3/11(金)の震災発生以来、明日(3/18)で一週間となる。
「先週の金曜日に ・ ・ ・ ・」 という想いが頭をよぎると、
被災された方々にとっては、その瞬間が フラッシュバック !
決して 心地良さや 安堵感は感じない。
毎日辛抱を重ね、次第に落ち着いて考えられるようになったとしても、
その瞬間、悪夢な想いが腹の底を蹴り上げ、一気に頭の中まで
駆け上がっていく、とてつもなく不安な不快感。
決して、その感覚を理解せよ!とは言わないが ・ ・
TVの特番で[ 一週間前のその瞬間!]などと 映像を再放送したり、
「ようやく一週間が過ぎましたね」などとインタビューする事が
無い事を強く願うばかりです。
* * * * *
被災は人生にとっては一大事だが、人生にとって被災は特別な事
ではありません。
人は生きていく途中で、大小を問わず何度かの“被災”を経験する。
例えば、急病で入院加療や手術が必要になったり、交通事故などの
何らかの事故に遭遇して短期的にでも身体の自由が奪われたり、
突然の肉親の不幸、そして突然の倒産・解雇も被災の一つと言って
も過言ではありません。
その影響度や期間は様々ですが、人は誰でも経験する事でしょう。
では、ここからは“被災”を、あなた自身の身に置き換えて考えて下さい。
【 三種類の“被災” 】
どんな“被災”でも、その殆どは 同時に 三種類の“被災”が襲ってきて
います。
1. 物質面の被災 ・ ・ 物 、例えば 食糧や水、車や家の喪失など
2. 生活面での被災 ・ 家族や近所の中での生活や 仕事の喪失など
3. 心理面での被災 ・ 心の中の喪失感、社会からの隔離・差別感
この中で最も注目され、世間全般から多くの支援が集まるのが、1. の
「物質面での被災」に対してサポートです。
次に、公的機関や親族などから一部のサポートを受けるのが 2. の
「生活面での被災」に対するもの。
しかし、3. の 「心理面での被災」つまり “心の被災”は、いつまで
解消できずに永く続くものです。
“その時の想い”が、何かある度に鮮やかに蘇るという経験は誰でも
あると思います。
決して、1年や2年で解決して忘れられるものではない筈。
まして、今回の様な被災であれば、一層に深刻で10年や20年で克服でき
るものではありません。
私達は、自らの経験や想いを元に、深刻な被災の現場にほうり込まれた
ばかりの人達に対して、どのような “人としての接し方” であるべき
かを考えなくてはなりません。
【 交通事故に遭ったとしましょう 】
突然ですが、あなたが道を歩いている時、車に跳ねられたとしましょう。
そう、交通事故に遭遇したのです。
悪い例えかも知れませんが、日常生活の中で誰しも遭遇する可能性は
必ずあるので、この例え話にお付き合い下さい。
* *
急に前触れもなく、宙に放りだされる身体
そして 瞬間とも永遠とも感じられる 非日常的な光景が目の前を過ぎ、
鈍い感覚と共に 大地が身体へ衝突し、動けなくなりました。
意思は極めてはっきりしているのに、頭が回らない。
目も見え、音も聴こえるのに、何かが違う。
“その瞬間”の直前まで、あなたの人生は あなたの人生だった。
でも、今は 急に あなたの人生が見えなくなった !
・・ 事故(被災)とはそういうものです。
そんな時、熱心なマスコミ人が現場近くに居て、たまたま 事故発生
の現場をカメラに収めていたとしましょう。
そして、そのマスコミ人が近づいて来て、カメラを廻したままで
あなたに言います。
「 今、痛いですか? どこが痛いですか? 」
「 今、何が(して)欲しいですか? 」 と 、
そう! マスコミ人は それが使命であり職務だと信じているのです。
“人”として優先されるべき事を考えないままに。
こんな光景は決して稀なことではありません。
きっと今、あなたは毎日見ているでしょう。
【 避難所の無軌道な悪夢 】
避難所 とは、被災した人が命をつなぐために行く場所です。
役場などの行政に指示されて入った人も居るでしょうが、
命からがら逃げ込むように、すがるように入っている人が多く居ます。
他に行く場所に選択の余地は殆ど無いのです。
そこに行くのは、自己防衛本能に導かれるままの結果なのです。
( 事故の後、最寄りの病院に運ばれるのと同じです )
そこで、あなたは様々な処置を受けながら、避難所に入っている自身
を冷静に分析しつつ、失ってしまったものの大きさが信じられず、
深い喪失感の中で溺れてしまいそう中で、一生懸命に生きていく事に
もがいているのです。
* *
そんな時、明るい撮影用ライトと共に先ほどのマスコミ人がやって来て
あなたに問いかけます。
「 今、何が一番足りないですか? 欲しいですか? 」
「 無くしたものは何ですか? 」
* *
少なくとも、報道機関名を名乗り、公的な避難所の責任者に取材許可
を取っているならば、
その避難所で足りない物を訪ねるのは、その場の責任者に尋ねなさい。
各避難所の責任者のインタビューをTVにそのまま流せば、より正確な
情報が多くの人に伝わるし、責任を負って行動している人を正しく
評価してねぎらう事につながる。 それが、あるべき姿だ。
(事故の例えで言えば ・・)
搬送されたベッドの上で、これからの事が無秩序・無制限に頭の中を
駆け廻っている最中に、突然に マスコミ人にインタビューを受けて
「 どこが悪いのですか? 」 「 どんな具合になっているのですか? 」
と訪ねているのと同じである。
※ TV でそんな光景を見たあなたは、何を考え、何をすべきか?
【 “被災者” という人は居ない! 】
避難所は、正にマスコミ人にとっては格好の猟場“スポット”だ。
そこへ行けば、確実に“獲物”がゲットできるからだ。
しかも“獲物”は大勢いるから、取りっぱぐれが無いから安心だ。
そこで、職務意識だけが旺盛なマスコミ人がリポートの中でよく使う
用語が “被災者” だ。
“被災者” という言葉・用語を、どんなに丁寧に使ったとしても、
“被災者”という用語は隔離用語であり差別用語であり、あまりにも
無分別で無理解なままに使う事が “心の被災”を酷くしている事が
認知されていない。
被災した人は誰でも、被災以前の人生へと還りたくてもだえている。
それまでの人生や社会生活の中で、人は誰もが その人らしい考え方、
個性や特技など“パーソナリティ”を築き上げるものです。
人は、独自の“パーソナリティ”があるからこそ、人として認められ
社会の一員として自信を持って生きています。
でも、被災以前の人生を取り戻せない現実と、それ以前からの人生
の延長を歩もうとする意識とのギャップの大きさに面食らい、傷つき
もがき、哀しむものです。
これが、“心の被災”であり、例え 食糧や住居環境が整い、家族と
共に新たな生活が始まった後になっても、ずっと、ずっと 続くもの
です。
それを、マスコミ人は、ただ 避難所に居るだけで、その人独自の
“パーソナリティ”を全く無視して、「あなたは“被災者”」 と
言ってしまい、“パーソナリティ”の回復に協力するのとは逆に
突き落とし、“心の被災”を一層酷くしているだけなのです。
TV取材という、公開リンチを目にした時、あなたは何をしますか?
* * * *
ここまで一気に書いた文章ですから、誤字や脱字があると思います。
そんな中、賛同 or 非賛同 を問わず、読んでくれたあなたに感謝します。
どちらの方向であれ、あなたの心の中に小さな波が生まれたなら、
私の願いが叶った事になります。
1995年1月17日、神戸にて就寝中に自宅全壊の被害に遭い、少なからず
私の人生はその時から変化せざるを得ませんでした。
そして、一番に大きな痛手は、3. の“心の被災”です。
今、現在でも強く残り続けています。
でも、それは決して 「マスコミ人」だけによってもたらされたわけではあり
ません。
「マスコミ人」だけ であるならば、もっと軽く収まったでしょう。
社会を構成する一人一人が、全ての事を自分自身の身に置き換えて、
他の方々の立場や考えを推測し尊重しあえるならば、どんなにか
平穏で平和な社会になる事でしょうか。
直ぐにそれが可能になるとは思いませんが ・・・
こんな機会だからこそ、想いと考えを深めて、“人” としてあるべき
方向へと進む人が増える事を願っています。