GRA 公式ブログ・サイト

NPO法人GRAの活動や考えを伝えます

ドーム、東京ローカル用語の氾濫

2010-12-28 22:23:15 | コラム・社会
残念な事に、マスコミ各社は本社を東京に置いているようだ。

さらに残念な事に、東京ローカルな人は日本の中心に居ると信じている。

例え全国放送の場面であっても、東京ローカルな事を全国基準として扱う。

そんな場面は氾濫しているが、その代表例の一つが「東京ドーム」だ。

何かの施設の広さや大きさを表す時に、「東京ドーム何個分」と平気で言う。

まるで、日本全国の人が「東京ドーム」を観た事があるかのようだ。

例え東京都民であっても、23区以外の人では知らない人も居るだろうに。

サッカー場とか、陸上競技用トラック、テニスコートを使えばよいのに、

諸外国に配信されている国内ニュースは、ローカル訛りまる出しだ。

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私はオートバイが好きで、ずっと昔から オートバイ雑誌を読んでいる。

しかし、残念な事にオートバイローカルな言葉を平気で使うのが一般的だ。

更に残念な事に、好き者ライダーはオートバイローカルにはまりこんでいる。

時にはローカルエリアのみで通じる言葉や表現方法に陶酔している。

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気をつけなくてはならない!

「東京ドーム」を聞く度に、自分自身の言動をチェックしなくては!

社会全般の人に分かる表現や、興味を持ってもらう表現方法をしなくては。

「東京ドーム」「東京ドーム」

いやいや! 来年辺りは 「東京スカイツリー」だろうな!


「~かな」文化 日本の未来は

2010-12-28 21:29:12 | コラム・社会
いつ頃から始まったか、はっきりと憶えていないが ・・
知らない間に社会に随分と浸透してしまっている様だ。

きっと、多くの人は気付いているが、既に浸食されているのだろう。
そう言っている自分も、きっと毒されているのかも知れない。

日本独自の「~かな」文化の未来はどうなるのか?
心配だ。

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初めてはっきりと違和感を感じたのは、TVでのインタビューだ。
オリンピックの選手が会見の場で発した言葉でだ。

「楽しめたらいいかなと思います」の言葉。

もちろん、“楽しむ”という感覚を持つのは良い事だ。
緊張して委縮するよりも、力を発揮しやすい人も多いだろう。

違和感を感じた部分は「~かな」の部分だ。
随分と曖昧でファジーな表現箇所だ。

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育成過程から遠征まで、税金を使っているからとか、
多くの人の注目を集め、あこがれの対象だから 気になるのではない。

正式な会見で、「~かな」レベルの表現方法をする人物に対して
金銭を含めたサポートをしている団体や企業、個人がいるだ!
・・という違和感だ。

TVの中を見回すと、実に多くの人が「~かな」文化が浸透している。
タレントは勿論の事、一般の方の多くが毒され浸透している。

だから、既に文化の一つとして浸透いるから問題無いと
多くの方は理解して、知らずに(遅れまいと)使っているのだろう。

しかし、自身の意図や意思を表現すべき場合に
「~かな」文化を使うのはどうだろう?

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自身の意思を公表すべき場合でも、よほど自信が無いのか?
よほど相手からの反論が怖く感じているのだろうか?

本来、意思をはっきりと公表すべき総理や政治家たち、
よく見れば「~かな」文化愛好者のようだ。

官僚も同様だ。

昨夜のTV会見に出ていた 検察庁の新しいトップ・笠間治雄 検事総長は、
特捜部による不正捜査の責任を取って辞任した検事総長の後任だ。

注目の新任挨拶の場で、TVカメラを前にして出た言葉が、
「再発防止策を早急に実行することが私の使命 かな と **」

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諸外国の方と英語でビジネスをする際に配慮する事の一つ、
「may be」は信用を得られないので使わない。

日本語的発想では、「~だと思います」を表現したつもりでも、
ビジネスの場ではあやふやな表現で禁句だ。

新検事総長の発言は、Net配信ニュースや紙面を確認する限り、
「~かな」の箇所は削除した意訳がなされている。

しかし、諸外国の担当者との丁々発止のビジネスや外交の場で、
「~かな」をうまく削除して話せるだろうか? 翻訳されるだろうか?

もしかすると、近年世界で日本のビジネスや外交がぱっとしないのは、
この「~かな」文化の影響だろうか?

いや! そんな事はないだろう。
日本の外交力の低さは「~かな」文化発祥以前からだ。

自身の意思をはっきりと伝え、考えを明確に伝えるという
技術や意欲が無く、その必要性を感じず、恥じない文化に、
「~かな」が丁度うまくはまり込んだと言うべきだろう。

大丈夫か?
この国、日本





年度別ガイダンス

2010-12-12 21:22:55 | Web GRAの紹介

1991年

メーカー主催のジムカーナイベントが近畿地区で終了となったため、自らの力で企画から運営を行なうために発足させる。
メーカーや公的機関の定型的な企画運営と異なり、参加者自ら運営を担う形式を確立させ事から、自由な発想でイベントの企画が生まれる。
「ジムカーナレッスン」から始め、当日のリザルト配布、「ジムカーナパーティ」など、それ迄に無かった企画運営が初年度から実現する。
特に、誰でも気楽に楽しむ事が主題の「ジムカーナパーティ」では、設定したパーティカラーに合わせた衣装での参加を義務付け(カラーコード)、持参したプレゼントの交換会などを行ない、競技系イベントとは一線を画した文化を創造していく。


1992年

初年度の成功を基に、さらに企画や運営方法に工夫を加えて、一層充実した活動の一年となる。
この年の最大の発明(企画)は、参加者の速さ(上手さ)を指数化した『タイム指数』です。これにより、参加クラス分けが明確に走行レベル別に可能になり、この方式は後年更に発展していく事になる。
また、二輪雑誌などマスコミ各社への開催告知リリースを行なうようになり、全国誌に毎月ジムカーナの事が掲載され、一般ライダーへの告知が一気に広まる。
そして、GRAの方式を見習うように、自ら企画と運営を行なう団体が各地に生まれ、地域を超えた交流が本格的に始まった年となる。


1993年

この年は、後年にまで継続される有用な企画が多く生み出された年となった。
最も特徴的な企画は『車両レギュレーション』の制定です。それまでのジムカーナイベントでは明文化された規則は無く、参加者の暗黙の了解によって抑制されていた。しかし、開催回数や開催地区の増えた事により、参加者の増加から無制限改造への風潮が生まれていたため、エゴ競争を抑え社会との健全な関係を育成するために制定する。
また、前年から試験運用していた『タイム指数』を全てのイベントで使用し、同時にその人のタイム指数の変化からレベルアップ度を算出して、レベルアップした人全員を飴で表彰する『奨学飴制度』も運用始める。
年間数回行なう「ジムカーナレッスン」の開催の度に異なるレッスンテーマを設け、全員が担当するスタッフ別にスタッフマニュアルを作成し、走行練習時間を主体とした「走行練習会」を新たに始める。
そして、ホンダ社とのタイアップでのイベント開催も始めて、この年は鈴鹿サーキットにおいてジムカーナイベントを企画・運営する。


1994年

発足初年度の11イベント開催は、一般的な開催団体と比較して決して少ない回数でなかったのですが、年度を重ねる度に開催会場や開催イベントの種類が増え、当年は25イベントにまで増える。
この年、新たに企画されたイベントが『ベーシックジムカーナ』です。
多くのイベント経験や様々な効果的企画により、発足当初は普通の腕前だった人達のレベルアップが著しく、初参加者や初心者とのレベル(技術)差が目立つようになる。
そのため、スキルレベルに合わせた指導を受ける機会が減ったり、自信を失うきっかけや参加をためらう理由になる例が増えたため、初参加&初級者対象のイベントとして開催する。同時に、中・上級レベルの方からインストラクター役を応募し、結果的にマンツーマンに近いイベントの実現と初級者への対応の大切さを共有する事につながった。
東海地区から中国、四国地区の各地に誕生した自主運営団体との交流も深まり、少なくない人がお互いのイベントに相互参加するまでになり、翌年からの「ジムカーナグランプリ」実現へと繋がる。


1995年

1995年は、GRAにとって最初の大きな転機となった一年になりました。
そのきっかけは、1月17日に発生した阪神・淡路大震災で、その影響によってGRA事務局(代表宅)が全壊の被害に見舞われた事です。
勤務を含む生活全般を立て直しながらGRA活動を継続させるため、代表個人の競技者としての目標をあきらめ、生活とGRA活動へ全ての精力を注いでいく事になり、それ以降はイベント活動が一層充実していく事に繋がった。
前年から企画を始めていた企画、全国各地を転戦して交流とポイント競争を行なう「ジムカーナグランプリ」は、震災の関係で当初は開催そのものが危ぶまれました。
しかし、近畿圏はもとより全国各地のジムカーナライダーやジムカーナ団体、協賛各社からの励ましを受け、全てのイベント企画を予定通りに開催する事ができました。
また、この年から車両セッティングの大切さを説く「セッティング講座」も開始した。


1996年

1995年から始めた「ジムカーナグランプリ」だが、実際に各地を転戦すると熱気は予想以上で、地域を超えての仲間同士の交流に対する需要や欲求は高い事を明らかにする。
この交流熱気が育まれた要因は、車両レギュレーションの統一の他に、全員で運営スタッフを担当する『全員スタッフ全員参加制』がとても良い影響を及ぼす。
一般的な競技イベントでは参加者同士が交流する機会は乏しいが、地域を超えてスタッフ同士が緊密に連絡を取り合って運営する事により、深い交流を生む効果を発揮した。
そういった熱気が熱気を呼び、「ジムカーナグランプリ」だけでなく近畿地区での開催イベントへの参加者数は増加の一途をたどるようになる。
二輪各誌へのリリース発送から、ジムカーナグランプリの開催案内が複数の誌面で継続掲載され、九州地区でのジムカーナグランプリ開催開始や新規開催会場の確保と相まって、ジムカーナへの関心と参加者数増加の要因となった。


1997年

『車両レギュレーション』を制定した1993年当初は必要性や意義に理解が充分でなく、場合によっては反発を招いたが、「ジムカーナグランプリ」での地域を超えた交流の高まりによって、レギュレーションの必要性の認識が深まり、全国的に一定の認識を得るようになる。
また、「ジムカーナパーティ」の全員で楽しむという趣旨は一層支持をされるようになり、パーティカラーやパーティテーマに合わせた仮装などで更に盛り上がるようになる。
競技性ばかりが話題になりがちだが、「ジムカーナパーティ」に一度でも参加すれば、そのお祭り的な騒ぎと全員で協力して運営する楽しさは誰の心も捉えるだろう。
他に新しい企画のイベントも開始した。女性ライダー対象のイベントの他、「低速」や「中速」、「高速」それぞれ専用のセクションを別々に測定し、得意不得意の内容や程度を客観的に判断できる『トライアスジムカーナ』は大変な好評を得る。


1998年

年間イベント開催数はさらに増え、一イベント当りの参加人数が最多のシーズンとなる。
『ジムカーナグランプリ』に沖縄GPが加わった他、講習に合わせて実際に各自がセッティングを行なう『セッティング練習会』を開始したり、超初心者対象の『入門ジムカーナ』の開催を始めるなど、イベント内容の多彩さや活動地域の広さ、動員人数などは他の追随を許さないほどになる。
しかし、長年に亘り数多くのイベントを開催してきた弊害も目につくようになった。
長年の参加者と初参加者との間のライディングスキルレベルの差が一段とついた他、経験年数やレベル別にグループ化が進み、やがて「走る楽しさ」を強く求める傾向も強まって、GRA発足時からの活動目的から外れた光景が散見されるようになり、今後の課題として認識が始まった。


1999年

5年目を迎えた『ジムカーナグランプリ』は、この年から 北海道GP と 関東GP が加わり、昨年から始まった 沖縄GP と相まって、正に全国シリーズと称せるまでになる。
また、年間イベント開催数は最多の46となった。これは、発足以来の活動目標の追求や先駆者としての心意気と責任から、明確な目的を立てそれに適したイベントを企画し、運営内容の充実を図りながら開催数を増やしてきた結果といえるでしょう。
しかし、一部の参加者のグループ行動化と「走る楽しさ」追求の傾向は強まり、この課題に対して効果的な対処を充分に行なえず、発足以来の目標「オートバイ文化の創造による社会的認識度の向上」に反しかねない状態が更に顕在化する。
活動の浸透度の高まりと同時に、大きな課題となっていく。


2000年

年間開催イベント数は前年と同等の41イベント、全国を転戦する『ジムカーナグランプリ』や全員で楽しむ『ジムカーナパーティ』、そして『ジムカーナレッスン』を始めとする各種のレッスン&練習会など、前年と同様に内容の濃い年間企画となる。
しかし、一年間を通じて会場手配からイベント企画、申し込み受理業務、機材の手配や管理、資料の作成、そしてイベント開催後のデータ処理から報告書作成まで、ほぼ毎日曜日開催のイベントによる事務局への負担は大きい。
それに加えて、「オートバイの社会的認識度の向上」というGRA本来の目的に反する傾向の高まりという課題にきちんと対処するため、現状のイベント開催活動を一度見直す必要性を一層強く認識させられた一年となる。
これが、この年の11月から始まった『脱皮計画』のきっかけとなる。


2001年

『脱皮計画』は、それまで参加してきた大半の人達にとっては、決して賛同を持って迎えられた訳ではなかった。それは無理もない事です。イベント当日の運営を分担し合うとはいえ、イベント当日以外の業務は一切関与せず、参加して走る事を目的とした人が殆どですから、事務局業務がほぼ限界に来ている事は認知できず、GRAの活動目的の追求に深い関心を抱いての参加ですから。
『脱皮計画』の趣旨説明と趣旨浸透のため、ミーティング開催の他にミーティング時間を大きく取り入れたイベントの開催を開始する。しかし、ミーティングの場で参加者から「事務局で勝手な事を決めている!」と罵声があがるなど、計画の遂行は困難を極めた。
「オートバイの社会的な認知度を向上させる」という目標達成へスタートの年となった。
『ジムカーナグランプ』は、GRA活動の認知度を落とさない目的から、前年と同様に全国各地での開催を継続する。


2002年

『脱皮計画(第1期)』は2年目を迎え、“わいわい”と称する新しい運営スタイルがようやく浸透し始める。
事前に決められた細かなスタッフ配置をきちんとこなすという以前のスタイルから、主要スタッフのみ事前に決めておいて、残りは当日の自発的な立候補・行動を促す方式へと変更する。これによって、イベント活動を継続させる事の大変さを共有し、それをきっかけに協力し合う大切さや活動目標の共有へと進む事を期待する。
しかし、「オートバイの社会的な認知度向上」という目標の本質との距離感は残す。
また、『脱皮計画』により一気に参加者数減少を引き起こした影響が残り、収入減少による赤字財政となった事が新たな課題として浮上する。
新スタイル浸透により参加者数は増加していたが、イベント開催数を抑えての啓発活動を継続するか判断に迷う段階となる。
イベント内容見直し処理により、この年は『ジムカーナレッスン』の開催を行なわず。


2003年

事務局作業と赤字財政の立て直しのため、効果ある対策が実現できた一年となる。
『事務局スタッフ』の募集に多くの方々が応じてくれて、事務局の活動能力が一気にパワーアップする。自動車教習所の無休化の影響により開催会場確保問題に直面したが、『事務局スタッフ』となった方々の努力により、新規に4会場の使用が可能になる。また、Webサイトの充実のため、過去のリザルトデータを編纂する作業も『事務局スタッフ』のお陰で計画立案が可能になる。自分達の事は他人任せにしない“心”が育っている事を改めて確信できた。
レッスンを『草ジムカーナレッスン』と改名して再開するなど、年間32イベント開催まで増やし、参加費を参加者数によって変動させる『変動ワリカン制』を導入するなど、イベント運営収支の黒字化を図る。
これらの対策により赤字財政問題は解決の方向へと進むが、イベント活動で『脱皮計画』本来の目標を達成する事が中途半端になっている点が課題として残る。


2004年

イベント開催数増加の傾向は進み、収支状況の改善も進み、赤字財政からの脱却は達成するが、脱皮計画の見直しに迫られた年となる。
年間イベント開催数は脱皮計画以前と変わらない39回まで増え、イベント内容も一体感が高まり、『事務局スタッフ』充実によりWebサイトの展開活動は一段と進む。
開催イベントにおいて、以前の様な「走りを楽しみたい!」グループ行動は減ったが、「オートバイの社会的認知度の向上」の取り組みはライダー自身に必要性を強く抱かせるには至らず、自発的に意見を発して行動を起こす人の育成は充分とはいえない。
事務局活動に対しての関心や理解を高められ事務局能力は高まるも、イベント開催活動で「心」や「意識」を変える事の難しさを改めて痛感する。今のままでは、単なるイベント屋さんに過ぎないと。


2005年

財政問題に捉われず、イベント開催活動で『脱皮計画』本来の目的が達成できる企画を改めて模索する『第2期・脱皮計画』を開始する。
10年続いた『ジムカーナグランプリ』を休止し、ミーティングを行なう『脱皮ミーティング』の他、ミーティング時間を多く割いた『脱皮イベントミーティング』などを多く開催して、ひたすら目標を達成する活動を模索を行なう一年間となる。
イベント活動の見直しに伴い、1991年以来定期的に発行してきた『GRAニュース』の発行も不定期発行とする。
事務局活動意識の高まりから、『NPO法人(特定非営利活動法人)』へと法人格を取得する。


2006年

イベント開催活動で「心」や「意識」が変わり難い要因として、運営に関する殆どの事を事前に決定し準備しているので“お客様意識”から抜け出せないためと判断し、事前にスタッフを決めずに当日の立候補を募集するだけでなく、当日スケジュールやコース図を参加者の意識や意見によって当日決定する運営方式を導入する。その上で、『企画持込み制』といって、一定以上の参加経験者は当日の運営企画を持ち込んで、自らがその企画を主催する運営システムも導入する。
また、全国転戦シリーズとして、新たに『GRAツアー』を開始する。
ミーティングも精力的に各地で開催して『第2期・脱皮計画』の意図の浸透と達成を期す。
イベント運営方式の大幅な変更の影響もあり、イベント毎の参加者は大きく減るが、却って意図の浸透が徐々に進んむ手応えを得る。


2007年

2000年以降、数度の変遷を経て、ようやく「メッセージ発信型」の現行のWebサイトが完成して稼働を始め、イベント開催告知や申し込み受理の処理なども一括してサイト上で行なう事が可能になる。
イベント開催活動では、他の参加者全員と朝夕の挨拶を交わし意識をし合う企画の採用や、Webサイトを読んだ方からの出張要請に応じての“開催協力イベント”の開催など、意識を高める試行錯誤を行なう。
1イベントあたりの参加者が少ない方式ならではの改善策を試し、自発的に他の参加者の事を配慮する心が伸びる成果は残せるが、そこから社会との関連に配慮する“社会人ライダー”の育成への繋がりは今後の課題となる。


2008年

イベント開催活動では、『企画持込み制』や意見や意欲で当日の総てを決定する方式が浸透して、参加者の意欲や積極性を活かしたイベント運営が安定する。また、イベント参加者に対しての指摘やサポートを密に行なうため、個々の方へのアドバイスを掲載した『通信ボ』の発行を試験的に始めて一定の手応えを得る。
Webサイト活動では、3本のブログサイトをリンクさせて効果的な広報手段とする。
参加後の感想文の掲載用のブロオグやQ&A専用のブログなどを立ち上げ、活動の状況や雰囲気を多くの人が関心を持っている事を改めて認識する。

2009年

『第2期・脱皮計画』を開始して5年目、それ以前までのイベントでは実現できなかった参加者間の距離感や積極的な働きかけなどを育成する運営システムは作りあげる。
参加者一人一人が“わがまま”を口に出して要求し合う中から、お互いのわがままや個性を認め合い、やがて個人の想いを実らせるには社会を見る必要がある事に気づくようになる。
そして、自身のわがままを果たすには、身の周りから社会を変えていけいく努力をすれば良い事に辿り着く。一般道での走らせ方、法律を守る意味、ライダー仲間への啓発などを行なう『社会人ライダー』育成の道順が実感できた一年となる。


2010年

『第2期・脱皮計画』までの活動で得た様々な体験や知識の数々を、限られた地域の限られた人々に対してだけに知らせるのではなく、Webサイトなどを利用して全国の方々へ知らせていく『第3期・脱皮計画』へと活動の方向を転換する。
ただ、活動の可能性が一気に広がる代わりに、イベント開催が主体の運営体制を大きく変更する必要があり、イベント開催活動を休止しても直ぐに対応した活動が行なえない。
特に大きな課題は、『第3期・脱皮計画』に適した運営スタッフが乏しい点で、徐々に育成する必要を日々実感しながら進める。


雑踏の中の“暴走族”

2010-12-05 18:49:42 | コラム・社会
「暴走族」、1970年代から1980年代に大きな社会問題となった現象である。
しかし、以前ほどに神経質に取り上げられない事が象徴しているように、現在では凶悪・社会犯罪性のある事象を示すのではなく、騒音対策や予算確保の手段として取り上げる傾向が増えており、まさに“死語”への道を歩んでいる最中である。

しかし、雑踏の中には「暴走族」が居て、時に困った現象を引き起こしている。
それは、ベビーカーである。

ベビーカー(乳母車)は、赤ちゃんや幼児を乗せる三輪または四輪の乗り物で、その背後から母親や父親など大人が押して進む移動機材で、こんな説明が不要なほど多くの人は知っている事と思う。

では、どこが“暴走族”なのか?

雑踏(歩行交通社会)の中、ワガモノ顔で時に安全無視して進む例が散見されるからである。

押している本人からベビーカー先端まで約1m強、車体先端の高さは50cm程度、その部分を雑踏の中に押し込んで進む道を作っているかのような走行をよく目にする。

例えば交差点に差し掛かった時、一般的な乗用車の場合は安全を確保するために徐行や一旦停止をするが、あの車の場合には一旦停止という行為が出来ないようなのだ。

雑踏の中、視線よりもずっと低い高さを移動する物体を確認する事は時に困難である。
それが単なる荷物車であれば大きな問題とならないが、“人”が乗っているとなれば別問題である。

その車の運転者は、視線から低く認識され難い場所に“人”を乗せている事を忘れ、まるで世の中の人全ての視線を集めているかの如く振る舞い、ニアミスが発生しても「あなたが道を譲るのが当然!」の如くの運転をして去っていく。
これが“暴走族”と評している理由である。

雑踏の人々は知っている。
例え“暴走族”であっても、運転している人にとっては大切な“宝”を乗せているのであり、一目を置いて尊重されるべきだという潜在的意識によって操縦されている事を。
自主的に道を譲らなければ、その後には叱責や非難、中傷の攻撃が待っている事を。

いいでしょう! 道は譲りましょう。

けれども心配があります。
本物の“暴走族”は、その人の人生においては大抵は一過性のもので、卒業する時が来る。
しかし、あの“暴走族”は卒業する事が無いように見えるのが心配です。

ベビーカーを降りた後でも、見えない“車”に乗せられたまま社会という雑踏の中を突き進んでいるのではないだろうか?
それが、本来は家庭や社会全般で対処すべき問題でさえ学校教育の責任へと転化する現象を引き起こし、社会性という認識が薄い世代を生み続けている原因になっているのではないだろうか??

う~~ん

だとすれば、“暴走車”に引き下がっていたままでは、これからの社会を良くする事ができないように思う。

困った“暴走族”問題である。


意志の発信

2010-12-05 17:15:28 | コラム・社会
幼い頃からの教育の影響か、社会人生の中で「意志の発信(表明)」はさほど尊ばれていないように考えられている。

何よりも尊ばれ大切に教育される事は、「能力」や「知識」である。
職に就くにも、進学するにしても、「能力」と「知識」が問われ、本人の「意志の発信」にはさほど考慮されてない。

そのため、一般教育機関は当然の事として、家庭内の教育でさえ「意志の発信」という能力には重きを置いていないし、具体的な教材さえ見当たらない。

実は、社会史を少し振り返れば明らかなように、社会は「能力」や「知識」だけで構成されていない。
確かに、原始の時代の狩猟や農耕技術に始まり、近代の産業革命からIT革命などは「能力」や「知識」によってもたらせたと表現しても良いのかも知れない。

しかし、社会は「意志の発信」によって大きな影響を受けており、それによって日々変化を続けているのである。

「意志の発信」の象徴的な行為の一つが「デモ行進」だろう。

近代史を振り返ってみれば、社会を大きく変革させるきっかけとなった「意志の発信」は幾つも挙げられる。
例えば、1930年のマハトマ・ガンディーが率先した「塩の行進」、1963年のキング牧師が呼びかけた「ワシントン大行進」、1989年のベルリンの壁崩壊へとつながったチェコスロバキア(当時)での「ビロード革命」、そして同年には未完に終わっているが「天安門事件」などがある。

このように「意志の発信」は社会を変える力があるのは明らかで、仮に行進のように複数で行なわなかったとしても、ひとり一人が自らの生活環境を変えて人生を創りあげていくためにも、「意志の発信」という行為は尊ぶべき事であり欠かしてならない。

* * * *

では、現代においての「意志の表明」について考えてみよう。

日本において「デモ行進」が最も影響を発揮した時代は過去のものとなっている。
1960年代から1970年代にかけて頻発した「メーデー」や「学生運動」に象徴させる行動は、確かに日本社会を改革していく大きな力となった事は否定できない。
しかし、日本国内ではそれ以降はそれに該当する行動は目立たず、「能力」や「知識」を偏重する教育や社会情勢に押しつぶされていると言えるだろう。

「待て! 選挙は意志の発信だろう!」
「それに、内閣支持率などによって政治が改革されているも意志の発信による効果では?」
「一般的な商業活動から証券売買など、全て意志の発信によって変動しているぞ!」

などという反論もあるだろう。
それは正論だし、確かに「意志の発信」は発揮されていると言えるし否定できない。

ただ、それらの「意志の発信」のレベルは低いと言わざるを得ない。
前記のような命の危険性を含んだ行進レベルを望むものではないが、二者択一や取捨選択の行為レベルでは一人ひとりの尊厳ある「意志の発信」とは言えないだろう。

「デモ行進」をすぐに起こせと言っているのではなく、日々の生活の中で「意志の発信」のレベルを高めていく事が大切であり、その行為が他の方の人生や社会を変えていく力を秘めている事を深く認識して行動をして事を提唱しているのだ。

* * * *

<続く>

○ 「 ***といいかな と思います」 問題
○ マスメディア技術の発展と浸透による発信能力の向上
○ 視聴率、アクセス数 偏重による 迎合化と意志の希薄化現象
○ “わがまま”発揮能力向上のススメ