワシントン大行進」、1989年のベルリンの壁崩壊へとつながったチェコスロバキア(当時)での「ビロード革命」、そして同年には未完に終わっているが「天安門事件」などがある。

このように「意志の発信」は社会を変える力があるのは明らかで、仮に行進のように複数で行なわなかったとしても、ひとり一人が自らの生活環境を変えて人生を創りあげていくためにも、「意志の発信」という行為は尊ぶべき事であり欠かしてならない。

* * * *

では、現代においての「意志の表明」について考えてみよう。

日本において「デモ行進」が最も影響を発揮した時代は過去のものとなっている。
1960年代から1970年代にかけて頻発した「メーデー」や「学生運動」に象徴させる行動は、確かに日本社会を改革していく大きな力となった事は否定できない。
しかし、日本国内ではそれ以降はそれに該当する行動は目立たず、「能力」や「知識」を偏重する教育や社会情勢に押しつぶされていると言えるだろう。

「待て! 選挙は意志の発信だろう!」
「それに、内閣支持率などによって政治が改革されているも意志の発信による効果では?」
「一般的な商業活動から証券売買など、全て意志の発信によって変動しているぞ!」

などという反論もあるだろう。
それは正論だし、確かに「意志の発信」は発揮されていると言えるし否定できない。

ただ、それらの「意志の発信」のレベルは低いと言わざるを得ない。
前記のような命の危険性を含んだ行進レベルを望むものではないが、二者択一や取捨選択の行為レベルでは一人ひとりの尊厳ある「意志の発信」とは言えないだろう。

「デモ行進」をすぐに起こせと言っているのではなく、日々の生活の中で「意志の発信」のレベルを高めていく事が大切であり、その行為が他の方の人生や社会を変えていく力を秘めている事を深く認識して行動をして事を提唱しているのだ。

* * * *

<続く>

○ 「 ***といいかな と思います」 問題
○ マスメディア技術の発展と浸透による発信能力の向上
○ 視聴率、アクセス数 偏重による 迎合化と意志の希薄化現象
○ “わがまま”発揮能力向上のススメ




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